正常になりたければパラノイアになるといいらしいよ。
2008/07/31/Thu
ここのコメントに返信書いてたら長くなったので記事としてうpする。
こんな自分がイヤだわ。充実身体なんて、ほんとにいいものじゃない。ノマドロジーとかぶってる鈍感オイディプスドゥルージアンたちはそれがわかっているのかしら? 充実身体は、癒される身体としての医学的身体と全く逆のものであることを。「器官なき身体」の元ネタとなったアルトーの詩には、「過熱」や「炸裂」という言葉が用いられている事実を。現実界的なものとしての無意識は、全く牧歌的ではない現実を。
まあ、巷の八割のドゥルージアンの言葉は信用しなくていいよ。キチガイを語っている言葉として。彼らは自分がより権力者であるためにキチガイをダシにしているだけである。その臨床実体を、キチガイの存在を排除している、ガタリ自身のエクスキューズがある事実をわざと見ないようにしている。
人間として下劣だわ。本質的な人間という立場から見れば。まあこれは後述。
ほんとドゥルージアンって、学者バカとかって意味じゃなくて、鈍感人間としての、ファロセントリストの極としての、熱血ヒーローみたいな感じとしてのバカばっかだと思う。いや傾向的によ。中にはわかっているドゥルージアンもいるだろうし、ピンのドゥルーズは身体なき器官に近い領域にいるしね。まだ。となるとドゥルージアンはオイディプスに固着するのが正しい、となるから、ガタリアンと言った方が正確か。
さて、本題本題。
>ある種の危険を感じました。
その感覚は正しいと思います。
その危機感がないのが、精液にまみれている人たちなのです。だから、彼らの倫理には、現実感が希薄です。劣化しているのです。
わたしはこの記事でこう書いています。
=====
怪物が、化物が、倫理を生むのだ。
人間は、倫理を劣化コピーする存在に過ぎない。
=====
いや、定型発達者もこの危機感ぐらいは感じられるのでしょう。しかし彼らはその危機感について、自分にとって都合のよい解釈をしてしまいます。それがフロイトの言う快楽原則です。もちろん定型発達者だって、この都合のよさの歯止めは、その無意識において持っています。それが現実原則や超自我と呼ばれているものです。
わたしは、非神経症者について、「自我が壊れている」などという表現をするのは好みませんが、あえて言うなら、「自我と超自我が壊れている」と表現します。定型発達者は自我と超自我という安心の二重構造のフィルターを持っているが故に、彼らの倫理は常に既に劣化しているのです。
あ、「壊れている」と書きましたが、乳児の発達論を考えれば、むしろこの自我や超自我という機能が、後付けのパラノイアックな狂気である、とも言えるのです。これが、ラカン論の一つのテーマとしてある「(正常なものを含めた)人格とはパラノイアである」という言葉に繋がります。
発達障害者は、即ちこのパラノイアックな二重の狂気に馴染めなかった狂人だと言えるでしょう。
乳児という狂人が、二重の狂気に飲み込まれて、正常な大人になるのです。生まれたばかりの狂人に二重の狂気をおっかぶせて隠蔽した、狂気に狂気を幾重にも重ねた主体が、正常人なのです。
そう考えれば、乳児という本質的狂人部分を、自らの内に多く残しているのが、発達障害者だという理屈になります。この乳児的な本質的狂人部分が、恐らくドードーとらさんの言う「野生」という言葉と共鳴するでしょう。
わたしから見れば、秋葉原事件の加藤智大の行為は、大人がやる行為だと思えます。それは、二重の狂気という隠蔽劣化機能を持っているからこその、狂気であると。だから、彼はわたしが言う「キチガイ」には当てはまりません。正常人です。宅間守の方が、正常という狂気は比較的希薄でしょう。とらさん風に言うならば、この事件は全く野生的なものではなく文明的な事件である、となるでしょうか。
加藤がやった行為は、本質的権力者として誠に正直な行為だと思います。彼はより権力者になりたくて、他人を殺したのです。わたしは定型発達者を、自分の気持ちに合意してくれる人が多いことを欲望する傾向があるという意味で「気持ちの資本家」と表現したことがありますが、それに倣うなら、より多額の資本を得たくて、彼は行為したのです。
わたしには、他人を殺した加藤も、他人を殺していない他の定型発達者も、同じに見えます。特にこちらの方を欲情した目で見つめ精液をぶっかけてくるようなドゥルーズ=ガタリや木村敏や河合隼雄などは、加藤とその精神構造がどう違うのか、本当にわかりません。中沢新一については、その部類に入るのでしょうが、何故か若干好感を持てています。自分の判断根拠がわかりません。
この記事でわたしを「ご病気」扱いした、正常という狂気に固執するパラノイアックババア(なんか響きがカッコヨイ)は、そのブログを読めばわかりますが、加藤事件に引っかかっているようです。結果出てきた言葉における無意識的な権力者っぷりについて述べるのは長くなるのでここでは置いておきますが、引っかかってしまったことは自覚できているみたいで、嗅覚はよい方であると言えます。まあ、これが先に述べた「定型発達者もこの危機感ぐらいは感じられるのでしょう。」ということの一例になるのかもしれません。
こういったことから、わたしは、ラカンの「人類皆パラノイアか神経症者か倒錯者である」という論旨に則り、「お前らだってキチガイなんだよ」という意味で、定型発達者や正常人のことを、神経症者と表現します。正常でいたがる度合いが過ぎた人間が、パラノイアです。わたし視点で言えば、ですが。
そんなこんなで、わたしは「人類皆キチガイ」という立場を取っています。本当の正常人など非現実的で理想的なただの概念である、と。たとえばその概念を増幅させるイデオロギー装置の代表が、人工的な唯一神を作り出した一神教となるでしょう。逆に言えば、一神教の措定する唯一神など、正常という狂気が極まった理想的なモデルである、ということになりますが。宅間より加藤の方が、一神教の信徒である、ということになります。
だから、わたしは、自分が一神教的な神にでもなったかのような定型発達者の態度に、どうしようもない嫌悪を抱いてしまうのです。
「お前たちは本当に正常人なのか? お前たちは本当に正常でいられているのか? そういう問いを自らに課しているのか? わたしから見れば、お前たちの方が狂っているのに、それは精神分析の理屈で証明されているのに、何故わたしが殴られなければ、精液をぶっかけられなければならないのだ」と。
役者の演技メソッドを学ぶなどして、ぶっかけられようと必死に努力していたにも関わらず、です。
>「もし」自閉症者の人口と定型発達者の人口が逆だったら。
わたしはそのような非現実的な考え方はしていません。理屈として出来上がったものにおいて、キチガイと正常という概念は反転してしまっただけです。そんなつもりはありませんが、脱構築(笑)されています。ドゥルーズ=ガタリが語っているような、その存在を排除した机上の概念としてではなく、自らの存在を賭けた概念として。
>単純に多数派に合わせる必要がある場面があるからです。
でも合わせられないのですよね? その「特徴が私の体や脳を一生ついてまわる」のですよね?
わたしも合わせられません。常に違和感を感じています。この違和感は、わたしに常についてまわってきました。この違和感について、いつも思考を巡らせてきたと言えます。
そういった思考を経ることで、多数派が無意識的に合わせることができる何かしらのルールを、ただの固定観念を、パラノイアックな狂気であると、臨床をもって述べた精神分析理論を、事実を述べた理屈として認識できるようになったのです。
この違和感のお陰で。
わたしは、幼児的な、退行的な、未去勢的な主体の立場から、気遣いなどなしに、事実を理屈で解体した言葉として、こう断言できます。
「定型発達者の方こそが、キチガイなのである」と。
「わたしの方が、本質的な人間なのである」と。
わたしは、このブログで何度か述べているように、精神分析理論を、自分の中にもある程度は存在する定型発達者の自我や超自我という狂気を切り刻むメスとして、用いています。
ラカンは、自らが生きている世界を、定型発達者という自分が生きる世界を、述べているのです。マゾヒスティックにあるいは自省的に解体しているのです。ここがドゥルーズ=ガタリとの大きな違いです。彼らは、神経症者である自分という主体を棚上げにして、無責任にかつ他人事として、非神経症者のその存在を排除して、その概念だけを利用しているのです。即ち、ダシにしているわけです。まさに無自覚的な本質的権力者らしい行為だと言えます。わたしはこの行為について、倫理的におかしいのではないか、と考えます。ラカンの行為と比べれば、倫理的にどちらが正しいように感じるかは、明確にわかります。とはいえ、ドゥルーズ=ガタリのために断っておくならば、彼らはラカン論のそういった側面を評価しています。「オイディプスを分裂症者化させる道筋をつけたのは、ラカンの功績である」と。
その証拠と言ってはなんですが、こういう事実があります。ラカン派を初めとする精神分析は、臨床的に神経症即ち心因性の症状に対しては大きな効果を発揮しますが、分裂症や自閉症や鬱病や癲癇などという非神経症的症状即ち内因性あるいは器質因性の症状に対しては、著しい失調振りを見せるのです。精神分析理論は、非神経症者が生きる世界を語るのに、不向きなのです。その事実を、わたしはこの記事で、「精神分析理論には自閉症者は存在しない」と述べています。
しかしながら、神経症者が生きる世界を解体するには、これ以上ないほど優れたメスであるのは、確かです。
この解体によって、自我や超自我という狂気が消滅するのか、増幅するのか、何も変わらないのかは、わかりません。わたしはそうしたいからそうしているだけです。わたしの中の退行的な主体と定型発達者的な主体がコミュニケーションしているだけに過ぎません。他にもいろんなわたしが野次を飛ばすことはありますが、まあそういった文章群である、という話です。
>「自分なりに」
これについては、わたしがわかりやすくわたしの世界を述べた言葉は、常に正常人の都合のいいように解釈されてきたという、身勝手な心的外傷に対する防衛反応とでも思ってください。
非神経症者が述べる言葉は、常に神経症者に都合よく解釈されます。都合よくかどうかは実際にはわからないのですが、少なくともわたしが言いたいことの全く逆方向を示唆する言葉に、九割以上、ほぼ必ずと言っていいほど、改竄されます。わたしの経験上、これは事実です。
この事実は、ポストコロニアル的な帝国主義と植民地という社会的関係に、その象徴が転化されてはいますが、スピヴァクのサバルタン論でも示されています。参考までにはてなの記事をリンクしておきます。
わたしは、サバルタンの立場を実体験として認知しています。権力者たちの、ここでは定型発達者や神経症者や正常人と言い換えられますが、その厚顔な改竄っぷりを、心的外傷を伴った現実的な刺激として、認知できます。そしてこの心的外傷が、権力者たち即ち非サバルタン側から見ると、身勝手であるとか、退行的だと言われる事実も。自分でも幼児的だと思えます。
それにも納得が行きます。この心的外傷を一度認めてしまえば、彼らは正常人あるいは権力者というキチガイであることが暴露されるからです。定型発達者や神経症者や正常人は、自らの正常という狂気を保持するために、サバルタンを、その存在を、その言葉を、棄却あるいは改竄しなければならないのです。
弱肉強食的な、自然の摂理のようなものとして、このシステムは存在します。幻想としての社会が隠蔽している事実。現実的な社会としての実体。
先ほど、「わたしの中の退行的な主体と定型発達者的な主体がコミュニケーションしているだけに過ぎません。」と書きましたが、こう言い換えられるでしょう。
わたしの中の、原理として言語化され得ないサバルタン的な主体と、サバルタンの言葉を改竄する帝国主義的な主体が、火花を散らすようなコミュニケーションをしている、と。
現実を享楽するために。
また、この火花こそが、倫理に現実感を付与させるものだと、わたしは考えています。
>個人的には、「キチガイ」よりも「変人」と呼ばれる方が好きです。
わたしは、「キチガイ」の方が好きです。
実際に発音してみると、「変人」だと口腔内がだらしないような感じになるのに対し、「キチガイ」だと口腔内が緊張しているような感じになります。
だから、わたしの論には、あるいはわたしの表層を表現するのには、「キチガイ」の方が当てはまるように思えます。
そう言えば「キチガイ」も「緊張」も等しく「キ」と「チ」が含まれていますね。どうでもいいことですがなんか「おお」って思った。
以上、かなー。
あとまた関係のない話なんだけど、まあうちのブログって使ってる言葉が言葉だから、オカズ探しか知らないがエロイキーワードで検索してやってくる人が多いみたいなんだけど、そういったキーワード(であろうもの)の中に「精液ごはん」っていうのがあって、なんかワラタ。タイミング的にも。
日本人の性欲は異常(いや単なる2ちゃん語です意味はありません)。
やるなあ、定型発達者も。と朗らかな気持ちになれました。
あ、そうそう。「精液」に関する話なのですが、こちらのブログ記事においてなされたやりとりが、わたし的に、とても精液っぽさを端的に象徴しているな、と思えたので、ご紹介しておきます。
まあ、この名無しの精液は少なくとも主の精液ではなさそうですね。ちっちゃなちんちんの精液。だからどうでもいいです。ちっちゃなちんちんもクサマヤヨイの作品のごとく無数にあるとまた別ですが。
わたしは、土鍋ごはんさんは、少なくとも、ちっちゃなちんちんを噛み千切る術を知っている、人間だと思っています。とらさんの言葉を借りるなら、それこそ野生的な人間。
だからどうしろなんて言いませんが。ただ、わたしはそう思っている、というだけの話です。
去勢されたがっているちんちんなど、(傾向的に)本質的被権力者に親近する(男性と比較した場合の)女性たちは、野生的に噛み千切ってあげればよい、とわたしは思っているだけの話です。ちんちんがちっちゃければ、そこに生じる火花も、即ち倫理に現実感を付与させる度合いも小さくなる、という話に過ぎません。
だから、わたしは前出のパラノイアックババアに食ってかかったわけですね。
弱肉強食のシステムに則って、ネズミがネコを噛んだだけの話に過ぎません。
その肥大したクリトリスをね。
こんな自分がイヤだわ。充実身体なんて、ほんとにいいものじゃない。ノマドロジーとかぶってる鈍感オイディプスドゥルージアンたちはそれがわかっているのかしら? 充実身体は、癒される身体としての医学的身体と全く逆のものであることを。「器官なき身体」の元ネタとなったアルトーの詩には、「過熱」や「炸裂」という言葉が用いられている事実を。現実界的なものとしての無意識は、全く牧歌的ではない現実を。
まあ、巷の八割のドゥルージアンの言葉は信用しなくていいよ。キチガイを語っている言葉として。彼らは自分がより権力者であるためにキチガイをダシにしているだけである。その臨床実体を、キチガイの存在を排除している、ガタリ自身のエクスキューズがある事実をわざと見ないようにしている。
人間として下劣だわ。本質的な人間という立場から見れば。まあこれは後述。
ほんとドゥルージアンって、学者バカとかって意味じゃなくて、鈍感人間としての、ファロセントリストの極としての、熱血ヒーローみたいな感じとしてのバカばっかだと思う。いや傾向的によ。中にはわかっているドゥルージアンもいるだろうし、ピンのドゥルーズは身体なき器官に近い領域にいるしね。まだ。となるとドゥルージアンはオイディプスに固着するのが正しい、となるから、ガタリアンと言った方が正確か。
さて、本題本題。
>ある種の危険を感じました。
その感覚は正しいと思います。
その危機感がないのが、精液にまみれている人たちなのです。だから、彼らの倫理には、現実感が希薄です。劣化しているのです。
わたしはこの記事でこう書いています。
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怪物が、化物が、倫理を生むのだ。
人間は、倫理を劣化コピーする存在に過ぎない。
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いや、定型発達者もこの危機感ぐらいは感じられるのでしょう。しかし彼らはその危機感について、自分にとって都合のよい解釈をしてしまいます。それがフロイトの言う快楽原則です。もちろん定型発達者だって、この都合のよさの歯止めは、その無意識において持っています。それが現実原則や超自我と呼ばれているものです。
わたしは、非神経症者について、「自我が壊れている」などという表現をするのは好みませんが、あえて言うなら、「自我と超自我が壊れている」と表現します。定型発達者は自我と超自我という安心の二重構造のフィルターを持っているが故に、彼らの倫理は常に既に劣化しているのです。
あ、「壊れている」と書きましたが、乳児の発達論を考えれば、むしろこの自我や超自我という機能が、後付けのパラノイアックな狂気である、とも言えるのです。これが、ラカン論の一つのテーマとしてある「(正常なものを含めた)人格とはパラノイアである」という言葉に繋がります。
発達障害者は、即ちこのパラノイアックな二重の狂気に馴染めなかった狂人だと言えるでしょう。
乳児という狂人が、二重の狂気に飲み込まれて、正常な大人になるのです。生まれたばかりの狂人に二重の狂気をおっかぶせて隠蔽した、狂気に狂気を幾重にも重ねた主体が、正常人なのです。
そう考えれば、乳児という本質的狂人部分を、自らの内に多く残しているのが、発達障害者だという理屈になります。この乳児的な本質的狂人部分が、恐らくドードーとらさんの言う「野生」という言葉と共鳴するでしょう。
わたしから見れば、秋葉原事件の加藤智大の行為は、大人がやる行為だと思えます。それは、二重の狂気という隠蔽劣化機能を持っているからこその、狂気であると。だから、彼はわたしが言う「キチガイ」には当てはまりません。正常人です。宅間守の方が、正常という狂気は比較的希薄でしょう。とらさん風に言うならば、この事件は全く野生的なものではなく文明的な事件である、となるでしょうか。
加藤がやった行為は、本質的権力者として誠に正直な行為だと思います。彼はより権力者になりたくて、他人を殺したのです。わたしは定型発達者を、自分の気持ちに合意してくれる人が多いことを欲望する傾向があるという意味で「気持ちの資本家」と表現したことがありますが、それに倣うなら、より多額の資本を得たくて、彼は行為したのです。
わたしには、他人を殺した加藤も、他人を殺していない他の定型発達者も、同じに見えます。特にこちらの方を欲情した目で見つめ精液をぶっかけてくるようなドゥルーズ=ガタリや木村敏や河合隼雄などは、加藤とその精神構造がどう違うのか、本当にわかりません。中沢新一については、その部類に入るのでしょうが、何故か若干好感を持てています。自分の判断根拠がわかりません。
この記事でわたしを「ご病気」扱いした、正常という狂気に固執するパラノイアックババア(なんか響きがカッコヨイ)は、そのブログを読めばわかりますが、加藤事件に引っかかっているようです。結果出てきた言葉における無意識的な権力者っぷりについて述べるのは長くなるのでここでは置いておきますが、引っかかってしまったことは自覚できているみたいで、嗅覚はよい方であると言えます。まあ、これが先に述べた「定型発達者もこの危機感ぐらいは感じられるのでしょう。」ということの一例になるのかもしれません。
こういったことから、わたしは、ラカンの「人類皆パラノイアか神経症者か倒錯者である」という論旨に則り、「お前らだってキチガイなんだよ」という意味で、定型発達者や正常人のことを、神経症者と表現します。正常でいたがる度合いが過ぎた人間が、パラノイアです。わたし視点で言えば、ですが。
そんなこんなで、わたしは「人類皆キチガイ」という立場を取っています。本当の正常人など非現実的で理想的なただの概念である、と。たとえばその概念を増幅させるイデオロギー装置の代表が、人工的な唯一神を作り出した一神教となるでしょう。逆に言えば、一神教の措定する唯一神など、正常という狂気が極まった理想的なモデルである、ということになりますが。宅間より加藤の方が、一神教の信徒である、ということになります。
だから、わたしは、自分が一神教的な神にでもなったかのような定型発達者の態度に、どうしようもない嫌悪を抱いてしまうのです。
「お前たちは本当に正常人なのか? お前たちは本当に正常でいられているのか? そういう問いを自らに課しているのか? わたしから見れば、お前たちの方が狂っているのに、それは精神分析の理屈で証明されているのに、何故わたしが殴られなければ、精液をぶっかけられなければならないのだ」と。
役者の演技メソッドを学ぶなどして、ぶっかけられようと必死に努力していたにも関わらず、です。
>「もし」自閉症者の人口と定型発達者の人口が逆だったら。
わたしはそのような非現実的な考え方はしていません。理屈として出来上がったものにおいて、キチガイと正常という概念は反転してしまっただけです。そんなつもりはありませんが、脱構築(笑)されています。ドゥルーズ=ガタリが語っているような、その存在を排除した机上の概念としてではなく、自らの存在を賭けた概念として。
>単純に多数派に合わせる必要がある場面があるからです。
でも合わせられないのですよね? その「特徴が私の体や脳を一生ついてまわる」のですよね?
わたしも合わせられません。常に違和感を感じています。この違和感は、わたしに常についてまわってきました。この違和感について、いつも思考を巡らせてきたと言えます。
そういった思考を経ることで、多数派が無意識的に合わせることができる何かしらのルールを、ただの固定観念を、パラノイアックな狂気であると、臨床をもって述べた精神分析理論を、事実を述べた理屈として認識できるようになったのです。
この違和感のお陰で。
わたしは、幼児的な、退行的な、未去勢的な主体の立場から、気遣いなどなしに、事実を理屈で解体した言葉として、こう断言できます。
「定型発達者の方こそが、キチガイなのである」と。
「わたしの方が、本質的な人間なのである」と。
わたしは、このブログで何度か述べているように、精神分析理論を、自分の中にもある程度は存在する定型発達者の自我や超自我という狂気を切り刻むメスとして、用いています。
ラカンは、自らが生きている世界を、定型発達者という自分が生きる世界を、述べているのです。マゾヒスティックにあるいは自省的に解体しているのです。ここがドゥルーズ=ガタリとの大きな違いです。彼らは、神経症者である自分という主体を棚上げにして、無責任にかつ他人事として、非神経症者のその存在を排除して、その概念だけを利用しているのです。即ち、ダシにしているわけです。まさに無自覚的な本質的権力者らしい行為だと言えます。わたしはこの行為について、倫理的におかしいのではないか、と考えます。ラカンの行為と比べれば、倫理的にどちらが正しいように感じるかは、明確にわかります。とはいえ、ドゥルーズ=ガタリのために断っておくならば、彼らはラカン論のそういった側面を評価しています。「オイディプスを分裂症者化させる道筋をつけたのは、ラカンの功績である」と。
その証拠と言ってはなんですが、こういう事実があります。ラカン派を初めとする精神分析は、臨床的に神経症即ち心因性の症状に対しては大きな効果を発揮しますが、分裂症や自閉症や鬱病や癲癇などという非神経症的症状即ち内因性あるいは器質因性の症状に対しては、著しい失調振りを見せるのです。精神分析理論は、非神経症者が生きる世界を語るのに、不向きなのです。その事実を、わたしはこの記事で、「精神分析理論には自閉症者は存在しない」と述べています。
しかしながら、神経症者が生きる世界を解体するには、これ以上ないほど優れたメスであるのは、確かです。
この解体によって、自我や超自我という狂気が消滅するのか、増幅するのか、何も変わらないのかは、わかりません。わたしはそうしたいからそうしているだけです。わたしの中の退行的な主体と定型発達者的な主体がコミュニケーションしているだけに過ぎません。他にもいろんなわたしが野次を飛ばすことはありますが、まあそういった文章群である、という話です。
>「自分なりに」
これについては、わたしがわかりやすくわたしの世界を述べた言葉は、常に正常人の都合のいいように解釈されてきたという、身勝手な心的外傷に対する防衛反応とでも思ってください。
非神経症者が述べる言葉は、常に神経症者に都合よく解釈されます。都合よくかどうかは実際にはわからないのですが、少なくともわたしが言いたいことの全く逆方向を示唆する言葉に、九割以上、ほぼ必ずと言っていいほど、改竄されます。わたしの経験上、これは事実です。
この事実は、ポストコロニアル的な帝国主義と植民地という社会的関係に、その象徴が転化されてはいますが、スピヴァクのサバルタン論でも示されています。参考までにはてなの記事をリンクしておきます。
わたしは、サバルタンの立場を実体験として認知しています。権力者たちの、ここでは定型発達者や神経症者や正常人と言い換えられますが、その厚顔な改竄っぷりを、心的外傷を伴った現実的な刺激として、認知できます。そしてこの心的外傷が、権力者たち即ち非サバルタン側から見ると、身勝手であるとか、退行的だと言われる事実も。自分でも幼児的だと思えます。
それにも納得が行きます。この心的外傷を一度認めてしまえば、彼らは正常人あるいは権力者というキチガイであることが暴露されるからです。定型発達者や神経症者や正常人は、自らの正常という狂気を保持するために、サバルタンを、その存在を、その言葉を、棄却あるいは改竄しなければならないのです。
弱肉強食的な、自然の摂理のようなものとして、このシステムは存在します。幻想としての社会が隠蔽している事実。現実的な社会としての実体。
先ほど、「わたしの中の退行的な主体と定型発達者的な主体がコミュニケーションしているだけに過ぎません。」と書きましたが、こう言い換えられるでしょう。
わたしの中の、原理として言語化され得ないサバルタン的な主体と、サバルタンの言葉を改竄する帝国主義的な主体が、火花を散らすようなコミュニケーションをしている、と。
現実を享楽するために。
また、この火花こそが、倫理に現実感を付与させるものだと、わたしは考えています。
>個人的には、「キチガイ」よりも「変人」と呼ばれる方が好きです。
わたしは、「キチガイ」の方が好きです。
実際に発音してみると、「変人」だと口腔内がだらしないような感じになるのに対し、「キチガイ」だと口腔内が緊張しているような感じになります。
だから、わたしの論には、あるいはわたしの表層を表現するのには、「キチガイ」の方が当てはまるように思えます。
そう言えば「キチガイ」も「緊張」も等しく「キ」と「チ」が含まれていますね。どうでもいいことですがなんか「おお」って思った。
以上、かなー。
あとまた関係のない話なんだけど、まあうちのブログって使ってる言葉が言葉だから、オカズ探しか知らないがエロイキーワードで検索してやってくる人が多いみたいなんだけど、そういったキーワード(であろうもの)の中に「精液ごはん」っていうのがあって、なんかワラタ。タイミング的にも。
日本人の性欲は異常(いや単なる2ちゃん語です意味はありません)。
やるなあ、定型発達者も。と朗らかな気持ちになれました。
あ、そうそう。「精液」に関する話なのですが、こちらのブログ記事においてなされたやりとりが、わたし的に、とても精液っぽさを端的に象徴しているな、と思えたので、ご紹介しておきます。
まあ、この名無しの精液は少なくとも主の精液ではなさそうですね。ちっちゃなちんちんの精液。だからどうでもいいです。ちっちゃなちんちんもクサマヤヨイの作品のごとく無数にあるとまた別ですが。
わたしは、土鍋ごはんさんは、少なくとも、ちっちゃなちんちんを噛み千切る術を知っている、人間だと思っています。とらさんの言葉を借りるなら、それこそ野生的な人間。
だからどうしろなんて言いませんが。ただ、わたしはそう思っている、というだけの話です。
去勢されたがっているちんちんなど、(傾向的に)本質的被権力者に親近する(男性と比較した場合の)女性たちは、野生的に噛み千切ってあげればよい、とわたしは思っているだけの話です。ちんちんがちっちゃければ、そこに生じる火花も、即ち倫理に現実感を付与させる度合いも小さくなる、という話に過ぎません。
だから、わたしは前出のパラノイアックババアに食ってかかったわけですね。
弱肉強食のシステムに則って、ネズミがネコを噛んだだけの話に過ぎません。
その肥大したクリトリスをね。