恐怖の権力
2008/08/07/Thu
わたしは、自我や超自我を定型的に持つ者、即ち定型発達者を権力者と呼んでいる。
しかし、この記事でも述べているように、自我や超自我が壊れている者と、自我や超自我が正常に機能している者が、一対一で対峙した時、その権力構造は逆転する。念のため引用しておく。
=====
構造を助長するサンボリックな幻想を生きる主体と、アブジェクシオンに親近するセミオティックな幻想を生きる主体が、一対一で対峙した場合、恐怖を感じて相手を畏怖するのは、前者、即ち定型人、即ち神経症者なのだ。これが、「権力」なる概念の本質ではあろう。ちょうど前記事で、ババアがわたしを異常者だとしておぞましく思っているように。
とはいえ、後者の主体も、セミオティック自体がおぞましさ(かつ魅惑的なもの)を惹起するものである故、他人も自分も、常に既に畏怖している。し続けている。これは、クリステヴァが前掲書で「作家とは原則的に幼児性恐怖症者である」と述べていることにも繋がるだろう。
彼らが対峙する時、そこに原理的に発生する畏怖は、両者にとって自他未分化的なものになるのだ。
要するに、アブジェクシオンに親近する領域では、「権力/被権力」という言語的二項対立は、脱構築される、ということだ。
=====
自我や超自我が正常に機能している者が、自我や超自我が壊れている者に、恐怖を感じる。
「恐怖」と書いたが、それは「生々しさ」や「畏怖」などに近いイメージ・情動である。
帝国主義者は、サバルタンを怖れるあまり、彼らを植民地化するのである。
サバルタンの本質は、弱者ではない。
戦闘力を持たない権力者である。無垢の本性は、畏怖を惹起させるものなのである。(こういう表現をすると誤解がありそうなのだが、「転移」と言うと定型発達者が非定型発達者にかけるHP回復魔法のような感じがしてまた違う意味になるし、これ以上よい表現はないので使わせてもらうならば)呪術的に。
自我や超自我が正常に機能している者、即ちパラノイアックな人間は、自我や超自我が壊れている狂人に、彼らが住まう辺境に、常に恐怖している。正常人は、この恐怖に常に支配されている。この恐怖によって、狂人や辺境を「棄却する」という定型が生じる。狂人や辺境に対し「臭い物に蓋をする」。定型発達者が生きてきた歴史は、この棄却する過程において、定型的即ち普遍的即ち多数派となる。
むしろ、「恐怖の権力」の存在こそが、それを棄却するという共通項を、その人格発達において生み出すものである。要するに、「恐怖の権力」こそが、正常人を正常人たらしめている本質的原因だ、というわけだ。
一般的な「権力/被権力」という構図は、この退行的なセミオティックな領域において、脱構築(笑)される。
最近の自分の文章を読んでいて、ガタリっぽい、社会参画主義の一環として正常人という権力者を告発しているブログだとか思われたらイヤだなあ、と自分勝手に思えたので、一応念のために書いておく。
わたしは、この領域を体感として知っている。その一つがこの記事で書いた出来事である。
こういった出来事を、わたしは常に生き続けてきた。
そんな自分がイヤだった。
他人に恐怖を惹起させるシャーマン的権力者たるサバルタンであることがイヤだった。
だから、わたしは兵士になった。演技を学んで、精液に塗れようとした。
結果、わたしは病んだ。
わたしはノマドたちを裏切り、さらに兵士たちをも裏切った。
わたしは、社会に参画したくてこんな文章を書いているんじゃない。
わたしは、お前たちのような精液を撒き散らしたがる定型発達者に向けて、わたしに精液をぶっかけるな、と言っている。
無神経にわたしに近づくな、と言っている。
社会に、不用意にわたしを飲み込むな、と言っている。
社会に、わたしを飲み込む覚悟はあるのか、と問うている。
主に、わたしを愛する資格はあるのか、と問うている。
アガペーや人間愛に、わたしを更正させるほどの現実感はあるのか、と問うている。
自傷的に。
わたしの発言や問いかけは、リストカットである。
わたしのような主体は、社会に悲劇的な出来事を、恐怖の権力を、リアルを召還させる魔女であることを、わたしの人生によって、わたしは学んでいる。
この記事から一例を引用する。
=====
嫌われるほど、劇団内の権威は高まった。仕込みの時など、「脂さんがいると団員はきびきび動くねえ」と外注スタッフに笑われたほどだ。
=====
サルトルやガタリのような、「実存とは生々しいものだ。不快なものだ。だから社会に参画したいんだいボクチンは」という立場では、ない。
それだけは、断っておく。
サルトルやガタリの主張・やっていることは、お笑い芸人が政治家になるようなものである。
政治家が芸人になりたがる蓮實のような下劣な人間よかなんぼかマシだがね。
どっちも一緒ではある。わたしから見れば。
自我や超自我が強すぎる故リストカットするパラノイアとのボーダーではなく、自我や超自我が壊れている故リストカットするスキゾフレニーや自閉症とのボーダー(今やこの領域は「スキゾイド」という言葉のみに狭められている、即ちアンテ・フェストゥム領域が侵略されている)から見れば、と思ってくれていいや。
いろいろめんどくさい。定型発達者にわたしを説明するのって。
でもわたしは兵士になるしかない。裏切り者の兵士。
言葉を語る以上、言葉がナイフであることを知りながら用いる、殺戮マシーンになるしかない。
神経症者を「高く飛ばないから落ちないイカロス」と、ラカンの「寸断された身体」やクラインの部分対象を「断片の世界」と、鏡像段階を異常なく経た定型発達者を「鏡の国の定型人」と、象徴的ファルスの想像的側面を「精液」と、ジャーゴンを文芸的(定型発達者のセンスを揶揄する言い方)に言い換える傾向が多いのは、わたしが裏切り者の兵士であるからだ。
自分で自分をバカだと思う。
本当に。
わたしは、祖父がとても嫌いでとても好きだった。
この「好きだった」は、後に顧みて、彼の印象が家族の誰より多く残っているから、好きだったのだろう、と後付けで思ったことだ。
事実、わたしは祖父を怖れていた。厳格なイメージがわたしにはあるが、周りの人にとっては柔和な人だったらしい。まあ大体そういう風に精液をぶっかけられるがままになるのだろう。死人とは。死人なんだから。
わたしは、祖父がわたしを見たりわたしについて親と話したりするのが、とてもイヤだった。怖かった。
祖父は近所のジジババに慕われていた。祖父の家にはよくジジババどもが集っていた。
祖父は、わたしにとって恐怖を惹起する何かを、ジジババたちに説いていると思った。もちろんこれは子供の妄想である。
だから、大嫌いだった。祖父も、ジジババどもも。
だけど、祖父と話した記憶も多く残っている。事実としては、祖父と会話した回数は少ないようにも思うが、何しろ癲癇を疑われていた頃のわたしの記憶であるので、当てになるわけがない。
祖父は、わたしにこう言った。
「お前は、他の子と仲良くしちゃいけない」
多分、幼稚園か小学校で周りの子とトラブルを起こし、それで説教された時の言葉だろうと辻褄合わせ的に思うが、正直覚えていない。言葉だけをよく覚えている。
この言葉が世間から見たらおかしいものであることに気づいたのは、小学生の頃だったか。マンガとかでよくある、キチガイっぽい子について親がよく言う、「あの子と遊んじゃいけないよ」っていうのの逆バージョンだな、とか思った記憶がある。それだけだが。
祖父も、わたしが脳波検査を受けていたことは当然知っていたはずだ。それ故の言葉だろう、と今ではなんの感慨もなく、辻褄合わせ的に思う。
自分の過去について、自分について、唯独論的に考える時、わたしはよく情動をなくす。それがとてもイヤだ。
周りの人や社会を引き合いに出して、ようやくわたしは情動を得る。わたしは情動に固着している。
だから、パラノイアとのボーダーが、抑鬱的な喪の情動に流されリストカットするのに対し、スキゾフレニーとのボーダーが、情動なく、ガタリ的表現なら機械的にリストカットする、という精神構造の違いが、わたしはよくわかる。わたしはスキゾイドの症状を「情動の否認」と表現する。痛み(刺激)は、情動の本質的領域にある。スキゾフレニーとのボーダーたちは、欲動的に情動を得ようとして(情動を承認あるいは欲望しているのではない)、リストカットする。二階堂奥歯は、自殺した。去勢済みである故あるいは死にながら生きている故、死を欲望するのが、パラノイアックなボーダーであり、乳児的な生々しい生を生きている故、欲動的あるいは機械的に、死に向かうのがスキゾフレニックなボーダーである、ということだ。前者は大人がやる自傷、後者は幼児的な退行的な未去勢的な主体がやる自傷、という違いである。正常という狂気から逃れようとしてする自傷、正常という狂気と向き合おうとしてする自傷、という違い。幻想的な自傷、(ラカン的な意味で)現実的な自傷、という違い。
だから、わたしは、リストカットするように社会を語る、と述べた。
ガタリは、「機械」という言葉を多用しながら、機械化される主体自身が感じる苦痛、恐怖を述べていない。定型発達者たちは、むしろ自分が機械化されることを望む。わたしの臨床上断言できる。彼らはむしろ機械化された主体を欲望する。それは、機械化された自らの内に沸き出るこの恐怖、苦痛を知らないから、幻想の中でしか生きられないから、そんなことを言えるのだ。
自分が、部分対象化してしまいそうな恐怖。
部分対象そのものが意味として持つ、癒しと苦痛という両面性の内、快楽原則に縛られた定型発達者たちあるいはパラノイアたちが棄却しがちな、苦痛としての側面。帝国主義者は快楽原則に縛られている故、サバルタンの言葉を歪曲し改竄し隠蔽してしまうのだ。
もちろん非神経症者であっても、自らを機械化されるのを望むことはあろう。しかしそれは、マゾヒストが現実界に親近するために自らの肉体を快楽の道具に使うようなものである。彼らはそれが両面性を持つことを承知でそれを欲望する。それは欲望というより享楽に近い。快楽に溺れるあまり自我的な快楽原則が壊れてしまったのがマゾヒストだとも言えるかもしれない。
むしろ自らが機械化されることに違和感を感じない症状こそが、定型発達というパラノイアックな精神障害を、正常という狂気を診断する一つのポイントであるとすら言える。自らが機械化されるということを幻想でしかわからない、現実感を喪失した、まさしく狂人たち。それが正常人である。
ガタリは、その症状を、現実を知っている分裂症者たちに押しつける。それは、定型発達者である自らの症状であることに気づかないまま。それは、快楽原則にパラノイアックに固着しているという意味で、正常という精神障害の一つの症状なのだ。彼は、周りの人間がロボットに見えてしまう統合失調症患者が訴える苦痛を、一生理解できないだろう。理屈でではなく、人間存在として。
ガタリは、分裂症者を語るには、あまりにもポスト・フェストゥム過ぎた。木村敏が「自分はポスト・フェストゥム的だ」と自嘲気味に自己分析しているのと比較すると、ガタリは開き直っているようにも見える。
「ボクチンだってビョーキなんだもーん」
下劣にもほどがある。
どんな情報も見逃さないが
自分捕らえる機能はない
レーダーマン
祖父は福耳だった。
わたしが高校生の時、祖父は死んだ。その遺体を前にして、母が泣きながら言った。
「あんたおじいちゃんの耳たぶ触るの好きだったでしょ。ほら、触っておやり」
わたしは葬式に出るのすら面倒に思っていて(宗教上、仏教式のいわゆる一般的な葬式とは異なる葬式だった)、胃もムカムカしていて、内心「チョーうぜえ」と思いながら、まあ演劇みたいなものだと思い直し、死骸の耳たぶを触った。
固かった。
吐きそうになった。
わたしはやっと、泣けた。
演劇をやるようになって、舞台上で涙を流す裏技を教えてもらった。
舞台袖で、喉に指を突っ込んでおいて、吐き気を保持したまま、演技する。泣くキッカケが来たら、吐き気を開放する。すると、自然と涙が出る。
嫌いなのに、耳たぶは触っていたのだ。
だから、わたしはわたしの記憶を信じられない。
わたしはわたしがわからない。
ただ、今になって、祖父の「他の子と仲良くしちゃいけない」という言葉の意味が、なんとなくわかるようになった。
社会の中で精神を病み、精神分析論を学んだ今になって、やっと。
祖父は、わたしが群れられない、体系化され得ないノマドであることを、釘刺ししたのだ。正常人になれない苦痛を一生味わうのだと、予言したのだ。
「お前はお前を受け入れてくれる群れを見つけても、常にそれを裏切るだろう」
わたしにおいて眼前する苦痛に満ちた断絶を、彼は彼の心的事実として、機械的に述べただけなのだ。
なんの情動も気遣いもなく。
そんなように思う。
今のわたしは、祖父の顔が上手く思い出せない。
そんなわたしから言わせれば、「ノマドロジー」などという言葉自体が、ノマドを体系化する、即ち正常という狂気で飲み込もうとする、多数であることをもって正常という肩書きを得られたに過ぎない権力者たちの、パラノイアックな権力行使である。
というわけで、ドゥルージアン(正確にはガタリアン)たちに向けて、わたしは「死んでいいよ。お前ら生きている価値ないよ」と言えるのだ。事実を述べているだけなのだ。
冗談じゃなくマジデ言っている。君たちの生は、『アンチ・オイディプス』的な意味で、非生産的であると。
去勢済みの主体であるという意味で、死にながら生きているわけだから、死んでいいよ、と言っている。
わたしの文章の、どこがおかしいだろうか?
遺体。痛い。
お腹が痛い。
いやこれはエアコンの効かせ過ぎ。
冷酒のおいしい店を見つけた。十二時で閉まっちゃうのがあれだけど。
落ち着いてて、客層もジジババが多くて、わたしが定型人でいられるお店。
一方、わたしが年甲斐もなく惚れているマスターがやっているカラオケパブは、朝七時までやってて、わたしをキチガイにするお店。
レーダーマーン! とかってシャウトするオバハンなんか気持ち悪がられてるに決まってるがな。
お世辞でも、『レーダーマン』とか『玉姫様』とか『HALF』とか『難破船』とか『抱いてくれたらいいのに』とか歌って、「あーちすとみてえ。感動する」とか言ってくれると、あっさり惚れてしまう。でも、なんていうか、このお店は、マスターや常連さんたちは、そんなわたしの実態を感じてくれているように思う。でも一方、谷山浩子とか『あずまんが大王』のOPとか歌うと、「らしくないねえ」とか言われて、ああやっぱりわかってくれてないんだな、と思う。上手いんじゃないらしい。むしろちょっとオンチなところがいいらしい。戸川純や中島みゆきは言わずもがなだが谷山浩子もちょっとオンチだと思うけどなあ。
あ、ちょっとオンチであればいいって話じゃないがね。歌にしろゲージツにしろ。上手さつまり技巧じゃないところの、ゲージツの判断基準としては、やっぱガタリの言葉、「器官なき身体上の強度の丘」ってのが使いやすいと思う。これは、「ちょっとオンチ」などのように技巧が崩れていることで顕現することもあれば、技巧を積み重ねることで顕現することもあるものだ。「生々しさ」だと、不快な側面をフィーチャリングし過ぎてて、技巧を否定するような意味に取られがちなので、補足説明するのがメンドクサイ。まあどちらにしろ本来のアートとアウトサイダーアートは別物であることを説明しなきゃなんないんだけど。そこでやっぱアルトーの「残酷演劇」だよなあ、ってわたしは思う。
ああ、ガタリンは巷のポモ思想家とかと比べたら遥かに「定型人向けにソレを説明する」センスはあると思ってるよ。今のわたしはクリステヴァ論者だけど、そのセンスはクリステヴァよりあると思う。定型人に対してものすごく気を遣っている。ラカンはむしろそのセンスを排除したがっている。定型人向けの気遣いをわざと排除しようとしている。
分裂分析サイコー(ここで言っていることと逆じゃん、なんてアホウなこと思わないでね)。
わたしは、キチガイ的な、『玉姫様』的な、「破壊姫」であることを、男に欲望されているだけかもしれない。ちょっとオンチなところがそういう部分を代理表象しているのかもしれない。心理カウンセラーたちの裏の顔のような、定型人たちの隠された欲望。生々しさを、「恐怖の権力」を欲望する男たち。まさに「欲望とは他者の欲望である」だ。
あ、いや男に限らんけどね。ある女友だちが失恋した時、わたしに「歌って」とせがんだことがある。わたしの歌は泣けるそうだ。でも選曲リストを考えたら、最近のきれいきれいなテレビドラマで泣くようなこととは違うと思う。本人が違うと思いたい。テレビドラマなら昼ドラ系のどろどろした涙。癒されることで流す涙とは真逆の涙。流すことで癒される涙。感じることで癒される苦痛。「癒す」の使い方がおかしいけど。
それもまあそういったことなように思う。
鏡の国ってとっても狡猾よね。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』より。
=====
少女小説には二種類ある。あるいは、二種類の少女がいる。
man=人間=男性のサブジャンルであるwoman=女性のさらにサブジャンルに属する「少女」が、自分に要求されている属性を超えて存在しようとする小説。あるいはそのような少女。
地に足をつけ、現実の社会生活を存続させることを要求されている(と信じている)男性が、見る夢。少女という名の妖精が不思議の国に連れて行って、彼を救ってくれる小説。あるいはそのような少女。
私は少女小説が好きで、少女が好きだ。前者のあり方をよりまっとうなものと信じ、そのような少女小説を擁護したいと思うが、後者の作品の中にも素晴らしいとこころゆだねてしまうものがある。こちらがだめ、あちらが正しいとは言えない。どちらも素晴らしいものと、くだらないものを含んでいる。しかしこの二つははっきりと違う。この違いを言い表せないことにいつも歯がゆさを覚えていた。
だから、「L文学」というくくりは待ち望んでいたものだ。この名称自体の是非は別として。
私は前者の「少女」であるが、後者の「少女」として見られることが度々ある。そのような視線はおおむね不愉快なものであるが、そんな私でも、特定の誰かのためには妖精でありたいと思うことがある。
でも、その気持ちと場合ははっきりと区別して理解しておきたいものだ。
=====
わたしは二階堂ほど、「女」を演じられていない。
男たちの、「自分に要求されている属性を超えて存在しようとする」少女すら自らの夢の中に引きずり込もうとする、狡猾で手の込んだそのやり口に、対応しきれていない。
七つぐらい年下の高卒の兄ちゃんでも。
死んだ祖父でも。
お前たちが欲望している、わたしのキチガイ部分を、もっとも嫌悪しているのは、わたしなのだ。
わたしなのに。
笙野頼子の作品でこういうシーンがあった。タイトル忘れた。
新興宗教にはまる母に、その集会に連れて行かれ、周りの雰囲気に飲まれてしまい、憑依を演じて「しまった」主人公。
確かにその憑依的行動は演技かもしれない。主人公はそう感じている。
周りの信者たちが「誰か憑依しねえかなあ」と欲望することによって、「欲望とは他者の欲望である」の構造に則り、主人公は憑依を演じた。これはそういうケースと言えるだろうか?
違うと思う。
祖父のわたしを見る目は、ジジババたちのわたしを見る目は、欲望などではない、と思う。
彼女は、演じて「しまった」のである。憑依的な行動そのものは演技かもしれないが、演じて「しまった」ことは演技ではない。
わたしが戸川純を歌うのは、演技であるかもしれないが、歌っている時のわたしは、演技ではない。だから、マスターや常連たちに、何かを伝染させた。と本人は思っている。多少なりとも狂気を実感しているあるいはしたことのある人は、この狂気の伝染とも言うべき現象を、オカルトや妄想じゃなく実際のものとして知っているはずだ。
欲望は、確かにラカンの言う通り、鏡像的に反射する。情動もそうである。合わせ鏡の呪いだ。
欲動は、伝染する。鏡像的にではなく、身体的に。享楽的に。
わたしには、この主人公少女の心的事実が、とても生々しく感じられる。自分の憑依的行動は演技だと思ってしまうことを含めて。
痛い。苦しい。
一方、店のマスターや常連さんたちの、「キチガイいいよね」という欲望は、それほど痛くない。むしろそれはわたしを癒す。わたしにだって快楽原則くらいある。演技メソッドもそこそこ学んでいる。
……あれ? 癒されないこともあるぞ。自分でよくわからんくなった。ぷぎょー。
要するに、表情や発言を「読む」ことで欲望は連鎖するものだが、欲動は違うということを言いたかったのかな? かな?
わたしは正常人と口論する時、よくこんなセリフを使う。
「わたしは、お前たちの表情や言葉を見ているのではない。お前たちの肛門を見ているのだ」
ここでの「肛門」は、正常人でも、唯一その生々しさを多少とはいえ保存している部分欲動が、肛門欲動だと思っているから、そういう意味で表現している。いやそんなこと考えて言ったわけじゃないけど。
やっぱ「強度の丘」って言葉チョー便利だわ。この「強度の丘」は、表情や言葉を読むことにより感知できるものではない、技巧が崩れていることや積み重ねられていることにより感知されるものではない、ってことだねー。もちろんそこに導かれる道程には、表情や言葉あるいは技巧が存在するのは事実だけど。表情や言葉や技巧の存在を否定するわけではない、ってこと。
わたしは、笙野の作品には、特に前中期の作品には、この強度を感じる。ビンビン(笑)に。
あ、そうだイトウさんへ私信。こないだのテクスト評は、この強度がわたしには感じられなかった、と要約できるね。「強度」って言葉も勘違いされやすいように思えてイヤなんだけど。本当は。
まー酔った勢いでファンであることはマスターには言ってあるからいいやうpしちゃお。
好き好き大好き
好き好き大好き
好き好き大好き
アイシテル、って言わなきゃコロス!
わたしは、自分の子供でさえ、殺しそうな気がする。
子供そのものが、怖い。気持ち悪い。
だから、子供はいらない、と思ってきたし、今も思っている。
あーあと先に断っとくが
「脂さんのカラオケ聞きたくなりました(^▽^)」的な飲茶的レスは飲茶的レスとしてつまり悪意のこもった言葉と解釈するからね。
飲茶はいいけど。どうでも。たとえば、ね。
自分語りしている時のわたしは、定型人としてのわたしだ。神経症者が無自覚に生きられている幻想の世界へのしがみつきだ。
それに爪や歯を立てて、しがみついている。
わたしだって精液に塗れていたいのだ。頭では。しかしわたしは女性のエディプスコンプレックスである断頭コンプレックスに不具合があるらしい。だから、精液という実体に気づいてしまう。
なんかそれだけ。
しかし、この記事でも述べているように、自我や超自我が壊れている者と、自我や超自我が正常に機能している者が、一対一で対峙した時、その権力構造は逆転する。念のため引用しておく。
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構造を助長するサンボリックな幻想を生きる主体と、アブジェクシオンに親近するセミオティックな幻想を生きる主体が、一対一で対峙した場合、恐怖を感じて相手を畏怖するのは、前者、即ち定型人、即ち神経症者なのだ。これが、「権力」なる概念の本質ではあろう。ちょうど前記事で、ババアがわたしを異常者だとしておぞましく思っているように。
とはいえ、後者の主体も、セミオティック自体がおぞましさ(かつ魅惑的なもの)を惹起するものである故、他人も自分も、常に既に畏怖している。し続けている。これは、クリステヴァが前掲書で「作家とは原則的に幼児性恐怖症者である」と述べていることにも繋がるだろう。
彼らが対峙する時、そこに原理的に発生する畏怖は、両者にとって自他未分化的なものになるのだ。
要するに、アブジェクシオンに親近する領域では、「権力/被権力」という言語的二項対立は、脱構築される、ということだ。
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自我や超自我が正常に機能している者が、自我や超自我が壊れている者に、恐怖を感じる。
「恐怖」と書いたが、それは「生々しさ」や「畏怖」などに近いイメージ・情動である。
帝国主義者は、サバルタンを怖れるあまり、彼らを植民地化するのである。
サバルタンの本質は、弱者ではない。
戦闘力を持たない権力者である。無垢の本性は、畏怖を惹起させるものなのである。(こういう表現をすると誤解がありそうなのだが、「転移」と言うと定型発達者が非定型発達者にかけるHP回復魔法のような感じがしてまた違う意味になるし、これ以上よい表現はないので使わせてもらうならば)呪術的に。
自我や超自我が正常に機能している者、即ちパラノイアックな人間は、自我や超自我が壊れている狂人に、彼らが住まう辺境に、常に恐怖している。正常人は、この恐怖に常に支配されている。この恐怖によって、狂人や辺境を「棄却する」という定型が生じる。狂人や辺境に対し「臭い物に蓋をする」。定型発達者が生きてきた歴史は、この棄却する過程において、定型的即ち普遍的即ち多数派となる。
むしろ、「恐怖の権力」の存在こそが、それを棄却するという共通項を、その人格発達において生み出すものである。要するに、「恐怖の権力」こそが、正常人を正常人たらしめている本質的原因だ、というわけだ。
一般的な「権力/被権力」という構図は、この退行的なセミオティックな領域において、脱構築(笑)される。
最近の自分の文章を読んでいて、ガタリっぽい、社会参画主義の一環として正常人という権力者を告発しているブログだとか思われたらイヤだなあ、と自分勝手に思えたので、一応念のために書いておく。
わたしは、この領域を体感として知っている。その一つがこの記事で書いた出来事である。
こういった出来事を、わたしは常に生き続けてきた。
そんな自分がイヤだった。
他人に恐怖を惹起させるシャーマン的権力者たるサバルタンであることがイヤだった。
だから、わたしは兵士になった。演技を学んで、精液に塗れようとした。
結果、わたしは病んだ。
わたしはノマドたちを裏切り、さらに兵士たちをも裏切った。
わたしは、社会に参画したくてこんな文章を書いているんじゃない。
わたしは、お前たちのような精液を撒き散らしたがる定型発達者に向けて、わたしに精液をぶっかけるな、と言っている。
無神経にわたしに近づくな、と言っている。
社会に、不用意にわたしを飲み込むな、と言っている。
社会に、わたしを飲み込む覚悟はあるのか、と問うている。
主に、わたしを愛する資格はあるのか、と問うている。
アガペーや人間愛に、わたしを更正させるほどの現実感はあるのか、と問うている。
自傷的に。
わたしの発言や問いかけは、リストカットである。
わたしのような主体は、社会に悲劇的な出来事を、恐怖の権力を、リアルを召還させる魔女であることを、わたしの人生によって、わたしは学んでいる。
この記事から一例を引用する。
=====
嫌われるほど、劇団内の権威は高まった。仕込みの時など、「脂さんがいると団員はきびきび動くねえ」と外注スタッフに笑われたほどだ。
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サルトルやガタリのような、「実存とは生々しいものだ。不快なものだ。だから社会に参画したいんだいボクチンは」という立場では、ない。
それだけは、断っておく。
サルトルやガタリの主張・やっていることは、お笑い芸人が政治家になるようなものである。
政治家が芸人になりたがる蓮實のような下劣な人間よかなんぼかマシだがね。
どっちも一緒ではある。わたしから見れば。
自我や超自我が強すぎる故リストカットするパラノイアとのボーダーではなく、自我や超自我が壊れている故リストカットするスキゾフレニーや自閉症とのボーダー(今やこの領域は「スキゾイド」という言葉のみに狭められている、即ちアンテ・フェストゥム領域が侵略されている)から見れば、と思ってくれていいや。
いろいろめんどくさい。定型発達者にわたしを説明するのって。
でもわたしは兵士になるしかない。裏切り者の兵士。
言葉を語る以上、言葉がナイフであることを知りながら用いる、殺戮マシーンになるしかない。
神経症者を「高く飛ばないから落ちないイカロス」と、ラカンの「寸断された身体」やクラインの部分対象を「断片の世界」と、鏡像段階を異常なく経た定型発達者を「鏡の国の定型人」と、象徴的ファルスの想像的側面を「精液」と、ジャーゴンを文芸的(定型発達者のセンスを揶揄する言い方)に言い換える傾向が多いのは、わたしが裏切り者の兵士であるからだ。
自分で自分をバカだと思う。
本当に。
わたしは、祖父がとても嫌いでとても好きだった。
この「好きだった」は、後に顧みて、彼の印象が家族の誰より多く残っているから、好きだったのだろう、と後付けで思ったことだ。
事実、わたしは祖父を怖れていた。厳格なイメージがわたしにはあるが、周りの人にとっては柔和な人だったらしい。まあ大体そういう風に精液をぶっかけられるがままになるのだろう。死人とは。死人なんだから。
わたしは、祖父がわたしを見たりわたしについて親と話したりするのが、とてもイヤだった。怖かった。
祖父は近所のジジババに慕われていた。祖父の家にはよくジジババどもが集っていた。
祖父は、わたしにとって恐怖を惹起する何かを、ジジババたちに説いていると思った。もちろんこれは子供の妄想である。
だから、大嫌いだった。祖父も、ジジババどもも。
だけど、祖父と話した記憶も多く残っている。事実としては、祖父と会話した回数は少ないようにも思うが、何しろ癲癇を疑われていた頃のわたしの記憶であるので、当てになるわけがない。
祖父は、わたしにこう言った。
「お前は、他の子と仲良くしちゃいけない」
多分、幼稚園か小学校で周りの子とトラブルを起こし、それで説教された時の言葉だろうと辻褄合わせ的に思うが、正直覚えていない。言葉だけをよく覚えている。
この言葉が世間から見たらおかしいものであることに気づいたのは、小学生の頃だったか。マンガとかでよくある、キチガイっぽい子について親がよく言う、「あの子と遊んじゃいけないよ」っていうのの逆バージョンだな、とか思った記憶がある。それだけだが。
祖父も、わたしが脳波検査を受けていたことは当然知っていたはずだ。それ故の言葉だろう、と今ではなんの感慨もなく、辻褄合わせ的に思う。
自分の過去について、自分について、唯独論的に考える時、わたしはよく情動をなくす。それがとてもイヤだ。
周りの人や社会を引き合いに出して、ようやくわたしは情動を得る。わたしは情動に固着している。
だから、パラノイアとのボーダーが、抑鬱的な喪の情動に流されリストカットするのに対し、スキゾフレニーとのボーダーが、情動なく、ガタリ的表現なら機械的にリストカットする、という精神構造の違いが、わたしはよくわかる。わたしはスキゾイドの症状を「情動の否認」と表現する。痛み(刺激)は、情動の本質的領域にある。スキゾフレニーとのボーダーたちは、欲動的に情動を得ようとして(情動を承認あるいは欲望しているのではない)、リストカットする。二階堂奥歯は、自殺した。去勢済みである故あるいは死にながら生きている故、死を欲望するのが、パラノイアックなボーダーであり、乳児的な生々しい生を生きている故、欲動的あるいは機械的に、死に向かうのがスキゾフレニックなボーダーである、ということだ。前者は大人がやる自傷、後者は幼児的な退行的な未去勢的な主体がやる自傷、という違いである。正常という狂気から逃れようとしてする自傷、正常という狂気と向き合おうとしてする自傷、という違い。幻想的な自傷、(ラカン的な意味で)現実的な自傷、という違い。
だから、わたしは、リストカットするように社会を語る、と述べた。
ガタリは、「機械」という言葉を多用しながら、機械化される主体自身が感じる苦痛、恐怖を述べていない。定型発達者たちは、むしろ自分が機械化されることを望む。わたしの臨床上断言できる。彼らはむしろ機械化された主体を欲望する。それは、機械化された自らの内に沸き出るこの恐怖、苦痛を知らないから、幻想の中でしか生きられないから、そんなことを言えるのだ。
自分が、部分対象化してしまいそうな恐怖。
部分対象そのものが意味として持つ、癒しと苦痛という両面性の内、快楽原則に縛られた定型発達者たちあるいはパラノイアたちが棄却しがちな、苦痛としての側面。帝国主義者は快楽原則に縛られている故、サバルタンの言葉を歪曲し改竄し隠蔽してしまうのだ。
もちろん非神経症者であっても、自らを機械化されるのを望むことはあろう。しかしそれは、マゾヒストが現実界に親近するために自らの肉体を快楽の道具に使うようなものである。彼らはそれが両面性を持つことを承知でそれを欲望する。それは欲望というより享楽に近い。快楽に溺れるあまり自我的な快楽原則が壊れてしまったのがマゾヒストだとも言えるかもしれない。
むしろ自らが機械化されることに違和感を感じない症状こそが、定型発達というパラノイアックな精神障害を、正常という狂気を診断する一つのポイントであるとすら言える。自らが機械化されるということを幻想でしかわからない、現実感を喪失した、まさしく狂人たち。それが正常人である。
ガタリは、その症状を、現実を知っている分裂症者たちに押しつける。それは、定型発達者である自らの症状であることに気づかないまま。それは、快楽原則にパラノイアックに固着しているという意味で、正常という精神障害の一つの症状なのだ。彼は、周りの人間がロボットに見えてしまう統合失調症患者が訴える苦痛を、一生理解できないだろう。理屈でではなく、人間存在として。
ガタリは、分裂症者を語るには、あまりにもポスト・フェストゥム過ぎた。木村敏が「自分はポスト・フェストゥム的だ」と自嘲気味に自己分析しているのと比較すると、ガタリは開き直っているようにも見える。
「ボクチンだってビョーキなんだもーん」
下劣にもほどがある。
どんな情報も見逃さないが
自分捕らえる機能はない
レーダーマン
祖父は福耳だった。
わたしが高校生の時、祖父は死んだ。その遺体を前にして、母が泣きながら言った。
「あんたおじいちゃんの耳たぶ触るの好きだったでしょ。ほら、触っておやり」
わたしは葬式に出るのすら面倒に思っていて(宗教上、仏教式のいわゆる一般的な葬式とは異なる葬式だった)、胃もムカムカしていて、内心「チョーうぜえ」と思いながら、まあ演劇みたいなものだと思い直し、死骸の耳たぶを触った。
固かった。
吐きそうになった。
わたしはやっと、泣けた。
演劇をやるようになって、舞台上で涙を流す裏技を教えてもらった。
舞台袖で、喉に指を突っ込んでおいて、吐き気を保持したまま、演技する。泣くキッカケが来たら、吐き気を開放する。すると、自然と涙が出る。
嫌いなのに、耳たぶは触っていたのだ。
だから、わたしはわたしの記憶を信じられない。
わたしはわたしがわからない。
ただ、今になって、祖父の「他の子と仲良くしちゃいけない」という言葉の意味が、なんとなくわかるようになった。
社会の中で精神を病み、精神分析論を学んだ今になって、やっと。
祖父は、わたしが群れられない、体系化され得ないノマドであることを、釘刺ししたのだ。正常人になれない苦痛を一生味わうのだと、予言したのだ。
「お前はお前を受け入れてくれる群れを見つけても、常にそれを裏切るだろう」
わたしにおいて眼前する苦痛に満ちた断絶を、彼は彼の心的事実として、機械的に述べただけなのだ。
なんの情動も気遣いもなく。
そんなように思う。
今のわたしは、祖父の顔が上手く思い出せない。
そんなわたしから言わせれば、「ノマドロジー」などという言葉自体が、ノマドを体系化する、即ち正常という狂気で飲み込もうとする、多数であることをもって正常という肩書きを得られたに過ぎない権力者たちの、パラノイアックな権力行使である。
というわけで、ドゥルージアン(正確にはガタリアン)たちに向けて、わたしは「死んでいいよ。お前ら生きている価値ないよ」と言えるのだ。事実を述べているだけなのだ。
冗談じゃなくマジデ言っている。君たちの生は、『アンチ・オイディプス』的な意味で、非生産的であると。
去勢済みの主体であるという意味で、死にながら生きているわけだから、死んでいいよ、と言っている。
わたしの文章の、どこがおかしいだろうか?
遺体。痛い。
お腹が痛い。
いやこれはエアコンの効かせ過ぎ。
冷酒のおいしい店を見つけた。十二時で閉まっちゃうのがあれだけど。
落ち着いてて、客層もジジババが多くて、わたしが定型人でいられるお店。
一方、わたしが年甲斐もなく惚れているマスターがやっているカラオケパブは、朝七時までやってて、わたしをキチガイにするお店。
レーダーマーン! とかってシャウトするオバハンなんか気持ち悪がられてるに決まってるがな。
お世辞でも、『レーダーマン』とか『玉姫様』とか『HALF』とか『難破船』とか『抱いてくれたらいいのに』とか歌って、「あーちすとみてえ。感動する」とか言ってくれると、あっさり惚れてしまう。でも、なんていうか、このお店は、マスターや常連さんたちは、そんなわたしの実態を感じてくれているように思う。でも一方、谷山浩子とか『あずまんが大王』のOPとか歌うと、「らしくないねえ」とか言われて、ああやっぱりわかってくれてないんだな、と思う。上手いんじゃないらしい。むしろちょっとオンチなところがいいらしい。戸川純や中島みゆきは言わずもがなだが谷山浩子もちょっとオンチだと思うけどなあ。
あ、ちょっとオンチであればいいって話じゃないがね。歌にしろゲージツにしろ。上手さつまり技巧じゃないところの、ゲージツの判断基準としては、やっぱガタリの言葉、「器官なき身体上の強度の丘」ってのが使いやすいと思う。これは、「ちょっとオンチ」などのように技巧が崩れていることで顕現することもあれば、技巧を積み重ねることで顕現することもあるものだ。「生々しさ」だと、不快な側面をフィーチャリングし過ぎてて、技巧を否定するような意味に取られがちなので、補足説明するのがメンドクサイ。まあどちらにしろ本来のアートとアウトサイダーアートは別物であることを説明しなきゃなんないんだけど。そこでやっぱアルトーの「残酷演劇」だよなあ、ってわたしは思う。
ああ、ガタリンは巷のポモ思想家とかと比べたら遥かに「定型人向けにソレを説明する」センスはあると思ってるよ。今のわたしはクリステヴァ論者だけど、そのセンスはクリステヴァよりあると思う。定型人に対してものすごく気を遣っている。ラカンはむしろそのセンスを排除したがっている。定型人向けの気遣いをわざと排除しようとしている。
分裂分析サイコー(ここで言っていることと逆じゃん、なんてアホウなこと思わないでね)。
わたしは、キチガイ的な、『玉姫様』的な、「破壊姫」であることを、男に欲望されているだけかもしれない。ちょっとオンチなところがそういう部分を代理表象しているのかもしれない。心理カウンセラーたちの裏の顔のような、定型人たちの隠された欲望。生々しさを、「恐怖の権力」を欲望する男たち。まさに「欲望とは他者の欲望である」だ。
あ、いや男に限らんけどね。ある女友だちが失恋した時、わたしに「歌って」とせがんだことがある。わたしの歌は泣けるそうだ。でも選曲リストを考えたら、最近のきれいきれいなテレビドラマで泣くようなこととは違うと思う。本人が違うと思いたい。テレビドラマなら昼ドラ系のどろどろした涙。癒されることで流す涙とは真逆の涙。流すことで癒される涙。感じることで癒される苦痛。「癒す」の使い方がおかしいけど。
それもまあそういったことなように思う。
鏡の国ってとっても狡猾よね。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』より。
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少女小説には二種類ある。あるいは、二種類の少女がいる。
man=人間=男性のサブジャンルであるwoman=女性のさらにサブジャンルに属する「少女」が、自分に要求されている属性を超えて存在しようとする小説。あるいはそのような少女。
地に足をつけ、現実の社会生活を存続させることを要求されている(と信じている)男性が、見る夢。少女という名の妖精が不思議の国に連れて行って、彼を救ってくれる小説。あるいはそのような少女。
私は少女小説が好きで、少女が好きだ。前者のあり方をよりまっとうなものと信じ、そのような少女小説を擁護したいと思うが、後者の作品の中にも素晴らしいとこころゆだねてしまうものがある。こちらがだめ、あちらが正しいとは言えない。どちらも素晴らしいものと、くだらないものを含んでいる。しかしこの二つははっきりと違う。この違いを言い表せないことにいつも歯がゆさを覚えていた。
だから、「L文学」というくくりは待ち望んでいたものだ。この名称自体の是非は別として。
私は前者の「少女」であるが、後者の「少女」として見られることが度々ある。そのような視線はおおむね不愉快なものであるが、そんな私でも、特定の誰かのためには妖精でありたいと思うことがある。
でも、その気持ちと場合ははっきりと区別して理解しておきたいものだ。
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わたしは二階堂ほど、「女」を演じられていない。
男たちの、「自分に要求されている属性を超えて存在しようとする」少女すら自らの夢の中に引きずり込もうとする、狡猾で手の込んだそのやり口に、対応しきれていない。
七つぐらい年下の高卒の兄ちゃんでも。
死んだ祖父でも。
お前たちが欲望している、わたしのキチガイ部分を、もっとも嫌悪しているのは、わたしなのだ。
わたしなのに。
笙野頼子の作品でこういうシーンがあった。タイトル忘れた。
新興宗教にはまる母に、その集会に連れて行かれ、周りの雰囲気に飲まれてしまい、憑依を演じて「しまった」主人公。
確かにその憑依的行動は演技かもしれない。主人公はそう感じている。
周りの信者たちが「誰か憑依しねえかなあ」と欲望することによって、「欲望とは他者の欲望である」の構造に則り、主人公は憑依を演じた。これはそういうケースと言えるだろうか?
違うと思う。
祖父のわたしを見る目は、ジジババたちのわたしを見る目は、欲望などではない、と思う。
彼女は、演じて「しまった」のである。憑依的な行動そのものは演技かもしれないが、演じて「しまった」ことは演技ではない。
わたしが戸川純を歌うのは、演技であるかもしれないが、歌っている時のわたしは、演技ではない。だから、マスターや常連たちに、何かを伝染させた。と本人は思っている。多少なりとも狂気を実感しているあるいはしたことのある人は、この狂気の伝染とも言うべき現象を、オカルトや妄想じゃなく実際のものとして知っているはずだ。
欲望は、確かにラカンの言う通り、鏡像的に反射する。情動もそうである。合わせ鏡の呪いだ。
欲動は、伝染する。鏡像的にではなく、身体的に。享楽的に。
わたしには、この主人公少女の心的事実が、とても生々しく感じられる。自分の憑依的行動は演技だと思ってしまうことを含めて。
痛い。苦しい。
一方、店のマスターや常連さんたちの、「キチガイいいよね」という欲望は、それほど痛くない。むしろそれはわたしを癒す。わたしにだって快楽原則くらいある。演技メソッドもそこそこ学んでいる。
……あれ? 癒されないこともあるぞ。自分でよくわからんくなった。ぷぎょー。
要するに、表情や発言を「読む」ことで欲望は連鎖するものだが、欲動は違うということを言いたかったのかな? かな?
わたしは正常人と口論する時、よくこんなセリフを使う。
「わたしは、お前たちの表情や言葉を見ているのではない。お前たちの肛門を見ているのだ」
ここでの「肛門」は、正常人でも、唯一その生々しさを多少とはいえ保存している部分欲動が、肛門欲動だと思っているから、そういう意味で表現している。いやそんなこと考えて言ったわけじゃないけど。
やっぱ「強度の丘」って言葉チョー便利だわ。この「強度の丘」は、表情や言葉を読むことにより感知できるものではない、技巧が崩れていることや積み重ねられていることにより感知されるものではない、ってことだねー。もちろんそこに導かれる道程には、表情や言葉あるいは技巧が存在するのは事実だけど。表情や言葉や技巧の存在を否定するわけではない、ってこと。
わたしは、笙野の作品には、特に前中期の作品には、この強度を感じる。ビンビン(笑)に。
あ、そうだイトウさんへ私信。こないだのテクスト評は、この強度がわたしには感じられなかった、と要約できるね。「強度」って言葉も勘違いされやすいように思えてイヤなんだけど。本当は。
まー酔った勢いでファンであることはマスターには言ってあるからいいやうpしちゃお。
好き好き大好き
好き好き大好き
好き好き大好き
アイシテル、って言わなきゃコロス!
わたしは、自分の子供でさえ、殺しそうな気がする。
子供そのものが、怖い。気持ち悪い。
だから、子供はいらない、と思ってきたし、今も思っている。
あーあと先に断っとくが
「脂さんのカラオケ聞きたくなりました(^▽^)」的な飲茶的レスは飲茶的レスとしてつまり悪意のこもった言葉と解釈するからね。
飲茶はいいけど。どうでも。たとえば、ね。
自分語りしている時のわたしは、定型人としてのわたしだ。神経症者が無自覚に生きられている幻想の世界へのしがみつきだ。
それに爪や歯を立てて、しがみついている。
わたしだって精液に塗れていたいのだ。頭では。しかしわたしは女性のエディプスコンプレックスである断頭コンプレックスに不具合があるらしい。だから、精液という実体に気づいてしまう。
なんかそれだけ。