セカイ系ってなに?
2006/12/06/Wed
セカイ系ってなんですか? セカチューみたいな病気モノ? とか思ってたのは私だけじゃないはず。
困った時のwikipedia。ふむふむ。wikipediaだけじゃよくわからないのでこしょこしょ調べましたよ。要は、
●主人公カップルと、その周辺の人たちメインで、第三者的キャラやそれを含む社会や世界が希薄。
●主人公カップル(のどっちか)に世界の命運を左右する力を持つ。これにより世界は主人公たちの下位にあることになる。
ということっすかねー。って調べたの大分前の話なんですがね。
セカイ系に属する作品としては「涼宮ハルヒ」「エヴァンゲリオン」「最終兵器彼女」「イリヤの空、UFOの夏」「エウレカセブン」あたりがメインになるのかな。
正直言いまして、私この概要だけ見ると「ああ好物かもしれない」って思っちゃうんですよね。でも宮台氏のセカイ系評とか見るとそんなによく見られていないようです。うーん。まず私が何故(作品じゃなくてその概要に)惹かれるか考えてみますかー。
多分ですね、仏教的な世界=自然との同一化、というポリシーに似ているからだと思います。
他者との同一化ってひいては全ての世界=同一化に繋がるんですね。ラカンの「エスは空虚だ」という言葉から連想して、私はエスと自我とは風船のようなものだと考えています。「他者の欲望」という息を吹き込まれて膨らむ風船。その風船に針を刺してしまったらどうなるでしょう。パーンと割れちゃいます。風船の中にあった「私」だったものは周りの空気=他者の世界と区別がつかなくなっちゃいます。つまり、同一化する他者が一人であっても、自分という風船が割れちゃう時点で世界=自然と同一化してしまうことになるという比喩ですね。あくまで比喩ですが。
セックスのエクスタシー的な(聖女テレジアの「神との合一」的な神秘体験なんかまさに性的メタファーてんこ盛りです)、他者の同一化。恋愛対象の他者と同一化と仏教の境地的な世界=自然との同一化が双子のようにそこある、セカイ系とはそんな物語かなあ、なんて想像してしまいます。
でも最終兵器彼女なんか全然違うじゃん、って思いましたけど。だからうーんなんだろうな、っていう考えをめぐらせたこともありました。夏ぐらいに。飽きちゃってそのままにしていたことを思い出しつつ書いてみようかなあ、と。
まず、主人公(カップルの相手も含め)が世界の命運を左右する程の特別で強力な力を持っている。このことについて。
こういうのって子供向けのヒーローモノとかではよくある設定ですよね。地球を救うためにヒーローはすごい能力を持っていなきゃいけない。でもセカイ系はヒーローモノではないですよねえ。エヴァなんかは枠だけヒーローロボットモノという形式を採っていますが。
では何が違うのか。
やはり「社会や世界が希薄」、ここが問題になってきそうですね。
セカイ系での主人公たちを包む社会・世界は希薄か、悪になっていますね。その社会・世界は現代の時代性を反映してロゴス主義的です。論理的で合理的でヒエラルキーのある社会・世界。現代の資本主義社会のメタファー的と言った方がよいでしょうか。エヴァなんかまさにそうですね。ネルフとゼーレだけ見てもロゴス主義が見て取れます。つまり、彼らを包みこむ社会・世界は父性的と言えます。エヴァはそのまんま父親がそこに所属してますしね。
ヒーローモノはどうでしょう。ヒーローは敵と戦います。彼らを包み込んでいるのは戦いの場です。敵は侵略者だったり宇宙人だったり、彼らにとって「異物」の存在です。彼らはそれを排除するために戦うのです。コミュニティにとっての異物を排除する。これは社会の歴史を考えても基本的な社会の活動の一つです。ヒーローは社会に属している、いや社会を代表して戦っているわけですね。言い換えれば主人公は社会(そのコミュニティ)と同一化している。ここがセカイ系と大きく違うところだと思います。
人格成長として精神分析的に考えると、前にも説明したように子供が大人の社会に参入する際には「去勢」というイニシエーションが必要となります。去勢後も去勢痕としてのファルスが疼きます。それをやりくりしながら、子供は少しずつ大人の社会に慣れていくわけです。
私は以前の記事で、日本の現状は、「資本主義社会」というマクロな父性の中に、「学校教育」や「オタク文化」というミクロな母性的場が二重構造的に存在する、と書きました。「去勢」は幼児期に行われますが(言葉の世界への参入)、母性過多の学校教育の中でファルスが増長してしまっている子供たちは、「少しずつ」ではなく急に「弱肉強食」的な「格差社会」的な父性的「資本主義社会」に放り込まれます。この「母性的な学校教育の場」から「父性的な資本主義社会」のギャップが激しいのですね。ここで若者は「去勢」と似たようなイニシエーションをもう一度受けなくてはならなくなるわけです。
エヴァはまさにこの「第二の去勢」ともいうべきイニシエーションを表現した作品と言えるのではないでしょうか。
「ポストエヴァ」などと呼ばれているように、セカイ系においては「エヴァンゲリオン」は金字塔的作品と言えます。なのでエヴァをこれまでの視点からちょっと追ってみましょう。
シンジの中学二年生という設定や父親ゲンドウが直に息子の眼前に立ちはだかるあたりは、通常の第二次反抗期をモチーフにしているのがわかります。それが年齢としてはもう少し上になる「第二の去勢」を暗喩しているのでしょう。
思春期ぐらいの主人公が、「父殺し」「父超え」をすることで成長するという物語は王道と言えます。ではシンジはゲンドウや自分を取り巻く社会を乗り越えられたのか?
物語的には乗り越えられなくてもよいのです。父に返り討ちにあっても、少年は社会に参入することを許されます。社会を体現する最初の現実的な他者としての父に立ち向かうことが重要なのです。それは同時に自発的に社会に参入することになるのですから。
それとは対照的にシンジは父から逃避します。使徒には立ち向かいますが、父とは直接的に向き合いません。父との対峙は曖昧です。
そして人類補完計画。これ去年だったかな、アニマックスでの再放送を見たとき、私は禅の悟りを連想しました。全他者=自然との同一化。禅ではそれは一瞬ですが、同一化して固定しまうのが人類補完計画ですね。
父との対峙を曖昧にしたままのシンジは人類補完計画に組み込まれます。物語はどうなるでしょうか。
テレビ版の最終回。物議を醸した最終回でしたが、わかりやすい終わり方だと私は思います。メタアニメ的な手法で作中の父性が実生活の資本主義社会という父性の暗喩だったとばらす。そして最後は「おめでとう」。イニシエーションを通過しないで社会に放り込まれる。母性から父性への社会的二重構造を乗り越えるための「第二の去勢」というイニシエーションがない現状をよく表しているのではないでしょうか。
映画版では人類補完計画が明確に描かれます。同一化した後、ラストでシンジはアスカに拒否されます。人類補完計画が禅の悟り的なイニシエーションとして描かれています。
解釈はいろいろあるのでしょうけど、ここでは「父殺し」「父越え」というイニシエーションが曖昧に終わっているという点を指摘しておきます(批判ではないですよ)。
エヴァはこの禅の悟り的な人類補完計画(同一化と確かなもの化という意味では父母両性と言える)が自分たちの外側にある父性社会のさらに外側にあるという構造を持っていました。その他の作品はどうでしょう。
イリヤ。この四つの中では真っ当な「父に立ち向かう」少年像が描かれていると思います。父性=社会には返り討ちにあいますが。
ハルヒ。私はこの作品はナンセンスギャグ作品だと思っています。よってこの作品のセカイ系要素も、その社会から逃避しつづけ、社会の存在意義すらありません。学園モノで徹底しています。
エウレカ。様々なタイプの父性的キャラを出してきます。レイやタルホなどの母性は父性の社会に属しています。少年は父性に立ち向かいます。一旦は逃げ出しますが「家族」に帰ってきて、「半人前」として認められ、父性と共闘します。基本構造が王道すぎたこととラストの風呂敷の畳み方が粗かったことが問題点でしょうか。
最終兵器彼女。社会は希薄ですが、社会が主人公二人の中を割く役割として明確に表現されています。エヴァの文脈の父性的社会への参入という視点で読むより、社会により引き裂かれる男女というロミジュリ的な王道恋愛モノととして捉えた方がよさそうです。
ロミジュリ的な王道恋愛モノとセカイ系について考えてみましょう。
ロミジュリ的な王道恋愛モノの「社会に引き裂かれる男女」という点、つまり「社会」と「男女の恋愛」という共通点があります。セカイ系はそこに特殊能力という設定を設け、それにより主人公カップルの足元に世界(セカイ)がきてしまう、という構造になります。
エヴァ以外の作品ではこの特殊能力をメインで担うのは全て少女の方になっていますね。これにより、マリオブラザーズのような、王女を一介の男が救い出すという物語的王道が複合します。王女も特殊能力を持った少女も、世界=社会が足元にありますね。このロミジュリ的な王道恋愛モノという要素と、王女を救い出す英雄モノという要素の複合(もともとこの二つの要素は親戚のようなものですが)が、ポストエヴァ系では多く見られます。
では肝心のエヴァはどうでしょう。
特殊能力を持っているのはシンジ自身です。彼はそれを(ロボットに乗る自分を)誇らしく思う反面、その重責から逃避したいという葛藤がメインに扱われています。しかし少年の特殊能力(ロボット)は父や父性的社会の管理下に置かれています。ロボットに乗れるという特殊能力で父性的社会を蹂躙することができないのです。むしろロボットに乗ることは父性的社会へ属することと同義になります。シンジはそれに反発し、逃避します。
この構図はエウレカにもありますね。レントンはポジティブなのでロボットに乗る自分を誇らしく思う面が強いですが、父性的社会(戦争)を目の当たりにすることでそれに反発し、逃避します。
エヴァではロボットそのものが母親の胎内だったという表現があります。エウレカでは父性的社会に属する母性(レイ・タルホ)が描かれています。つまりこの二作品とも、先で述べた母性を包む父性という二重構造を作品内で持っているわけですね。
セカイ系においては、こういった超複雑系ともいえる社会=世界を表現している作品と、ロミジュリ的、王女救出的な恋愛を主軸に置いている作品と、二系統に別れている気がします。
少年が社会に参入することを主題にした作品と、社会を要素の一つとして捉えた恋愛主題の作品、という言い方でしょうか。前者はどうしてもエヴァのように主人公少年の葛藤主体になってしまいますね。
ここで宮台氏のセカイ系批判が思い浮かびます。彼は「ゲド戦記」と「ブレイブ・ストーリー」を例に挙げて、それらを「自己回復が世界回復に直結する「セカイ系」」として批判しています。
主人公少年の内面の葛藤と、彼が参入すべき彼をとりまく社会=世界。現実では少年一人が内面の葛藤を浄化しても、社会に変質は起きません。ここを繋げるために特殊能力という設定があるわけですね。
何故セカイ系は世界・社会を変質させる力を希求しているのか。ここが問題となりそうです。
背景には独我論的な思想があるのかもしれません。自己の世界を見る目が変われば世界も変わるといったような。しかしそれに感動する若者の心理の方が重要ではないでしょうか。
その作品の周辺の文化が閉塞性を伴っている時代においては、このセカイ系の構図は有効となるでしょう。その作品自体が作品が所属する表現文化=社会を打破する、というメタ的な二重構造を伴うからです。エヴァンゲリオンはロボットアニメの閉塞性を打破したという点で、まさにこれにあてはまります。
では今の時代はどうか。オタク文化におけるオタクたちは閉塞感を感じているのか。オタク文化の外の世界を希求しているのか。
私にはわかりません。私の論でいえばパラノ的オタとスキゾ的オタという二分論などのように、オタク文化自体が複雑化しているからということもありましょう。現実社会が超複雑系ならば、オタク文化自体がその一般化により現実社会に近づいているという言い方にもなるのでしょうか。オタクたちは無意識的にそれに気付いているのかもしれません。だからこそ父性的な資本主義社会というオタクの外にある現実社会にヒステリックに反発するのではないでしょうか。ヒエラルキーのあるロゴス主義的な資本主義社会。オタク文化がそれに染まることを必死に拒否している、というイメージでしょうか。だからこそ「権威」などに対し散種的思考を拒んだアレルギー的な反応になってしまう。しかし、自分たちのオタク文化自体は母性過多なので、人間の本能的にバランスをとろうとするため、シンボリックな換喩的な父性を求めてしまう。それがネット文化での愛国主義や、過去に着目した「時かけ」のヒットという形で現れているのかもしれません。
父性を拒みつつ深層では父性を憧憬している。己を包みこむ社会における閉塞感ではなく、内面的な葛藤にシフトしている。これがエヴァが予言しつつも、エヴァ的なセカイ系が飽きられつつある原因となっているのかもしれません。
こんな時代が求める作品とは。私のベタなセンスなら、少年が一つの葛藤を乗り越えるだけの成長物語ではなく、大河物語的な、少年から青年へ、そして自らが父性の体現者になる長期スパンの成長物語などが思い浮かんでしまいます。
加えるなら内側の母性と外側の父性、そのギャップ。少年の成長という視点では現代社会を象徴する「第二の去勢」ともいうべきこのギャップをどう表現し、作中の少年がどう乗り越えていくか、そこが重要なポイントになるのではないでしょうか。
エヴァでは父性との対峙を曖昧にしてしまいました。そこから仏教的な自我と自然の同一化というレベルまで急に行ってしまった、という感があります。私はこの途中に、仏教なら「無我」みたいな態度が必要となるのではないかな、と思います。私が今はまっている保坂和志氏の作品などにこの「無我」的なものを表す文芸的表現があるのかな、なんて感じています。
骨太の、腰を据えた物語でしょうかね。私はもっと詩的なものが好みですが……。
困った時のwikipedia。ふむふむ。wikipediaだけじゃよくわからないのでこしょこしょ調べましたよ。要は、
●主人公カップルと、その周辺の人たちメインで、第三者的キャラやそれを含む社会や世界が希薄。
●主人公カップル(のどっちか)に世界の命運を左右する力を持つ。これにより世界は主人公たちの下位にあることになる。
ということっすかねー。って調べたの大分前の話なんですがね。
セカイ系に属する作品としては「涼宮ハルヒ」「エヴァンゲリオン」「最終兵器彼女」「イリヤの空、UFOの夏」「エウレカセブン」あたりがメインになるのかな。
正直言いまして、私この概要だけ見ると「ああ好物かもしれない」って思っちゃうんですよね。でも宮台氏のセカイ系評とか見るとそんなによく見られていないようです。うーん。まず私が何故(作品じゃなくてその概要に)惹かれるか考えてみますかー。
多分ですね、仏教的な世界=自然との同一化、というポリシーに似ているからだと思います。
他者との同一化ってひいては全ての世界=同一化に繋がるんですね。ラカンの「エスは空虚だ」という言葉から連想して、私はエスと自我とは風船のようなものだと考えています。「他者の欲望」という息を吹き込まれて膨らむ風船。その風船に針を刺してしまったらどうなるでしょう。パーンと割れちゃいます。風船の中にあった「私」だったものは周りの空気=他者の世界と区別がつかなくなっちゃいます。つまり、同一化する他者が一人であっても、自分という風船が割れちゃう時点で世界=自然と同一化してしまうことになるという比喩ですね。あくまで比喩ですが。
セックスのエクスタシー的な(聖女テレジアの「神との合一」的な神秘体験なんかまさに性的メタファーてんこ盛りです)、他者の同一化。恋愛対象の他者と同一化と仏教の境地的な世界=自然との同一化が双子のようにそこある、セカイ系とはそんな物語かなあ、なんて想像してしまいます。
でも最終兵器彼女なんか全然違うじゃん、って思いましたけど。だからうーんなんだろうな、っていう考えをめぐらせたこともありました。夏ぐらいに。飽きちゃってそのままにしていたことを思い出しつつ書いてみようかなあ、と。
まず、主人公(カップルの相手も含め)が世界の命運を左右する程の特別で強力な力を持っている。このことについて。
こういうのって子供向けのヒーローモノとかではよくある設定ですよね。地球を救うためにヒーローはすごい能力を持っていなきゃいけない。でもセカイ系はヒーローモノではないですよねえ。エヴァなんかは枠だけヒーローロボットモノという形式を採っていますが。
では何が違うのか。
やはり「社会や世界が希薄」、ここが問題になってきそうですね。
セカイ系での主人公たちを包む社会・世界は希薄か、悪になっていますね。その社会・世界は現代の時代性を反映してロゴス主義的です。論理的で合理的でヒエラルキーのある社会・世界。現代の資本主義社会のメタファー的と言った方がよいでしょうか。エヴァなんかまさにそうですね。ネルフとゼーレだけ見てもロゴス主義が見て取れます。つまり、彼らを包みこむ社会・世界は父性的と言えます。エヴァはそのまんま父親がそこに所属してますしね。
ヒーローモノはどうでしょう。ヒーローは敵と戦います。彼らを包み込んでいるのは戦いの場です。敵は侵略者だったり宇宙人だったり、彼らにとって「異物」の存在です。彼らはそれを排除するために戦うのです。コミュニティにとっての異物を排除する。これは社会の歴史を考えても基本的な社会の活動の一つです。ヒーローは社会に属している、いや社会を代表して戦っているわけですね。言い換えれば主人公は社会(そのコミュニティ)と同一化している。ここがセカイ系と大きく違うところだと思います。
人格成長として精神分析的に考えると、前にも説明したように子供が大人の社会に参入する際には「去勢」というイニシエーションが必要となります。去勢後も去勢痕としてのファルスが疼きます。それをやりくりしながら、子供は少しずつ大人の社会に慣れていくわけです。
私は以前の記事で、日本の現状は、「資本主義社会」というマクロな父性の中に、「学校教育」や「オタク文化」というミクロな母性的場が二重構造的に存在する、と書きました。「去勢」は幼児期に行われますが(言葉の世界への参入)、母性過多の学校教育の中でファルスが増長してしまっている子供たちは、「少しずつ」ではなく急に「弱肉強食」的な「格差社会」的な父性的「資本主義社会」に放り込まれます。この「母性的な学校教育の場」から「父性的な資本主義社会」のギャップが激しいのですね。ここで若者は「去勢」と似たようなイニシエーションをもう一度受けなくてはならなくなるわけです。
エヴァはまさにこの「第二の去勢」ともいうべきイニシエーションを表現した作品と言えるのではないでしょうか。
「ポストエヴァ」などと呼ばれているように、セカイ系においては「エヴァンゲリオン」は金字塔的作品と言えます。なのでエヴァをこれまでの視点からちょっと追ってみましょう。
シンジの中学二年生という設定や父親ゲンドウが直に息子の眼前に立ちはだかるあたりは、通常の第二次反抗期をモチーフにしているのがわかります。それが年齢としてはもう少し上になる「第二の去勢」を暗喩しているのでしょう。
思春期ぐらいの主人公が、「父殺し」「父超え」をすることで成長するという物語は王道と言えます。ではシンジはゲンドウや自分を取り巻く社会を乗り越えられたのか?
物語的には乗り越えられなくてもよいのです。父に返り討ちにあっても、少年は社会に参入することを許されます。社会を体現する最初の現実的な他者としての父に立ち向かうことが重要なのです。それは同時に自発的に社会に参入することになるのですから。
それとは対照的にシンジは父から逃避します。使徒には立ち向かいますが、父とは直接的に向き合いません。父との対峙は曖昧です。
そして人類補完計画。これ去年だったかな、アニマックスでの再放送を見たとき、私は禅の悟りを連想しました。全他者=自然との同一化。禅ではそれは一瞬ですが、同一化して固定しまうのが人類補完計画ですね。
父との対峙を曖昧にしたままのシンジは人類補完計画に組み込まれます。物語はどうなるでしょうか。
テレビ版の最終回。物議を醸した最終回でしたが、わかりやすい終わり方だと私は思います。メタアニメ的な手法で作中の父性が実生活の資本主義社会という父性の暗喩だったとばらす。そして最後は「おめでとう」。イニシエーションを通過しないで社会に放り込まれる。母性から父性への社会的二重構造を乗り越えるための「第二の去勢」というイニシエーションがない現状をよく表しているのではないでしょうか。
映画版では人類補完計画が明確に描かれます。同一化した後、ラストでシンジはアスカに拒否されます。人類補完計画が禅の悟り的なイニシエーションとして描かれています。
解釈はいろいろあるのでしょうけど、ここでは「父殺し」「父越え」というイニシエーションが曖昧に終わっているという点を指摘しておきます(批判ではないですよ)。
エヴァはこの禅の悟り的な人類補完計画(同一化と確かなもの化という意味では父母両性と言える)が自分たちの外側にある父性社会のさらに外側にあるという構造を持っていました。その他の作品はどうでしょう。
イリヤ。この四つの中では真っ当な「父に立ち向かう」少年像が描かれていると思います。父性=社会には返り討ちにあいますが。
ハルヒ。私はこの作品はナンセンスギャグ作品だと思っています。よってこの作品のセカイ系要素も、その社会から逃避しつづけ、社会の存在意義すらありません。学園モノで徹底しています。
エウレカ。様々なタイプの父性的キャラを出してきます。レイやタルホなどの母性は父性の社会に属しています。少年は父性に立ち向かいます。一旦は逃げ出しますが「家族」に帰ってきて、「半人前」として認められ、父性と共闘します。基本構造が王道すぎたこととラストの風呂敷の畳み方が粗かったことが問題点でしょうか。
最終兵器彼女。社会は希薄ですが、社会が主人公二人の中を割く役割として明確に表現されています。エヴァの文脈の父性的社会への参入という視点で読むより、社会により引き裂かれる男女というロミジュリ的な王道恋愛モノととして捉えた方がよさそうです。
ロミジュリ的な王道恋愛モノとセカイ系について考えてみましょう。
ロミジュリ的な王道恋愛モノの「社会に引き裂かれる男女」という点、つまり「社会」と「男女の恋愛」という共通点があります。セカイ系はそこに特殊能力という設定を設け、それにより主人公カップルの足元に世界(セカイ)がきてしまう、という構造になります。
エヴァ以外の作品ではこの特殊能力をメインで担うのは全て少女の方になっていますね。これにより、マリオブラザーズのような、王女を一介の男が救い出すという物語的王道が複合します。王女も特殊能力を持った少女も、世界=社会が足元にありますね。このロミジュリ的な王道恋愛モノという要素と、王女を救い出す英雄モノという要素の複合(もともとこの二つの要素は親戚のようなものですが)が、ポストエヴァ系では多く見られます。
では肝心のエヴァはどうでしょう。
特殊能力を持っているのはシンジ自身です。彼はそれを(ロボットに乗る自分を)誇らしく思う反面、その重責から逃避したいという葛藤がメインに扱われています。しかし少年の特殊能力(ロボット)は父や父性的社会の管理下に置かれています。ロボットに乗れるという特殊能力で父性的社会を蹂躙することができないのです。むしろロボットに乗ることは父性的社会へ属することと同義になります。シンジはそれに反発し、逃避します。
この構図はエウレカにもありますね。レントンはポジティブなのでロボットに乗る自分を誇らしく思う面が強いですが、父性的社会(戦争)を目の当たりにすることでそれに反発し、逃避します。
エヴァではロボットそのものが母親の胎内だったという表現があります。エウレカでは父性的社会に属する母性(レイ・タルホ)が描かれています。つまりこの二作品とも、先で述べた母性を包む父性という二重構造を作品内で持っているわけですね。
セカイ系においては、こういった超複雑系ともいえる社会=世界を表現している作品と、ロミジュリ的、王女救出的な恋愛を主軸に置いている作品と、二系統に別れている気がします。
少年が社会に参入することを主題にした作品と、社会を要素の一つとして捉えた恋愛主題の作品、という言い方でしょうか。前者はどうしてもエヴァのように主人公少年の葛藤主体になってしまいますね。
ここで宮台氏のセカイ系批判が思い浮かびます。彼は「ゲド戦記」と「ブレイブ・ストーリー」を例に挙げて、それらを「自己回復が世界回復に直結する「セカイ系」」として批判しています。
主人公少年の内面の葛藤と、彼が参入すべき彼をとりまく社会=世界。現実では少年一人が内面の葛藤を浄化しても、社会に変質は起きません。ここを繋げるために特殊能力という設定があるわけですね。
何故セカイ系は世界・社会を変質させる力を希求しているのか。ここが問題となりそうです。
背景には独我論的な思想があるのかもしれません。自己の世界を見る目が変われば世界も変わるといったような。しかしそれに感動する若者の心理の方が重要ではないでしょうか。
その作品の周辺の文化が閉塞性を伴っている時代においては、このセカイ系の構図は有効となるでしょう。その作品自体が作品が所属する表現文化=社会を打破する、というメタ的な二重構造を伴うからです。エヴァンゲリオンはロボットアニメの閉塞性を打破したという点で、まさにこれにあてはまります。
では今の時代はどうか。オタク文化におけるオタクたちは閉塞感を感じているのか。オタク文化の外の世界を希求しているのか。
私にはわかりません。私の論でいえばパラノ的オタとスキゾ的オタという二分論などのように、オタク文化自体が複雑化しているからということもありましょう。現実社会が超複雑系ならば、オタク文化自体がその一般化により現実社会に近づいているという言い方にもなるのでしょうか。オタクたちは無意識的にそれに気付いているのかもしれません。だからこそ父性的な資本主義社会というオタクの外にある現実社会にヒステリックに反発するのではないでしょうか。ヒエラルキーのあるロゴス主義的な資本主義社会。オタク文化がそれに染まることを必死に拒否している、というイメージでしょうか。だからこそ「権威」などに対し散種的思考を拒んだアレルギー的な反応になってしまう。しかし、自分たちのオタク文化自体は母性過多なので、人間の本能的にバランスをとろうとするため、シンボリックな換喩的な父性を求めてしまう。それがネット文化での愛国主義や、過去に着目した「時かけ」のヒットという形で現れているのかもしれません。
父性を拒みつつ深層では父性を憧憬している。己を包みこむ社会における閉塞感ではなく、内面的な葛藤にシフトしている。これがエヴァが予言しつつも、エヴァ的なセカイ系が飽きられつつある原因となっているのかもしれません。
こんな時代が求める作品とは。私のベタなセンスなら、少年が一つの葛藤を乗り越えるだけの成長物語ではなく、大河物語的な、少年から青年へ、そして自らが父性の体現者になる長期スパンの成長物語などが思い浮かんでしまいます。
加えるなら内側の母性と外側の父性、そのギャップ。少年の成長という視点では現代社会を象徴する「第二の去勢」ともいうべきこのギャップをどう表現し、作中の少年がどう乗り越えていくか、そこが重要なポイントになるのではないでしょうか。
エヴァでは父性との対峙を曖昧にしてしまいました。そこから仏教的な自我と自然の同一化というレベルまで急に行ってしまった、という感があります。私はこの途中に、仏教なら「無我」みたいな態度が必要となるのではないかな、と思います。私が今はまっている保坂和志氏の作品などにこの「無我」的なものを表す文芸的表現があるのかな、なんて感じています。
骨太の、腰を据えた物語でしょうかね。私はもっと詩的なものが好みですが……。