馴れ馴れしい精液撒き散らし人間たち
2008/07/21/Mon
ドゥルーズ=ガタリは、アルトー繋がりで、大学生の頃には名前ぐらいは知っていた。河合隼雄などの論と同じように、生理的違和感を感じていた。「ああこりゃだめだ」と思った記憶がある。概要だけしか学ばなかったけど。この「だめだ」は演劇論に活用できないって意味合いが強かっただろう。演劇狂だった頃の話だから。河合論はユング派だけあってそこそこ興味持てた。河合本人は多分キモイんだろうなあ、とか思いつつその論は「ふむふむ」と読めていた。論も人間的にも渡邊守章さんの方が上だと思うけど。今でも。
要するに、直観で「あ、こいつら演劇(少なくともわたしが求めていた演劇)を絶対理解できない奴らだな」と思ったわけだ。
だからわたしの中では、どうでもいい人たちに分類されていたのだけれど、何故わたしの演劇論に強く影響を及ぼしたアルトーをダシにして語っているのかが不思議でならなかった。癇に障った。障っていたけれどまあわたしにはどうでもいい論だから、我慢してほっといた。
そういう流れでは、デリダの方がマシだった。デリダとわたしには距離があった。
フーコーはあれ、わたしとは違うところの同じところを論じている感じ。今ならフーコーの述べる「狂人」はドゥルーズ=ガタリ的な「パラノイア」たちだ、とか言えるけどね。まあでもパラノイアもスキゾフレニーも道程が違うだけで行き着く領域は同じっぽいからいいや、と今でも思う。
また、心理学なんか鳥肌が立つくらい嫌いだった。演劇人は大体同じことを言うだろう。心というものに現実的に対峙しているのはわたしたちの方であり、心理学者たちはむしろそれを劣化させている、という直観のようなものが常にあった。周りも持っていた。
大学卒業後、精神病む前から心理カウンセラーなる人種と接していたが、「ああやっぱりこいつらだめだ」と確認できた。演劇が、人間の本性を探るプロセスを有しているとするならば、そういった視点から見て、彼らは劣化した人間たちであり、彼らが目的とする治療とは、演劇のプロセスとは逆の、劣化のことだと理解できた。
ラカンやフロイトもそういうわけでスルーしていた。ああでもフロイトはネームバリューあり過ぎたからね。多少は知っていた。雑学として。精神病んでから、なんていうか機械的に、ラカン論などといった精神分析を学び始めた。ただそういう流れでしかない、としか言えない。
ドゥルーズ=ガタリは、心理学者と同じ臭いがする。
演劇人として言うなら、演劇をアイドル化させるマスコミのようなもの、と大学生の頃は言っていたように思う。わたしたちのやっている行為の、都合のいいところだけ取り出して、そこだけを大声で宣伝してくれる人たち。
わたしは劇団では制作もやっていたのだから、どちらかと言うとそういう立場の人間であるはずなのに、少なくともそういう人たちと上手くやっていくのが制作の仕事のはずなのに、どうしても、マスコミというか、心理学者というか、ともかくわたしたちのやっていることを、大衆化やアイドル化やわかりやすい理屈化といったような形で、劣化させていく人たちに対して、どうしようもない嫌悪感を覚え続けていた。
彼らには、狂人や演劇人という、人間の心の本性と常に対峙しているあるいは対峙しようとする人間たちに、ゴマスリしているようなイメージがある。
それでその本性を理解してくれるならまだいいのだ。
ゴマスリしてきて、結果出てくる言葉が、わたしたちのやっていることや生きている世界と、まるで逆方向のものを示唆するものになる。
必ずと言っていいほど。
かと言ってラカンやデリダの論が、わたしたちのやっていることや生きている世界を述べているとは、全く思わない。
彼らは彼らの生きている世界を論じている。
こちらを欲情した目で見ていないだけである。見たとしてもその目はとても冷徹である。
一方、ドゥルーズ=ガタリや河合隼雄や中沢新一や多くの心理学者や神話学者は、AV監督が女優を見るような目つきで、馴れ馴れしくわたしたちを、あるいは少なくともわたしという領域に近い領域を、論じている。
とっても生理的にキモチワルイ。
殺意すら覚える。
この馴れ馴れしいグループに、最近では木村敏も入っている。
彼らは総じてファロセントリックだ。自分の固定化された欲望や情動を、欲望や情動を固定できない狂人たちに、欲望や情動を解体しようとしている演劇人(この記事のコメント欄参照)に、押しつけようとする。集団で、絶え間なく、あの手この手で、わたしたちを更正させようとする。「愛」や「思い遣り」などという名のもとに。この押しつけや更正を、わたしは劣化と言っているだけの話である。
愛やセックスに理屈をこねてしまう人間たちに、「セックスしろセックス」と説教する性器結合主義者たち。説教だけならまだいい。彼らは、「ボクチンとセックスしよーよぉ」なのだ。「小うるさい女なんて犯っちゃえばいいんだよ」なのだ。
AV監督そのままなのだ。
女であってもファロセントリストだ。クリトリスが肥大しているのだ。
よって、わたしはこいつらの馴れ馴れしさを、「精液」と呼ぶことにした。
そういう話。
頭イテエ。
頭痛緩和のためのうめきと思って。今日の文章は。この記事の補足みたいなもんかね。
とか言いながら中沢ぐらいまでだめんず極めれば逆に好感持っちゃうんだけどね。馴れ馴れしい奴らでも。傷だらけのちんちん。逆に演劇人という集団にもそういうファロセントリストはごろごろいる。ほんに現実とは難儀じゃのう。
欲望しているなら欲望しちゃえばいいのに。犯りたいなら犯りたいって言えばいいのだよ、って話。無意識的かつ固定観念的に性器結合主義者なんだから。大人がもじもじしてるのってすげえキモイ。
「精神的童貞」って言い方もいい感じだわ。この馴れ馴れしい精液撒き散らし人間たちを表現するには。あと「少女マンガを生きるオヤジたち」とか。生物学的女性であっても。とか言うとわたしも少女マンガを読んでいないわけではないしいろいろめんどくさい語弊がありそうなので、やっぱり「鏡の国の定型人」って言葉が自分で言って言い得て妙だと思ったという自画自賛。
ラカンやデリダとかってのはあれ、モンクだから。現代用語では「魔法使い」でいいのか。イヤチゲエ。
なんだろう、正常人即ち神経症者即ち定型発達者は、正常即ち神経症即ち定型発達の分をわきまえろ、って話かねえ。よくわかりません。
演劇人とか狂人とか言ってるけど、そんなんどうでもよくて、少なくとも、わたしに無神経に近づくな。
ああ頭イタイヨー。
要するに、直観で「あ、こいつら演劇(少なくともわたしが求めていた演劇)を絶対理解できない奴らだな」と思ったわけだ。
だからわたしの中では、どうでもいい人たちに分類されていたのだけれど、何故わたしの演劇論に強く影響を及ぼしたアルトーをダシにして語っているのかが不思議でならなかった。癇に障った。障っていたけれどまあわたしにはどうでもいい論だから、我慢してほっといた。
そういう流れでは、デリダの方がマシだった。デリダとわたしには距離があった。
フーコーはあれ、わたしとは違うところの同じところを論じている感じ。今ならフーコーの述べる「狂人」はドゥルーズ=ガタリ的な「パラノイア」たちだ、とか言えるけどね。まあでもパラノイアもスキゾフレニーも道程が違うだけで行き着く領域は同じっぽいからいいや、と今でも思う。
また、心理学なんか鳥肌が立つくらい嫌いだった。演劇人は大体同じことを言うだろう。心というものに現実的に対峙しているのはわたしたちの方であり、心理学者たちはむしろそれを劣化させている、という直観のようなものが常にあった。周りも持っていた。
大学卒業後、精神病む前から心理カウンセラーなる人種と接していたが、「ああやっぱりこいつらだめだ」と確認できた。演劇が、人間の本性を探るプロセスを有しているとするならば、そういった視点から見て、彼らは劣化した人間たちであり、彼らが目的とする治療とは、演劇のプロセスとは逆の、劣化のことだと理解できた。
ラカンやフロイトもそういうわけでスルーしていた。ああでもフロイトはネームバリューあり過ぎたからね。多少は知っていた。雑学として。精神病んでから、なんていうか機械的に、ラカン論などといった精神分析を学び始めた。ただそういう流れでしかない、としか言えない。
ドゥルーズ=ガタリは、心理学者と同じ臭いがする。
演劇人として言うなら、演劇をアイドル化させるマスコミのようなもの、と大学生の頃は言っていたように思う。わたしたちのやっている行為の、都合のいいところだけ取り出して、そこだけを大声で宣伝してくれる人たち。
わたしは劇団では制作もやっていたのだから、どちらかと言うとそういう立場の人間であるはずなのに、少なくともそういう人たちと上手くやっていくのが制作の仕事のはずなのに、どうしても、マスコミというか、心理学者というか、ともかくわたしたちのやっていることを、大衆化やアイドル化やわかりやすい理屈化といったような形で、劣化させていく人たちに対して、どうしようもない嫌悪感を覚え続けていた。
彼らには、狂人や演劇人という、人間の心の本性と常に対峙しているあるいは対峙しようとする人間たちに、ゴマスリしているようなイメージがある。
それでその本性を理解してくれるならまだいいのだ。
ゴマスリしてきて、結果出てくる言葉が、わたしたちのやっていることや生きている世界と、まるで逆方向のものを示唆するものになる。
必ずと言っていいほど。
かと言ってラカンやデリダの論が、わたしたちのやっていることや生きている世界を述べているとは、全く思わない。
彼らは彼らの生きている世界を論じている。
こちらを欲情した目で見ていないだけである。見たとしてもその目はとても冷徹である。
一方、ドゥルーズ=ガタリや河合隼雄や中沢新一や多くの心理学者や神話学者は、AV監督が女優を見るような目つきで、馴れ馴れしくわたしたちを、あるいは少なくともわたしという領域に近い領域を、論じている。
とっても生理的にキモチワルイ。
殺意すら覚える。
この馴れ馴れしいグループに、最近では木村敏も入っている。
彼らは総じてファロセントリックだ。自分の固定化された欲望や情動を、欲望や情動を固定できない狂人たちに、欲望や情動を解体しようとしている演劇人(この記事のコメント欄参照)に、押しつけようとする。集団で、絶え間なく、あの手この手で、わたしたちを更正させようとする。「愛」や「思い遣り」などという名のもとに。この押しつけや更正を、わたしは劣化と言っているだけの話である。
愛やセックスに理屈をこねてしまう人間たちに、「セックスしろセックス」と説教する性器結合主義者たち。説教だけならまだいい。彼らは、「ボクチンとセックスしよーよぉ」なのだ。「小うるさい女なんて犯っちゃえばいいんだよ」なのだ。
AV監督そのままなのだ。
女であってもファロセントリストだ。クリトリスが肥大しているのだ。
よって、わたしはこいつらの馴れ馴れしさを、「精液」と呼ぶことにした。
そういう話。
頭イテエ。
頭痛緩和のためのうめきと思って。今日の文章は。この記事の補足みたいなもんかね。
とか言いながら中沢ぐらいまでだめんず極めれば逆に好感持っちゃうんだけどね。馴れ馴れしい奴らでも。傷だらけのちんちん。逆に演劇人という集団にもそういうファロセントリストはごろごろいる。ほんに現実とは難儀じゃのう。
欲望しているなら欲望しちゃえばいいのに。犯りたいなら犯りたいって言えばいいのだよ、って話。無意識的かつ固定観念的に性器結合主義者なんだから。大人がもじもじしてるのってすげえキモイ。
「精神的童貞」って言い方もいい感じだわ。この馴れ馴れしい精液撒き散らし人間たちを表現するには。あと「少女マンガを生きるオヤジたち」とか。生物学的女性であっても。とか言うとわたしも少女マンガを読んでいないわけではないしいろいろめんどくさい語弊がありそうなので、やっぱり「鏡の国の定型人」って言葉が自分で言って言い得て妙だと思ったという自画自賛。
ラカンやデリダとかってのはあれ、モンクだから。現代用語では「魔法使い」でいいのか。イヤチゲエ。
なんだろう、正常人即ち神経症者即ち定型発達者は、正常即ち神経症即ち定型発達の分をわきまえろ、って話かねえ。よくわかりません。
演劇人とか狂人とか言ってるけど、そんなんどうでもよくて、少なくとも、わたしに無神経に近づくな。
ああ頭イタイヨー。