プネウマトコイ
2008/07/18/Fri
二階堂奥歯『八本脚の蝶』より。
=====
その内私は女になった。女の場合はもっとすごい。
女の子と「少女」よりもっともっと混同されているのだ。
出版物や社会組織を成り立たせている言説に出てくる「女」はどうやら大抵女の子の成長後ではなくて「少女」の成長後のことらしい。文学に出てくるのも、哲学に出てくるのも。
私は「女」ごっこをする女になった。
「女」の仮装をする女になった。
「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。
そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。
能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。
「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。
両方ちゃんとできてやっと一人前だ。
私は「女」ではないのをはっきりと知っている。
それが架空の存在であることをはっきり知っている(なにしろ女だから)。
だから、私はまた素敵な抽象物になろうとした。
自分の躰は着せ替え人形だと思う。
問題なのは、着せ替え人形はいくつでも持つことができるが、自分の躰は一つしか持てないということだ。
このたったひとつの着せ替え人形で私は遊ぶ、メイクやお洋服や小物を入れ替えて遊ぶ。
この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。
女を素材にして「女」を作ってみました。
ドラァグ・クイーンの知人が何人かいる。
ドラァグ・クイーンとは、表象的・社会的に女性的とされている記号を意識的に過剰に身につけた人間のことで、通常男性である。とにかく派手なドレスを着て、激しく化粧をして、女性性をパロディ化する。
肉体すべてをその観念の金属でできた着せ替え人形にしてみた。
私は、女のドラァグ・クイーンだ。
=====
女のドラァグ・クイーンというと、どうしても戸川純が思い浮かぶ。
テレビに映る彼女の挙動は、確かに不審だ。
でも、非神経症者の臭いは、充実身体的な生々しさは、二階堂奥歯の方に強く感じられる。
わたしの主観をもって言えば、戸川純の方が、神経症者的即ち正常人的に見える。
そしてこの感覚が、見かけだけを考えれば、逆転することも理解できる。つまり、見かけだけで言うならば、二階堂のテクストよりテレビに映る戸川の方が、キチガイチックだというのも。
でも、逆だと思う。
本当のキチガイは、二階堂の方だと思う。
自分でもわからない。自殺したか自傷止まりだったかという単純な問題でもありそうだけど、違うと思う。思いたい。
両者とも、女性性なるものを、派手なドレスとして纏っている。過剰さの象徴として、華厳の極楽を表象する一つのシニフィアンとして、女性性を着こなしている。利用している。
「利用」と書いたが、そういう態度がむしろシニフィアンに対しては真摯な対応となる。特に「女性性」という棄却されがちな意味を含意するシニフィアンに対しては。
両者とも、「女」という言葉に対して、真摯であるのだ。「女」という言葉に、自傷的にピン止めされているのだ。
しかし、二階堂の方が、「女」という言葉に対し、他者にある視点を持っている。
戸川の場合、「女」という言葉を、自身の内部にまだ抱え込んでいる。
これが、戸川の方が神経症者っぽく見える所以だろうと思う。
もちろん、戸川の生きている場所が、芸能界という、他者の視線が集中する場であることも考慮されなければならない。
戸川は、他者の視線を承認できている。
他者の視線に晒される自分を、「女」ごっこと表現する二階堂は、他者の視線を排除、あるいは少なくとも否認している。
同著より。
=====
探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に対する違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
=====
神経症者と非神経症者を見分ける視点の一つして、この「世界に対する違和感」と「社会に対する違和感」の違いがある。
社会とは、世界を人間主義的に整形したものである。この整形を隠蔽と呼んでも構わない。世界や自然という生々しく過剰なものを、人間同士が交わし合う視線によって、合わせ鏡によって、鏡の国に整形したのが、社会である。
しかし、特に男性性的主体に多く見られることでもあるが、神経症者たちは、この世界と社会の区別がつけられない、という傾向がある。つまり、世界という言葉に、何故か常に社会的なものを含意させてしまう傾向がある。
これは、『アンチ・オイディプス』にも顕著な傾向である。だからわたしは彼らを、少なくともその「語る主体」を、神経症者であると、確信を持って診断する。だからわたしはこの著作について、以下のような生理的嫌悪を感じる。
「やっぱ他人事の、「非神経症者になりたい神経症者」の戯言だな」
ドゥルーズ=ガタリは、ヤンデレ好き、メンヘラ好きなオタクたちと、何も変わらない。
戸川の歌詞や行動にも、そういうところがある。彼女が世界と社会を混同しているなどとは言わないが、彼女の創作行為の原点となっているであろう「環境に対する違和感」は、何かどこか社会的な臭いがする。彼女の奇異な行動は、社会を生きていない故奇異な行動になってしまっているのではなく、世界を社会化する本質契機である「他人の視線」を気にしてのものに思える。
「世界に対する違和感」を、創作という隠蔽作業により、「社会に対する違和感」にデコレートしているのかもしれない。そういう考えもありだろう。しかし、このデコレートは、非神経症者にとっては大きな断絶を跳躍することでもある。神経症者たちが、言語ゲームの外という非神経症者領域に脱出するのを、跳躍と表現しがちなのと対称的に。
戸川に、この跳躍という、凄惨な覚悟が、あるいは果てしのない工夫の積み重ねが、あるのだろうか?
戸川の場合、跳躍というより、しがみついているように見える。わたしは、彼女を神経症者か非神経症者か診断することはできない。ただ、少なくとも、彼女は神経症者の生きる領域にしがみついている、とは言える。
この跳躍を、むしろ非神経症者は自覚できないことが多い。「私は言語ゲームの外から跳躍して、言語ゲームの中を、社会を生きられるようになった」という自覚あるいはその回帰が、去勢あるいは去勢の承認である。
非神経症者たちは、この跳躍を、常に試み失敗し続ける。神経症者になろうとして、いつも失敗している。しかしそれを自覚できていない。自覚できていないから、「自分は狂っていないと言うのが狂人である」などと言われるし、当人たちは当人たちで、言語ゲームから弾かれてしまうことを、「世界に対する違和感」や「存在に対する矛盾や理不尽」という言葉でしか表現できない。あるいは、『アンチ・オイディプス』によるならば、「欲望は、まるでそれ自身が意図しないかのようにして、革命的である」などという、馴れ馴れしい言葉に当てはまることだろう。
この自覚のできなさが、非神経症者に親近する人間を、逆方向に跳躍させる。革命的(笑)に。神経症者が生きる領域から非神経症者が生きる領域へ。言語ゲームの内から外へ。正常から狂気へ。幻想からリアルへ。生から死へ。いや、これだけは正確を期したい。生や愛という幻想から、生と死という現実へ。
南方熊楠やジェイムズ・ジョイスは、非神経症者でありながら、ついに「狂人」と棄却されることがなかった。非神経症者でありながら、神経症者が生きる領域に、視線が包囲する円形舞台に、鏡の国という牢獄に、しがみついていられた。
無自覚にも。身勝手にも。
よって、彼らの子供は、狂気に陥った。
よって、戸川京子は、自殺した。
父の代わりに。姉の代わりに。
南方やジョイスや戸川という魔女ランダは、バロンを打ち負かしてしまった。
悲惨な結末というリアルな世界を、顕現させてしまった。
そんな風に考えられるかもしれない、という話である。
この文章を、もし万が一、戸川が読んだりしたら、傷つくかもしれない。
魔女ランダはバロンを打ち負かすことで、より魔女となるのか。はたまたバロンとなるのか。
どっちでもありだと思う。
だから、わたしは、戸川純という魔女を、バロン化させないために、こういう文章を書いている。
一人の魔女として。
キリスト教者に焼き尽くされた一族の生き残りとして。
醜さのせいで棄却されたイワナガヒメの末裔として。
ラカンは、ジョイスが狂気に陥らなかったのは、サントームという第四の輪のお陰だと言う。彼にしてはとても大雑把な手つきで、魔女の呪いから防衛するための柵を打ち立てようとしている。
このサントームとは、ガタリ論ならば、「分裂症者が制作する自己増殖する机」に当てはまろう。クサマヤヨイの言葉なら、自身の創作行為について「芸術療法やアートセラピーとなんの関係もない、生死をきわめるための一つのプロセスとしての闘い」と述べていることに当てはまろう。ジョイスやクサマのそれを見れば、むしろ彼らの生産や闘いによって、芸術が治療される、という事実が確認できる。
第四の輪とは、非神経症者たちの、神経症者たちが生きる幻想の楽園へのしがみつきである。
ボロメオの三つの輪が適正に連結しているのが、神経症者なのだから。
ラカンは、特に晩年の論は、魔女に打ち負かされかけている。
デリダの晩年は、魔女との戦いに熾烈さを極めている。
ラカンやデリダが、本当のキリスト教者である。一神教の信徒である。
魔女を焼き殺すことを使命とした、冷徹なモンクたちである。
一方、魔女にたぶらかされ、使い魔に堕してしまったのが、ドゥルーズ=ガタリである。
魔女ランダは雑魚を相手にしない。
ちっちゃなちんちんなど一噛みで喰い千切られる。
バロンは、魔女と戦え。
聖なる力を、ケガレを棄却する力を、鍛え上げろ。
魔女は、雑魚を相手にするな。
そこらに落ちているちんちんを拾い喰いしていたら、後ろからモンクの槍に貫かれる。
……それが悦楽となればいいのだけれど。
無粋に対して無粋なモンクたちのことだ。
悪意の笑いを理解できないのがバロンだ。
バロンは童貞なのだ。
期待してはいけない。
リアルを召還するのが、魔女ランダの、キチガイの使命である。
それが世界の摂理である。
それにより顕現したものが、社会において、悲惨と言われるものであっても。
だから、キリスト教者に焼却された魔女たちは、使命を果たしたのだ。
火あぶりというリアルを、そこに召還させたのだ。
ロゴスの本性たるケガレを焼き払う火を、実体化せしめたのだ。
残酷演劇が代理表象しようとしたのは、そういうことである。
残酷演劇は、幻想ばかりになってしまった世の中にリアルを顕現させようと、即ち芸術を治療しようとしたものである。
わたしはキリスト教を批判しているのではない。
むしろキリスト教者たちに魔女狩りを推奨しているのだ。
それがお前たちの使命だろうと。
それが唯一神という共同幻想の軸だろうと。強力強大なファクティッシュだろうと。
しかし、現在のキリスト教は、主の精液によってケガレてしまった。
この言葉にキリスト教者たちは反発するかもしれない。
いいだろう。
わたしはその精液の実物を感知している。だから様々な言葉でそれを表現できる。お前たちが理解できるように言い換えることができる。
お前たちの歴史の中に存在する、聖霊やプネウマが、わたしの言う主の精液である。
わたしは、魔女ランダとして、リアルを召還するために、バロンを欲している。
お前たちの歴史の中にかつて存在した、プネウマトコイを呼び戻している。
反ユダヤ主義者のセリーヌのように。
現代には、魔女と戦う気概を持った、真の潔癖症者が、いなさ過ぎる。
ケガレとそこそこに妥協してしまっている。
清らかさを謳い上げるキリスト教者たちは、自分たちのその妥協を、欺瞞を、問い直すべきである。
お前たちの言葉は、顔射をしたがる男たちの口説き文句と、なんら違いはない。
まず、それを自覚すべきである。
魔女を殺してきたその傲慢な潔癖さを、取り戻すべきである。
お前たちは、魔女を槍で貫きバーベキューにする、モンクなのだ。
まず何よりも、それがキリスト教を、一神教を、信仰するということなのだ。
再度言うが、これは批判ではない。
わたしは、現実について、述べているだけである。
主の精液に塗れながら。
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その内私は女になった。女の場合はもっとすごい。
女の子と「少女」よりもっともっと混同されているのだ。
出版物や社会組織を成り立たせている言説に出てくる「女」はどうやら大抵女の子の成長後ではなくて「少女」の成長後のことらしい。文学に出てくるのも、哲学に出てくるのも。
私は「女」ごっこをする女になった。
「女」の仮装をする女になった。
「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。
そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。
能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。
「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。
両方ちゃんとできてやっと一人前だ。
私は「女」ではないのをはっきりと知っている。
それが架空の存在であることをはっきり知っている(なにしろ女だから)。
だから、私はまた素敵な抽象物になろうとした。
自分の躰は着せ替え人形だと思う。
問題なのは、着せ替え人形はいくつでも持つことができるが、自分の躰は一つしか持てないということだ。
このたったひとつの着せ替え人形で私は遊ぶ、メイクやお洋服や小物を入れ替えて遊ぶ。
この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。
女を素材にして「女」を作ってみました。
ドラァグ・クイーンの知人が何人かいる。
ドラァグ・クイーンとは、表象的・社会的に女性的とされている記号を意識的に過剰に身につけた人間のことで、通常男性である。とにかく派手なドレスを着て、激しく化粧をして、女性性をパロディ化する。
肉体すべてをその観念の金属でできた着せ替え人形にしてみた。
私は、女のドラァグ・クイーンだ。
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女のドラァグ・クイーンというと、どうしても戸川純が思い浮かぶ。
テレビに映る彼女の挙動は、確かに不審だ。
でも、非神経症者の臭いは、充実身体的な生々しさは、二階堂奥歯の方に強く感じられる。
わたしの主観をもって言えば、戸川純の方が、神経症者的即ち正常人的に見える。
そしてこの感覚が、見かけだけを考えれば、逆転することも理解できる。つまり、見かけだけで言うならば、二階堂のテクストよりテレビに映る戸川の方が、キチガイチックだというのも。
でも、逆だと思う。
本当のキチガイは、二階堂の方だと思う。
自分でもわからない。自殺したか自傷止まりだったかという単純な問題でもありそうだけど、違うと思う。思いたい。
両者とも、女性性なるものを、派手なドレスとして纏っている。過剰さの象徴として、華厳の極楽を表象する一つのシニフィアンとして、女性性を着こなしている。利用している。
「利用」と書いたが、そういう態度がむしろシニフィアンに対しては真摯な対応となる。特に「女性性」という棄却されがちな意味を含意するシニフィアンに対しては。
両者とも、「女」という言葉に対して、真摯であるのだ。「女」という言葉に、自傷的にピン止めされているのだ。
しかし、二階堂の方が、「女」という言葉に対し、他者にある視点を持っている。
戸川の場合、「女」という言葉を、自身の内部にまだ抱え込んでいる。
これが、戸川の方が神経症者っぽく見える所以だろうと思う。
もちろん、戸川の生きている場所が、芸能界という、他者の視線が集中する場であることも考慮されなければならない。
戸川は、他者の視線を承認できている。
他者の視線に晒される自分を、「女」ごっこと表現する二階堂は、他者の視線を排除、あるいは少なくとも否認している。
同著より。
=====
探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に対する違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
=====
神経症者と非神経症者を見分ける視点の一つして、この「世界に対する違和感」と「社会に対する違和感」の違いがある。
社会とは、世界を人間主義的に整形したものである。この整形を隠蔽と呼んでも構わない。世界や自然という生々しく過剰なものを、人間同士が交わし合う視線によって、合わせ鏡によって、鏡の国に整形したのが、社会である。
しかし、特に男性性的主体に多く見られることでもあるが、神経症者たちは、この世界と社会の区別がつけられない、という傾向がある。つまり、世界という言葉に、何故か常に社会的なものを含意させてしまう傾向がある。
これは、『アンチ・オイディプス』にも顕著な傾向である。だからわたしは彼らを、少なくともその「語る主体」を、神経症者であると、確信を持って診断する。だからわたしはこの著作について、以下のような生理的嫌悪を感じる。
「やっぱ他人事の、「非神経症者になりたい神経症者」の戯言だな」
ドゥルーズ=ガタリは、ヤンデレ好き、メンヘラ好きなオタクたちと、何も変わらない。
戸川の歌詞や行動にも、そういうところがある。彼女が世界と社会を混同しているなどとは言わないが、彼女の創作行為の原点となっているであろう「環境に対する違和感」は、何かどこか社会的な臭いがする。彼女の奇異な行動は、社会を生きていない故奇異な行動になってしまっているのではなく、世界を社会化する本質契機である「他人の視線」を気にしてのものに思える。
「世界に対する違和感」を、創作という隠蔽作業により、「社会に対する違和感」にデコレートしているのかもしれない。そういう考えもありだろう。しかし、このデコレートは、非神経症者にとっては大きな断絶を跳躍することでもある。神経症者たちが、言語ゲームの外という非神経症者領域に脱出するのを、跳躍と表現しがちなのと対称的に。
戸川に、この跳躍という、凄惨な覚悟が、あるいは果てしのない工夫の積み重ねが、あるのだろうか?
戸川の場合、跳躍というより、しがみついているように見える。わたしは、彼女を神経症者か非神経症者か診断することはできない。ただ、少なくとも、彼女は神経症者の生きる領域にしがみついている、とは言える。
この跳躍を、むしろ非神経症者は自覚できないことが多い。「私は言語ゲームの外から跳躍して、言語ゲームの中を、社会を生きられるようになった」という自覚あるいはその回帰が、去勢あるいは去勢の承認である。
非神経症者たちは、この跳躍を、常に試み失敗し続ける。神経症者になろうとして、いつも失敗している。しかしそれを自覚できていない。自覚できていないから、「自分は狂っていないと言うのが狂人である」などと言われるし、当人たちは当人たちで、言語ゲームから弾かれてしまうことを、「世界に対する違和感」や「存在に対する矛盾や理不尽」という言葉でしか表現できない。あるいは、『アンチ・オイディプス』によるならば、「欲望は、まるでそれ自身が意図しないかのようにして、革命的である」などという、馴れ馴れしい言葉に当てはまることだろう。
この自覚のできなさが、非神経症者に親近する人間を、逆方向に跳躍させる。革命的(笑)に。神経症者が生きる領域から非神経症者が生きる領域へ。言語ゲームの内から外へ。正常から狂気へ。幻想からリアルへ。生から死へ。いや、これだけは正確を期したい。生や愛という幻想から、生と死という現実へ。
南方熊楠やジェイムズ・ジョイスは、非神経症者でありながら、ついに「狂人」と棄却されることがなかった。非神経症者でありながら、神経症者が生きる領域に、視線が包囲する円形舞台に、鏡の国という牢獄に、しがみついていられた。
無自覚にも。身勝手にも。
よって、彼らの子供は、狂気に陥った。
よって、戸川京子は、自殺した。
父の代わりに。姉の代わりに。
南方やジョイスや戸川という魔女ランダは、バロンを打ち負かしてしまった。
悲惨な結末というリアルな世界を、顕現させてしまった。
そんな風に考えられるかもしれない、という話である。
この文章を、もし万が一、戸川が読んだりしたら、傷つくかもしれない。
魔女ランダはバロンを打ち負かすことで、より魔女となるのか。はたまたバロンとなるのか。
どっちでもありだと思う。
だから、わたしは、戸川純という魔女を、バロン化させないために、こういう文章を書いている。
一人の魔女として。
キリスト教者に焼き尽くされた一族の生き残りとして。
醜さのせいで棄却されたイワナガヒメの末裔として。
ラカンは、ジョイスが狂気に陥らなかったのは、サントームという第四の輪のお陰だと言う。彼にしてはとても大雑把な手つきで、魔女の呪いから防衛するための柵を打ち立てようとしている。
このサントームとは、ガタリ論ならば、「分裂症者が制作する自己増殖する机」に当てはまろう。クサマヤヨイの言葉なら、自身の創作行為について「芸術療法やアートセラピーとなんの関係もない、生死をきわめるための一つのプロセスとしての闘い」と述べていることに当てはまろう。ジョイスやクサマのそれを見れば、むしろ彼らの生産や闘いによって、芸術が治療される、という事実が確認できる。
第四の輪とは、非神経症者たちの、神経症者たちが生きる幻想の楽園へのしがみつきである。
ボロメオの三つの輪が適正に連結しているのが、神経症者なのだから。
ラカンは、特に晩年の論は、魔女に打ち負かされかけている。
デリダの晩年は、魔女との戦いに熾烈さを極めている。
ラカンやデリダが、本当のキリスト教者である。一神教の信徒である。
魔女を焼き殺すことを使命とした、冷徹なモンクたちである。
一方、魔女にたぶらかされ、使い魔に堕してしまったのが、ドゥルーズ=ガタリである。
魔女ランダは雑魚を相手にしない。
ちっちゃなちんちんなど一噛みで喰い千切られる。
バロンは、魔女と戦え。
聖なる力を、ケガレを棄却する力を、鍛え上げろ。
魔女は、雑魚を相手にするな。
そこらに落ちているちんちんを拾い喰いしていたら、後ろからモンクの槍に貫かれる。
……それが悦楽となればいいのだけれど。
無粋に対して無粋なモンクたちのことだ。
悪意の笑いを理解できないのがバロンだ。
バロンは童貞なのだ。
期待してはいけない。
リアルを召還するのが、魔女ランダの、キチガイの使命である。
それが世界の摂理である。
それにより顕現したものが、社会において、悲惨と言われるものであっても。
だから、キリスト教者に焼却された魔女たちは、使命を果たしたのだ。
火あぶりというリアルを、そこに召還させたのだ。
ロゴスの本性たるケガレを焼き払う火を、実体化せしめたのだ。
残酷演劇が代理表象しようとしたのは、そういうことである。
残酷演劇は、幻想ばかりになってしまった世の中にリアルを顕現させようと、即ち芸術を治療しようとしたものである。
わたしはキリスト教を批判しているのではない。
むしろキリスト教者たちに魔女狩りを推奨しているのだ。
それがお前たちの使命だろうと。
それが唯一神という共同幻想の軸だろうと。強力強大なファクティッシュだろうと。
しかし、現在のキリスト教は、主の精液によってケガレてしまった。
この言葉にキリスト教者たちは反発するかもしれない。
いいだろう。
わたしはその精液の実物を感知している。だから様々な言葉でそれを表現できる。お前たちが理解できるように言い換えることができる。
お前たちの歴史の中に存在する、聖霊やプネウマが、わたしの言う主の精液である。
わたしは、魔女ランダとして、リアルを召還するために、バロンを欲している。
お前たちの歴史の中にかつて存在した、プネウマトコイを呼び戻している。
反ユダヤ主義者のセリーヌのように。
現代には、魔女と戦う気概を持った、真の潔癖症者が、いなさ過ぎる。
ケガレとそこそこに妥協してしまっている。
清らかさを謳い上げるキリスト教者たちは、自分たちのその妥協を、欺瞞を、問い直すべきである。
お前たちの言葉は、顔射をしたがる男たちの口説き文句と、なんら違いはない。
まず、それを自覚すべきである。
魔女を殺してきたその傲慢な潔癖さを、取り戻すべきである。
お前たちは、魔女を槍で貫きバーベキューにする、モンクなのだ。
まず何よりも、それがキリスト教を、一神教を、信仰するということなのだ。
再度言うが、これは批判ではない。
わたしは、現実について、述べているだけである。
主の精液に塗れながら。