四つのディスクールの読み替え
2008/08/21/Thu
四つのディスクール
→神経症者がエコノミー的にほぼ帰着するディスクールの四形態
主人のディスクール
→男性性・パラノイアックな神経症者のディスクール
→王と家臣(騎士)のディスクール
→王国のディスクール
大学のディスクール
→抑鬱症者・強迫症者のディスクール
→隠者のディスクール
→サロンのディスクール
ヒステリー者のディスクール
→ヒステリー者・マゾヒストのディスクール
→シャーマンのディスクール
→大地のディスクール
分析家のディスクール
→女性性・スキゾフレニックな神経症者のディスクール
→預言者のディスクール
→辺境のディスクール
→外部・他者のディスクール
現代社会はほぼ「主人のディスクール」で満たされている。現代以外は知らん。まあ少なくとも『アンチ・オイディプス』が書かれた時代からそうなのだろう。わたしにはそういう指摘に読める。パラノイアを専制君主とかって表現してるとことか。それに従順する者も専制君主であるっていうのなんか要するにニーチェ論なんだけど、まさに「主人のディスクール」のポイントじゃん。従者であることが主人の語らいとなる。定型発達という精神障害者向けに説明するなら、家臣は家臣になることで王の主人となるってこと。それがオイディプス=定型発達という精神障害の症状ってわけ。お前らの症状なわけだから、むしろピンと来ない方がよりこの障害に蝕まれていることになる。パラノイアと一緒。定型発達という精神障害=パラノイアックな神経症(ボーダー)、つまり「人格とはパラノイアである」ってことさ。ここの記事とか「支配ごっこ」って表現でとっても上手くまとめられてるよ。
とか言いながらその「語る主体」すらそこから脱してないのが『アンチ・オイディプス』なんだけどね。そこがむしろ面白い本ではある。ブラックユーモア的読み物として。
「大学のディスクール」について、「科学のディスクール」と読み替えた新宮一成の論には同意する。特に日本の大学は「大学のディスクール」にゃなっていないと思えるから。普通に「主人のディスクール」。
下二つの読み替えは最近ラノベ熱再燃しているっぽいからぐらいに思っといて。自分でも「そりゃないだろw」って思ってるところはある。各々(笑)をつけて読んでくれるとありがたい。
さらにこれらをファロセントリックに分類。
主人のディスクール+大学のディスクール
→ポスト・フェストゥム的神経症者のディスクール
→右翼のディスクール
→政治家のディスクール
→大人のディスクール
→男性的ディスクール
ヒステリー者のディスクール+分析家のディスクール
→アンテ・フェストゥム的神経症者のディスクール
→左翼のディスクール
→冒険者のディスクール
→子供のディスクール
→女性的ディスクール
後半は譲れないけど前半はいろいろ反論がある。自分で。
「資本家のディスクール」とか「快楽殺人者のディスクール」みたいな例外のディスクールを長く生きたら父の名が排除されちゃったりするのかもね。脱神経症。脱オイディプス。
脱した先がパラノイアになるかスキゾフレニーになるかは知らんが。
まーせいぜい去勢の否認止まりなんだろうな。定型発達者は。父の名を排除してもパラノイア。まあ『アンチ・オイディプス』的な、パラノイアとスキゾフレニーという両極を振動するのが精神病者っていう立場をわたしは一応取ってるから、精神病としてのパラノイアになるならいいんじゃん? とは思う。
そういう意味では、動物化するオタクたちは『アンチ・オイディプス』的に正しいと言える。ただし、パラノイアックな方向に傾いている面は『アンチ・オイディプス』的に批判すべきところだろうな。批判してもそこにいるのが定型発達者である限りどうにもならんことだと思うが。
勝手にやってろ。神経症者は神経症者で。
わたしは「ヒステリー者のディスクール」を目指しつつ大人で保守派な領域にしがみつきます。
勝手にやる。わたしはわたしで。
自閉症者などといった非神経症者の言葉は、この中に含まれていない。存在しない。要するにこれらはあくまでも定型発達的な主体のディスクールである。
何故なら去勢されていないのが、あるいは去勢を否認ではなく排除してしまったのが非神経症者(精神病者含む)だからだ。彼らは/Sの斜線が壊れている。壊れているのだから、斜線から解き放たれたSと表現するのもよかろうが、壊れているだけで解き放たれてはいないことには留意したい。そもそもSとは現実界である。到達不可能な領域である。それこそ、存在しないのである。
これはあれね、サロンのディスクールか。自己分析だけど。
→神経症者がエコノミー的にほぼ帰着するディスクールの四形態
主人のディスクール
→男性性・パラノイアックな神経症者のディスクール
→王と家臣(騎士)のディスクール
→王国のディスクール
大学のディスクール
→抑鬱症者・強迫症者のディスクール
→隠者のディスクール
→サロンのディスクール
ヒステリー者のディスクール
→ヒステリー者・マゾヒストのディスクール
→シャーマンのディスクール
→大地のディスクール
分析家のディスクール
→女性性・スキゾフレニックな神経症者のディスクール
→預言者のディスクール
→辺境のディスクール
→外部・他者のディスクール
現代社会はほぼ「主人のディスクール」で満たされている。現代以外は知らん。まあ少なくとも『アンチ・オイディプス』が書かれた時代からそうなのだろう。わたしにはそういう指摘に読める。パラノイアを専制君主とかって表現してるとことか。それに従順する者も専制君主であるっていうのなんか要するにニーチェ論なんだけど、まさに「主人のディスクール」のポイントじゃん。従者であることが主人の語らいとなる。定型発達という精神障害者向けに説明するなら、家臣は家臣になることで王の主人となるってこと。それがオイディプス=定型発達という精神障害の症状ってわけ。お前らの症状なわけだから、むしろピンと来ない方がよりこの障害に蝕まれていることになる。パラノイアと一緒。定型発達という精神障害=パラノイアックな神経症(ボーダー)、つまり「人格とはパラノイアである」ってことさ。ここの記事とか「支配ごっこ」って表現でとっても上手くまとめられてるよ。
とか言いながらその「語る主体」すらそこから脱してないのが『アンチ・オイディプス』なんだけどね。そこがむしろ面白い本ではある。ブラックユーモア的読み物として。
「大学のディスクール」について、「科学のディスクール」と読み替えた新宮一成の論には同意する。特に日本の大学は「大学のディスクール」にゃなっていないと思えるから。普通に「主人のディスクール」。
下二つの読み替えは最近ラノベ熱再燃しているっぽいからぐらいに思っといて。自分でも「そりゃないだろw」って思ってるところはある。各々(笑)をつけて読んでくれるとありがたい。
さらにこれらをファロセントリックに分類。
主人のディスクール+大学のディスクール
→ポスト・フェストゥム的神経症者のディスクール
→右翼のディスクール
→政治家のディスクール
→大人のディスクール
→男性的ディスクール
ヒステリー者のディスクール+分析家のディスクール
→アンテ・フェストゥム的神経症者のディスクール
→左翼のディスクール
→冒険者のディスクール
→子供のディスクール
→女性的ディスクール
後半は譲れないけど前半はいろいろ反論がある。自分で。
「資本家のディスクール」とか「快楽殺人者のディスクール」みたいな例外のディスクールを長く生きたら父の名が排除されちゃったりするのかもね。脱神経症。脱オイディプス。
脱した先がパラノイアになるかスキゾフレニーになるかは知らんが。
まーせいぜい去勢の否認止まりなんだろうな。定型発達者は。父の名を排除してもパラノイア。まあ『アンチ・オイディプス』的な、パラノイアとスキゾフレニーという両極を振動するのが精神病者っていう立場をわたしは一応取ってるから、精神病としてのパラノイアになるならいいんじゃん? とは思う。
そういう意味では、動物化するオタクたちは『アンチ・オイディプス』的に正しいと言える。ただし、パラノイアックな方向に傾いている面は『アンチ・オイディプス』的に批判すべきところだろうな。批判してもそこにいるのが定型発達者である限りどうにもならんことだと思うが。
勝手にやってろ。神経症者は神経症者で。
わたしは「ヒステリー者のディスクール」を目指しつつ大人で保守派な領域にしがみつきます。
勝手にやる。わたしはわたしで。
自閉症者などといった非神経症者の言葉は、この中に含まれていない。存在しない。要するにこれらはあくまでも定型発達的な主体のディスクールである。
何故なら去勢されていないのが、あるいは去勢を否認ではなく排除してしまったのが非神経症者(精神病者含む)だからだ。彼らは/Sの斜線が壊れている。壊れているのだから、斜線から解き放たれたSと表現するのもよかろうが、壊れているだけで解き放たれてはいないことには留意したい。そもそもSとは現実界である。到達不可能な領域である。それこそ、存在しないのである。
これはあれね、サロンのディスクールか。自己分析だけど。