自閉症者は、生まれながらの分析家である。
2008/08/19/Tue
わたしは、(理想の)精神分析家とは、女性性そのものじゃないかと思っていた。フィーリングで。
ラカンの「分析家のディスクール」によってもこのフィーリングは補強される。対象aが能動者の立場にいる。
しかし、この記事でも書いているように、非ファルスという意味での、非男性性という意味での女性性を考えれば、むしろ自閉症者の方が、本質的に女性性的主体であることがわかった。
となると、分析家が目指す主体とは、自閉症者のような主体なのだろうか?
暴論だと思える。どーだろ? と思える。
しかし、ここを読んで欲しい。引用する。
=====
よく自閉症の人の恋愛は、相手をモノとしてしか見ないと言われますが、もしこれがそうなら、その通りだと認めざるを得ません。タカラモノです。
=====
これこそが、「自らの欲望を認めながら、分析に欲望の介入があってはならない」分析家のあるべき姿ではないか。
こここそに、他者という主体を物自体的な/Sとして、自らという主体を部分対象的な対象aとして語らう「分析家のディスクール」が成り立ってはいないか。
その真理のうちに、S2即ち精神分析理論という知識がないだけである。
しかしこの夫婦は、精神分析理論ではない発達心理学や独自の経験に基づいた知識から、「擬似SAM」なる概念に辿り着いた。
これこそが、彼らがお互いに「分析家のディスクール」を交換した結果生まれたS1ではないか。
S2など、精神分析理論だろうが発達心理学だろうがネトゲの知識だろうがマンガの知識だろうが、なんでもいいのだ。
ちなみにわたしは、バロン=コーエンの言うSAMやスターンの言う間主観的自己感は、ラカンの象徴的ファルスと非常に近いものだと考えている。また最近では、彼らの言う擬似SAMとサントームの関連に気が向いてしまう。
結論。
自閉症者は、生まれながらの分析家である。
ボーロンボーロン。あ、なんか響きがバロン=コーエンと似てるね。
まあ野暮なツッコミをしておくなら、このケースは、良きパートナーが見つかったことによって、(トラウマの回帰などではないという意味で)生々しい鏡像関係が生じ、主体が部分対象的なものに昇華された事例であり、他の自閉症者全てが対象a的であるとは言えないだろう。
わたしはむしろ自閉症者は、このようなケースに遭遇しない限り、斜線の取れた生々しいSに親近する主体であると思っている。
ある意味、現実界そのものとしての主体。
自閉症者同士で語らえば鏡像段階的な過程を実現できる、というわけではない。そもそも鏡像段階自体が支配的あるいは攻撃的な傾向を発揚させるものである。「欲望のシーソー」である。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。ここだけは補足しておく。
あ、あと自閉症者は有限の多義ではなく無限義の意味の世界を生きているという意味で、まさしく脱構築の世界を生きているとも言えると思うよ。彼らのディスクールは常に既に脱構築する、脱構築されている。彼らの意図など関係なく。
なーんだ、ポモが目指した理想人格って自閉症じゃない。統合失調症とかスキゾイドとかでも別にいいけれど。
そりゃー定型発達者たちに侵略されるわな。その曖昧でささやかな居場所すら。
定型発達者たちが無自覚に行っている、自閉症者たちに対する快楽殺人は、まだまだ終わりそうにない。
さてここで、四つのディスクールの例外として、「快楽殺人者のディスクール」なるものを、揶揄として定式化してみたい。
S1 → 対象a
― ――
S2 /S
これは、定型発達者であるのにアスペやスキゾを名乗りたがる人間たち、大人になれているのに大人じゃないフリをする仮面退行者たち、笙野頼子の言葉なら「反権力ブリッコする権力者たち」の、症状そのものを示している。
たとえば新宮一成は「大学のディスクール」を「科学のディスクール」と読み直しているが、そういう読み直しを可とするなら、これは「動物化したオタクのディスクール」と読み直してもよかろう(この記事も参考になるか)。現代オタク文化の中で一つの潮流としてあるヤンデレ系などは、このディスクールの傾向が強いと考えられる。
結果、生成されるものは/Sとなるが、これが東浩紀の言う動物化の最終形態となろう。それはそんなに大仰なものではない。/Sを能動者としたディスクールは既に「ヒステリー者のディスクール」として存在する。
動物化の最終形態は、単なるヒステリーである。
加藤智大やコミケ爆破予告犯人や2ちゃんで犯罪予告をする主体たちは、(その個別主体の分析とは関係なく)「ヒステリー者のディスクール」化の端緒と考えなければならないのではないか。
また、そもそも元来の(九十年代中頃以前の)オタク文化は、「大学のディスクール」的な性格があったのに対し、一般化により能動者が真理と入れ替わってしまい、上記のようなディスクールの傾向が強くなったのが現代オタク文化だ、などと表現できるかもしれない。
フェミニズム的文脈によるなら、ちょっと表現は古いが(すまん中島みゆきの『やまねこ』聞いてた)「女衒のディスクール」なんてのもありか。ちょっとしっくりこないな。まあいいや。
あるいは、最近のマイフェイバリットな表現である、象徴的ファルスの想像的側面としての「精液」なども、この定式に組み込まれるだろう。
S1 → 対象a
― ――
S2 (精液) /S
うんうん、ファルスっていうより超自我っぽいものに基づいてぶっかけてきてる感じはするもん。ここのコメント欄とか。S1じゃなくS2から射精される精液。ちっちゃなちんちんから吐き出される精液。
この精液に生物学的男女は関係ない。むしろ定型発達的な女性ほどそれをぶっかけてくるケースが多い。
わたしは、このディスクールを経て、/Sとなった。誰かの対象aになろうとして、/Sを出産してしまった。その斜線は壊れていた。斜線が壊れている故、わたしはわたしを出産したことになる。
もし、斜線が壊れてなかったら。わたしが定型発達者だったら。去勢されていたなら。
神経症者の生きる世界では、それはヒステリーと呼ばれているらしい。
……揶揄よ? 揶揄。
そんなこんなで「ヒステリー者のディスクール」を目指すわたしであった。
なのでどんどん分析してちょ(はぁと)。
お前たち定型発達者は、それを否認しようが承認しようが、象徴的ファルスを常に既に持っている。S1は常に既にそこにある。お前らが語らいの中に求めているのはS1ではなくS2である。お前らが語らうべき相手は自閉症者ではない。笙野頼子やわたしというヒステリー者である。
さあ、語らいましょう。
同じメスでお前らのファルスを切り刻んであげる。
お前らを自閉症者にしてあげる。
だって、それがあなたたちの言う享楽なんでしょ?
現実界に触れられる領域なんでしょ?
小笠原晋也が触れた生々しい世界なんでしょ?
なんか某ヘタレ心理カウンセラーとかちょっとメスの切っ先が触れただけでキャンキャン吠えながら逃げちゃったもんなあ(ここのコメント欄ね)。
わたしからメスを取り上げようとする奴らもついでに切り刻む。糞便に塗れたメスで。切れ味は悪くなるけどね。切り刻んでも、阿部定みたいに持ち帰らない。わたしにとってそいつらは糞便だから。糞便だと思っているから、それがわたしの「愛」や「思い遣り」や「気遣い」だと思っている。
だからわたしはこう宣言する。
「わたしはアガペーを否認する」
「わたしはわたしという存在のために、わたしの倫理として、狂人と正常人の断絶を守る(パラノイアックなそれはともかく少なくともスキゾフレニックなBPDを認めない)」
最近音楽ブログばっか書いてて本家ブログが全く更新されずつまんねーなーと一言言いたい某サイコドクター氏の日記から。
=====
しかも、どうみても境界型人格障害なのに紹介状をみると精神分裂病という診断がついていたり。どうも、小笠原医師には「人格障害など存在しない」という確固たる信念があったようです。ラカン派ってのはそういう立場なのかな? ラカンなどわからんこっちから見ると明らかに人格障害なんですが。
====
あ、いや定型発達者なわたしとしては「流石に現場ではボーダー認めないとさー」とか「ほどほどのところで」的に思ったりするんだけどね。
だってお薬もらえなくなるじゃん。
ラカンは言った。
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
ちなみに四つのディスクールの例外として、ラカン本人が定式化した「資本家のディスクール」なるものがあるが、これも「ヒステリー者のディスクール」と等しく能動者が/Sなのよねー。他者がS2になるけれど。
はいはい! わたし株で食ってます! 経営者だろうが現場の人だろうが労働者はきりきり働けって思ってます! 株で負けて経営者という労働者に成り下がった某飲茶さんとか見下してます!
ほおれ、わたし以上に分析すべき主体はいないだろう?
さあさあいらっしゃーい。
あなたの肉を切り刻んであげるわ。
勝ち負けとかじゃない。それはただの享楽。享楽であるだけ。だからこの享楽のために、延々と切り刻み続けてあげるわ。
だって、それが享楽なんでしょ?
現実界に触れられる領域なんでしょ?
わたしが泣きながらこんなこと言っているとか想像できないんでしょ?
わたしの涙の中に享楽があるんでしょ?
きょーらくきょーらくぅ(サービスサービスゥのノリで)。
ラカンの四つのディスクールは、神経症者が神経症である限り、定型発達者が定型である限り、エコノミー的にそこに帰着するという意味で、定式化されたものと考えられなければならない。
ということは、「動物化したオタクのディスクール」や「資本家のディスクール」は、あくまで例外のそれであるので、いずれ廃れていくものとも考えられる。ネオリベ的な「神の見えざる手」によって。
しかし、その手が憑依する依代がなければ、時代という幻想は「突然停止した映画」のように何も変わらないだろう。
ラカニアンたちよ。
今こそ師の教えに忠実であるべき時ではないか?
お前たちの責務を果たすべき時ではないか?
「資本家のディスクール」や「動物化したオタクのディスクール」という例外を、分析し解体するのが、師への礼儀ではないか?
まあそうやって本来の語り相手たるわたしが長椅子に座る順番は後回しになるのだろうね。
いーよ、好物は後に取っといても。魔女ランダはいつまでも待っている。ストーカーのごとく恨み節をぐじぐじとこぼしながら。たとえわたしが死んだとしても、違う体を借りて、ヒステリー者は生れ落ちる。
魔女ランダは、死んでも生き返る。
……え? お前がやれって? アホ言うな。最初に書いておろう。わたしがしたいのは「ヒステリー者のディスクール」だと。そもそも「分析家は自らの欲望の存在を認めながら、分析にそれを介入させてはいけない」とかただのオナ禁じゃねえかwww きめえwww ってここでも批判しとろうが。
=====
解釈の押しつけだと言われようがなんでもありなのがわたしにとっての精神分析だ。わたしは精神分析家ではない。なりたくもない。欲望の存在を屈折させる壊れた人形なんか、対象aの立場なんかもうゴメンだ。わたしはわたしであれ他人であれ自他に限らない欲望に、自らが妥協しないために精神分析を道具として用いている。精神分析家という一つの宗教集団内では真っ先に排除されなければならない行為だろう。
=====
わたしは分析家の立場など、対象aの立場など、既に放棄している。
隣の恩師の名も知らぬ ビルの立ち並ぶ幻想の街
守ってくれる人もない
危険に晒される目撃者
だけど恐怖なぞくだらない
そして悪癖は治らない……
泣いてないけどね。泣きそうだけど。むしろニヤニヤしている。
あなたはわたしの真理。真理だから、助けてもらわなくていいし、助けてあげられない。
真理だから、近寄ってもあげられない。近寄ってはいけない。
わたしは、冷酷かつ卑屈な笑顔で言う。
「あなたは、そのままでいいのよ」
「そのまま」が、あなたにとって苦痛の持続であることを知りながら、そう言う。
わたしは、「わたし」であるために、あなたを告発する。
ラカンの「分析家のディスクール」によってもこのフィーリングは補強される。対象aが能動者の立場にいる。
しかし、この記事でも書いているように、非ファルスという意味での、非男性性という意味での女性性を考えれば、むしろ自閉症者の方が、本質的に女性性的主体であることがわかった。
となると、分析家が目指す主体とは、自閉症者のような主体なのだろうか?
暴論だと思える。どーだろ? と思える。
しかし、ここを読んで欲しい。引用する。
=====
よく自閉症の人の恋愛は、相手をモノとしてしか見ないと言われますが、もしこれがそうなら、その通りだと認めざるを得ません。タカラモノです。
=====
これこそが、「自らの欲望を認めながら、分析に欲望の介入があってはならない」分析家のあるべき姿ではないか。
こここそに、他者という主体を物自体的な/Sとして、自らという主体を部分対象的な対象aとして語らう「分析家のディスクール」が成り立ってはいないか。
その真理のうちに、S2即ち精神分析理論という知識がないだけである。
しかしこの夫婦は、精神分析理論ではない発達心理学や独自の経験に基づいた知識から、「擬似SAM」なる概念に辿り着いた。
これこそが、彼らがお互いに「分析家のディスクール」を交換した結果生まれたS1ではないか。
S2など、精神分析理論だろうが発達心理学だろうがネトゲの知識だろうがマンガの知識だろうが、なんでもいいのだ。
ちなみにわたしは、バロン=コーエンの言うSAMやスターンの言う間主観的自己感は、ラカンの象徴的ファルスと非常に近いものだと考えている。また最近では、彼らの言う擬似SAMとサントームの関連に気が向いてしまう。
結論。
自閉症者は、生まれながらの分析家である。
ボーロンボーロン。あ、なんか響きがバロン=コーエンと似てるね。
まあ野暮なツッコミをしておくなら、このケースは、良きパートナーが見つかったことによって、(トラウマの回帰などではないという意味で)生々しい鏡像関係が生じ、主体が部分対象的なものに昇華された事例であり、他の自閉症者全てが対象a的であるとは言えないだろう。
わたしはむしろ自閉症者は、このようなケースに遭遇しない限り、斜線の取れた生々しいSに親近する主体であると思っている。
ある意味、現実界そのものとしての主体。
自閉症者同士で語らえば鏡像段階的な過程を実現できる、というわけではない。そもそも鏡像段階自体が支配的あるいは攻撃的な傾向を発揚させるものである。「欲望のシーソー」である。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。ここだけは補足しておく。
あ、あと自閉症者は有限の多義ではなく無限義の意味の世界を生きているという意味で、まさしく脱構築の世界を生きているとも言えると思うよ。彼らのディスクールは常に既に脱構築する、脱構築されている。彼らの意図など関係なく。
なーんだ、ポモが目指した理想人格って自閉症じゃない。統合失調症とかスキゾイドとかでも別にいいけれど。
そりゃー定型発達者たちに侵略されるわな。その曖昧でささやかな居場所すら。
定型発達者たちが無自覚に行っている、自閉症者たちに対する快楽殺人は、まだまだ終わりそうにない。
さてここで、四つのディスクールの例外として、「快楽殺人者のディスクール」なるものを、揶揄として定式化してみたい。
S1 → 対象a
― ――
S2 /S
これは、定型発達者であるのにアスペやスキゾを名乗りたがる人間たち、大人になれているのに大人じゃないフリをする仮面退行者たち、笙野頼子の言葉なら「反権力ブリッコする権力者たち」の、症状そのものを示している。
たとえば新宮一成は「大学のディスクール」を「科学のディスクール」と読み直しているが、そういう読み直しを可とするなら、これは「動物化したオタクのディスクール」と読み直してもよかろう(この記事も参考になるか)。現代オタク文化の中で一つの潮流としてあるヤンデレ系などは、このディスクールの傾向が強いと考えられる。
結果、生成されるものは/Sとなるが、これが東浩紀の言う動物化の最終形態となろう。それはそんなに大仰なものではない。/Sを能動者としたディスクールは既に「ヒステリー者のディスクール」として存在する。
動物化の最終形態は、単なるヒステリーである。
加藤智大やコミケ爆破予告犯人や2ちゃんで犯罪予告をする主体たちは、(その個別主体の分析とは関係なく)「ヒステリー者のディスクール」化の端緒と考えなければならないのではないか。
また、そもそも元来の(九十年代中頃以前の)オタク文化は、「大学のディスクール」的な性格があったのに対し、一般化により能動者が真理と入れ替わってしまい、上記のようなディスクールの傾向が強くなったのが現代オタク文化だ、などと表現できるかもしれない。
フェミニズム的文脈によるなら、ちょっと表現は古いが(すまん中島みゆきの『やまねこ』聞いてた)「女衒のディスクール」なんてのもありか。ちょっとしっくりこないな。まあいいや。
あるいは、最近のマイフェイバリットな表現である、象徴的ファルスの想像的側面としての「精液」なども、この定式に組み込まれるだろう。
S1 → 対象a
― ――
S2 (精液) /S
うんうん、ファルスっていうより超自我っぽいものに基づいてぶっかけてきてる感じはするもん。ここのコメント欄とか。S1じゃなくS2から射精される精液。ちっちゃなちんちんから吐き出される精液。
この精液に生物学的男女は関係ない。むしろ定型発達的な女性ほどそれをぶっかけてくるケースが多い。
わたしは、このディスクールを経て、/Sとなった。誰かの対象aになろうとして、/Sを出産してしまった。その斜線は壊れていた。斜線が壊れている故、わたしはわたしを出産したことになる。
もし、斜線が壊れてなかったら。わたしが定型発達者だったら。去勢されていたなら。
神経症者の生きる世界では、それはヒステリーと呼ばれているらしい。
……揶揄よ? 揶揄。
そんなこんなで「ヒステリー者のディスクール」を目指すわたしであった。
なのでどんどん分析してちょ(はぁと)。
お前たち定型発達者は、それを否認しようが承認しようが、象徴的ファルスを常に既に持っている。S1は常に既にそこにある。お前らが語らいの中に求めているのはS1ではなくS2である。お前らが語らうべき相手は自閉症者ではない。笙野頼子やわたしというヒステリー者である。
さあ、語らいましょう。
同じメスでお前らのファルスを切り刻んであげる。
お前らを自閉症者にしてあげる。
だって、それがあなたたちの言う享楽なんでしょ?
現実界に触れられる領域なんでしょ?
小笠原晋也が触れた生々しい世界なんでしょ?
なんか某ヘタレ心理カウンセラーとかちょっとメスの切っ先が触れただけでキャンキャン吠えながら逃げちゃったもんなあ(ここのコメント欄ね)。
わたしからメスを取り上げようとする奴らもついでに切り刻む。糞便に塗れたメスで。切れ味は悪くなるけどね。切り刻んでも、阿部定みたいに持ち帰らない。わたしにとってそいつらは糞便だから。糞便だと思っているから、それがわたしの「愛」や「思い遣り」や「気遣い」だと思っている。
だからわたしはこう宣言する。
「わたしはアガペーを否認する」
「わたしはわたしという存在のために、わたしの倫理として、狂人と正常人の断絶を守る(パラノイアックなそれはともかく少なくともスキゾフレニックなBPDを認めない)」
最近音楽ブログばっか書いてて本家ブログが全く更新されずつまんねーなーと一言言いたい某サイコドクター氏の日記から。
=====
しかも、どうみても境界型人格障害なのに紹介状をみると精神分裂病という診断がついていたり。どうも、小笠原医師には「人格障害など存在しない」という確固たる信念があったようです。ラカン派ってのはそういう立場なのかな? ラカンなどわからんこっちから見ると明らかに人格障害なんですが。
====
あ、いや定型発達者なわたしとしては「流石に現場ではボーダー認めないとさー」とか「ほどほどのところで」的に思ったりするんだけどね。
だってお薬もらえなくなるじゃん。
ラカンは言った。
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
ちなみに四つのディスクールの例外として、ラカン本人が定式化した「資本家のディスクール」なるものがあるが、これも「ヒステリー者のディスクール」と等しく能動者が/Sなのよねー。他者がS2になるけれど。
はいはい! わたし株で食ってます! 経営者だろうが現場の人だろうが労働者はきりきり働けって思ってます! 株で負けて経営者という労働者に成り下がった某飲茶さんとか見下してます!
ほおれ、わたし以上に分析すべき主体はいないだろう?
さあさあいらっしゃーい。
あなたの肉を切り刻んであげるわ。
勝ち負けとかじゃない。それはただの享楽。享楽であるだけ。だからこの享楽のために、延々と切り刻み続けてあげるわ。
だって、それが享楽なんでしょ?
現実界に触れられる領域なんでしょ?
わたしが泣きながらこんなこと言っているとか想像できないんでしょ?
わたしの涙の中に享楽があるんでしょ?
きょーらくきょーらくぅ(サービスサービスゥのノリで)。
ラカンの四つのディスクールは、神経症者が神経症である限り、定型発達者が定型である限り、エコノミー的にそこに帰着するという意味で、定式化されたものと考えられなければならない。
ということは、「動物化したオタクのディスクール」や「資本家のディスクール」は、あくまで例外のそれであるので、いずれ廃れていくものとも考えられる。ネオリベ的な「神の見えざる手」によって。
しかし、その手が憑依する依代がなければ、時代という幻想は「突然停止した映画」のように何も変わらないだろう。
ラカニアンたちよ。
今こそ師の教えに忠実であるべき時ではないか?
お前たちの責務を果たすべき時ではないか?
「資本家のディスクール」や「動物化したオタクのディスクール」という例外を、分析し解体するのが、師への礼儀ではないか?
まあそうやって本来の語り相手たるわたしが長椅子に座る順番は後回しになるのだろうね。
いーよ、好物は後に取っといても。魔女ランダはいつまでも待っている。ストーカーのごとく恨み節をぐじぐじとこぼしながら。たとえわたしが死んだとしても、違う体を借りて、ヒステリー者は生れ落ちる。
魔女ランダは、死んでも生き返る。
……え? お前がやれって? アホ言うな。最初に書いておろう。わたしがしたいのは「ヒステリー者のディスクール」だと。そもそも「分析家は自らの欲望の存在を認めながら、分析にそれを介入させてはいけない」とかただのオナ禁じゃねえかwww きめえwww ってここでも批判しとろうが。
=====
解釈の押しつけだと言われようがなんでもありなのがわたしにとっての精神分析だ。わたしは精神分析家ではない。なりたくもない。欲望の存在を屈折させる壊れた人形なんか、対象aの立場なんかもうゴメンだ。わたしはわたしであれ他人であれ自他に限らない欲望に、自らが妥協しないために精神分析を道具として用いている。精神分析家という一つの宗教集団内では真っ先に排除されなければならない行為だろう。
=====
わたしは分析家の立場など、対象aの立場など、既に放棄している。
隣の恩師の名も知らぬ ビルの立ち並ぶ幻想の街
守ってくれる人もない
危険に晒される目撃者
だけど恐怖なぞくだらない
そして悪癖は治らない……
泣いてないけどね。泣きそうだけど。むしろニヤニヤしている。
あなたはわたしの真理。真理だから、助けてもらわなくていいし、助けてあげられない。
真理だから、近寄ってもあげられない。近寄ってはいけない。
わたしは、冷酷かつ卑屈な笑顔で言う。
「あなたは、そのままでいいのよ」
「そのまま」が、あなたにとって苦痛の持続であることを知りながら、そう言う。
わたしは、「わたし」であるために、あなたを告発する。