2008/08/26/Tue
TENVIやってます。
オープンベータでBANとか、今まで比較的大人しい(マイナーな?)ネトゲしかやってこなかったわたしにとってはなかなか刺激に満ち溢れたゲームです。
中身はすげーマゾいけど。やっとレベル11とか。
ノーステイルがいいかなーやっぱ。周り静かだし。
多重人格っておかしいよね。
部分対象じゃないもん。ちゃんと人格がある。だからわたしは
多重人格は解離性障害+パラノイアだと思っている。要するに、激しくポスト・フェストゥムだと思う。
でもまあ、
ジャキガンな年頃だと、ファルスが不安定になっているってのは
ここでも述べたけど、そういうのはかるーくアンテ・フェストゥム入ってる気がしなくもない。
恐怖症も、幼児性のそれ、あるいは高所恐怖症とか尖端恐怖症とかと、視線恐怖症や対人恐怖症(赤面恐怖症)はまるっきり構造が違うと思う。前者は明らかに恐怖の対象に人格とか人間的なるものが関わっていない。後者は明らかに人格とか人間的なるものによって引き起こされている症状だ。視線恐怖症は人格形成の主原因(とラカン論においてはなる)である
まなざしを怖れている。そういう違い。「ポスト・フェストゥム/アンテ・フェストゥム」の区分に乗っ取るならね。
だから多重人格も一概にどっちだとは言えないけど、傾向的にはポスト・フェストゥムが多いんじゃないだろうか。
正直、わたしは理解できない。
空想とはいえ人格に救いを求める思考回路が。
むしろわたしの知らない人格とか、ドッペルゲンガーだ。わたしは怖い。そんなのが救いになるのかがわからない。
アガペー主義、人格主義なんだよね。結局こやつらも。
愛で治療されてればー? って思う。
要するに、解離性同一性障害の症状は、統合失調症者などが感じる「(ラカン的な意味での)現実的な幻覚妄想」とは別物であり、どっちかって言うと正常人と同系列の幻覚妄想だってこと。統合失調症者のそれが
「原初的な幻想」であるならば、解離性同一性障害のそれは「理想的な幻想」とでも言えばいいか。ほれ、もろパラノイア。
正常人って要するに
「人格とはパラノイアである」ところの神経症者なわけだから、解離性障害+パラノイア。
きめえwww
『愛していると云ってくれ』by中島みゆき。
愛とか、言えない。わたしは。
精神分析という科学からの視点を取らなければ、愛を語れない。
そうしないと、また精液をぶっかけられてしまう。
精液で窒息してしまう。
この記事とかで思いっきりキチガイ擁護してるけど、キチガイであればいいって話じゃないのよ、という釘刺しです。
「定型発達という精神障害」者にはピンとこねえかもしれねえけどな。
……という文章書いてボツにしたけれどなんか
こういう記事と
こういう記事が対比されていたので載せてみることにしました。
正直わからない。多重人格とか。
少なくともわたしがここで述べている「キチガイ」には当てはまらないとだけ。
あとアリスさんのコメントに突っ込むならば、自閉症者のエコラリア・エコプラクシアと、定型発達者の超自我・自我は別物だと思う。それはラカン論で言うならば、サントーム的なものとファルスに制御されたS2群の違い。だから、定型発達者視点の言い方をするならば、自閉症者は自我や超自我が「壊れている」と考えなければならない。その知識群に軸がないかあるか。
「軸」と「柵」の違い。「軸」があるのが定型発達者。引用する。
=====
自意識の強い人間がスポーツ的な勝敗として理屈を用いるのに対し、自意識の弱い人間は、自分という流動的な領域を防衛するためのブイとして、理屈を好むのだ。自意識は象徴的ファルスによって発生するわけで、ファルスをサンボリックの「軸」(ラカン用語ならS1)と見做すならば、「軸」がある結果としての理屈か、「軸」がない故仮設する「柵」(ラカン用語なら第四の輪たるサントーム)としての理屈か、の違いである。
=====
わたしはこの「軸」があることを固定観念と呼んで、何故「定型発達という精神障害」は、その自我や超自我がこの固定観念に縛られているのか、という思考をしているわけです。そうすると人格主義やら(クリステヴァ論で言う)アガペーやら(ラカン論で言う)まなざしに行き着いた、という流れ。
要するに自我や超自我なんて概念そのものが定型発達者のそれに依拠している、ということ。
それらの概念にぶら下がる言葉を見ていけば、必然的に定型発達バンザーイになってしまう。「非定型発達者は定型発達者化されるべきだ、わたしたちの「愛」や「思い遣り」や「気遣い」によって」という、帝国主義が「この地を豊かにするために植民地化したのである」と述べるのと同じ論理に行き着いてしまう。それは理屈的にそういう道筋が既につけられている。自閉症者のそれを自我や超自我と表現した時点で、既に帝国主義的な暴力が働いている。それらにぶら下がる言葉たちによって。
つまり、それを超自我と表現してしまった時点で、ドナの述べる
=====
だが決して、わたし自身が世の中をどう見ているかを理解しようとは、してくれなかった。彼らにとっての世の中は、まさにシンプルきわまりないもののようだった。
=====
の「彼ら」に当てはまっているのだ。
定型発達者は「軸」を持っているから「シンプルきわまりない」という表現をされている、などとも言えるかもしれない。
だから、わたしはあえてこう言う。「非定型発達者は自我や超自我が壊れている」と。
となると、自我や超自我とは別物の、絶対的未知であり到達不可能な現実界という領域を設置したラカン論に必然的に行き着いちゃうわけです。
そんな感じですー。
脂さん、昨日はコメントありがとうございました。
まずは取り急ぎ、今日の記事についてコメントを残していきます。
私は解離性人格障害のブログの友人がおります。
私自身、私の人生経験において定型発達者であったなら、
まちがいなく解離性人格障害、または境界性人格障害を患っていたと確信しています。
素人がなぜこんなに強くはっきりといえるかと言うと、
それは2次元ではない、3次元、現実世界のこの体の上に降りかかった出来事、
命の危険、生きるか死ぬかという瀬戸際で病むということが
生きていくために選択できる可能性のひとつだからです。
私は自分の気持ちがその場でわからない障害があるようなので、
病にはかかりませんでしたが受ける衝撃は少なくありませんでした。
現在でも過去の記憶に苦しんでいます。
脂さんが境界性人格障害を気持ち悪がるのは脂さんの選択の自由ですが、
2次元の論理よりも、他者の気持ちを想像する心のゆとりを持つ知恵の必要性を痛感します。
誰でも生きることに必死なんだ。
脂さんや私も含め、病んでいる人、そうでない人、
全世界の全員に当てはまる言葉だと思います。
ではでは。
2008-08-26 火 13:46:59 /
URL /土鍋ごはん /
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わたしはこのブログで何度も言っていますが、
正常人=定型発達者=パラノイアとの境界例
だと考えています。
そういう人たちと同じ精神構造と考えることは、このブログで何度も述べていることですが、スキゾフレニックな境界例の居場所を奪うことになります。
ただ症例数が多いだけで。
その友人の方がどうなのかは知りませんが。
わたしはほとんど全ての精神障害がキモチワルイと思っています。
それは自閉症でもボーダーでも癲癇でもそうです。
全ての人間の精神性がキモチワルイわけです。自分自身のそれを含めて。
それぞれ違う「キモチワルイ」ですが。
人間不信の一つの変形のようなものです。
「心のゆとり」という表現こそに、わたしの言う精液が塗れています。
そんなもの持ったら持ったで、それを精液と気づかない人たちに殴り殺され続けます。わたしの経験上、ほぼ必ずそうなります。
なのであなたのレスに関しては、
「あなたはそれでいいんじゃないでしょうか。それをわたしは否定するつもりはありません。生理的嫌悪とは関係なく言うならば。しかし、それをわたしに明言する必要があなたにあるのでしょうか? わたしはそこに興味が向きます」
というお答えになります。
他者の気持ちを想像することは、「心のゆとり」などではありません。いえ、確かにそれは「ゆとり」とも言えるでしょう。では何故それに「ゆとり」が必要なのか、何故それが「ゆとり」という表現に結びつくのか考えてみるとよいでしょう。
わたしが考えた答えを書いておきます。
他者の気持ちについて、自分の想像を押しつける、征服者のような快楽がそこにあります。征服者のような快楽だから「ゆとり」となるわけですね。「心のゆとり」を持ちたがること=征服者になりたがること、というわけです。
まずその事実に気づくべきではないでしょうか?
それに気づけないあなたは少なくとも快楽原則は壊れていないように思います。
快楽原則に則って「他者の気持ちを想像」することこそが、二次元に他者を閉じ込めることになると考えています。
想像も論理も関係なく、そこに快楽原則や現実原則が働いていることが、二次元=定型化された幻想だ、というわけです。
それに「心のゆとり」が必要だと思ってしまうあなたの方が、他者を二次元に閉じ込めているようにわたしには思えます。
二次元での想像を「同情」などという言葉で表現するならば、二次元以外のところにあるものを「感応」と呼んで区別しましょう。ここだけでの便宜として。
二次元的な「同情」ならば、そこには快楽原則が働き、「心のゆとり」などという快楽的なものが発生するでしょう。
しかし、三次元的な「感応」は、わたしは「狂気の伝染」などとも表現しますが、決してそれは心地のいいものではありません。
全ての刺激は不快なのです。少なくともわたしにとって。
それぞれ不快なものの中で、正常人の快楽原則に固縛された言動こそが、今現在、特別な不快になっている、という話です。
「心のゆとり」や「愛」や「思い遣り」などといった言葉でその事実を隠しているのが正常人のぞっとするようなイヤラシサだと考えています。
もちろんわたしはそれを「征服者の快楽」だと思いながら、他者の気持ちを考えていますよ。
とてもそれを「心のゆとり」などと表現できません。
わたしはね。
2008-08-26 火 15:09:46 /
URL /脂 /
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上の私のコメントには脂さんにこういう考えの者もいるのだというのを知ってもらいたい
まさに私の押しつ付けです。
どこに落ち着くか、という個人の考えにもよりますし。
病は辛いものですから。
脂さんの考えを変えようとは思っていません。
変えられないだろうし。
精液が一滴も無い人間なんているのだろうか。
いたとしたら、人間の形をしているだけの人間ではない
何か他の生き物になってしまうのでは。
私は今まで心のゆとりがゼロの世界で生きてきました。
自分の心からゆとりを生み出す能力も無いかもしれません。
それでも、脂さんの仰る
精液=心のゆとり=他者を思いやる想像力ならば、
その害ばかりでなく、価値にも目を向けていこうと思います。
こういったコメントは生理的嫌悪だということは受け止めました。
そしてこの場にそぐわないことも。
すみませんでした。
不愉快なコメントでしたらどうぞ削除なさってください。
どうも失礼しました。
2008-08-26 火 15:45:32 /
URL /土鍋ごはん /
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あら、書き足してたら返信きてた。
いろいろ言葉足らずだったかと思います。
>精液が一滴も無い人間なんているのだろうか。
いないと思います。
ちょうど今『アンチ・オイディプス』を読んでいるようですからそこの言葉を借りるなら、精液の一滴もない「人間の形をしているだけの人間ではない何か他の生き物」こそが、彼らの言う「器官なき身体」です。
そんなものは存在しません。普通に字義通りに考えてもそうなります。
当然、わたしにだって精液はあります。
あなたの精液とは二次元的に別物のようですけれど。
>精液=心のゆとり=他者を思いやる想像力ならば、
>その害ばかりでなく、価値にも目を向けていこうと思います。
価値はありますよ。むしろそれを害だと思うわたしの思考の方に価値はありません。
あなたはいつぞや仰いましたよね?
「定型人の特徴は、それが自分たちの役に立つかどうかを直観で判断する」と。
定型人たちの役に立つ=価値がある、というわけです。
しかし、あなたがそれに価値を見つけることが、それまで苦しんできたあなたの過去を殺すことにもなる事実に気づいていますか?
あるいは、あなたのそういった言動が、他の苦しみの最中にいる自閉症者たちを殴り殺していることにもなりかねない可能性に。
精液的な立場に立って考えるなら、何故こういった「想像」ができないのかが不思議でなりません。
わたしは自閉症ではありませんし、一つの主体としてあなたを見ていますので、あなたがどういう考え方をしようが構いません。
ただ、わたしの今現在の苦しみを、あなたが殴り殺そうとしている過去の苦しみと同じようなものと考えているならば、それには反発します。
その友人とやらの今現在の苦しみを殴り殺すことは、わたしには関係ないのでどうでもいいですけれど。
少なくとも、わたしはあなたに救われたいわけではありません。
他人の苦しみを殴り殺すことを、わたしは「天国の押し売り」などと表現しています。苦しみを殴り殺す=無化させるわけですから、天国という幻想に導くことになるわけです。
わたしに天国の押し売りは不要です。生理的嫌悪を惹起させるだけです。
こちらの記事をリンクしておきます。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-203.html
>こういう考えの者もいるのだというのを知ってもらいたい
そういう考えに縛られている人間こそが定型人であり、わたしが生きてきた中で周りの九割以上がそういう考えをしていました。わたしはそれにずっと違和感を感じ続けていました。今も感じています。これは独我論的な世界についての違和感なので、わたし自身についての違和感でもあります。
周りの人間が全て同じとは言いませんが、その思考構造はほぼ似通っています(だから前レスの「心のゆとり」についての言葉のようなことをずっと考えてこられたのです)。加えて、その大多数の思考構造を、無自覚に押しつけてくる精神障害的症状も、大体共通しています。
似通っていて共通しているからこそ、「定型」という言葉を好んでわたしは使っています。
なので、知っているも何も、という話です。
2008-08-26 火 15:59:27 /
URL /脂 /
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追記。
あなたはその友人のブログを読んで、自分の過去の苦しみが惹起されたのですよね。
だからそういったレスをしてきたわけですよね。
あなたは、構造がどうであれ、その友人の言葉に苦しみを感じたわけですよね。
苦しみとは不快なものですよね。辞書的な意味として。
わたしが自閉症や境界例や統合失調症に対し、「キモチワルイ」と言うのと、どう違うのですか?
何故あなたが思い出した「苦しみ」とわたしの「キモチワルイ」は別物だと思えるのでしょうか?
実際別物でしょうけれど。
少なくとも、その友人に対して、あなたは「苦しみ」という不快さを感じたわけですよね。
何故それを棚上げにしてわたしの「キモチワルイ」について一言言いたくなるのでしょうか? わたしはそこに興味が向きます。
他人の気持ちを不快にさせるから?
少なくとも自分が不快に思ったから?
だから一言言いたかった?
自分が感じた「衝撃」を棚に上げて?
そうならば、それが快楽原則です。
>私は今まで心のゆとりがゼロの世界で生きてきました。
>自分の心からゆとりを生み出す能力も無いかもしれません。
大丈夫です。あなたはあなたの望み通り定型発達者化しています。
他人の心を想像するための征服者的な「心のゆとり」を持っているからこそ、わたしの「気持ち悪い」という言葉に反応したのではないですか? あなたが今現在持っている(ささやかなものかもしれませんが)「心のゆとり」の危機を感じたのではないでしょうか? 違うかもしれません。でもそんなことどうでもいいです。人間他人の気持ちなんてきちんとわかるわけないのですから。
しかし、もしそうであるならば、あなたの「心のゆとり」を生み出す能力はゼロであるとは言えないでしょう。
この能力とは、その「心のゆとり」が「ネタ」や「コント」と同等の欺瞞であることに気づかない能力です。
アガペーなどという概念は、征服者の欺瞞に過ぎないとわたしは考えています。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-262.html
「わたしも過去にはそういう時期がありました」
この言葉は、お返しに、わたしの過去でもって、あなたの今現在の「快楽」を殴り殺してあげているわけです。
精液的な立場をもってね。
2ちゃんのコピペ風なものと思ってください。
精液的にこの言葉を繰り返しておきましょう。
=====
もちろんわたしはそれを「征服者の快楽」だと思いながら、他者の気持ちを考えていますよ。
とてもそれを「心のゆとり」などと表現できません。
わたしはね。
=====
=====
ただ、わたしの今現在の苦しみを、あなたが殴り殺そうとしている過去の苦しみと同じようなものと考えているならば、それには反発します。
その友人とやらの今現在の苦しみを殴り殺すことは、わたしには関係ないのでどうでもいいですけれど。
少なくとも、わたしはあなたに救われたいわけではありません。
=====
快楽原則に縛られることが「他人の気持ちを考える」ことならば、わたしはゴメンこうむります。
そんなもの、他人の気持ちをわかっていないと思うから。
何故なら、快楽原則でもってしては、わたしの気持ちは理解できないから。
わたし自身理解できないから。
わたしは不快こそが情動の本質にあると思っています。だからこそわたしは不快なものに向かってしまうのだろう、と。正直、わたしはそれが不快かどうかさえわかりません。他人が使う言葉たちを見渡して、一番意味が合致しそうな言葉が「キモイ」「キモチワルイ」だったから、使っているのです。若い子たちが使うその意味を考えるならば、「それが不快だからそれについて語ってしまう、そこに向かってしまう」という意味が、「キモイ」には込められているように思います。「キモカワ」なんて言葉に派生するのがよい例です。
だから、あなたをもし不快にさせたならば、それは必然的なことなのでしょう。
そういう独り言です。最後の部分は。
2008-08-26 火 16:32:51 /
URL /脂 /
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>精液が一滴も無い人間なんているのだろうか。
いない。
「じゃあわたしもみんなと一緒になって精液に塗れましょう」
という理屈がわからない。
それこそ快楽原則=妥協原則という精神障害だと思う。思った。
>そしてこの場にそぐわないことも。
あ、大丈夫ですよ。
あなたのそういった考え方は、社会性が重視される定型人たちの世界ではものすごく相性がよいでしょう。相性がよいというだけで、それが定型人と(大体)等しいものかどうかは言及できませんが。あなたを精神分析できるほどわたしはあなたを欲望していないわけではありません。救われたいわけではないけれど、ちょっとは救われたいのか? まあここは欲望しているという言葉が一番しっくりくるのでそうしておきます。
別に定型的だろうが非定型的だろうが関係ありません。この場は。この場なんてあってないようなものです。他人がとやかく考えることではありません。むしろ場についてなんて考えるな。空気なんて読むな。という主張のブログですしー。別に読みたければ読めばよい、という感じ。そういえば昔いた劇団もそんな感じでした。みんな好き勝手なことを言う。思ったことを素で言える集団。その代わり人間関係はものすごくぎすぎすしていましたが。「お前ら幼稚園児か」とすら思っていました。わたしの勝手なノスタルジーに過ぎないかもしれませんね。
まあ実際定型の極みであるファロセントリスムばりばりなヤロウどももなんやかやコメントしてきてますし。小文字の倒錯ヤロウども。
好き勝手にやってください。
明らかな宣伝とか広告は削除しますけれど、そうでないコメントならどうぞご自由に。
わたしがレスするかどうかも、どんなレスをするかも自由ですが。
2008-08-26 火 17:13:25 /
URL /脂 /
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っていうか、他人の気持ちが理解できないから、理解しようとして困難を感じるから「心のゆとり」なんて生じないんじゃないの? だから障害者とか呼ばれるのだろう? 薬を頂けるのだろう?
この理屈が、何故「心のゆとりがあれば他人の気持ちを理解できる」と逆転するのかがわからない。
むしろ、他人の気持ちを理解しようなんてしないことが「心の平静さ」を得る手段ってことになるのではないですか?
こっちの方がわたしは理解できます。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/risco002/view/20080816
抜粋。
=====
「私は、想像力が無いから、他人の感情まで想像しない」
「私がしたこと、話したことで、誰かが気を悪くする。これは、他人の感情のことだから、そこまで責任は持てない。」
「私に、悪感情を持っている人の心を支配する事は出来ないし、それを変える必要もない」
=====
正直、こんなの定型非定型に関わらず、物自体的な人間の真理だと思う。
なのに、それを自我や超自我というパラノイアックな狂気によって、「他人との想像的な関わり合い」が快楽に変換されているのが定型人です。この変換規則が快楽原則です。
従って、あなたが本当に非定型発達者であるならば、他人の気持ちを理解しようとすることこそが、「心の平静さ」を失わせることになると思いますよ。
他人の気持ちを理解することが「心のゆとり」になるのが、定型発達者の証なわけです。
あなたは、「心のゆとり」を求めているのではなく、苦難の道を進んでいるのだと、わたしは思います。
あなたは、わたしについて「逆方向に進んでいる」と仰いましたね?
わたしはそうは思いません。
何故ならわたしと同様に、自分が不快になる生き方を、無自覚に選択しているからです。
他人と定型人的に関わり合いを持てないのに、他人と関わりたがっている、という意味で。
そうでしょう? 普通に、冷静に考えてみてください。
わたしはあなたのように、定型人的に自分の心的事実を隠蔽していないだけです。
「心のゆとり」という言葉あるいはそれにぶら下がっている言葉たちに、定型人に都合のいい意味が含まれている事実を、わたしはわたしの経験から言いたいのです。
あなたは、定型発達というマルチ商法に引っかかっているようなものです。
わたしは自閉症者と違って言語的文脈は読めますから(斎藤環の説によるならば)、それがわかります。訓練のお陰か知りませんけどね。
わたしは自閉症者より定型人と戦えるだけの言語的な戦闘力は持っている、ということです。
もしあなたが本当に非定型人であるならば、あなたの「心のゆとり」という概念は、いつかは崩壊すると思いますよ。
崩壊しなければ、あなたは立派に定型人になれたということです。
おめでとう。
……とか言いつつあなたのブログを読んでいると、あなたの「他人と想像的に関わることで得られるであろう心のゆとり」はぐらぐら揺れていると思いますが。
何故、自分という物体が、定型人的な心のゆとりを持てないということを認められないのでしょうか?
先の山岸氏のように開き直れないのでしょうか?
わたしだってそうです。わたしも他人の気持ちがわからないとは言いませんが、いつもすれ違ってきました。少なくとも、他人との想像的な関わり合い=精液の塗れ合いには馴染めませんでした。
だけど、それなのに、わたしも他人と関わりたがっています。
従って、想像的な=精液的なやり方ではなく、精神分析という臨床事実と理屈を組み合わせたアプリケーションを選択したわけです。
わたしも開き直れていません。これはわたしなりの現実原則=妥協原則となるでしょう。
他の多くの人とは違った原則ではあるでしょうけれど。
わたしとあなたは同じ方向に進んでいるように思います。その手段が、定型人的なそれを選ぶか、学問を選ぶかの違いで。わたしはたまたま定型人のそれを選ばず、理屈を選んだだけです。わたしの経験から。
あなたもわたしも、やり方は二次元に過ぎません。理屈であれ想像であれ、快楽原則や現実原則に縛られることが主体を二次元化させるのです。逆に言えば、理屈だろうが想像だろうが二次元以外のところに触れられる可能性はあります。
要は、定型人が従属している目に見えないルールに、理屈だろうが想像だろうが、従うことが二次元化であるというわけです。
あなたが感じた「衝撃」や、わたしの言う「キモイ」「狂気の伝染」が、三次元の領域にある電信です。
『アンチ・オイディプス』ならば「充実身体上の強度の丘」です。
あなたやわたしが進んでいる方向は、決して心のゆとりをもたらすものではありません。
あなたが本当に非定型人ならば、ね。
2008-08-26 火 22:10:12 /
URL /脂 /
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見事な指摘です。
リンク先の記事は初めて読みました。
脂さんが指摘されるとおり、
ほぼ全部私の心の中で起きた事柄だと思います。
私から何も否定することはありません。
あえてそれらを経験した上で。
今の生活を選んで生きています。
精神的にも経済的にも不安定で、
先の見通しなんて何もない。
願わくば(多分)同じ障害を持っている
息子達に私の馬鹿で愚かな人間の生き様を見せて残してやりたいだけです。
これ以上開き直れないくらい開き直っています笑
この記事についてのコメントはこれで終わりにします。
2008-08-27 水 14:51:52 /
URL /土鍋ごはん /
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勝手に終えられたので勝手に続けます。
大体「精神を病んでいたらみんなおんなじ」という考え方が傲慢です。
みんな辛いからおんなじ?
なら定型発達者だって苦しんでますよ?
定型発達者だってみんな神経症なんですから。むしろ精神的な苦痛に苦しんでいない人なんかいないと言っていいでしょう。その苦しみをうまく隠蔽抑圧できているかどうかに過ぎません。
しかし、明らかに正常人(定型発達者なり神経症者)と狂人(それ以外)は別物である。
精神分析はこのような考えをしています。
このブログで何度も言っていますが、わたしは狂人と正常人の断絶を守ります。
それがわたしの倫理です。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-254.html
この断絶を思考していくうちに、精神分析的あるいは精神病理学的見地で言えば、多重人格という症状は正常人の精神構造と近しいものではないか、と考え、このような記事を書いたのです。
わたしにとって、彼らは断絶の向こう側にいるだろう、と。
また、解離性障害と解離性同一性障害を一緒くたに考える自分の傲慢さにまず気づきませんか?
解離性障害には精神分析で言うヒステリーの症状も入っていれば、離人症の症状も含まれます。
しかしこれらは木村敏論に則るならば、ヒステリーはアンテ・フェストゥム的で、離人症はポスト・フェストゥム的です。わたしは自己分析(なので当てにならないが)では自分はヒステリーだと考えています。
わたしはそれらを知ったうえで、多重人格という解離性同一性障害の症状についての記事を書いたわけです。
わたしはその友人とやらについては全く知りませんので、その人の症状について触れるつもりはありません。
そもそも「解離性人格障害」などという語句は初めて聞きました。少なくともDSMには載っていない病名です(とは言っても「神経症」や「ヒステリー」も載っていませんが。精神医学用語と精神分析用語は別物と考えなければなりません。かと言って「解離性人格障害」などという語句は精神分析学にも見当たりません)。
境界性人格障害(このブログでは「ボーダー」「BPD」「境界例」と書くことが多い)と解離性同一性障害は全く別の病名ですよ? それらの症状が複合する可能性は否定しません。しかし、もしその友人が自分の病名を「解離性人格障害」などと述べているなら、病院で診断を受けたそれではない可能性が高いと言えます。とはいえ精神科が与える診断名は当てにならないと思っていますが。そもそもDSMについても批判的です。精神分析を学んでいる人間ですし。
ともかく、そういったことから、その友人の症状がどういうものか、わたしには全く想像できません。また、それに触れるつもりもありません。
その友人が、わたしの言う「キチガイ」に当てはまるかどうかは、わたしはあまり興味が向いていません。
そういったものまで一緒くたに考えているのはあなたの方ですよ?
二次元的に物事を見ているのは、果たしてどちらでしょうか? よく自分の文章を見直して考えてみてください。
あなたのように、狂人と正常人の断絶を、まるでおままごとでもするかのようになくすのには、断固反対します(断っておきますが、この考えは、あなたの生き方を否定するものにはなりません)。
この断絶がなくなってしまったら、今現在のわたしの苦しみも無化されます。
あなたはわたしの苦しみを無化しようとしているのですよ。
わたしの今現在の存在を、精液で殴り殺そうとしている。
あなたの言う「知恵」とは、そういう征服者的な知恵です。
こういう考えの人間もいるということを、知っておいてください。
2008-08-27 水 20:58:59 /
URL /脂 /
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2009-05-05 火 11:15:30 / / /
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人の言葉を「難しい」と理解しようともしないで他人をこうだと決めつけるあなたも相当な差別主義者ですね。
わたしと一緒じゃないですか。
2009-05-05 火 11:27:18 /
URL /脂 /
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