続・セカイ系ってなに?
2006/12/09/Sat
前の記事でセカイ系を論じた。後で読み返して決定的な欠点があったので補足します。
私は主人公カップルと社会(ラカン論でいう象徴界)の関係性だけに着目し、それを「希薄、敵」と表現しました。しかし、こちらのブログにあるように、父性的な社会(象徴界)の外側にいる、エヴァンゲリオンなら「使徒」のような、「漠然とした敵」という点について全く論じていませんでした。そこを、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理で軽く補足したいと思います。
確かに前の記事で例に挙げた五作品(「エヴァンゲリオン」「エウレカセブン」「最終兵器彼女」「イリヤの空、UFOの夏」「涼宮ハルヒの憂鬱」)には、大人の父性的な社会の外側に、「地球外生命体」的な「漠然とした敵」がどれも存在しています。先に挙げたブログでは、これに加え傾向として「父性的な社会(象徴界)の消失」を指摘しています。全くその通りだと思います。
ハルヒはともかく、セカイ系における主人公は父性と戦うと同時に外側の「漠然とした敵」とも戦っているのですね。
この「漠然とした敵」。それは曖昧としています。作中ではあまり明確に語られません。しかし、それらを見渡すと、ある共通性を見出せます。それは、「漠然とした敵」が、主人公たちと全く関係ない他人ではないのです。例えばエヴァなら使徒は人類そのものだったとか、エウレカではヒロインはコーラリアンという敵と同じ存在であったとか、ハルヒに至ってはハルヒ自身の気付いていない能力が敵と化します。
それは当然です。先のサイトでも書いていますが、主人公カップルの女性側(戦闘美少女)が、「漠然とした敵」がいる世界との仲介者となるからです(エヴァではこの構図は少し微妙になりますが)。
「漠然とした敵」がいる漠然とした世界。曖昧な世界。それとの仲介者たる女性。先のブログではそれを「戦闘美少女」と表現していますが、これは神話哲学的に見ると、まさにシャーマン(巫女)の役割となります。近くは少女向けアニメである魔法少女モノ、古くは「シンデレラ」。神話哲学ではこの曖昧な世界は死の世界であったり、水界であったり、森・山の世界であったりしました。現実世界から空想される世界(=曖昧な世界)といってもよいでしょう。神話哲学において、巫女や魔女的な女性は、メタ世界との仲介者として最もメジャーなキャラクターと言えます。
エロスも曖昧なものとしては、仲介者としてメタファー的補強になります。ヒステリー性も、狂気と考えれば、儀式のトランスなどのように呪術性と深い関連があります。戦闘美少女の特徴のこの二点については神話哲学で説明できますが、肝心の「戦闘」はできていませんね。戦いとは自我の差異化だと考えれば、曖昧というよりは確かなものへの方向だと考えられます。シンデレラの元となった民話「灰かぶり少女」のように、豆や山鳩という両義性(=曖昧さ)のシンボルをその身に集積していることがありません。むしろ、「曖昧なもの」のメタファーを重ねあわせる中に「確かなもの」をアクセント的に挿入することで、バランスをとり、少女の中にアニムスを見出すという意味でリアルな人間味(女性は幼児から成人するまでにアニムスを排除・抑圧して女性らしく育つ)が生まれているとも言えるのではないでしょうか。だからこそ戦闘美少女は「少女」でなくてはならない。巫女・魔女の人間化としてのアクセント、のような言い方ですかね。斉藤環氏のいうように(「ペニスを持つ少女」)、「戦闘」という要素をファルスの表出と考えたら、男性視聴者は、基本としては主人公男性に自己を投影する(感情移入)するものの、自身のファルスだけはその少女に投影している、という交錯した構造が見て取れます。
この交錯は何が原因でしょうか。
前の記事でマリオブラザーズのような王女救出劇という物語的類型を示しました。中沢新一氏によれば王とは「酋長(人間社会の調整役)とシャーマンの合体」らしいです。そう考えれば、王女を手に入れるということは「社会の権力」と「仲介者としてのシャーマン」の両方を手に入れるということになります。新しい王という奴ですね。社会に通用するほどの(視聴者がファルスを投影する)「戦闘力」と「シャーマンとしての能力」を持った「戦闘美少女」は、この「王女」を原型とした「異文」と言えるのではないでしょうか。呪術的・神秘的な力と現実的な力を兼ね備えた、ジャンヌダルク的な。私の勝手な比喩で言うと、救出された王女と、救出したヒーロー(の息子)の後日談みたいなイメージになります。
ではこの読み解きから、今後の流れを私の直感的に予想してみましょうか。
主人公男性から主人公女性へ、呪術的な力・現実的な力ともに背負わせた結果としての戦闘美少女。これは神的な人間となります。女性なら、処女性と母性を両方持っている超越的女性、聖母ですね。流れとしてはこういった地点まで一度振り切れるのではないでしょうか。母性ということは主人公男性(少年)のファルスを満たす立場になります。エヴァではシンジには最初からファルスの種は与えられていましたが、今後のセカイ系は何の力もない主人公少年に、何らかの特権的能力を、主人公女性が与えるという流れが考えられます。エヴァでいうなら兵器としてのエヴァンゲリオンの戦闘美少女化でしょうか。「灼眼のシャナ」にはそういう匂いが感じられますね。主人公女性と行動を共にすることで特権的能力を得ていく少年。そんな流れかな、と適当な予想を書いておきます。
ベタな設定なら戦闘美少女化した主人公少女(戦闘モードではロボット化してしまうとかって設定で)を少年が思念とかで思い通りに操るとか。セックス(同一化)の暗喩にもなりそうだし微妙に良さそうですね。まあベタすぎな気もしますが。
ただ、それで少年が能力を得、前の記事で示した「第二の去勢」的な母性父性の二重構造の打破をどうするかという問題は残りますが。
うーん、なんかセカイ系を構造的に読み解いたに過ぎない文章になってしまいましたが、今日はこんなところで……。
私は主人公カップルと社会(ラカン論でいう象徴界)の関係性だけに着目し、それを「希薄、敵」と表現しました。しかし、こちらのブログにあるように、父性的な社会(象徴界)の外側にいる、エヴァンゲリオンなら「使徒」のような、「漠然とした敵」という点について全く論じていませんでした。そこを、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理で軽く補足したいと思います。
確かに前の記事で例に挙げた五作品(「エヴァンゲリオン」「エウレカセブン」「最終兵器彼女」「イリヤの空、UFOの夏」「涼宮ハルヒの憂鬱」)には、大人の父性的な社会の外側に、「地球外生命体」的な「漠然とした敵」がどれも存在しています。先に挙げたブログでは、これに加え傾向として「父性的な社会(象徴界)の消失」を指摘しています。全くその通りだと思います。
ハルヒはともかく、セカイ系における主人公は父性と戦うと同時に外側の「漠然とした敵」とも戦っているのですね。
この「漠然とした敵」。それは曖昧としています。作中ではあまり明確に語られません。しかし、それらを見渡すと、ある共通性を見出せます。それは、「漠然とした敵」が、主人公たちと全く関係ない他人ではないのです。例えばエヴァなら使徒は人類そのものだったとか、エウレカではヒロインはコーラリアンという敵と同じ存在であったとか、ハルヒに至ってはハルヒ自身の気付いていない能力が敵と化します。
それは当然です。先のサイトでも書いていますが、主人公カップルの女性側(戦闘美少女)が、「漠然とした敵」がいる世界との仲介者となるからです(エヴァではこの構図は少し微妙になりますが)。
「漠然とした敵」がいる漠然とした世界。曖昧な世界。それとの仲介者たる女性。先のブログではそれを「戦闘美少女」と表現していますが、これは神話哲学的に見ると、まさにシャーマン(巫女)の役割となります。近くは少女向けアニメである魔法少女モノ、古くは「シンデレラ」。神話哲学ではこの曖昧な世界は死の世界であったり、水界であったり、森・山の世界であったりしました。現実世界から空想される世界(=曖昧な世界)といってもよいでしょう。神話哲学において、巫女や魔女的な女性は、メタ世界との仲介者として最もメジャーなキャラクターと言えます。
エロスも曖昧なものとしては、仲介者としてメタファー的補強になります。ヒステリー性も、狂気と考えれば、儀式のトランスなどのように呪術性と深い関連があります。戦闘美少女の特徴のこの二点については神話哲学で説明できますが、肝心の「戦闘」はできていませんね。戦いとは自我の差異化だと考えれば、曖昧というよりは確かなものへの方向だと考えられます。シンデレラの元となった民話「灰かぶり少女」のように、豆や山鳩という両義性(=曖昧さ)のシンボルをその身に集積していることがありません。むしろ、「曖昧なもの」のメタファーを重ねあわせる中に「確かなもの」をアクセント的に挿入することで、バランスをとり、少女の中にアニムスを見出すという意味でリアルな人間味(女性は幼児から成人するまでにアニムスを排除・抑圧して女性らしく育つ)が生まれているとも言えるのではないでしょうか。だからこそ戦闘美少女は「少女」でなくてはならない。巫女・魔女の人間化としてのアクセント、のような言い方ですかね。斉藤環氏のいうように(「ペニスを持つ少女」)、「戦闘」という要素をファルスの表出と考えたら、男性視聴者は、基本としては主人公男性に自己を投影する(感情移入)するものの、自身のファルスだけはその少女に投影している、という交錯した構造が見て取れます。
この交錯は何が原因でしょうか。
前の記事でマリオブラザーズのような王女救出劇という物語的類型を示しました。中沢新一氏によれば王とは「酋長(人間社会の調整役)とシャーマンの合体」らしいです。そう考えれば、王女を手に入れるということは「社会の権力」と「仲介者としてのシャーマン」の両方を手に入れるということになります。新しい王という奴ですね。社会に通用するほどの(視聴者がファルスを投影する)「戦闘力」と「シャーマンとしての能力」を持った「戦闘美少女」は、この「王女」を原型とした「異文」と言えるのではないでしょうか。呪術的・神秘的な力と現実的な力を兼ね備えた、ジャンヌダルク的な。私の勝手な比喩で言うと、救出された王女と、救出したヒーロー(の息子)の後日談みたいなイメージになります。
ではこの読み解きから、今後の流れを私の直感的に予想してみましょうか。
主人公男性から主人公女性へ、呪術的な力・現実的な力ともに背負わせた結果としての戦闘美少女。これは神的な人間となります。女性なら、処女性と母性を両方持っている超越的女性、聖母ですね。流れとしてはこういった地点まで一度振り切れるのではないでしょうか。母性ということは主人公男性(少年)のファルスを満たす立場になります。エヴァではシンジには最初からファルスの種は与えられていましたが、今後のセカイ系は何の力もない主人公少年に、何らかの特権的能力を、主人公女性が与えるという流れが考えられます。エヴァでいうなら兵器としてのエヴァンゲリオンの戦闘美少女化でしょうか。「灼眼のシャナ」にはそういう匂いが感じられますね。主人公女性と行動を共にすることで特権的能力を得ていく少年。そんな流れかな、と適当な予想を書いておきます。
ベタな設定なら戦闘美少女化した主人公少女(戦闘モードではロボット化してしまうとかって設定で)を少年が思念とかで思い通りに操るとか。セックス(同一化)の暗喩にもなりそうだし微妙に良さそうですね。まあベタすぎな気もしますが。
ただ、それで少年が能力を得、前の記事で示した「第二の去勢」的な母性父性の二重構造の打破をどうするかという問題は残りますが。
うーん、なんかセカイ系を構造的に読み解いたに過ぎない文章になってしまいましたが、今日はこんなところで……。