マゾヒスティックなヤマアラシ
2008/06/28/Sat
初心に戻って初心を隠蔽抑圧してみる。
ラカンによる現実界とは、到達不可能な世界である。この記事から引用する。
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「現実界」について少し説明しておこう。人間というシステムは、器官を通してしか物事を認知できない。器官が刺激を受けその信号を脳で処理して初めてそれを認知できる。そうやって脳で再構成された世界と妄想の区別なんてつけられないのだ。器官や脳を経ないで刺激を発する世界、即ち「本当の現実」を認知するには、器官のない身体でないと認知できない。しかしそれは矛盾となる。従って、「本当の現実」=「現実界」は到達不可能な世界であることがわかる。言葉という象徴的思考の道具もなく、器官が未発達な生まれたばかりの赤ん坊にとっての世界が、現実界に近似しているということがわかるだろう。
=====
要するに、大人になったわたしたちの見る世界は、わたしたちが現実と考えているものは、現実界と対照させた場合、全て幻想である、となるわけだ。
そんなことはない、と反発したくなる気持ちもわかる。しかし一般人の「あーわかるわかるー」的なお気楽合意主義社会から落ちて「しまう」人生を歩んできたわたしみたいな者から言わせると、
「お前ら本当に『そんなことはない』などと言えるのか。『そんなことはない』世界を本当に知っているのか」
という殺意に近しい反発を覚える。
わたしは、一般人を鏡として見て、一般人の立場から、ラカンの論に同意する。その上で、『そんなことはない』と言う。何故なら、一般人が感じている人間を主体とした世界即ち現実(リアリティ)と、わたしが感じている実存が過剰な世界即ち現実(リアル)は、別物であるらしいと、知識により理解できつつあるからだ。
わたしは現実界そのものを知っている、などとは言わない。現実界から感じるうねりのようなものを、わたしは知っている、ということに過ぎない。そして、このうねりは人間誰しも普遍的に一度は経験しているであろうことであり、かつそれを忘れていくことが、現代社会における「大人になること」であることを、わたしは認知しているに過ぎない話である。
このことは、確かにラカンの「想像界/象徴界/現実界」という三界で考えるとピンと来ないことのようにも思う。クリステヴァのセミオティック論やドゥルーズ=ガタリのアンチ・オイディプス論のように、「想像界と象徴界/現実界」という構図における「/」に注目しない限りは。
この「/」は、ラカン論ならば他者の享楽とファルス的享楽(の領域)に当たるだろう。しかしそれは三界が成立している人間即ち神経症者から見た場合の話であり、現実界側から見ると、確かに他者の享楽とファルス的享楽の差異は認め難い。ピンと来ないのだ。
このように、ラカン論やクリステヴァ論やドゥルーズ=ガタリ論の一部を横断することで、わたしは先に言ったような認知が可能になった、という概略である。
一方、わたしは彼らの論を全て把握し信じているわけではない。ラカンの「父の名」やクリステヴァの「想像的父がアガペーである」やドゥルーズ=ガタリの「無意識における自然と社会野の無自覚な短絡」などという言葉や態度には、無性に腹が立つ。わたしはそれらの言葉を一生承認しない。逆に何故、一般人や男性性的主体は、世界と社会をこんなにも簡単に短絡できるのか、不思議でならない。
これらの、わたしが無性に腹が立ってしまうポイントは、実は通底している。要は言外で、ラカン論ならば鏡像段階で発生する象徴的ファルスを、スターン論なら間主観的自己感の形成を、バロン=コーエン論ならSAM及びそれから展開する心の理論を、承認しろと押しつけているわけだ。狂人に「正常人になれよ」と言っているわけだ。サバルタンに対し帝国主義者が言う「植民地を発展させるために植民地政策を行っている」などという言葉と、等しいものなのだ。
人は、左脳的処理というシステマティックな意味での象徴化機能から逃れられない。言語化というより、人間という動物の性質の一つとしての、この象徴化機能を持っている限り、純粋な狂人やサバルタンは、存在しえない。言葉を覚えていないのが狂人やサバルタンである、などという単純な話ではない。こちらの論文から引用する。
=====
シニフィアンと学習との関わりを補強するために、言語を持たない人間がいかにして学習をなしうるかについて簡単に触れておきたい。ここではスーザン・シャラー「言葉のない世界に生きた男」というドキュメンタリーが参考になる。ここに登場するイルデフォンソという聾者は、言語習得の機会を奪われたまま成人したケースである。【われわれにとって驚くべきことは、自らの名前すら知らなかった彼に、コミュニケーションへの欲求が存在するという事実である。】(中略)こうした事例の存在は、例えばラカニアンを心底震撼せしめるものだろうか。
おそらくそうはならない。彼は確かに具体的な言語という実体は所有していなかった。しかしイルデフォンソは、いうなればすでに「シニフィアンなきシニフィアン」を獲得しているのだ。
(【】筆者による)
=====
わたしは、自分の非サバルタンである部分とサバルタンである部分を、わたしなりに認知しようと努めながら、非サバルタンとサバルタンを語る。そのためには、わたしは父の名やアガペーを否認しなければならない。それを排除してしまったならば、また違う言葉になろう。しかしこの排除は、わたしにとって容易ではない。何故ならわたしは享楽主義者でありマゾヒストだからだ。苦痛の本質としての享楽は、残酷演劇は、非サバルタンとサバルタンの間の、せめぎ合いの中にしか存在しない。
要するに、上野千鶴子は鋭かった、という話である。松井冬子との対談で、この正常人即ち非サバルタンの代表者は、松井の作品を「自傷系アート」と評し、松井にこう説教した。
「人は幸せになるために生きているのよ。あなたも幸せになりなさい」
つまり、この帝国主義者は、松井のやっていることを、「不幸せなもの」だと思っているわけだ。少なくとも、そういう前提がなければこんなセリフは吐けない。
上野の言う通りなのだ。
松井は、苦痛の本質としての享楽を、残酷演劇の世界を表そうとしているのだから。
わたしの夢には痛みが存在する、とこの記事で書いた。一般人の固定観念においては、夢に痛みは存在してはならないらしい。だが、わたしは夢で痛みを感じていた。子供の頃に見た、口の中に両手を突っ込まれ上顎と下顎を掴まれそこから真っ二つに裂かれた夢。その時の痛みは今でも覚えている。
しかし、人間の社会では、「ほっぺをつねって痛くなかったら夢」でなければならないと言う。わたしは理不尽な思いを抱きながら、それに従った。夢で痛みを感じるなどとは言わなくなった。現実界ではない、日常の現実での痛みを、現実の痛みだと思うようになった。
大人になってから、恋愛をするようになった。わたしの恋愛は大体暴力を伴った。その時、殴られた痛みこそが、夢の痛みと同じ臭いをしていることに気づいた。恋愛という場面においては、日常での痛みが、子供の頃に見た夢の世界に誘うことに気づいた。愛憎が混濁している時の痛みこそが、現実感に満ち溢れたものだと思うようになった。
夢に痛みは存在しない、とは本当なのか。
わたしの日常に理不尽が回帰していた。
夢は、現実界から伝播するうねりの、一つの通底路である。一般人は現実界から遠く離れすぎてしまった故、むしろ逆に「夢に痛みを感じてはならない」というルールを遵守し過ぎる故、感じられなくなったのだ、とわたしは理解している。精神分析論で補強可能な理屈である。ムリクリではあろうが。
わたしは、夢で感じた痛みの方に、現実感を覚えてしまうのだ。どうしても。
わたしは、マゾヒストとして、自分をヤマアラシだと自覚しつつヤマアラシを抱く、という話である。
ぶりゅぶりゅぶりゅってな文章だな。今日のは。媚び記事やねどっちかってと。あーなんかこの記事で「コメントつけるな」とか言っているけど記事よく読んでね。言ってるでしょ、フィクションって。
この記事も、フィクションに過ぎません。
分裂病の症状を表現するのに、「現実感の喪失」という言葉がしばしば用いられる。
違う。
彼らは、現実感を喪失しているのではない。むしろ正常人の方が喪失しているのだ。
本当の現実を知っているから、日常的な現実を、現実と思えなくなってしまうのだ。
何故、こんなわかりやすいことが、わからないのだろう。
何故、これほど自明なことが、隠蔽されているのだろう。
死ねよ、お前ら。マジデ。
ラカンによる現実界とは、到達不可能な世界である。この記事から引用する。
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「現実界」について少し説明しておこう。人間というシステムは、器官を通してしか物事を認知できない。器官が刺激を受けその信号を脳で処理して初めてそれを認知できる。そうやって脳で再構成された世界と妄想の区別なんてつけられないのだ。器官や脳を経ないで刺激を発する世界、即ち「本当の現実」を認知するには、器官のない身体でないと認知できない。しかしそれは矛盾となる。従って、「本当の現実」=「現実界」は到達不可能な世界であることがわかる。言葉という象徴的思考の道具もなく、器官が未発達な生まれたばかりの赤ん坊にとっての世界が、現実界に近似しているということがわかるだろう。
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要するに、大人になったわたしたちの見る世界は、わたしたちが現実と考えているものは、現実界と対照させた場合、全て幻想である、となるわけだ。
そんなことはない、と反発したくなる気持ちもわかる。しかし一般人の「あーわかるわかるー」的なお気楽合意主義社会から落ちて「しまう」人生を歩んできたわたしみたいな者から言わせると、
「お前ら本当に『そんなことはない』などと言えるのか。『そんなことはない』世界を本当に知っているのか」
という殺意に近しい反発を覚える。
わたしは、一般人を鏡として見て、一般人の立場から、ラカンの論に同意する。その上で、『そんなことはない』と言う。何故なら、一般人が感じている人間を主体とした世界即ち現実(リアリティ)と、わたしが感じている実存が過剰な世界即ち現実(リアル)は、別物であるらしいと、知識により理解できつつあるからだ。
わたしは現実界そのものを知っている、などとは言わない。現実界から感じるうねりのようなものを、わたしは知っている、ということに過ぎない。そして、このうねりは人間誰しも普遍的に一度は経験しているであろうことであり、かつそれを忘れていくことが、現代社会における「大人になること」であることを、わたしは認知しているに過ぎない話である。
このことは、確かにラカンの「想像界/象徴界/現実界」という三界で考えるとピンと来ないことのようにも思う。クリステヴァのセミオティック論やドゥルーズ=ガタリのアンチ・オイディプス論のように、「想像界と象徴界/現実界」という構図における「/」に注目しない限りは。
この「/」は、ラカン論ならば他者の享楽とファルス的享楽(の領域)に当たるだろう。しかしそれは三界が成立している人間即ち神経症者から見た場合の話であり、現実界側から見ると、確かに他者の享楽とファルス的享楽の差異は認め難い。ピンと来ないのだ。
このように、ラカン論やクリステヴァ論やドゥルーズ=ガタリ論の一部を横断することで、わたしは先に言ったような認知が可能になった、という概略である。
一方、わたしは彼らの論を全て把握し信じているわけではない。ラカンの「父の名」やクリステヴァの「想像的父がアガペーである」やドゥルーズ=ガタリの「無意識における自然と社会野の無自覚な短絡」などという言葉や態度には、無性に腹が立つ。わたしはそれらの言葉を一生承認しない。逆に何故、一般人や男性性的主体は、世界と社会をこんなにも簡単に短絡できるのか、不思議でならない。
これらの、わたしが無性に腹が立ってしまうポイントは、実は通底している。要は言外で、ラカン論ならば鏡像段階で発生する象徴的ファルスを、スターン論なら間主観的自己感の形成を、バロン=コーエン論ならSAM及びそれから展開する心の理論を、承認しろと押しつけているわけだ。狂人に「正常人になれよ」と言っているわけだ。サバルタンに対し帝国主義者が言う「植民地を発展させるために植民地政策を行っている」などという言葉と、等しいものなのだ。
人は、左脳的処理というシステマティックな意味での象徴化機能から逃れられない。言語化というより、人間という動物の性質の一つとしての、この象徴化機能を持っている限り、純粋な狂人やサバルタンは、存在しえない。言葉を覚えていないのが狂人やサバルタンである、などという単純な話ではない。こちらの論文から引用する。
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シニフィアンと学習との関わりを補強するために、言語を持たない人間がいかにして学習をなしうるかについて簡単に触れておきたい。ここではスーザン・シャラー「言葉のない世界に生きた男」というドキュメンタリーが参考になる。ここに登場するイルデフォンソという聾者は、言語習得の機会を奪われたまま成人したケースである。【われわれにとって驚くべきことは、自らの名前すら知らなかった彼に、コミュニケーションへの欲求が存在するという事実である。】(中略)こうした事例の存在は、例えばラカニアンを心底震撼せしめるものだろうか。
おそらくそうはならない。彼は確かに具体的な言語という実体は所有していなかった。しかしイルデフォンソは、いうなればすでに「シニフィアンなきシニフィアン」を獲得しているのだ。
(【】筆者による)
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わたしは、自分の非サバルタンである部分とサバルタンである部分を、わたしなりに認知しようと努めながら、非サバルタンとサバルタンを語る。そのためには、わたしは父の名やアガペーを否認しなければならない。それを排除してしまったならば、また違う言葉になろう。しかしこの排除は、わたしにとって容易ではない。何故ならわたしは享楽主義者でありマゾヒストだからだ。苦痛の本質としての享楽は、残酷演劇は、非サバルタンとサバルタンの間の、せめぎ合いの中にしか存在しない。
要するに、上野千鶴子は鋭かった、という話である。松井冬子との対談で、この正常人即ち非サバルタンの代表者は、松井の作品を「自傷系アート」と評し、松井にこう説教した。
「人は幸せになるために生きているのよ。あなたも幸せになりなさい」
つまり、この帝国主義者は、松井のやっていることを、「不幸せなもの」だと思っているわけだ。少なくとも、そういう前提がなければこんなセリフは吐けない。
上野の言う通りなのだ。
松井は、苦痛の本質としての享楽を、残酷演劇の世界を表そうとしているのだから。
わたしの夢には痛みが存在する、とこの記事で書いた。一般人の固定観念においては、夢に痛みは存在してはならないらしい。だが、わたしは夢で痛みを感じていた。子供の頃に見た、口の中に両手を突っ込まれ上顎と下顎を掴まれそこから真っ二つに裂かれた夢。その時の痛みは今でも覚えている。
しかし、人間の社会では、「ほっぺをつねって痛くなかったら夢」でなければならないと言う。わたしは理不尽な思いを抱きながら、それに従った。夢で痛みを感じるなどとは言わなくなった。現実界ではない、日常の現実での痛みを、現実の痛みだと思うようになった。
大人になってから、恋愛をするようになった。わたしの恋愛は大体暴力を伴った。その時、殴られた痛みこそが、夢の痛みと同じ臭いをしていることに気づいた。恋愛という場面においては、日常での痛みが、子供の頃に見た夢の世界に誘うことに気づいた。愛憎が混濁している時の痛みこそが、現実感に満ち溢れたものだと思うようになった。
夢に痛みは存在しない、とは本当なのか。
わたしの日常に理不尽が回帰していた。
夢は、現実界から伝播するうねりの、一つの通底路である。一般人は現実界から遠く離れすぎてしまった故、むしろ逆に「夢に痛みを感じてはならない」というルールを遵守し過ぎる故、感じられなくなったのだ、とわたしは理解している。精神分析論で補強可能な理屈である。ムリクリではあろうが。
わたしは、夢で感じた痛みの方に、現実感を覚えてしまうのだ。どうしても。
わたしは、マゾヒストとして、自分をヤマアラシだと自覚しつつヤマアラシを抱く、という話である。
ぶりゅぶりゅぶりゅってな文章だな。今日のは。媚び記事やねどっちかってと。あーなんかこの記事で「コメントつけるな」とか言っているけど記事よく読んでね。言ってるでしょ、フィクションって。
この記事も、フィクションに過ぎません。
分裂病の症状を表現するのに、「現実感の喪失」という言葉がしばしば用いられる。
違う。
彼らは、現実感を喪失しているのではない。むしろ正常人の方が喪失しているのだ。
本当の現実を知っているから、日常的な現実を、現実と思えなくなってしまうのだ。
何故、こんなわかりやすいことが、わからないのだろう。
何故、これほど自明なことが、隠蔽されているのだろう。
死ねよ、お前ら。マジデ。