感情開放
2008/08/17/Sun
わたしは演劇で役者の稽古をすることにより、怒涛のように周りの空気が読めるようになった、とここで書いた。
身体的な訓練によるものではあるが、理屈的なところで、この「怒涛のように周りの空気が読めるようになった」ことに強く影響したのは、能の序破急という概念である。
渡邊守章氏の論文で、能における序破急とは、巷でよく言われるような、ストーリー構成としての起承転結に当てはまる意味だけではなく、演者の所作にも当てはまる概念だということを知った。
わたしにとってこれは天啓だった。
一つ一つの動作が、コード化されているのだ。物語的な定型を持っているのだ。こういった定型を、他の人たちは無意識的に会得できているのだ。わたしはたまたまその定型に上手くはまっていないのだ。レーダーマンになれていないのだ。
「自分を見つめる孤独な毎日」の中で、わたしはそう確信した。
そして多分、この発見が、離見の見に繋がったと思う。
「わたしはたまたまその定型に上手くはまっていないのだ。」という冷徹な判断こそが、一つの離見の見である。
これが過剰になり、わたしは「(演技に限らず)全ての人間関係は定型のやり取りである」という思想を持つようになった。
そうしてわたしは、物語恐怖症に陥った。
(……やっぱり。そんなこと知らなきゃよかったのだ。離見の見なんて気づかなければよかったのだ)
身体知と言語的知の絡み合いにより構成された、わたしの思想は、わたしの身体内部からのうめきによって否定された。
この否定は、赤ん坊の泣き声だ。否定そのものだ。
ならば、わたしは否定そのものになってやろう。
そうしてわたしは、魔女ランダになった。
……ああ、イヤな思い出が。
昔いた劇団で、感情開放なる稽古があった。
これは、たとえば「全力で笑う」「全力で泣く」といった状態を、数十秒間持続させるものだ。やればわかるが、全力で笑ったり泣いたりするのは、実はとても難しい。いざそうやれといわれると、自分がこれまでいかに全力で笑ったり泣いたりしていなかったことがわかる。
理屈屋のクセに地に足のついてない理屈ばっか強い主宰は、この稽古について、「舞台に上がった時どうしても出てしまう恥ずかしさや照れをなくすものだ」などと説明していたが、彼に輪をかけて理屈屋であったわたしは、違う説明をしていた。曰く、
「人の所作は全て「序破急」で成り立っている。この稽古は「破」の領域を身体的に自覚するものである。このことは「メリハリの効いた演技」に繋がってくる。たとえば、AとBという全く違う領域を行き来するのがメリハリなわけだが、日常の所作はAからBに移行しても、大体Aの名残がこびりついたBになる。よって日常の所作にはメリハリが生じない。「序破急」ならば、Aが「序」でBが「急」である。その移行領域としての「破」を自覚することにより、AからBへの所作の移行を、メリハリを効かせたものにしたり、あるいはメリハリを効かせないものにしたりすることができるようになる」
みたいな。自分で書いて今頃気づいたが、やっぱわたしを気持ち悪がっていた団員たちは正しかった。こんなこと言う奴キモイ。主宰の説明の方が簡潔かつ正しい。自分で思う。
しかしわたしは本当にそう思って稽古していた。なので、ある時、開放しすぎてしまった。
要するに、「全力で笑」いすぎて、失神してしまったのだ。
とはいえ直後ケロリと治って(吐いたかもしんない)、団員に白い目で見られたものだ。
え? ああうん、自己治療のための文章だ。キニスンナ。
身体知とか考えてるせいだな。pikarrr氏のせいだ。どうしてくれる? あ、この新記事について話ならここのコメントを関連させて考えてみると面白いかもね。
つーかあれだな。「わたしが失神した」という状況こそが一つの生々しいリアルの顕現だったような気がするな。その時の周りのしらけたような張りつめたような反応を考えると。
あーキモ。自分が。
身体的な訓練によるものではあるが、理屈的なところで、この「怒涛のように周りの空気が読めるようになった」ことに強く影響したのは、能の序破急という概念である。
渡邊守章氏の論文で、能における序破急とは、巷でよく言われるような、ストーリー構成としての起承転結に当てはまる意味だけではなく、演者の所作にも当てはまる概念だということを知った。
わたしにとってこれは天啓だった。
一つ一つの動作が、コード化されているのだ。物語的な定型を持っているのだ。こういった定型を、他の人たちは無意識的に会得できているのだ。わたしはたまたまその定型に上手くはまっていないのだ。レーダーマンになれていないのだ。
「自分を見つめる孤独な毎日」の中で、わたしはそう確信した。
そして多分、この発見が、離見の見に繋がったと思う。
「わたしはたまたまその定型に上手くはまっていないのだ。」という冷徹な判断こそが、一つの離見の見である。
これが過剰になり、わたしは「(演技に限らず)全ての人間関係は定型のやり取りである」という思想を持つようになった。
そうしてわたしは、物語恐怖症に陥った。
(……やっぱり。そんなこと知らなきゃよかったのだ。離見の見なんて気づかなければよかったのだ)
身体知と言語的知の絡み合いにより構成された、わたしの思想は、わたしの身体内部からのうめきによって否定された。
この否定は、赤ん坊の泣き声だ。否定そのものだ。
ならば、わたしは否定そのものになってやろう。
そうしてわたしは、魔女ランダになった。
……ああ、イヤな思い出が。
昔いた劇団で、感情開放なる稽古があった。
これは、たとえば「全力で笑う」「全力で泣く」といった状態を、数十秒間持続させるものだ。やればわかるが、全力で笑ったり泣いたりするのは、実はとても難しい。いざそうやれといわれると、自分がこれまでいかに全力で笑ったり泣いたりしていなかったことがわかる。
理屈屋のクセに地に足のついてない理屈ばっか強い主宰は、この稽古について、「舞台に上がった時どうしても出てしまう恥ずかしさや照れをなくすものだ」などと説明していたが、彼に輪をかけて理屈屋であったわたしは、違う説明をしていた。曰く、
「人の所作は全て「序破急」で成り立っている。この稽古は「破」の領域を身体的に自覚するものである。このことは「メリハリの効いた演技」に繋がってくる。たとえば、AとBという全く違う領域を行き来するのがメリハリなわけだが、日常の所作はAからBに移行しても、大体Aの名残がこびりついたBになる。よって日常の所作にはメリハリが生じない。「序破急」ならば、Aが「序」でBが「急」である。その移行領域としての「破」を自覚することにより、AからBへの所作の移行を、メリハリを効かせたものにしたり、あるいはメリハリを効かせないものにしたりすることができるようになる」
みたいな。自分で書いて今頃気づいたが、やっぱわたしを気持ち悪がっていた団員たちは正しかった。こんなこと言う奴キモイ。主宰の説明の方が簡潔かつ正しい。自分で思う。
しかしわたしは本当にそう思って稽古していた。なので、ある時、開放しすぎてしまった。
要するに、「全力で笑」いすぎて、失神してしまったのだ。
とはいえ直後ケロリと治って(吐いたかもしんない)、団員に白い目で見られたものだ。
え? ああうん、自己治療のための文章だ。キニスンナ。
身体知とか考えてるせいだな。pikarrr氏のせいだ。どうしてくれる? あ、この新記事について話ならここのコメントを関連させて考えてみると面白いかもね。
つーかあれだな。「わたしが失神した」という状況こそが一つの生々しいリアルの顕現だったような気がするな。その時の周りのしらけたような張りつめたような反応を考えると。
あーキモ。自分が。