「この戦闘は、そもそも矛盾なのか」
2008/08/04/Mon
女性が男性化していくことで、クリトリスが肥大していくことで、非ファルスという意味の、本質的な非男性性という意味の、女性性の本質的存在とも言える、自閉症者や統合失調症者やスキゾイドといった、アンテ・フェストゥムたちの居場所がなくなっていく。
いや、それは正しくない。男性化する女性たちは間違っていない。ファルスを求めるのが女性であるのだから。
むしろ、男性化した女性が、二次的に女性性を考えることが、問題なのだ。
男性化した女性が、複製的にあるいは隠蔽劣化的に女性性を考えることが、「わたしも昔はそうだった」的にそれに視線を向けることが、自分が女性性の本質から離れてしまっている事実に無自覚になってしまうことが、アンテ・フェストゥム者たちへの暴力となる。
クリトリスが肥大した女性兵士たちに、侵略されていく。
わたしは、その軍隊の、裏切り者だ。
この記事から引用する。
=====
自分を美化させる目的で、自分がキリストにでもなったつもりで、石をぶつけられるバイタを庇うババア。そういう態度こそ本質的に石を投げつける奴らと同じものだと気づけないババア。むしろいっそ石を投げてくれる男どもの方が正直で清清しい。なのでわたしは真っ先にそのババアに唾を吐く。
=====
女性兵士たちは、どろどろねばねばした白い粘液を連射する銃で、アンテ・フェストゥム者たちを殺していく。
アンテ・フェストゥム者たちは、戦闘能力が著しく劣っている。戦火が拡大しただけでこの戦闘にはなんら無関係なのに、ささやかなその居場所を、略奪されつつある。また、そもそも彼らには領土という観念が希薄だ。元々居場所を所有してないのだ。居場所が曖昧なのだ。彼らの主体という領域は、電子雲のように不確定なのだ。まさにノマドなのである。社会や国家などという幻想を積み重ねて建設した人工的な世界ではなく、生々しい苦痛が散在する野性的な世界をさまよう夢遊病者なのである。日常より夢の方が現実に親近していることを、存在を通じて知っている者たちである。
一方、男性兵士も女性兵士も、各々の国土の拡大に懸命だ。専制君主制と共和制の争いだ。そんな争いにノマドたちは関係ないはずなのに、いつの間にか巻き込まれている。
男性兵士も女性兵士も、どちらも等しく侵略者である。それは既に、「より権力者であるために、被権力者に熱いまなざしを送る権力者たち」というコントですらある。
勝敗は火を見るより明らかなのに、彼ら彼女らは、こちらに精液を撒き散らしてくる。
お前たちが戦う相手は、こっちじゃない。
かと言って、わたしたちに背を向けたならば、わたしはお前たちを攻撃するだろう。
わたしは、女性兵士たちに拷問を受けている。
ヒステリー者たちにツレションしろと命令されている。
「サー、イエッサー!」
今のわたしは、尿の代わりに、糞便を投げつける。
こいつらから、「愛」や「思い遣り」や「気遣い」などといった精液を、投げつけられ続けてきたのが、アンテ・フェストゥムたちだ。
だからこれには感謝の気持ちもこもっている。マゾヒストの感謝である。
わたしは「愛」や「思い遣り」や「気遣い」といった糞便を、感謝の意を込めて、投げ返している。
時々、わたしに同情する者もいる。
しかし、その同情こそが精液だと気づけていない。
それが精液とわかって、わたしの立場に立とうとする者もいる。
そいつらは、こわごわと糞便をつまみ上げる。
生まれて初めて農作業をするどこかのお嬢様みたいに。
要するに、戦闘の役には立たない。特にゲリラ戦には。
それでいいのだ。
お前たちは、こっちにいるべき人間じゃない。
わたしは、一人で戦うしかない。
そもそもアンテ・フェストゥム者たちは群れられない。戦闘の術を知らない。何故なら、幼児的な奴らだから。
女性軍の裏切り者であるわたしは、女性兵士たちの本来の敵である男性兵士たちからも、攻撃を受ける。
ある時、戦闘しながら、一人の男性兵士がぽつりとぼやいた。
「この戦闘は、そもそも矛盾なのか」
わたしの攻撃する手が止まった。
しかし直後、わたしは再び腐肉を投げつける。男性兵士はナイフでわたしを刺してくる。
女性兵士たちは、狡猾にもこれを「戦闘」などと呼ばない。
「車座になって和気藹々と語り合う場」だそうだ。
和気藹々と精液をぶっかけてくるのだ。
「車座になって和気藹々と語り合う」共和制により、ノマドたちを支配しようとしているのだ。
わたしの敵は、男性兵士でもあり女性兵士でもある。
女性兵士として男性兵士を殺戮してきた経験が、戦闘の役に立っている。
お前たちの手の内は読めている。
わたしは、ただの裏切り者だ。
ここには思想やポリシーなどない。
目の前の敵を殺戮していくだけ。
裏切り者はわたしだけではないかもしれない。しかしそういった人間で徒党を組むことはできない。何故なら裏切り者だからだ。裏切り者同士で徒党を組むと、きっとわたしはその徒党を裏切ってしまうだろう。それが裏切り者という刻印である。
女性兵士男性兵士ともに厄介なことは、彼らの洗脳が行き届いていることだ。
彼らは自分が殺戮マシーンであることに気づけていない。
まず、これが最初の関門だ。
わたしは、たまたま自分が殺戮マシーンであることに気づけた。精神を病むことで、洗脳が解けた。精神を病んで、正気に戻れた。「女として生まれるのではない、女になるのだ」という洗脳が解けた。
わたしは、女として生まれていた。
わたしは、ノマドだった。
未だに自分で納得し切れてない。軍の機密文章であるノマド名簿の中に、たまたまわたしの名前があっただけだ。そもそも彼らがノマドを「ノマド」と呼称し規定しているだけである。だから、兵士だった立場で、「わたしはノマドだ」と表現しているだけである。それ以外の表現を知らないだけである。
わたしは、その上で、殺戮マシーンと化す。
元精鋭部隊だったのだから、それは容易なことだ。
しかし、戦闘力が欠如しているのがノマドである。であるならば、わたしはノマドではないと思える。ただ事実だけを述べるなら、洗脳の解けた女性兵士に過ぎない。
戦闘力のあるノマドという矛盾した存在として、わたしは、彼女ら彼らに、ここが戦場であることを思い出させる。
「愛」や「思い遣り」や「気遣い」をもって。
安全地帯など、ほんの狭い領域として点在しているに過ぎない。
ここはそういう世界である。
まずこの現実を、奴らに思い知らせることが、わたしの任務である。
「こちらスネーク。潜入完了した」
……え? ああネタ記事。
つかこのブログ自体がネタだし。そもそも言葉自体がネタだし。
こっち側から見れば、そうであることがよくわかる。
こっち側からは、シニフィアンの恣意性という事実が、よく見える。
定型発達者って、なんでこうまで弱点っていうか逆鱗っていうか刺し縫いポイントが似通っているんだろう?
ああ兵士だからか。
規律を遵守するのが兵士だもんな。そりゃー弱点は大体似たようなものになるか。
一人、殺しきれず、逃げられてしまった。
戦場を「車座」と表現する女性兵士だった。
わたしは、正直言うと、裏切り者の負い目もあった。
隙を突かれた。
彼女は、逃げたように見せかけて、わたしの背後に忍び寄り、わたしをナイフで刺した。
女性兵士が好んで使う精液マシンガンではなく、男性兵士が多く用いるナイフを使った。
精液に塗れた、ぬらぬらした刃をわたしに突き立てた。
そうだ。
それでいいのだ。
それでこそ、戦場だ。
狡猾だなどと批判しているのではない。その戦術を認めているのだ。事実わたしはナイフで刺されたのだから。
言葉の実体は、球体のナイフなのだ。
痛みにのた打ち回る自分の身体を傍観しながら、わたしはそう思った。
なんつーかノマドロジーについて、ドゥルージアンたちを小馬鹿にする感じで述べようと思って書いた記事なんだけど(要するにノマドロジー(笑)って文章を書きたかった)、ありがち過ぎる設定になってて自分でワラタ。
そうなんだもん。ノマドロジーを語っている主体って大体がその精神構造はありがちなんだもん。だからツマンナイ。
ありがち即ち固定的。
君たち自身がものすごくオイディプスなんだけど。わたしのクリステヴァ的テクスト分析によれば。全員とは言わんが大体。
まあそういう話。
少なくともこいつらは、「本当の相対主義的(遊牧民的)主体は、狂気の内にある。それは常に苦痛を伴う世界である」ということが全く一生理解できないんだろうな、とわたしは思う。
本当にキチガイをダシにするのはやめろよ。
君たち自分の下劣さにちょっとは気づこうよ。
本当に下劣な人間から見ると、下劣から抜け出せない人間から見ると、下劣から抜け出せている人間が下劣になりたがる方が、下劣なのだよ。
わたしは下劣だが、下劣の本性を知っている。本当に地に這っているから、空を見上げることができる。わたしの生には意味がある。いや、真に意味がないから、意味を生産できる。
お前らの生には何も意味がない。いや、意味に満ちた世界を生きているから、意味を生産できない。
意味がある世界を生きているのに、意味を生きることから抜け出そうとしている。
言語ゲームから抜け出そうとしている。
お前らは、自分から無意味になりたがっている。
わたしはお前らのそういう本性を、述べているだけである。
「お前なんか、死んでいいよ」と。
これは、お前たちの世界に合わせて言い換えてやるなら、母性的に言っているのである。
聖母マリアとして、お前たちに死の許しを与えているのである。
マリアもランダも、極点では等価である。ノイマンのテリブルマザー論が言う通りだ。
だからこの母性を「マリアなんかじゃない、ランダだ」と言われても構わない。
マリアかランダかという区別は、お前らの男根や陰核が構築する幻想に過ぎない。
塔に幽閉された美しい王女も、地底に住まうイザナミやピーチ姫も、閉じ込められた方にとっては、塔か地底かなんて関係ない。救い出そうとする勇者にとって問題なだけである。
どっちでもいい。正直。
わたしは、どういう意味があるのか自分でわからない笑みをもって、こう言うだけだ。
「お前は、死にたがっている。だから、死んでいいのよ」
その笑みにどんな幻想を付加させるかは、わたしには関係ない。
ただ、去勢されたがっているあるいは去勢を回帰させたがっている去勢済みの男根を、その志向と事実に沿って、噛み千切ってあげよう、と言っているのである。それは戦闘などではなく、宇宙的システムの部分としての、一過程だ。
ペニスを咥えていると、なんの含みも意味もなく、それを噛み千切りたくなる。憎しみ故でも愛故でもなく、ただ、機械的に。
マリアの笑みを浮かべながら。
処女でありながら、子供を孕まされた、マリアの笑み。
初潮前でありながら、強姦された、阿部定の笑み。
その笑みは、無意味だ。
無意味の苦痛を知っている者がする、無意味の笑みだ。
精液に塗れたナイフで刺された者だけができる、笑みだ。
「この戦闘は、そもそも矛盾なのか」
その問いの答えは、この笑みだ。
いや、それは正しくない。男性化する女性たちは間違っていない。ファルスを求めるのが女性であるのだから。
むしろ、男性化した女性が、二次的に女性性を考えることが、問題なのだ。
男性化した女性が、複製的にあるいは隠蔽劣化的に女性性を考えることが、「わたしも昔はそうだった」的にそれに視線を向けることが、自分が女性性の本質から離れてしまっている事実に無自覚になってしまうことが、アンテ・フェストゥム者たちへの暴力となる。
クリトリスが肥大した女性兵士たちに、侵略されていく。
わたしは、その軍隊の、裏切り者だ。
この記事から引用する。
=====
自分を美化させる目的で、自分がキリストにでもなったつもりで、石をぶつけられるバイタを庇うババア。そういう態度こそ本質的に石を投げつける奴らと同じものだと気づけないババア。むしろいっそ石を投げてくれる男どもの方が正直で清清しい。なのでわたしは真っ先にそのババアに唾を吐く。
=====
女性兵士たちは、どろどろねばねばした白い粘液を連射する銃で、アンテ・フェストゥム者たちを殺していく。
アンテ・フェストゥム者たちは、戦闘能力が著しく劣っている。戦火が拡大しただけでこの戦闘にはなんら無関係なのに、ささやかなその居場所を、略奪されつつある。また、そもそも彼らには領土という観念が希薄だ。元々居場所を所有してないのだ。居場所が曖昧なのだ。彼らの主体という領域は、電子雲のように不確定なのだ。まさにノマドなのである。社会や国家などという幻想を積み重ねて建設した人工的な世界ではなく、生々しい苦痛が散在する野性的な世界をさまよう夢遊病者なのである。日常より夢の方が現実に親近していることを、存在を通じて知っている者たちである。
一方、男性兵士も女性兵士も、各々の国土の拡大に懸命だ。専制君主制と共和制の争いだ。そんな争いにノマドたちは関係ないはずなのに、いつの間にか巻き込まれている。
男性兵士も女性兵士も、どちらも等しく侵略者である。それは既に、「より権力者であるために、被権力者に熱いまなざしを送る権力者たち」というコントですらある。
勝敗は火を見るより明らかなのに、彼ら彼女らは、こちらに精液を撒き散らしてくる。
お前たちが戦う相手は、こっちじゃない。
かと言って、わたしたちに背を向けたならば、わたしはお前たちを攻撃するだろう。
わたしは、女性兵士たちに拷問を受けている。
ヒステリー者たちにツレションしろと命令されている。
「サー、イエッサー!」
今のわたしは、尿の代わりに、糞便を投げつける。
こいつらから、「愛」や「思い遣り」や「気遣い」などといった精液を、投げつけられ続けてきたのが、アンテ・フェストゥムたちだ。
だからこれには感謝の気持ちもこもっている。マゾヒストの感謝である。
わたしは「愛」や「思い遣り」や「気遣い」といった糞便を、感謝の意を込めて、投げ返している。
時々、わたしに同情する者もいる。
しかし、その同情こそが精液だと気づけていない。
それが精液とわかって、わたしの立場に立とうとする者もいる。
そいつらは、こわごわと糞便をつまみ上げる。
生まれて初めて農作業をするどこかのお嬢様みたいに。
要するに、戦闘の役には立たない。特にゲリラ戦には。
それでいいのだ。
お前たちは、こっちにいるべき人間じゃない。
わたしは、一人で戦うしかない。
そもそもアンテ・フェストゥム者たちは群れられない。戦闘の術を知らない。何故なら、幼児的な奴らだから。
女性軍の裏切り者であるわたしは、女性兵士たちの本来の敵である男性兵士たちからも、攻撃を受ける。
ある時、戦闘しながら、一人の男性兵士がぽつりとぼやいた。
「この戦闘は、そもそも矛盾なのか」
わたしの攻撃する手が止まった。
しかし直後、わたしは再び腐肉を投げつける。男性兵士はナイフでわたしを刺してくる。
女性兵士たちは、狡猾にもこれを「戦闘」などと呼ばない。
「車座になって和気藹々と語り合う場」だそうだ。
和気藹々と精液をぶっかけてくるのだ。
「車座になって和気藹々と語り合う」共和制により、ノマドたちを支配しようとしているのだ。
わたしの敵は、男性兵士でもあり女性兵士でもある。
女性兵士として男性兵士を殺戮してきた経験が、戦闘の役に立っている。
お前たちの手の内は読めている。
わたしは、ただの裏切り者だ。
ここには思想やポリシーなどない。
目の前の敵を殺戮していくだけ。
裏切り者はわたしだけではないかもしれない。しかしそういった人間で徒党を組むことはできない。何故なら裏切り者だからだ。裏切り者同士で徒党を組むと、きっとわたしはその徒党を裏切ってしまうだろう。それが裏切り者という刻印である。
女性兵士男性兵士ともに厄介なことは、彼らの洗脳が行き届いていることだ。
彼らは自分が殺戮マシーンであることに気づけていない。
まず、これが最初の関門だ。
わたしは、たまたま自分が殺戮マシーンであることに気づけた。精神を病むことで、洗脳が解けた。精神を病んで、正気に戻れた。「女として生まれるのではない、女になるのだ」という洗脳が解けた。
わたしは、女として生まれていた。
わたしは、ノマドだった。
未だに自分で納得し切れてない。軍の機密文章であるノマド名簿の中に、たまたまわたしの名前があっただけだ。そもそも彼らがノマドを「ノマド」と呼称し規定しているだけである。だから、兵士だった立場で、「わたしはノマドだ」と表現しているだけである。それ以外の表現を知らないだけである。
わたしは、その上で、殺戮マシーンと化す。
元精鋭部隊だったのだから、それは容易なことだ。
しかし、戦闘力が欠如しているのがノマドである。であるならば、わたしはノマドではないと思える。ただ事実だけを述べるなら、洗脳の解けた女性兵士に過ぎない。
戦闘力のあるノマドという矛盾した存在として、わたしは、彼女ら彼らに、ここが戦場であることを思い出させる。
「愛」や「思い遣り」や「気遣い」をもって。
安全地帯など、ほんの狭い領域として点在しているに過ぎない。
ここはそういう世界である。
まずこの現実を、奴らに思い知らせることが、わたしの任務である。
「こちらスネーク。潜入完了した」
……え? ああネタ記事。
つかこのブログ自体がネタだし。そもそも言葉自体がネタだし。
こっち側から見れば、そうであることがよくわかる。
こっち側からは、シニフィアンの恣意性という事実が、よく見える。
定型発達者って、なんでこうまで弱点っていうか逆鱗っていうか刺し縫いポイントが似通っているんだろう?
ああ兵士だからか。
規律を遵守するのが兵士だもんな。そりゃー弱点は大体似たようなものになるか。
一人、殺しきれず、逃げられてしまった。
戦場を「車座」と表現する女性兵士だった。
わたしは、正直言うと、裏切り者の負い目もあった。
隙を突かれた。
彼女は、逃げたように見せかけて、わたしの背後に忍び寄り、わたしをナイフで刺した。
女性兵士が好んで使う精液マシンガンではなく、男性兵士が多く用いるナイフを使った。
精液に塗れた、ぬらぬらした刃をわたしに突き立てた。
そうだ。
それでいいのだ。
それでこそ、戦場だ。
狡猾だなどと批判しているのではない。その戦術を認めているのだ。事実わたしはナイフで刺されたのだから。
言葉の実体は、球体のナイフなのだ。
痛みにのた打ち回る自分の身体を傍観しながら、わたしはそう思った。
なんつーかノマドロジーについて、ドゥルージアンたちを小馬鹿にする感じで述べようと思って書いた記事なんだけど(要するにノマドロジー(笑)って文章を書きたかった)、ありがち過ぎる設定になってて自分でワラタ。
そうなんだもん。ノマドロジーを語っている主体って大体がその精神構造はありがちなんだもん。だからツマンナイ。
ありがち即ち固定的。
君たち自身がものすごくオイディプスなんだけど。わたしのクリステヴァ的テクスト分析によれば。全員とは言わんが大体。
まあそういう話。
少なくともこいつらは、「本当の相対主義的(遊牧民的)主体は、狂気の内にある。それは常に苦痛を伴う世界である」ということが全く一生理解できないんだろうな、とわたしは思う。
本当にキチガイをダシにするのはやめろよ。
君たち自分の下劣さにちょっとは気づこうよ。
本当に下劣な人間から見ると、下劣から抜け出せない人間から見ると、下劣から抜け出せている人間が下劣になりたがる方が、下劣なのだよ。
わたしは下劣だが、下劣の本性を知っている。本当に地に這っているから、空を見上げることができる。わたしの生には意味がある。いや、真に意味がないから、意味を生産できる。
お前らの生には何も意味がない。いや、意味に満ちた世界を生きているから、意味を生産できない。
意味がある世界を生きているのに、意味を生きることから抜け出そうとしている。
言語ゲームから抜け出そうとしている。
お前らは、自分から無意味になりたがっている。
わたしはお前らのそういう本性を、述べているだけである。
「お前なんか、死んでいいよ」と。
これは、お前たちの世界に合わせて言い換えてやるなら、母性的に言っているのである。
聖母マリアとして、お前たちに死の許しを与えているのである。
マリアもランダも、極点では等価である。ノイマンのテリブルマザー論が言う通りだ。
だからこの母性を「マリアなんかじゃない、ランダだ」と言われても構わない。
マリアかランダかという区別は、お前らの男根や陰核が構築する幻想に過ぎない。
塔に幽閉された美しい王女も、地底に住まうイザナミやピーチ姫も、閉じ込められた方にとっては、塔か地底かなんて関係ない。救い出そうとする勇者にとって問題なだけである。
どっちでもいい。正直。
わたしは、どういう意味があるのか自分でわからない笑みをもって、こう言うだけだ。
「お前は、死にたがっている。だから、死んでいいのよ」
その笑みにどんな幻想を付加させるかは、わたしには関係ない。
ただ、去勢されたがっているあるいは去勢を回帰させたがっている去勢済みの男根を、その志向と事実に沿って、噛み千切ってあげよう、と言っているのである。それは戦闘などではなく、宇宙的システムの部分としての、一過程だ。
ペニスを咥えていると、なんの含みも意味もなく、それを噛み千切りたくなる。憎しみ故でも愛故でもなく、ただ、機械的に。
マリアの笑みを浮かべながら。
処女でありながら、子供を孕まされた、マリアの笑み。
初潮前でありながら、強姦された、阿部定の笑み。
その笑みは、無意味だ。
無意味の苦痛を知っている者がする、無意味の笑みだ。
精液に塗れたナイフで刺された者だけができる、笑みだ。
「この戦闘は、そもそも矛盾なのか」
その問いの答えは、この笑みだ。