エロタナ
2006/12/05/Tue
エロタナってなんかいいね。最近流行の四文字で。んなこたどーでもいいんですが。
以前「曖昧なもの」と「確かなもの」の二項論理で物事を考える、という話をしました。「非A≠A」において、間にある「≠」に何かがあるとしてそれを「曖昧なもの」と呼び、「非A」と「A」を「確かなもの」と呼ぶ二項論理です。例えば中沢新一氏の著作「対称性人類学」における「対称性」は、この「曖昧なもの」があるからこそ「非A」と「A」の間を行き来できる思考、即ち対称性が可能となる、と説明できます。
以前紹介したプラトニック・シナジー理論をまた拝借させて頂きますと、人間が「曖昧なもの」「確かなもの」を感じる根源を虚数で表し、「i*(-i)→+1」という式、言い換えれば「曖昧なもの」と「確かなもの」の根源が共振することで「確かなもの」が実体(実数)化する、という考えになるのでしょうか。非常に便利で、本質的な思考方法だと思います。「曖昧なもの」「確かなもの」の二項論理だと「曖昧なもの」*「確かなもの」→「確かなもの」という式しか表出してきませんね。
といいつつ、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理を、演劇・文芸的視点というか神話論・物語論的視点で捉えてみましょう。
「曖昧なもの」を暗喩・換喩・内包する言葉(言語自体が「確かなもの」になってしまいますが)を私が思いつく限り羅列していきます。
パトス・ミュトス/パトスの知・演劇的知/母性・女性性/未来/生・性・エロス/同一化/対称性/芸術
次にそれらと対比される「確かなもの」に繋がっていく言葉を挙げていきます。
ロゴス/近代的知/父性・男性性/過去/死・タナトス/差異化/非対称性/学問
「曖昧なもの」は冒頭で言った説明通り、「同一化」や「対称性」や「間」に繋がってくるものが多いですね。
「曖昧なもの」は説明したり証明したり言語化することで「確かなもの」化します。なので上で挙げた分類も主観的かつ流動的なものでしょう。また、「曖昧なもの」でもそれを究極まで突き詰めたとしたら、それは神話的な「カオス」となり、「曖昧」そのもの、エントロピーが無限大の状況であるという「確かなもの」化すると考えられます。つまり、「曖昧なもの」は「確かなもの」を常に内包しているのです。「非A≠A」の「≠」と先に表現した「曖昧なもの」を、「非A∩A」と表現したらイメージしやすいでしょうか。
また、「確かなもの」が生まれるとその境界にまた「曖昧なもの」が生まれる。「確かなもの」を光とすれば、それを享受する主体があればその後ろに影=闇という「曖昧なもの」が必ず生まれる、ということも言えると思います。これはどちらかというと仏教の無限回廊的な思想に繋がる考え方になりますね。私なんかはここから芸術の普遍性との類似が匂ってきます。
断っておきますが、だから「確かなもの」化することは無意味だ、と言っているわけではなく、人間は未来を過去にして生きていくしかないように、「曖昧なもの」を「確かなもの」化して生きていくしかないのです。学者の「わからないことがあるから研究する」という本能的志向と同じことです。
例えばフロイトは「エロス」と「タナトス」の対立は「タナトス」が最終的に勝利する、と考えていました。確かに神話でも、サクヤヒメの物語などのように人類の祖が自ら「死」を選択したというような物語が世界中に散見されます。人は「未来」という曖昧なものを確かな「過去」にしていくことで、最終的に確かな「死」に至るのです。
これを言葉通りに捉えるとニヒリズムチックな感傷に浸ってしまいますが、「生は死によって有限とされるからこそ今と未来を大事に生きなければならない」という解釈でも捉えることが可能です。つまり、世界のいろんな事物を「確かなもの」化させても「曖昧なもの」は永久的に残り続ける、未来は永久にある、という解釈です。
私はこの「曖昧なもの」と「確かなもの」について、人間は本能としてその二つのバランスを取りたがる傾向があると考えます。「父性・男性性」と「母性・女性性」を考えれば理解しやすいでしょうか。
このことを「生」と「死」において考えてみましょう。
ここでの「生」は、エロス的な性的な「生」、つまり「繁殖」的な「生」と考えます。「生」に対して重きを置く集団があれば、同様の「生」的集団と対立し、「死」的な抗争・戦争へと発展します。「曖昧なもの」が過多になるため「確かなもの」を希求している状態と言えると思います。また先に出したサクヤヒメの神話もそんな感じですね。植物という曖昧なもののサクヤヒメと岩石という確かなもののイワナガヒメ。この姉妹を嫁にもらったミコトは醜いイワナガヒメを追い返し、美しいサクヤヒメだけを愛する。怒った姉妹の父親はミコトから長寿を奪い取りました。「エロス・美」という曖昧なものだけ選んでしまったから「死」という代償を背負わされた、という話になりますね。
プラトニックシナジー理論で言えば、同じ符号の虚数が共鳴すると「負」的な「-1」が立ち現れる、ということになるでしょうか。
では異なる符号の場合を考えて見ましょう。
科学的思考方法は、主観により差異を見出し、それによって生まれた要素同士の同一性を客観的に見出し(再現性を確かめ)、論理化します。ロゴスや先程の「光」を正数で表すならば、「確かなもの」が正と言えるので、主観による差異化は正、客観的な同一性(同一化に換喩可能)を見出すことは負となります。だから科学的思考方法(近代的知)は「i*(-i)→+1」と表せるわけですね。ロゴスそのものも、主観により得た「差異」を対話などにより誤解を無くすことでその同一性を確認し、共有することが目的である、と表現したなら、「i*(-i)→+1」の「+1」が(完全なる・身体的に実感できる)ロゴスである、という表現ができるでしょう。
つまり、異なる符合の共鳴とは「父性」と「母性」のバランスを取るようなもの、という比喩が可能ではないか、ということです。
次に神話哲学で重要な要素である、「生・性・エロス」と「死・タナトス」、「父性・男性性」と「母性・女性性」の対比についてちょっとだけ思考を遊ばせてみます。
まず私の主観・直感的に、これらを相関づけてみます。「→」は換喩とかになりますか。
「母性・女性性」→「生・性・エロス」+「死・タナトス」
「父性・男性性」→「死・タナトス」
母性については、女性だけが新しい命を生むことができるということ、また先に述べた「曖昧なもの」は「確かなもの」を内包しているということ、加えてE・ノイマンの「グレートマザー」論から拝借した印象です。父性については、論理的、ロゴス主義的ということで、「確かなもの」志向が強い性格と考えて、このような相関に結びつきました。
これは同異が逆になっていますが、性染色体と似た構図を持っていますね。
エロスを[E]、タナトスを[T]とします。異符号は確かなものとなるので「[E]*[T]→[T]」、同符号ならばバランスを取るために違う符号が立ち現れる「[T]*[T]→[E]」となります。つまり、男女のバランスがとれていれば、生死のバランスもとれる、という簡単な感覚的知を回りくどく説明した、という話になります。デリダ的に言うならばロゴス中心主義社会は父性が強い社会と言えますので、「[T]*[T]→[E]」の共鳴が多くなり、爆発的人口増加に繋がった、とも言えるのではないでしょうか。また、「[E]*[E]→[T]」を考えたら、これは先に述べた「生」的集団二つによる「死」的な抗争という話にもなりますね。
父性/母性とエロス/タナトスの相関を一見すると、バランス的には[T]、タナトス性が多く見受けられるので、フロイトや神話の「死」の優位性にも繋がってくるのではないでしょうか。
曖昧なものを[a]、確かなものを[c]とすれば
[a]*[c]→[c]
[c]*「c」→[a]
[a]*[a]→[c]
みたいな感じにまとめられるのかな? なんか妙か。
まあこの辺はあんまり考えていないので、あくまで私の主観的な印象論ということで……。
最近は生と死の中間、「死の瞬間」みたいなものに思考を走らせているわけですが、この視点だと生と死が確かなもの、死の瞬間が曖昧なもの(というかエロスとタナトスではなく生死を単純に分けるならこっちの方が正しい感じがします)、という風に物理学的細分化的な泥沼にはまってしまいそうな予感がします。そうなると、人間の人生って「死の瞬間」以外は確かなものばかりとなるので、自然と曖昧なもの、ここでは「死の瞬間」に惹かれるのかなあ、と。フロイトの言う「死への欲動」とはこっちかな、なんて思っています。美を求めるのと同じ情動の地平での「死への欲動」ということになるんでしょうか。まあ「確かなもの」「曖昧なもの」二項論理って視点によって分類も変わってくるよ、という話をしたかっただけですが。
さっきの「主観的差異化」と「客観的同一性の発見」なんかも、主観と客観という対立項で捉えるなら、前の記事で述べたように「演劇的知」においてそれらは入れ替わることが可能、つまり「対称性」がある、ということになりますし。
現実の事象にあてはめたら再現なく細分化されちゃって、系というかシステムにならんのですよ、この二項論理。やっぱり「父性」的なロゴス的な差異化の結果としての「優劣」=「ヒエラルキー」=「上下」みたいな概念を組み込まないとツリー構造などの「系」に落ち着かない考えになるなあ。これは「対称性」思考方法も同じなんだろうけど。やっぱロゴスって当然の成り行きで今の形になったんだなあ、とか思ってしまいます。ああ、そういう感じで「即非」とかって出てくるのかな。うーん。
ああいきづまってるわ。
って芸術文化関連だけやれればいいんですけどね。わたしゃ。
うーん、読み返すといかにも散漫な思考にしかなってないのがもろばれですなあ……。
なんかもうほんとにってゆうか地方景気どないなっとんねん。特に北海道と東北。九州中部関西関東だけやんか。自由化経済ゆうといてこういう地方格差がでるのもなんていうか面白いなあ。単純に複雑系ではエントロピーが増大していくだけじゃなく、局所的とか瞬間的には縮小していく状態が窺える的な、複雑系の面白さが見えますねえ。言葉なら散種だ。マクロでは手紙は届かないけどミクロでは届いたりするよーってな話になるのかなあ、あはは、わけわかんねー。
はーあ……。
以前「曖昧なもの」と「確かなもの」の二項論理で物事を考える、という話をしました。「非A≠A」において、間にある「≠」に何かがあるとしてそれを「曖昧なもの」と呼び、「非A」と「A」を「確かなもの」と呼ぶ二項論理です。例えば中沢新一氏の著作「対称性人類学」における「対称性」は、この「曖昧なもの」があるからこそ「非A」と「A」の間を行き来できる思考、即ち対称性が可能となる、と説明できます。
以前紹介したプラトニック・シナジー理論をまた拝借させて頂きますと、人間が「曖昧なもの」「確かなもの」を感じる根源を虚数で表し、「i*(-i)→+1」という式、言い換えれば「曖昧なもの」と「確かなもの」の根源が共振することで「確かなもの」が実体(実数)化する、という考えになるのでしょうか。非常に便利で、本質的な思考方法だと思います。「曖昧なもの」「確かなもの」の二項論理だと「曖昧なもの」*「確かなもの」→「確かなもの」という式しか表出してきませんね。
といいつつ、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理を、演劇・文芸的視点というか神話論・物語論的視点で捉えてみましょう。
「曖昧なもの」を暗喩・換喩・内包する言葉(言語自体が「確かなもの」になってしまいますが)を私が思いつく限り羅列していきます。
パトス・ミュトス/パトスの知・演劇的知/母性・女性性/未来/生・性・エロス/同一化/対称性/芸術
次にそれらと対比される「確かなもの」に繋がっていく言葉を挙げていきます。
ロゴス/近代的知/父性・男性性/過去/死・タナトス/差異化/非対称性/学問
「曖昧なもの」は冒頭で言った説明通り、「同一化」や「対称性」や「間」に繋がってくるものが多いですね。
「曖昧なもの」は説明したり証明したり言語化することで「確かなもの」化します。なので上で挙げた分類も主観的かつ流動的なものでしょう。また、「曖昧なもの」でもそれを究極まで突き詰めたとしたら、それは神話的な「カオス」となり、「曖昧」そのもの、エントロピーが無限大の状況であるという「確かなもの」化すると考えられます。つまり、「曖昧なもの」は「確かなもの」を常に内包しているのです。「非A≠A」の「≠」と先に表現した「曖昧なもの」を、「非A∩A」と表現したらイメージしやすいでしょうか。
また、「確かなもの」が生まれるとその境界にまた「曖昧なもの」が生まれる。「確かなもの」を光とすれば、それを享受する主体があればその後ろに影=闇という「曖昧なもの」が必ず生まれる、ということも言えると思います。これはどちらかというと仏教の無限回廊的な思想に繋がる考え方になりますね。私なんかはここから芸術の普遍性との類似が匂ってきます。
断っておきますが、だから「確かなもの」化することは無意味だ、と言っているわけではなく、人間は未来を過去にして生きていくしかないように、「曖昧なもの」を「確かなもの」化して生きていくしかないのです。学者の「わからないことがあるから研究する」という本能的志向と同じことです。
例えばフロイトは「エロス」と「タナトス」の対立は「タナトス」が最終的に勝利する、と考えていました。確かに神話でも、サクヤヒメの物語などのように人類の祖が自ら「死」を選択したというような物語が世界中に散見されます。人は「未来」という曖昧なものを確かな「過去」にしていくことで、最終的に確かな「死」に至るのです。
これを言葉通りに捉えるとニヒリズムチックな感傷に浸ってしまいますが、「生は死によって有限とされるからこそ今と未来を大事に生きなければならない」という解釈でも捉えることが可能です。つまり、世界のいろんな事物を「確かなもの」化させても「曖昧なもの」は永久的に残り続ける、未来は永久にある、という解釈です。
私はこの「曖昧なもの」と「確かなもの」について、人間は本能としてその二つのバランスを取りたがる傾向があると考えます。「父性・男性性」と「母性・女性性」を考えれば理解しやすいでしょうか。
このことを「生」と「死」において考えてみましょう。
ここでの「生」は、エロス的な性的な「生」、つまり「繁殖」的な「生」と考えます。「生」に対して重きを置く集団があれば、同様の「生」的集団と対立し、「死」的な抗争・戦争へと発展します。「曖昧なもの」が過多になるため「確かなもの」を希求している状態と言えると思います。また先に出したサクヤヒメの神話もそんな感じですね。植物という曖昧なもののサクヤヒメと岩石という確かなもののイワナガヒメ。この姉妹を嫁にもらったミコトは醜いイワナガヒメを追い返し、美しいサクヤヒメだけを愛する。怒った姉妹の父親はミコトから長寿を奪い取りました。「エロス・美」という曖昧なものだけ選んでしまったから「死」という代償を背負わされた、という話になりますね。
プラトニックシナジー理論で言えば、同じ符号の虚数が共鳴すると「負」的な「-1」が立ち現れる、ということになるでしょうか。
では異なる符号の場合を考えて見ましょう。
科学的思考方法は、主観により差異を見出し、それによって生まれた要素同士の同一性を客観的に見出し(再現性を確かめ)、論理化します。ロゴスや先程の「光」を正数で表すならば、「確かなもの」が正と言えるので、主観による差異化は正、客観的な同一性(同一化に換喩可能)を見出すことは負となります。だから科学的思考方法(近代的知)は「i*(-i)→+1」と表せるわけですね。ロゴスそのものも、主観により得た「差異」を対話などにより誤解を無くすことでその同一性を確認し、共有することが目的である、と表現したなら、「i*(-i)→+1」の「+1」が(完全なる・身体的に実感できる)ロゴスである、という表現ができるでしょう。
つまり、異なる符合の共鳴とは「父性」と「母性」のバランスを取るようなもの、という比喩が可能ではないか、ということです。
次に神話哲学で重要な要素である、「生・性・エロス」と「死・タナトス」、「父性・男性性」と「母性・女性性」の対比についてちょっとだけ思考を遊ばせてみます。
まず私の主観・直感的に、これらを相関づけてみます。「→」は換喩とかになりますか。
「母性・女性性」→「生・性・エロス」+「死・タナトス」
「父性・男性性」→「死・タナトス」
母性については、女性だけが新しい命を生むことができるということ、また先に述べた「曖昧なもの」は「確かなもの」を内包しているということ、加えてE・ノイマンの「グレートマザー」論から拝借した印象です。父性については、論理的、ロゴス主義的ということで、「確かなもの」志向が強い性格と考えて、このような相関に結びつきました。
これは同異が逆になっていますが、性染色体と似た構図を持っていますね。
エロスを[E]、タナトスを[T]とします。異符号は確かなものとなるので「[E]*[T]→[T]」、同符号ならばバランスを取るために違う符号が立ち現れる「[T]*[T]→[E]」となります。つまり、男女のバランスがとれていれば、生死のバランスもとれる、という簡単な感覚的知を回りくどく説明した、という話になります。デリダ的に言うならばロゴス中心主義社会は父性が強い社会と言えますので、「[T]*[T]→[E]」の共鳴が多くなり、爆発的人口増加に繋がった、とも言えるのではないでしょうか。また、「[E]*[E]→[T]」を考えたら、これは先に述べた「生」的集団二つによる「死」的な抗争という話にもなりますね。
父性/母性とエロス/タナトスの相関を一見すると、バランス的には[T]、タナトス性が多く見受けられるので、フロイトや神話の「死」の優位性にも繋がってくるのではないでしょうか。
曖昧なものを[a]、確かなものを[c]とすれば
[a]*[c]→[c]
[c]*「c」→[a]
[a]*[a]→[c]
みたいな感じにまとめられるのかな? なんか妙か。
まあこの辺はあんまり考えていないので、あくまで私の主観的な印象論ということで……。
最近は生と死の中間、「死の瞬間」みたいなものに思考を走らせているわけですが、この視点だと生と死が確かなもの、死の瞬間が曖昧なもの(というかエロスとタナトスではなく生死を単純に分けるならこっちの方が正しい感じがします)、という風に物理学的細分化的な泥沼にはまってしまいそうな予感がします。そうなると、人間の人生って「死の瞬間」以外は確かなものばかりとなるので、自然と曖昧なもの、ここでは「死の瞬間」に惹かれるのかなあ、と。フロイトの言う「死への欲動」とはこっちかな、なんて思っています。美を求めるのと同じ情動の地平での「死への欲動」ということになるんでしょうか。まあ「確かなもの」「曖昧なもの」二項論理って視点によって分類も変わってくるよ、という話をしたかっただけですが。
さっきの「主観的差異化」と「客観的同一性の発見」なんかも、主観と客観という対立項で捉えるなら、前の記事で述べたように「演劇的知」においてそれらは入れ替わることが可能、つまり「対称性」がある、ということになりますし。
現実の事象にあてはめたら再現なく細分化されちゃって、系というかシステムにならんのですよ、この二項論理。やっぱり「父性」的なロゴス的な差異化の結果としての「優劣」=「ヒエラルキー」=「上下」みたいな概念を組み込まないとツリー構造などの「系」に落ち着かない考えになるなあ。これは「対称性」思考方法も同じなんだろうけど。やっぱロゴスって当然の成り行きで今の形になったんだなあ、とか思ってしまいます。ああ、そういう感じで「即非」とかって出てくるのかな。うーん。
ああいきづまってるわ。
って芸術文化関連だけやれればいいんですけどね。わたしゃ。
うーん、読み返すといかにも散漫な思考にしかなってないのがもろばれですなあ……。
なんかもうほんとにってゆうか地方景気どないなっとんねん。特に北海道と東北。九州中部関西関東だけやんか。自由化経済ゆうといてこういう地方格差がでるのもなんていうか面白いなあ。単純に複雑系ではエントロピーが増大していくだけじゃなく、局所的とか瞬間的には縮小していく状態が窺える的な、複雑系の面白さが見えますねえ。言葉なら散種だ。マクロでは手紙は届かないけどミクロでは届いたりするよーってな話になるのかなあ、あはは、わけわかんねー。
はーあ……。