お菓子の棺桶
2008/07/25/Fri
この記事で、わたしは小中学生の頃、癲癇や発達障害を疑われていたことを述べた。
すっかり忘れていたが、当時わたしはその病院でもらった粉薬を飲んでいたことを思い出した。
子供にとっては結構な量で、朝昼晩と飲まされていたのだが、何せ粉薬なので、子供の頃のわたしはそれを飲むのがしんどかった。昼は学校のトイレにこっそり流していたことを今思い出した。ある時我が家にオブラートが導入されたのだが、それにくるんでも、飲み込むのが大変な大きさになった。だから喉で溶けないようにと二重にしたりした。そんなことまで思い出してしまった。いやー記憶って連鎖するものねえ。そうそう風邪の時にもらう薬とか「なんて少ないんだろう」とか不思議に思ったもん。いや粉薬の方は一ヶ月分とかもらうわけだから多くて当然なのだが。
しばらくしてから、粉薬の中に錠剤が交じるようになった。後で聞いたら、当時ひどい便秘に悩まされ腸炎を起こしかけたことがあるらしく、整腸剤を処方してもらっていたそうだ。多分錠剤はこの整腸剤だろう。
大人になってからも、抗鬱剤を飲むようになり、便秘になってしまい、併せて整腸剤を処方してもらったのだが、似たようなことなのかな、と思うようになった。
その頃の雑記ノートに、自分でも印象に残る言葉が書いてあった。
「僕たちは、寝不足なくらいがちょうどいい」
まあ隠すことでもないので一応自虐しておくが、この頃の文章は一人称が「僕」になっているのが多い。ボクッコwww
寝不足な時、つまり眠気が強い時の方が、生きやすい、ということを、今の文章で言うなら、「大人になることとは鈍感になること」や「精液塗れになって生きているのが大人」ということを、わたしはこの頃から感じていたのではないか。便秘もそうだ。腸が鈍感になっているのである。
となると、この比喩を連鎖させるならば、眠気の中を、継続的にそして無自覚的に生きているのが定型発達者である、ということになる。
……最近わたしは、猛烈に眠い。春眠どころの話ではない。
おとといなんか午前三時ぐらいに寝て、昼間数時間だけ起きた記憶はあるのだがまたすぐ寝て、起きたら朝六時だった。計二十七時間、間の二、三時間は起きていたものの、それを引いても二十四時間は寝ている。寝すぎだ。
そうだ。笙野論や自閉症者論を展開していた時も、時々ふっとひどい眠気に悩まされた。「もうどうでもいいよ」となるのだ。この「どうでもいいよ」は「死んでもいい」に等しい「どうでもいい」だ。
だから、寝たくないのだ。
だから、どうでもよくないのだ。
とはいえ体には勝てません。身体なき器官が、医学的身体が、器官なき身体に、充実身体に打ち勝つ時だってあります。
そういう時にやっと、安らかな眠りが訪れるわけです。
主の精液に窒息死させられるような、安らかな眠りが。
チョコレートやキャラメルやチューインガムが詰まった、べとべとしていて真っ暗なポケットの中に、安らかな闇がなだれ込むのです。
わたしは、インコの背中の匂いを思い出しながら、眠りにつくのです。
お菓子でできた棺桶の中で、光に溢れる昼が過ぎるのを、寝て待つのです。
わたしの指や唇が、生きながら、死をもたしてくれる何かを、本当の光を、本当の甘露を、待っているのです。
便秘に苦しみながら。
だから、寝たくないのです。
だから、死にながら生きていくことを「去勢」と表現する精神分析論を、理解できるのです。
去勢されていない自分を認めるために、アガペーを否認するのです。
ささやかながらも、大人であるために。
すっかり忘れていたが、当時わたしはその病院でもらった粉薬を飲んでいたことを思い出した。
子供にとっては結構な量で、朝昼晩と飲まされていたのだが、何せ粉薬なので、子供の頃のわたしはそれを飲むのがしんどかった。昼は学校のトイレにこっそり流していたことを今思い出した。ある時我が家にオブラートが導入されたのだが、それにくるんでも、飲み込むのが大変な大きさになった。だから喉で溶けないようにと二重にしたりした。そんなことまで思い出してしまった。いやー記憶って連鎖するものねえ。そうそう風邪の時にもらう薬とか「なんて少ないんだろう」とか不思議に思ったもん。いや粉薬の方は一ヶ月分とかもらうわけだから多くて当然なのだが。
しばらくしてから、粉薬の中に錠剤が交じるようになった。後で聞いたら、当時ひどい便秘に悩まされ腸炎を起こしかけたことがあるらしく、整腸剤を処方してもらっていたそうだ。多分錠剤はこの整腸剤だろう。
大人になってからも、抗鬱剤を飲むようになり、便秘になってしまい、併せて整腸剤を処方してもらったのだが、似たようなことなのかな、と思うようになった。
その頃の雑記ノートに、自分でも印象に残る言葉が書いてあった。
「僕たちは、寝不足なくらいがちょうどいい」
まあ隠すことでもないので一応自虐しておくが、この頃の文章は一人称が「僕」になっているのが多い。ボクッコwww
寝不足な時、つまり眠気が強い時の方が、生きやすい、ということを、今の文章で言うなら、「大人になることとは鈍感になること」や「精液塗れになって生きているのが大人」ということを、わたしはこの頃から感じていたのではないか。便秘もそうだ。腸が鈍感になっているのである。
となると、この比喩を連鎖させるならば、眠気の中を、継続的にそして無自覚的に生きているのが定型発達者である、ということになる。
……最近わたしは、猛烈に眠い。春眠どころの話ではない。
おとといなんか午前三時ぐらいに寝て、昼間数時間だけ起きた記憶はあるのだがまたすぐ寝て、起きたら朝六時だった。計二十七時間、間の二、三時間は起きていたものの、それを引いても二十四時間は寝ている。寝すぎだ。
そうだ。笙野論や自閉症者論を展開していた時も、時々ふっとひどい眠気に悩まされた。「もうどうでもいいよ」となるのだ。この「どうでもいいよ」は「死んでもいい」に等しい「どうでもいい」だ。
だから、寝たくないのだ。
だから、どうでもよくないのだ。
とはいえ体には勝てません。身体なき器官が、医学的身体が、器官なき身体に、充実身体に打ち勝つ時だってあります。
そういう時にやっと、安らかな眠りが訪れるわけです。
主の精液に窒息死させられるような、安らかな眠りが。
チョコレートやキャラメルやチューインガムが詰まった、べとべとしていて真っ暗なポケットの中に、安らかな闇がなだれ込むのです。
わたしは、インコの背中の匂いを思い出しながら、眠りにつくのです。
お菓子でできた棺桶の中で、光に溢れる昼が過ぎるのを、寝て待つのです。
わたしの指や唇が、生きながら、死をもたしてくれる何かを、本当の光を、本当の甘露を、待っているのです。
便秘に苦しみながら。
だから、寝たくないのです。
だから、死にながら生きていくことを「去勢」と表現する精神分析論を、理解できるのです。
去勢されていない自分を認めるために、アガペーを否認するのです。
ささやかながらも、大人であるために。