鏡の国の定型人
2008/06/25/Wed
なんでだろう? なんでみんな知らないのだろう? 好意的に解釈するなら、なんでみんながみんな忘れてしまっているのだろう? と本当に思う。
わたしは、華厳思想が表現する極楽を知っている。知識としてではなく、実物として、実世界として、知っている。実世界なのだから、極楽などではない。生きながら生きられる世界だ。これと比較すると、日常的な現実など、死にながら生きている世界に過ぎないとわかる。ただ、前者は苦痛を継続的に伴い、後者はゆりかごの中のごとく楽に生きられる世界ではあるが。それについては後で述べる。
また、この文章は、華厳思想を信仰するものなどではない。単にそういう実世界があることを、わたしは知っているという話に過ぎない。わたしにとって、それは肉眼で見た世界である。現実である。
目の前にある現実を否定するほど、わたしは狂っていない。信仰で事実を曲解するほど、狂っていない。再度言う。わたしは狂ってなんかいない。わたしはむしろ正常だ。何故なら、それは単にそこにあった世界であるに過ぎないからだ。わたしが経験した事実の中で、圧倒的な存在感をもって立ち現れた世界であるに過ぎない。そういった世界を述べているだけであるわたしが、たとえばキリスト教者などと比較して、何故狂っていると言われなければならないのか。
これは幻想などではない。実存と言ってもいい。わたしはマロニエの木の根っこで吐くようなオボッチャマではないだけである。ズベタを圧倒するには、マロニエの木の根っこレベルではどうにもならない。まだ中島みゆきの歌の方が実存的である。でも幻想である。マロニエの木の根っこなど、フィクションである。そんな中途半端なもので実存だなんて言えるのは、よっぽど長い間保育器の中で育ってきたせいだろう。サルトルなど、わたしは三こすり半で逝かせられる。ドラッグもセックスもありの幻覚を与えられる。そんな風に思うわたしの保育器は壊れていたのだろう。マロニエの木の根っこが、あちこちに存在する世界を知っている。それが単なる現実であることを知っている。実存が過剰な世界を知っている。
華厳思想が述べる極楽など、わたしは仏教の入門書や中沢新一の著作で、言葉でもって知っただけである。単なる知識である。美しく満ち足りていてきらびやかに語られているそれは、言い換えればケバケバしく毒々しい過剰な世界である。批判も信仰もなくわたしはそう言える。その世界を、少なくともそれが描こうとした元の世界を、実体験として知っているから、「モノは言い様」という態度で語れるし、解釈できる。
わたしの言葉なら、それは「物が悪意となっている世界」である。「無数の水玉がナイフのようにわたしを切り裂く世界」である。「まだらの水玉が増殖する世界」である。また、それを実体験として知っているからこそ、その水玉は、「女」という言葉を課せられたわたしのような主体にとっては特に、胎児として表現されることが多い事実も認知する。(精神分析的な意味で)男性的主体や定型発達者と呼ばれる人たちにとって、その水玉は水玉ではなく、一つの球体となりがちなことも、周りの人たちの言葉を精神分析的に解釈することで、最近少しずつ理解できるようになった。
華厳思想が極楽として述べたかったこの世界を、実体験であれ知識であれ知っている人間は、わたし以外にもたくさんいる。実体験によるものか知識によるものかはわからないが、わたしが「知っているな」と思える例をいくつか挙げてみよう。
まず、ドナ・ウィリアムズが初めて見たと述べる夢。『自閉症だったわたしへ』の冒頭で語られるそれは、水玉のカラフルな世界である。パステル調になっていたり、光に満ち溢れているところなどは、多少の定型人的フィルターがかかっているのだな、と解釈してしまう。逆に言えば、彼女は、自閉症者が生きる世界を、定型発達者向けに語る術を知っている、ということにもなろう。一方わたしは闇の世界っぽく書くことが多いが、ヒステリー的文法によるものだろう、という自己分析はしておこう。また、癲癇の発作を、ドストエフスキー系の文法だけ信じて、多幸感や恍惚感という言葉で光の世界っぽく捉えたがる定型人たちに対し、殺意に近い憎悪を覚えるのは事実である。癲癇の発作は、確かに魅惑的なものではあるが、おぞましいものでもあるのだ。だからわたしは、「物自体とは悪意である」という風に、彼らが棄却しがちな事実を補填してあげているのである。殺意を抑えながら。わたしがこの世界を光の世界だと思うようになったら、そういう風に表現するようになったら、わたしは精神病としてのパラノイアになったと思ってくれて構わない。ジョブチェンジである。自閉症という概念ともオサラバできるだろう。
要するに、そこは闇も光もなく、闇でも光でもある世界なのだ。
次に、クサマヤヨイの作品群。無数のペニスや、消尽してしまいそうなほど繁殖した水玉をモチーフにしたものが多い。色彩的にも過剰である。わたしが実体験として知っている世界を基準とするならば、ドナの文章で示された夢よりこっちのが近い。それらは、わたしにとっては抽象的でもなんでもなく、全く写実的な作品群である。しかしそのことを理解できないのが定型人たちであることも知っている。なので多くは語らない。語る術を、わたしはまだ知らない。
クサマヤヨイの作品に近しいものならば、ゴッホの絵を挙げてもよかろう。特に、アルトーが解釈したゴッホの世界。そこには別に水玉はない。しかし、色と色のせめぎ合いが、抽象的に色自体という排他的な球体を形成している。わたしは「水玉がナイフである」と述べているが、その世界の表象代理としては、ナイフ的要素が強いものである、と言えよう。その器官なき身体をのた打ち回らせながら述べるアルトーのゴッホ論こそ、ゴッホが描きたかった世界の重要な補足となるであろう。
告白すると、わたしはマスコミが流すようなゴッホ世界しか知らなかった。それだけでは、その世界を描いているものだとはピンとこなかった。というより、芸術というカテゴリはその世界を目指すものだと思っていたフシがある。最近、特に文芸方面を解釈するようになって、それを隠蔽(劣化)させるのも、芸術の役割だと感じるようになった。そうやってわたしにとっての芸術というカテゴリは拡散していく。芸術なんて言葉を使うのもだるくなってきている。
ゴッホについては、大学生になってから、アルトーの論を読んで、ああそうだったのだな、と思った。どうやら、その世界の中の水玉的要素に、わたしは固着しているようである。
若手の作品ならば、この記事でも取り上げているが、松井冬子の作品『浄相の持続』に描かれている女性の内臓が、近しいように思う。中央に位置する胎児が、一つの水玉だ。ここに男性的な「語る主体」を感じられなくもないが、彼女の学生時代の写真なんか見ると、あーあー、と納得できる。クサマヤヨイの作品と比較するならば、定型人のフィクショナルな世界との連結を、途切れてしまいそうな連結を、「水玉の一化」や「静的な血」などという限定的な隠蔽によって、表現していると言えよう。この途切れてしまいそうな感じが、正常人と狂人の狭間を揺らぐ切なさとなる。だから上野千鶴子という正常人即ち男性性的主体(わざと言ってるよ)に「あなたも幸せになりなさい」と言わせたのかあ、などと感じさせる一品である。
アートの世界の話ばかりになっているが、数学の世界にもそれはある。フラクタルの一例として表されたこの図などは、もっともその世界を写実的かつ抽象的に表しているように感じる。
私事で恐縮だが、初めて舞台美術を担当した時、その芝居は科学者たちのシーンから始まることもあって、当時学んでいた量子力学を、わたしなりにイメージ化したものを実現させた。その時のイメージに共鳴するような気がする。とはいえモノトーン基調で、色彩的には全く別物だったが(ここにわたしの色覚異常コンプレックスを読み解いてもらっても構わない)。今思い出だしたら押井守っぽく思えて凹んだ。
これらの例は、全て一つの現実界的な世界の、多様な側面を表している。しかし、周りの人たちが、そう理解できないであろうことも、わたしは知っている。誰がクサマヤヨイと松井冬子の作品を近しいなどと言えるだろう。誰がゴッホの絵と華厳の極楽は同じ世界を描いているなどと言えるだろう。
わたしは数学の、特に証明問題などを、自虐気味に「整形手術」と比喩していた。自分で気に入っている言い方だったのに、理解してくれる人はいなかった。自分が数学好きなことを説明しようとしての言葉だったが、大学生になってからはぱったり言わなくなった。わたしにとっては、わたし自身でもあるその世界に、整形手術を施すための、数学というメスだったのだ。何故ならその世界は、わたしにとって魅惑的でもあるがおぞましくもあったからだ。
先に挙げた例も、その世界の実質を、整形しているものではある。整形とは隠蔽であり劣化である。ドナの例で言及したように、必ずそこには、多少なりとも隠蔽や劣化が生じてしまう摂理も、わたしは知っている。だからわたしはその世界を実体験していると言っても、わたしがその世界の実質や全てを表現できるとは思えない。一部を整形して提出するのがやっとである。
この世界を、実感として、実世界として感じているのが、あるいは記憶として保持できているのが、非定型人であり非神経症者でありいわゆる狂人であるように思う。
それはただ、狂人と呼ばれているに過ぎない。先ほど挙げた例では、ドナやクサマヤヨイやアルトーやゴッホという、医学的に明確に狂人と区分される主体が多く関わっているが、だからといって、狂人ならばいいという話ではない。わたしにとっては、その世界についてただ考えていたら、たまたま狂人というシニフィアンが多くぶら下がっていた、という結果に過ぎない。狂人だから彼らの作品を選択したのではない。いや、アルトーについては、狂人という情報があったからというきっかけは確かに存在する。わたしの中では残酷演劇というシニフィアンの影響が強いが。
その一方、この世界を、多大な抑圧と隠蔽により、忘れてしまったのが、排除してしまったのが、棄却してしまったのが、定型発達者であり神経症者でありいわゆる正常人であろう。
そしてこれらの部分は、一つの主体の内で混淆可能である。そうでなければ、クサマヤヨイなどの作品が、芸術的呪力をもって、多数の人間に評価されるわけがない。つまり、定型人であっても、この世界のわずかな名残は、棄却しきれてないように思える。ラカン的には、排除したとしても、主体から離れたところにある、宇宙的とも呼べるシステムにより、いつかは回帰してしまう、などという言い方になるだろうか。中野昌宏が9・11テロをこの回帰になぞらえていたが、それはそういう意味であろう。
あー腹立つわ。知識を得れば得るほど、過去に感じていた矛盾が回帰する。周りの人たちの、ツレション好きな奴らどもの、定型人たちの神経症者たちの言っていたことが、嘘だったとわかる。彼らが執着する普遍なるものが、欺瞞だったことがわかる。その欺瞞を、多数決という言語ゲーム的な結果でしかないものを根拠にして、普遍と美化し、規則化し、わたしに押しつけてきたことがわかる。わたしには矛盾でしかなかったそれを、何故普遍であるなどと言えるのか。その厚顔無恥さは、今でも理解できない。
知識を得ることとは、矛盾を解決することだけを目的としているわけではない。むしろ矛盾を生産することに、知の本質はある。
この矛盾による苦痛とは、ルサンチマン的であり、エディプスコンプレックス的あるいは劣等コンプレックス的であると言えよう。矛盾に陥るからコンプレックスという複合的な運動に翻弄されるのである。複合的な情動であるが故、本質的な情動と混濁できる。ルサンチマンとは愛憎の混濁である。全て辻褄が合う。
この文章も、そう解釈されるかもしれない。別に構わない。ならば、定型人非定型人関係なく、大体の人が、そういった欺瞞を押しつけられることに苦しんできたではないのか? ならば、みんな同じものを根拠にした苦痛を味わってきたはずだ。そんな苦痛を、何故存在しないものとして語るのだ? 何故中二病などという揶揄で笑い飛ばそうとするのだ? それがわからない。苦痛を一度感じたらそれでいいのか? 違うだろう。苦痛を感じているその時じゃなければ理解できないものだってあるはずだ。記憶としての苦痛など、象徴的あるいは想像的な苦痛など取るに足らないものである。現実的な苦痛との間には、越えられない断絶がある。原初的な隠蔽あるいは劣化である、排除あるいは棄却という機制が、そこにある。鏡像段階という跳躍がある。象徴的ファルスという人間のカルマがある。そこから現実的な倫理が生ずる。
過去と未来という幻想に過ぎない世界でしか生きられないのが正常人であり、その瞬間瞬間を生きてしまうのが狂人である、とも言えるだろう。だから、その世界において固定観念的な時制は存在しない。かと言って無時間などという表現は好ましくない。瞬間が永遠であり、永遠が瞬間である世界なのだ。実体験をもって、わたしはそう述べる。
過去だか未来だか知らないが、ただの幻想で加工された苦痛をもってして、他人のその瞬間の苦痛を隠蔽抑圧することこそが、もっとも倫理に反することである。これはわたしの倫理である。初心忘るべからずである。苦痛を思い出せ。苦痛に溺れろ。象徴的にでも想像的にでもなく。過去の苦痛は、今この瞬間の現実になることができる。その事実を説明したのが、精神分析のトラウマに関する理論である。
トラウマはいい思い出などでは決してない。苦痛が、過剰な刺激が、現実界からのものとして、回帰することである。回帰して「しまう」ことである。この苦痛が、過剰な刺激が、お前たちを魅惑的でおぞましい原初の世界に誘うのだ。原初の苦痛は、そうやってでしか辿り着けない。原初の苦痛という誘導灯により、その世界に着陸できる。現代社会という暗闇においては、それしか灯りは残されていない。
その世界においては、破壊的かつ繁殖的なものこそが、唯一の存在根拠となる。この世界を知りたければ、皮膚に癒着しているその保育器をぶち壊せ。現実という胞子を拡散させろ。
空気など読まなくていい。自他を区別し自他を幻想化させる、その鏡をぶち壊せ。定型人を定型人と保証するに過ぎない、固定観念を共有させる契約書に過ぎない、その鏡を。
その向こうに、鏡の国など存在しないのだ。
わたしは、華厳思想が表現する極楽を知っている。知識としてではなく、実物として、実世界として、知っている。実世界なのだから、極楽などではない。生きながら生きられる世界だ。これと比較すると、日常的な現実など、死にながら生きている世界に過ぎないとわかる。ただ、前者は苦痛を継続的に伴い、後者はゆりかごの中のごとく楽に生きられる世界ではあるが。それについては後で述べる。
また、この文章は、華厳思想を信仰するものなどではない。単にそういう実世界があることを、わたしは知っているという話に過ぎない。わたしにとって、それは肉眼で見た世界である。現実である。
目の前にある現実を否定するほど、わたしは狂っていない。信仰で事実を曲解するほど、狂っていない。再度言う。わたしは狂ってなんかいない。わたしはむしろ正常だ。何故なら、それは単にそこにあった世界であるに過ぎないからだ。わたしが経験した事実の中で、圧倒的な存在感をもって立ち現れた世界であるに過ぎない。そういった世界を述べているだけであるわたしが、たとえばキリスト教者などと比較して、何故狂っていると言われなければならないのか。
これは幻想などではない。実存と言ってもいい。わたしはマロニエの木の根っこで吐くようなオボッチャマではないだけである。ズベタを圧倒するには、マロニエの木の根っこレベルではどうにもならない。まだ中島みゆきの歌の方が実存的である。でも幻想である。マロニエの木の根っこなど、フィクションである。そんな中途半端なもので実存だなんて言えるのは、よっぽど長い間保育器の中で育ってきたせいだろう。サルトルなど、わたしは三こすり半で逝かせられる。ドラッグもセックスもありの幻覚を与えられる。そんな風に思うわたしの保育器は壊れていたのだろう。マロニエの木の根っこが、あちこちに存在する世界を知っている。それが単なる現実であることを知っている。実存が過剰な世界を知っている。
華厳思想が述べる極楽など、わたしは仏教の入門書や中沢新一の著作で、言葉でもって知っただけである。単なる知識である。美しく満ち足りていてきらびやかに語られているそれは、言い換えればケバケバしく毒々しい過剰な世界である。批判も信仰もなくわたしはそう言える。その世界を、少なくともそれが描こうとした元の世界を、実体験として知っているから、「モノは言い様」という態度で語れるし、解釈できる。
わたしの言葉なら、それは「物が悪意となっている世界」である。「無数の水玉がナイフのようにわたしを切り裂く世界」である。「まだらの水玉が増殖する世界」である。また、それを実体験として知っているからこそ、その水玉は、「女」という言葉を課せられたわたしのような主体にとっては特に、胎児として表現されることが多い事実も認知する。(精神分析的な意味で)男性的主体や定型発達者と呼ばれる人たちにとって、その水玉は水玉ではなく、一つの球体となりがちなことも、周りの人たちの言葉を精神分析的に解釈することで、最近少しずつ理解できるようになった。
華厳思想が極楽として述べたかったこの世界を、実体験であれ知識であれ知っている人間は、わたし以外にもたくさんいる。実体験によるものか知識によるものかはわからないが、わたしが「知っているな」と思える例をいくつか挙げてみよう。
まず、ドナ・ウィリアムズが初めて見たと述べる夢。『自閉症だったわたしへ』の冒頭で語られるそれは、水玉のカラフルな世界である。パステル調になっていたり、光に満ち溢れているところなどは、多少の定型人的フィルターがかかっているのだな、と解釈してしまう。逆に言えば、彼女は、自閉症者が生きる世界を、定型発達者向けに語る術を知っている、ということにもなろう。一方わたしは闇の世界っぽく書くことが多いが、ヒステリー的文法によるものだろう、という自己分析はしておこう。また、癲癇の発作を、ドストエフスキー系の文法だけ信じて、多幸感や恍惚感という言葉で光の世界っぽく捉えたがる定型人たちに対し、殺意に近い憎悪を覚えるのは事実である。癲癇の発作は、確かに魅惑的なものではあるが、おぞましいものでもあるのだ。だからわたしは、「物自体とは悪意である」という風に、彼らが棄却しがちな事実を補填してあげているのである。殺意を抑えながら。わたしがこの世界を光の世界だと思うようになったら、そういう風に表現するようになったら、わたしは精神病としてのパラノイアになったと思ってくれて構わない。ジョブチェンジである。自閉症という概念ともオサラバできるだろう。
要するに、そこは闇も光もなく、闇でも光でもある世界なのだ。
次に、クサマヤヨイの作品群。無数のペニスや、消尽してしまいそうなほど繁殖した水玉をモチーフにしたものが多い。色彩的にも過剰である。わたしが実体験として知っている世界を基準とするならば、ドナの文章で示された夢よりこっちのが近い。それらは、わたしにとっては抽象的でもなんでもなく、全く写実的な作品群である。しかしそのことを理解できないのが定型人たちであることも知っている。なので多くは語らない。語る術を、わたしはまだ知らない。
クサマヤヨイの作品に近しいものならば、ゴッホの絵を挙げてもよかろう。特に、アルトーが解釈したゴッホの世界。そこには別に水玉はない。しかし、色と色のせめぎ合いが、抽象的に色自体という排他的な球体を形成している。わたしは「水玉がナイフである」と述べているが、その世界の表象代理としては、ナイフ的要素が強いものである、と言えよう。その器官なき身体をのた打ち回らせながら述べるアルトーのゴッホ論こそ、ゴッホが描きたかった世界の重要な補足となるであろう。
告白すると、わたしはマスコミが流すようなゴッホ世界しか知らなかった。それだけでは、その世界を描いているものだとはピンとこなかった。というより、芸術というカテゴリはその世界を目指すものだと思っていたフシがある。最近、特に文芸方面を解釈するようになって、それを隠蔽(劣化)させるのも、芸術の役割だと感じるようになった。そうやってわたしにとっての芸術というカテゴリは拡散していく。芸術なんて言葉を使うのもだるくなってきている。
ゴッホについては、大学生になってから、アルトーの論を読んで、ああそうだったのだな、と思った。どうやら、その世界の中の水玉的要素に、わたしは固着しているようである。
若手の作品ならば、この記事でも取り上げているが、松井冬子の作品『浄相の持続』に描かれている女性の内臓が、近しいように思う。中央に位置する胎児が、一つの水玉だ。ここに男性的な「語る主体」を感じられなくもないが、彼女の学生時代の写真なんか見ると、あーあー、と納得できる。クサマヤヨイの作品と比較するならば、定型人のフィクショナルな世界との連結を、途切れてしまいそうな連結を、「水玉の一化」や「静的な血」などという限定的な隠蔽によって、表現していると言えよう。この途切れてしまいそうな感じが、正常人と狂人の狭間を揺らぐ切なさとなる。だから上野千鶴子という正常人即ち男性性的主体(わざと言ってるよ)に「あなたも幸せになりなさい」と言わせたのかあ、などと感じさせる一品である。
アートの世界の話ばかりになっているが、数学の世界にもそれはある。フラクタルの一例として表されたこの図などは、もっともその世界を写実的かつ抽象的に表しているように感じる。
私事で恐縮だが、初めて舞台美術を担当した時、その芝居は科学者たちのシーンから始まることもあって、当時学んでいた量子力学を、わたしなりにイメージ化したものを実現させた。その時のイメージに共鳴するような気がする。とはいえモノトーン基調で、色彩的には全く別物だったが(ここにわたしの色覚異常コンプレックスを読み解いてもらっても構わない)。今思い出だしたら押井守っぽく思えて凹んだ。
これらの例は、全て一つの現実界的な世界の、多様な側面を表している。しかし、周りの人たちが、そう理解できないであろうことも、わたしは知っている。誰がクサマヤヨイと松井冬子の作品を近しいなどと言えるだろう。誰がゴッホの絵と華厳の極楽は同じ世界を描いているなどと言えるだろう。
わたしは数学の、特に証明問題などを、自虐気味に「整形手術」と比喩していた。自分で気に入っている言い方だったのに、理解してくれる人はいなかった。自分が数学好きなことを説明しようとしての言葉だったが、大学生になってからはぱったり言わなくなった。わたしにとっては、わたし自身でもあるその世界に、整形手術を施すための、数学というメスだったのだ。何故ならその世界は、わたしにとって魅惑的でもあるがおぞましくもあったからだ。
先に挙げた例も、その世界の実質を、整形しているものではある。整形とは隠蔽であり劣化である。ドナの例で言及したように、必ずそこには、多少なりとも隠蔽や劣化が生じてしまう摂理も、わたしは知っている。だからわたしはその世界を実体験していると言っても、わたしがその世界の実質や全てを表現できるとは思えない。一部を整形して提出するのがやっとである。
この世界を、実感として、実世界として感じているのが、あるいは記憶として保持できているのが、非定型人であり非神経症者でありいわゆる狂人であるように思う。
それはただ、狂人と呼ばれているに過ぎない。先ほど挙げた例では、ドナやクサマヤヨイやアルトーやゴッホという、医学的に明確に狂人と区分される主体が多く関わっているが、だからといって、狂人ならばいいという話ではない。わたしにとっては、その世界についてただ考えていたら、たまたま狂人というシニフィアンが多くぶら下がっていた、という結果に過ぎない。狂人だから彼らの作品を選択したのではない。いや、アルトーについては、狂人という情報があったからというきっかけは確かに存在する。わたしの中では残酷演劇というシニフィアンの影響が強いが。
その一方、この世界を、多大な抑圧と隠蔽により、忘れてしまったのが、排除してしまったのが、棄却してしまったのが、定型発達者であり神経症者でありいわゆる正常人であろう。
そしてこれらの部分は、一つの主体の内で混淆可能である。そうでなければ、クサマヤヨイなどの作品が、芸術的呪力をもって、多数の人間に評価されるわけがない。つまり、定型人であっても、この世界のわずかな名残は、棄却しきれてないように思える。ラカン的には、排除したとしても、主体から離れたところにある、宇宙的とも呼べるシステムにより、いつかは回帰してしまう、などという言い方になるだろうか。中野昌宏が9・11テロをこの回帰になぞらえていたが、それはそういう意味であろう。
あー腹立つわ。知識を得れば得るほど、過去に感じていた矛盾が回帰する。周りの人たちの、ツレション好きな奴らどもの、定型人たちの神経症者たちの言っていたことが、嘘だったとわかる。彼らが執着する普遍なるものが、欺瞞だったことがわかる。その欺瞞を、多数決という言語ゲーム的な結果でしかないものを根拠にして、普遍と美化し、規則化し、わたしに押しつけてきたことがわかる。わたしには矛盾でしかなかったそれを、何故普遍であるなどと言えるのか。その厚顔無恥さは、今でも理解できない。
知識を得ることとは、矛盾を解決することだけを目的としているわけではない。むしろ矛盾を生産することに、知の本質はある。
この矛盾による苦痛とは、ルサンチマン的であり、エディプスコンプレックス的あるいは劣等コンプレックス的であると言えよう。矛盾に陥るからコンプレックスという複合的な運動に翻弄されるのである。複合的な情動であるが故、本質的な情動と混濁できる。ルサンチマンとは愛憎の混濁である。全て辻褄が合う。
この文章も、そう解釈されるかもしれない。別に構わない。ならば、定型人非定型人関係なく、大体の人が、そういった欺瞞を押しつけられることに苦しんできたではないのか? ならば、みんな同じものを根拠にした苦痛を味わってきたはずだ。そんな苦痛を、何故存在しないものとして語るのだ? 何故中二病などという揶揄で笑い飛ばそうとするのだ? それがわからない。苦痛を一度感じたらそれでいいのか? 違うだろう。苦痛を感じているその時じゃなければ理解できないものだってあるはずだ。記憶としての苦痛など、象徴的あるいは想像的な苦痛など取るに足らないものである。現実的な苦痛との間には、越えられない断絶がある。原初的な隠蔽あるいは劣化である、排除あるいは棄却という機制が、そこにある。鏡像段階という跳躍がある。象徴的ファルスという人間のカルマがある。そこから現実的な倫理が生ずる。
過去と未来という幻想に過ぎない世界でしか生きられないのが正常人であり、その瞬間瞬間を生きてしまうのが狂人である、とも言えるだろう。だから、その世界において固定観念的な時制は存在しない。かと言って無時間などという表現は好ましくない。瞬間が永遠であり、永遠が瞬間である世界なのだ。実体験をもって、わたしはそう述べる。
過去だか未来だか知らないが、ただの幻想で加工された苦痛をもってして、他人のその瞬間の苦痛を隠蔽抑圧することこそが、もっとも倫理に反することである。これはわたしの倫理である。初心忘るべからずである。苦痛を思い出せ。苦痛に溺れろ。象徴的にでも想像的にでもなく。過去の苦痛は、今この瞬間の現実になることができる。その事実を説明したのが、精神分析のトラウマに関する理論である。
トラウマはいい思い出などでは決してない。苦痛が、過剰な刺激が、現実界からのものとして、回帰することである。回帰して「しまう」ことである。この苦痛が、過剰な刺激が、お前たちを魅惑的でおぞましい原初の世界に誘うのだ。原初の苦痛は、そうやってでしか辿り着けない。原初の苦痛という誘導灯により、その世界に着陸できる。現代社会という暗闇においては、それしか灯りは残されていない。
その世界においては、破壊的かつ繁殖的なものこそが、唯一の存在根拠となる。この世界を知りたければ、皮膚に癒着しているその保育器をぶち壊せ。現実という胞子を拡散させろ。
空気など読まなくていい。自他を区別し自他を幻想化させる、その鏡をぶち壊せ。定型人を定型人と保証するに過ぎない、固定観念を共有させる契約書に過ぎない、その鏡を。
その向こうに、鏡の国など存在しないのだ。