ロックン・オムツ
2008/07/29/Tue
わたしがこのブログで言いたいこと。
子供の頃から言いたかったこと。
今まで生き続けながら感じ続けてきた違和感。
それは確かに「社会に対する違和感」と似ている。これを拙い言葉で表現すると、大体そう解釈された。され続けてきた。でも、巷に散在する「社会に対する違和感」について述べた文章は、全くわたしが感じている違和感と違うものだ。ずっと、常に。少なくともそれが世の真理だとわたしに勘違いさせるほどには、ずっと、常に。
昇華や浄化されることとは、本当に、「いい」ことなのか。
カタストロフィとは、昇華と逆方向の運動も含まれる。
昇華とは、「生」の瞬間である。その逆とは、「死」の瞬間である。
沼から完全対称性をもつ球体が浮かび上がるのか、沈んでいくのか、の違いである。
しかしそれらは、同じものである。
時制という幻想の中生きているわたしたちからみると、その順序に違いがあるように思えるだけである。
とはいえ、幻想の中で生きているのだから、その順序による違いはあってもよいと思う。
ただ、それによって差異化された、カタストロフィの一側面だけが、何故これほど多数派に支持されるのか。
差異化とは一つの隠蔽劣化である。わたしは隠蔽劣化全てを否定しない。何故なら隠蔽劣化の機制は、隠蔽劣化を生産する機械は、現実として存在するからだ。
だからといって、差異化という隠蔽劣化が行われたものに、さらに隠蔽劣化を施すのには、反発心を抱く。調子に乗り過ぎである。殺意すら覚える。
主の精液ならまだ許容できる。それは(ラカン的な意味の)現実として存在するものだからである。それに乗じて、地を這うわたしに精液をぶっかけてくる天使たちに、わたしは殺意を抱く。困ったことに、地を這うわたしには、自分に降り注ぐ精液が、主のものなのかだらしない天使たちのものなのか、区別できない。何せ精液なのだから。混じり合ってしまう。科学的にその精子のDNAを判別したいと切に思う。したとしても、それ以降の生活で、降り注ぐ精液を取捨選択できるわけではないのだが。
この世には、自分が神にでもなったかのような、天使たちが多過ぎる。
彼らは無自覚に、わたしに排泄物をぶっかけてくる。その排泄行為を彼らは「愛」や「昇華」や「更正」や「教育(療育)」などと表現する。
オムツぐらいつけやがれ。
よって、わたしの論は、理屈的には「社会に対する違和感」を意味する文章となるが、巷に散在する「社会に対する違和感」を述べた論とは、全く違う表現になってしまう。
何故なら、巷に散在するそれは、天使たちが感じる違和感だからである。地を這う者が感じる違和感ではないからである。
わたしの違和感は、「世界に対する違和感」を根底とした「社会に対する違和感」である。
天使たちの違和感は、隙あらば神の座を乗っ取ろうという気持ちを根底としている。オタクたちが大好きな言葉「メタ視点」などといった言葉に、その気持ちは露骨に表れている。
その証拠が、その排泄物を、無自覚にわたしにぶっかけている行為に表れている。
彼らは地を生きていない。だから、排泄物を地に垂れ流すことができるのだ。そこに人が存在することを信じられない天使だから、平気でその排泄物を、その精液を、地に降り注がせることができる。
天使だろうが神だろうが、そこには「主人のディスクール」しか存在しない。要するに、その世界には主人と奴隷しかいない。天使たちは奴隷だから、主人の座にいる神になりたがるのだ。あるいは、神という主人の命令に、無意識的に従順でいられるのだ。無自覚的に「主の精液にまみれさせていただ」けられるのだ(ここのコメント欄参照)。そうやって、アンニュイ的な安息に満ちた幻想を生きられるのだ。
神経症者の生きる世界とは、象徴界が「主人のディスクール」に(ほぼ)固定されたものである。この事実は『アンチ・オイディプス』が批判している通りである。しかしながら『アンチ・オイディプス』は、その「語る主体」さえもそこに固定化されている。神経症者が生きる世界の本質的な皮肉が表現された一冊と呼べよう。『アンチ・オイディプス』の論旨は、「語る主体」自身を、その存在を、自身が語れば事済むものである。特に実存主義的な人生を生きるガタリにとっては。では彼は何故アルトーや分裂症者という存在をダシにしなければならなかったのか? これこそが、彼が主人になりたがっている気持ちを露骨に示している箇所である。「私はアルトーや分裂症者が生きている世界を生きていない」という神に対する信仰告白なのだ。それはオタク文化における「メタ視点」という言葉に、その使われ方に象徴されている気持ちと等しいものだ。彼というオイディプスは、分裂症者という非オイディプス者を、利用したのである。その存在を排除しながら。彼という神経症者は、「主人のディスクール」で占拠された神経症者の世界を生きるために、彼自身の信仰告白のために、狂人を、本質的非信仰者を、利用したのである。その存在を排除しながら。彼が神に近づくために。より広汎なメタ視点を確保するために。
倫理的に、そんな行為はおかしくないだろうか? 少なくともわたしの倫理によれば、彼は大罪を犯している。神経症者という幻想を生きる者が、幻想ではなく存在を生きて「しまう」非神経症者から、その存在さえも奪おうとしている。社会という幻想ではなく、世界という現実を生きる人間から、その生きる領域を搾取している。非神経症者たちが訴える「世界に対する違和感」をその著作から徹底的に排除している。極刑に値する。倫理に則って、彼の言葉には、特にガタリの言葉には、わたしは殺意を覚える。
彼はこんな言葉を述べている。笑いながら。
「二人ともビョーキだからね」
この言葉に、わたしは鳥肌が立つ。「笑いながら」というのもよくわかる。わたしが『アンチ・オイディプス』から読み解いた「語る主体」と合致する。オイディプスあるいは神経症者の、非神経症者が生きる領域に対する、無神経さ、鈍感さが露わに示されている。これが、彼のこの笑みこそが、彼らの著作から滲み出ている「馴れ馴れしさ」の本性である。
このエピソードは、彼が「非神経症者になりたがる神経症者」であることを、もっとも顕著に示している。その上で、彼は「臨床実体としての分裂症者と、アンチ・オイディプス論は関係がない」と著作内でエクスキューズしている。このエクスキューズは、彼の本音である。この本音はむしろ、彼が臨床実体としてのキチガイたちと常に対峙している精神科医だからこそ、言えたものと考えられる。
彼は、神経症者の中でももっとも下劣な人間である。
彼には、神経症者が生きる世界に必死にしがみつこうとする人間(神経症者か非神経症者かは問わない)の、実在するあるいは実在したその凄惨な試行錯誤を、一生理解できないだろう。神経症者が忘れてしまったこと。そして多くはその後一生思い出せないこと。一生気づけないこと。その自らの固定観念の、オイディプスの三角形から脱け出せない一つの原因が、主の精液であること。それが、生理的にとてもケガラワシイものであること。少なくとも、そうであったこと。
ガタリの分裂症者を見る視線は、まるでAV監督が女優を見るようなそれである。彼はただ、キチガイに欲情しているだけなのである。
神経症者たるプロレタリアートたちの述べる言葉からは、文芸的あるいは精神分析的な読解によれば、ブルジョワジーになりたがっている無意識が、本音が、だだ漏れしている。こちらから見れば、同じ神経症者たち即ち天使たちである。本質的権力者と本質的権力者が、本質的被権力者(サバルタンと言い換えてもよい)をそっちのけで、権力者の座を争っているだけである。狂人そっちのけで、正常人がより正常である立場を争っているのである。だから、非神経症者をそっちのけにするのは合理的なのである。
彼らの権力者であろうとする欲望には、際限がない。ここにも、ラカン論の「欲望には際限がない」というテーマがよく見て取れる。
わたしは地を這ってしまうからこそ、天使たちの表情や言葉などという隠蔽劣化したものではなく、その無意識的な本音を、欲動的な方向性を、肛門の収縮を、見て取ることができる。
オムツぐらいつけなさいよ。
どうも、神経症者が非神経症者について語る時、「彼らはどうせオレたちの言っていることなんて理解できないさ」みたいな態度が見て取れることが多い。
彼らには、非神経症者という存在は「無垢なるもの」、即ち「バカ」であるという固定観念が、根強くこびりついている。彼らが分裂症者や自閉症者などという非神経症者を語る時、非神経症者は無垢即ちバカで「なくてはならない」のだ。このことは、身体障害者を述べる世の本にも顕著な傾向である。
非神経症者は、神経症者を神経症者たらしめる主の精液について、生理的にキモチワルイもので「も」あることを知っているから、その存在が無垢に見えるだけである。生理的嫌悪が我慢できないから、語れる自閉症者であるアスペルガー症候群者はそれを言葉にするし、語れないカナータイプの自閉症者はアクティングアウトする。これが彼らが醸し出す「生々しさ」である。『アンチ・オイディプス』的に言えば「強度の丘」である。分裂症者や自閉症者は、「主の精液」の実体が顕現する(ラカン的な意味で)リアルな世界を生きているだけなのである。
ガタリが固執している「社会に対する違和感」などではなく、「世界に対する違和感」に苦しみながら。
馴れ馴れしくも、この記事の言葉を改変して言っておこう。
「知的障害あるならともかく非神経症者なめんなよ」
子供の頃から言いたかったこと。
今まで生き続けながら感じ続けてきた違和感。
それは確かに「社会に対する違和感」と似ている。これを拙い言葉で表現すると、大体そう解釈された。され続けてきた。でも、巷に散在する「社会に対する違和感」について述べた文章は、全くわたしが感じている違和感と違うものだ。ずっと、常に。少なくともそれが世の真理だとわたしに勘違いさせるほどには、ずっと、常に。
昇華や浄化されることとは、本当に、「いい」ことなのか。
カタストロフィとは、昇華と逆方向の運動も含まれる。
昇華とは、「生」の瞬間である。その逆とは、「死」の瞬間である。
沼から完全対称性をもつ球体が浮かび上がるのか、沈んでいくのか、の違いである。
しかしそれらは、同じものである。
時制という幻想の中生きているわたしたちからみると、その順序に違いがあるように思えるだけである。
とはいえ、幻想の中で生きているのだから、その順序による違いはあってもよいと思う。
ただ、それによって差異化された、カタストロフィの一側面だけが、何故これほど多数派に支持されるのか。
差異化とは一つの隠蔽劣化である。わたしは隠蔽劣化全てを否定しない。何故なら隠蔽劣化の機制は、隠蔽劣化を生産する機械は、現実として存在するからだ。
だからといって、差異化という隠蔽劣化が行われたものに、さらに隠蔽劣化を施すのには、反発心を抱く。調子に乗り過ぎである。殺意すら覚える。
主の精液ならまだ許容できる。それは(ラカン的な意味の)現実として存在するものだからである。それに乗じて、地を這うわたしに精液をぶっかけてくる天使たちに、わたしは殺意を抱く。困ったことに、地を這うわたしには、自分に降り注ぐ精液が、主のものなのかだらしない天使たちのものなのか、区別できない。何せ精液なのだから。混じり合ってしまう。科学的にその精子のDNAを判別したいと切に思う。したとしても、それ以降の生活で、降り注ぐ精液を取捨選択できるわけではないのだが。
この世には、自分が神にでもなったかのような、天使たちが多過ぎる。
彼らは無自覚に、わたしに排泄物をぶっかけてくる。その排泄行為を彼らは「愛」や「昇華」や「更正」や「教育(療育)」などと表現する。
オムツぐらいつけやがれ。
よって、わたしの論は、理屈的には「社会に対する違和感」を意味する文章となるが、巷に散在する「社会に対する違和感」を述べた論とは、全く違う表現になってしまう。
何故なら、巷に散在するそれは、天使たちが感じる違和感だからである。地を這う者が感じる違和感ではないからである。
わたしの違和感は、「世界に対する違和感」を根底とした「社会に対する違和感」である。
天使たちの違和感は、隙あらば神の座を乗っ取ろうという気持ちを根底としている。オタクたちが大好きな言葉「メタ視点」などといった言葉に、その気持ちは露骨に表れている。
その証拠が、その排泄物を、無自覚にわたしにぶっかけている行為に表れている。
彼らは地を生きていない。だから、排泄物を地に垂れ流すことができるのだ。そこに人が存在することを信じられない天使だから、平気でその排泄物を、その精液を、地に降り注がせることができる。
天使だろうが神だろうが、そこには「主人のディスクール」しか存在しない。要するに、その世界には主人と奴隷しかいない。天使たちは奴隷だから、主人の座にいる神になりたがるのだ。あるいは、神という主人の命令に、無意識的に従順でいられるのだ。無自覚的に「主の精液にまみれさせていただ」けられるのだ(ここのコメント欄参照)。そうやって、アンニュイ的な安息に満ちた幻想を生きられるのだ。
神経症者の生きる世界とは、象徴界が「主人のディスクール」に(ほぼ)固定されたものである。この事実は『アンチ・オイディプス』が批判している通りである。しかしながら『アンチ・オイディプス』は、その「語る主体」さえもそこに固定化されている。神経症者が生きる世界の本質的な皮肉が表現された一冊と呼べよう。『アンチ・オイディプス』の論旨は、「語る主体」自身を、その存在を、自身が語れば事済むものである。特に実存主義的な人生を生きるガタリにとっては。では彼は何故アルトーや分裂症者という存在をダシにしなければならなかったのか? これこそが、彼が主人になりたがっている気持ちを露骨に示している箇所である。「私はアルトーや分裂症者が生きている世界を生きていない」という神に対する信仰告白なのだ。それはオタク文化における「メタ視点」という言葉に、その使われ方に象徴されている気持ちと等しいものだ。彼というオイディプスは、分裂症者という非オイディプス者を、利用したのである。その存在を排除しながら。彼という神経症者は、「主人のディスクール」で占拠された神経症者の世界を生きるために、彼自身の信仰告白のために、狂人を、本質的非信仰者を、利用したのである。その存在を排除しながら。彼が神に近づくために。より広汎なメタ視点を確保するために。
倫理的に、そんな行為はおかしくないだろうか? 少なくともわたしの倫理によれば、彼は大罪を犯している。神経症者という幻想を生きる者が、幻想ではなく存在を生きて「しまう」非神経症者から、その存在さえも奪おうとしている。社会という幻想ではなく、世界という現実を生きる人間から、その生きる領域を搾取している。非神経症者たちが訴える「世界に対する違和感」をその著作から徹底的に排除している。極刑に値する。倫理に則って、彼の言葉には、特にガタリの言葉には、わたしは殺意を覚える。
彼はこんな言葉を述べている。笑いながら。
「二人ともビョーキだからね」
この言葉に、わたしは鳥肌が立つ。「笑いながら」というのもよくわかる。わたしが『アンチ・オイディプス』から読み解いた「語る主体」と合致する。オイディプスあるいは神経症者の、非神経症者が生きる領域に対する、無神経さ、鈍感さが露わに示されている。これが、彼のこの笑みこそが、彼らの著作から滲み出ている「馴れ馴れしさ」の本性である。
このエピソードは、彼が「非神経症者になりたがる神経症者」であることを、もっとも顕著に示している。その上で、彼は「臨床実体としての分裂症者と、アンチ・オイディプス論は関係がない」と著作内でエクスキューズしている。このエクスキューズは、彼の本音である。この本音はむしろ、彼が臨床実体としてのキチガイたちと常に対峙している精神科医だからこそ、言えたものと考えられる。
彼は、神経症者の中でももっとも下劣な人間である。
彼には、神経症者が生きる世界に必死にしがみつこうとする人間(神経症者か非神経症者かは問わない)の、実在するあるいは実在したその凄惨な試行錯誤を、一生理解できないだろう。神経症者が忘れてしまったこと。そして多くはその後一生思い出せないこと。一生気づけないこと。その自らの固定観念の、オイディプスの三角形から脱け出せない一つの原因が、主の精液であること。それが、生理的にとてもケガラワシイものであること。少なくとも、そうであったこと。
ガタリの分裂症者を見る視線は、まるでAV監督が女優を見るようなそれである。彼はただ、キチガイに欲情しているだけなのである。
神経症者たるプロレタリアートたちの述べる言葉からは、文芸的あるいは精神分析的な読解によれば、ブルジョワジーになりたがっている無意識が、本音が、だだ漏れしている。こちらから見れば、同じ神経症者たち即ち天使たちである。本質的権力者と本質的権力者が、本質的被権力者(サバルタンと言い換えてもよい)をそっちのけで、権力者の座を争っているだけである。狂人そっちのけで、正常人がより正常である立場を争っているのである。だから、非神経症者をそっちのけにするのは合理的なのである。
彼らの権力者であろうとする欲望には、際限がない。ここにも、ラカン論の「欲望には際限がない」というテーマがよく見て取れる。
わたしは地を這ってしまうからこそ、天使たちの表情や言葉などという隠蔽劣化したものではなく、その無意識的な本音を、欲動的な方向性を、肛門の収縮を、見て取ることができる。
オムツぐらいつけなさいよ。
どうも、神経症者が非神経症者について語る時、「彼らはどうせオレたちの言っていることなんて理解できないさ」みたいな態度が見て取れることが多い。
彼らには、非神経症者という存在は「無垢なるもの」、即ち「バカ」であるという固定観念が、根強くこびりついている。彼らが分裂症者や自閉症者などという非神経症者を語る時、非神経症者は無垢即ちバカで「なくてはならない」のだ。このことは、身体障害者を述べる世の本にも顕著な傾向である。
非神経症者は、神経症者を神経症者たらしめる主の精液について、生理的にキモチワルイもので「も」あることを知っているから、その存在が無垢に見えるだけである。生理的嫌悪が我慢できないから、語れる自閉症者であるアスペルガー症候群者はそれを言葉にするし、語れないカナータイプの自閉症者はアクティングアウトする。これが彼らが醸し出す「生々しさ」である。『アンチ・オイディプス』的に言えば「強度の丘」である。分裂症者や自閉症者は、「主の精液」の実体が顕現する(ラカン的な意味で)リアルな世界を生きているだけなのである。
ガタリが固執している「社会に対する違和感」などではなく、「世界に対する違和感」に苦しみながら。
馴れ馴れしくも、この記事の言葉を改変して言っておこう。
「知的障害あるならともかく非神経症者なめんなよ」