読まなきゃよかった。
2008/07/04/Fri
読まなけりゃよかった。
実際、最後まで読んでいない。そんな読み方失礼だと思いながら、あらすじだけ理解するために、後半三分の二は流し読みした。
速読法など知っているわけではない。しかし、書き手の思考構造を把握してしまうと、部分部分を抜き読むだけで事足りる。時々、あれ? と引っかかることもあろうが、そもそも小説でこんな読み方をするのは、貧乏症のわたしにとっては、めったにないことだった。
要するに、糞つまらない小説を読んでしまった。
それについて書くつもりはない。その作品についてぶら下がる言葉すら思いつかない。書き手の多数派の思い込みならば、作品関係なく述べることはできる。しかしそれ以前の話だ。
つまらない作品に出会ったから、落ち込んでいるわけではない。
いよいよわたしは多数派から漏れつつある、と自覚してしまったことが、とてもイヤでイヤでたまらない。
世の中の全てが、浅薄な人工物だ。チェスゲームほどの駆け引きすらできない、ただ浅薄な帝国主義者たちが、世を支配している。
なんておぞましい世界になっているのだろう。わたしは気づかなかった。天使の皮を被った権力者たちが、わたしを取り囲んでいる。なんという卑しい世界。
欺瞞だけしか、存在を許されない世界。
欺瞞のない世界は存在しない。然り。だからといって、欺瞞を感じる身体を、喋らせないように叩きのめす必要はない。
もっと違う理由があるはずだ。欺瞞に敏感な身体を殴り殺してしまう自分を、見つめ直すべきだ。
わたしは何度も言っている。身体なき器官は、器官なき身体を、殴り殺す運命にあるのだと。
お前たちは、気づいていないのか? 欺瞞に敏感な身体を、自分の他人の関係なく、殴り殺していることに。気づいていないから、平気で殴り殺せるのか? そうとしか考えられない。
目や耳や鼻が異常に成長した身体。なんてグロテスクな身体。お前たちは、自分が悪魔になっていることに気づけているのか? 原始人が想像した、暴力の象徴としての悪魔に。
殴り殺すなら、殴り殺される覚悟をもってやれ。
欺瞞に敏感な身体たちよ、殴り殺す相手を殴り殺せ。正当防衛である。その殴り合いこそが、現実と密接した倫理である。
わたしが読んだ小説は、巷では癒し系と評されていそうな作品である。
そうである。自分の、自分の中にある、悪魔を匿ってくれる小説だから、癒し系となるのだろう。「合意」や「許し」という呪文で、悪魔をメイクアップしている。
悪魔を匿うことは、知らず知らずのうちに、悪魔を解き放っていることである。化粧の下の身体世界に、悪魔を濃縮している。
そうやって、世界のどこかで、器官なき身体が、殴り殺され続ける。
癒し系などという仮面の下の悪魔に気づいた者だけが、悪魔と戦える。
そういった人間こそが、現実と密接した倫理を生む。
それらの行為をもって、悪魔と呼ばれようが構わない。何故なら、「合意」や「許し」という天使の衣を借りた悪魔たちが、そう言っているのだから。悪魔に悪魔と呼ばれても、そのディスクールは何も生産しない。
世の多数派の人間は、戦う者が苦痛とともに生んだ倫理を、ただ劣化しているだけである。
それが、この世界の事実である。
欺瞞に敏感な身体は、劣化した世界を、殴り壊してよいのだ。
それが、自然というシステムなのだ。
世にはびこる癒し系とは、過剰な刺激の世界を、精液のヴェールで覆うものである。
書き手が女であっても精液だ。
白濁した粘液に覆われて、色と色とのせめぎ合いは、パステル調になる。
それは、精液のせいなのだ。
癒しという行為の本質は、汚らしいものなのだ。
それを自覚できない癒しが、帝国主義者の暴力となる。それは癒しなどではなく、レイプである。器官なき身体をレイプする、ささやかなファルスたち。生々しい倫理を劣化させるだけの、下劣な人間たち。
何故、そんな人間を、「正常人」などと呼ぶのだろう?
実際、最後まで読んでいない。そんな読み方失礼だと思いながら、あらすじだけ理解するために、後半三分の二は流し読みした。
速読法など知っているわけではない。しかし、書き手の思考構造を把握してしまうと、部分部分を抜き読むだけで事足りる。時々、あれ? と引っかかることもあろうが、そもそも小説でこんな読み方をするのは、貧乏症のわたしにとっては、めったにないことだった。
要するに、糞つまらない小説を読んでしまった。
それについて書くつもりはない。その作品についてぶら下がる言葉すら思いつかない。書き手の多数派の思い込みならば、作品関係なく述べることはできる。しかしそれ以前の話だ。
つまらない作品に出会ったから、落ち込んでいるわけではない。
いよいよわたしは多数派から漏れつつある、と自覚してしまったことが、とてもイヤでイヤでたまらない。
世の中の全てが、浅薄な人工物だ。チェスゲームほどの駆け引きすらできない、ただ浅薄な帝国主義者たちが、世を支配している。
なんておぞましい世界になっているのだろう。わたしは気づかなかった。天使の皮を被った権力者たちが、わたしを取り囲んでいる。なんという卑しい世界。
欺瞞だけしか、存在を許されない世界。
欺瞞のない世界は存在しない。然り。だからといって、欺瞞を感じる身体を、喋らせないように叩きのめす必要はない。
もっと違う理由があるはずだ。欺瞞に敏感な身体を殴り殺してしまう自分を、見つめ直すべきだ。
わたしは何度も言っている。身体なき器官は、器官なき身体を、殴り殺す運命にあるのだと。
お前たちは、気づいていないのか? 欺瞞に敏感な身体を、自分の他人の関係なく、殴り殺していることに。気づいていないから、平気で殴り殺せるのか? そうとしか考えられない。
目や耳や鼻が異常に成長した身体。なんてグロテスクな身体。お前たちは、自分が悪魔になっていることに気づけているのか? 原始人が想像した、暴力の象徴としての悪魔に。
殴り殺すなら、殴り殺される覚悟をもってやれ。
欺瞞に敏感な身体たちよ、殴り殺す相手を殴り殺せ。正当防衛である。その殴り合いこそが、現実と密接した倫理である。
わたしが読んだ小説は、巷では癒し系と評されていそうな作品である。
そうである。自分の、自分の中にある、悪魔を匿ってくれる小説だから、癒し系となるのだろう。「合意」や「許し」という呪文で、悪魔をメイクアップしている。
悪魔を匿うことは、知らず知らずのうちに、悪魔を解き放っていることである。化粧の下の身体世界に、悪魔を濃縮している。
そうやって、世界のどこかで、器官なき身体が、殴り殺され続ける。
癒し系などという仮面の下の悪魔に気づいた者だけが、悪魔と戦える。
そういった人間こそが、現実と密接した倫理を生む。
それらの行為をもって、悪魔と呼ばれようが構わない。何故なら、「合意」や「許し」という天使の衣を借りた悪魔たちが、そう言っているのだから。悪魔に悪魔と呼ばれても、そのディスクールは何も生産しない。
世の多数派の人間は、戦う者が苦痛とともに生んだ倫理を、ただ劣化しているだけである。
それが、この世界の事実である。
欺瞞に敏感な身体は、劣化した世界を、殴り壊してよいのだ。
それが、自然というシステムなのだ。
世にはびこる癒し系とは、過剰な刺激の世界を、精液のヴェールで覆うものである。
書き手が女であっても精液だ。
白濁した粘液に覆われて、色と色とのせめぎ合いは、パステル調になる。
それは、精液のせいなのだ。
癒しという行為の本質は、汚らしいものなのだ。
それを自覚できない癒しが、帝国主義者の暴力となる。それは癒しなどではなく、レイプである。器官なき身体をレイプする、ささやかなファルスたち。生々しい倫理を劣化させるだけの、下劣な人間たち。
何故、そんな人間を、「正常人」などと呼ぶのだろう?