土鍋ごはんさんとの議論
2008/09/03/Wed
この記事のコメントの続き。
こちらより。
===土鍋ごはんさんのレス(以下「土」)
鍵コメA(わたし)さん
コメント拝見しました。
そちらではコメントしませんと書きましたので、こちらで自分の考えを書きます。
ごっちゃ混ぜの傲慢とも取れる考えを私がするのはそういう環境にいるからです。
たとえば小中学校も市立、住んでいる所も庶民の住む場所です。
何もかもがごっちゃまぜです。
そんな人たちが住んでいて、一人ひとりが様々な考えを持っていることに気がついたのです。
病気の人もいる、健康な人もいる。
そんな中わずかな違いで差別が生まれる。
大人も子供も序列が出来上がる。
その中での私の考えです。
ここでの差別をはね返さなければどこにも行く場所はありません。
===わたしのレス(以下「脂」)
差別と断絶は違います。
断絶をなくすことで居場所を失う人間だっています。
===脂
たとえば狂人と正常人の断絶をなくそうという定型発達者たちの傲慢な征服欲が、明らかにアスペルガー症候群の臭いがしない人間も、アスペルガー症候群と診断される事態を引き起こしています。
向こうで紹介した山岸氏も、知り合いの別の自閉症者も同じことを述べています。
本来人口の0.数%に過ぎなかったアスペルガー症候群者たちの居場所を失わせています。
わたしは自閉症ではありませんので、自閉症と非自閉症の断絶は守る必要ありませんが、その断絶の実存在は、わたしが今現在苦しんでいるこの居場所、断絶と似通っているように思います。
何故断絶が差別になるのか?
それこそ「定型発達という精神障害」者が、征服者的な快楽原則や現実原則という狂気に則って生きているからです。
この「断絶」が、心ない定型発達者の元で「差別」となるのです。本人たちは無自覚でしょうが。
あなたは定型発達者なのですか?
===脂
一つ質問です。
あちらにも書きましたが、例の友人は、自分の病名を「解離性人格障害」だと述べているのですか?
その友人についてとやかく言うつもりはありませんが、これだけ気にかかりました。
===脂
ドードーとらさんともお話したことですが、「なんでもかんでもごちゃまぜになった状態」は、人間にとって苦痛なものです。
このことを、わたしは「本当の相対主義者は狂気の領域に生きている」と述べ、定型発達者が都合のよい時だけ相対主義的立場に立つことを、「口先だけの相対主義」と言って批判しています。
彼らは自分を縛りつけている快楽原則と現実原則に無自覚なクセに、それがないような口ぶりをする。
あなたが差別と戦うために「ごちゃまぜ」主義に走るのは批判しません。
むしろ、(もしあなたが非定型人であるならば)やはりあなたは無自覚に自分が不快になる方向に進んでいるのだな、と思いました。
「ごちゃまぜ」という不快に。
それはいいのですが、あちらでのお話の内容となった、「境界性人格障害」と「解離性同一性障害」をごちゃまぜにするのは、あなたの「差別との戦い」にどんな関係があるのでしょうか?
解離性同一性障害者が境界性人格障害者を差別しているのですか?
むしろあなたの「境界性人格障害と解離性同一性障害とをごちゃまぜにする考え方」は、その考えを持つ人間の内部で、たとえばあなたの中で、境界性人格障害者や解離性同一性障害者の居場所を奪っていることになりはしませんか?
「境界性人格障害と解離性同一性障害とをごちゃまぜにする考え方」の中では、境界性人格障害あるいは解離性同一性障害の症状という別物の実体が存在しなくなってはいませんか?
これが、断絶をなくすことで居場所が失われるということです。
差別をなくすこととごちゃまぜにすることは等しくなどありません。
===脂
ああ、断っておきますが、わたしは定型発達者を差別していますよ。
わたしの中にもある定型発達的な部分、精液に塗れたがる部分も含めてね。
これは、わたしの心的外傷によるものです。これを否定されることはわたしの心的外傷が存在しなくなることです。
この攻撃性を否定するならば、たとえそれが誰であろうと、わたしは戦いますよ。
「差別」だとかそんなもの関係ありません。わたしの存在を賭けた戦いです。
それが差別だと言われようが、身勝手だと言われようが、関係ありません。
===土
脂さん、コメントしっかり拝見しています。
今日は朝5時過ぎからアルバイトをして、
その後じっくり返信できるのは本日午後からになります。
(病院の予約を入れているためです)
どうぞご了承ください。
===脂
ではもう一つだけ質問しておきます。
あなたは、このブログを読んだ限りでは、社会常識的立場で言えば、とてもずぼらでだらしない生活を送っています(批判ではありませんよ。わたしも似たような生活をしています)。このことはいくら(自意識が弱い自閉症と診断された)あなたでもわかるでしょう。そのようなことを述べた文章もどこかで見かけた気がします。
あなたは、アスペルガー症候群という病名と、家族の理解と協調のお陰で、今の生活を保てているわけですよね。
でもその生活は、社会常識的な生活とはかけ離れた生活です。
ここに、断絶があります。
「あなたの生活」と「社会常識的な生活」との間に。
この断絶はごちゃまぜにしないのですか?
===土
脂さん
立て続けのコメント、
家族のみが私に聞ける事柄への質問など、
私の答えられる範囲を超えました。
私は体調を崩しました。
答えられることのみ答えます。
私は議論はしません。
コメントに、返信するだけです。
脂さんは私が体調を崩すようなコメントをする方だと判断しました。
今後私にこのブログでどのような内容のコメントをされても
私の判断で削除させていただきます。
リンクは、はずさせていただきます。
お手数ですが、脂さんのブログでの
まいにちまなぶのリンクをはずしていただきたいです。
>あなたは定型発達者なのですか?
医師からアスペルガー症候群の疑いありと診断済みです。
「境界性人格障害」と「解離性同一性障害」について理解していることは、
本人が望んで罹る病ではない、ということのみです。
以上です。
これ以外のことは私はお答えしません。
再度申し上げますが私は議論はしません。
===脂
あなたとの会話の中に、わたしが求めている何かがあると思ったので、勝手にいろいろと考えています。あなたが議論を拒否しようが関係なく。
しかし、あなたの反応から考えると、わたしの名前を見ただけで拒否反応を示し、この文章も読まれない可能性があるでしょう。別にそんなの知りません。あなたとの会話の中にわたしの求めるものがあるのかもしれないので、記事をうpします。
定型発達者も非定型発達者もともに精神的苦痛が存在し、苦しんでいる。あなたの言う通り「自分の意図ではどうにもならない苦しみ」に。
それはその通りです。
当時の医学界における「ヒステリーなんて詐病だろ」という風潮の中、ヒステリーを医学が対峙すべき病だとする考えに則って、精神分析は生まれました。現代社会の「傍から見て一般人と思われるような人でも、自分でどうにもならない精神的なものを根拠にした苦痛に苦しんでいる」という考え(あなたにとっては「理解」などとも言えるでしょう)の一つの要因でもあります。
わたしは、この考えを前提にしています。
従って、定型発達者でも罹患可能な精神障害、それこそ解離性障害や境界性人格障害を詐病であるなどとは思っていません。
あなたが戦っているという差別とは、この「それは詐病だ」のような考えですよね。あなたのレスを読んでわたしなりにあなたの思考を考えてみて、そうじゃないかと思いました。
もちろん、現代でも精神障害を「気合いが足りないんだ」みたいに思っている人間は多数います。わたしはそんなの相手にしません。知識が欠如した人間だと思っているから、話す価値もないと。
定型だろうが非定型だろうが、怪我したら「痛い」に決まっています。ある鬱病当事者の本の著者が知り合いなのですが、彼はこう言っていますね。「鬱とは心のカゼ。お薬もらってかるーく治せばいいんだ」と。
ちなみに彼とは実際に(本を出す前から)何度か飲んでいますが、非常にキテレツな人間で、文章だけのあなたと比較するのもあれですけれど、傍から見ればあなたより非定型だと思われるでしょうね。
あなたのレスを読むと、わたしの解離性同一性障害という症状に対して「キモイ」と思った気持ちについて、一言言った、というところからこの会話は始まっています。
あなたは、わたしが「解離性障害や境界性人格障害は詐病だ」と思っている、と思われたのでしょうか?
わたしの言う「定型発達者と非定型発達者との断絶」が、「定型発達者の精神障害は詐病である」という主張に変換されたのでしょうか?
ここに一つのポイントがあります。わたしが最後の鍵コメでした質問とも繋がっています。
もしこのような思考をあなたがしているなら、あなたはわたしの気持ちを想像していることになりますよね。
そしてその想像に基づいて、わたしのブログにコメントした、という話になります。
他人の気持ちを想像する機制に不具合があるのがアスペルガー症候群です。他人の気持ちを想像するやり方のルールが「心の理論」であり、自閉症者に欠けていると言われているものです。わたしはこのルールとは、フロイトの言う快楽原則と現実原則だと考えています。この原則から漏れてしまいがちなのが自閉症者であり非定型発達者であると。
だからと言って、アスペルガー症候群者全員が他人の気持ちを想像しない、なんて言いません。アスペルガー症候群者であろうと、他のどんな非定型発達者であろうと、ささやかなものかもしれないが定型発達の部分は持っていると、わたしは考えていますから。もちろん逆に言えば、どんな定型発達者であろうと、ささやかなものかもしれないが非定型発達の部分は持っている、ということにもなります。
ただ少なくとも、あなたはあなたの望み通り、快楽原則的な「心の理論」的なルールに則って、わたしのブログにコメントした、と言えるでしょう。あなたは、それがエコプラクシアの一貫かどうかわかりませんが、(ぼろっちいものかもしれないけれど)定型発達者の着ぐるみを被れている、と。
わたしはこう言いましたよね。
「あなたは定型発達というマルチ商法に引っかかっているようなものだ」
もちろんこれは、あなたという実存在が非定型発達者であるならば、という前提に基づいた言葉ですけれど。
あなたは、定型発達者も罹患可能な精神障害と、アスペルガー症候群というあなたにくだされた診断名を、「ごちゃまぜ」にしようとしているわけですよね。
『アンチ・オイディプス』を読んでいるようなので、そこで再三繰り返される「領土」という言葉を用いて説明しましょう。
定型発達者が無自覚に学習済みとなっている「心の理論」。わたしはそれをただの固定観念だと表現します。定型発達者は快楽原則や現実原則に無自覚に従っているという事実をもってして。
この快楽原則と現実原則を組み合わせた結果生じる症状は、征服者的な、パラノイアックなものです。自分という精神的な「領土」の保持、拡大のために使用されるルールです。自分自身の人格の根拠になるルールです。ラカニアンが言う「人格とはパラノイアである」という言葉にはこういう意味が込められています。またわたしの「定型発達という精神障害」という言葉にも同様の意味が込められています。
このルールに則れないものは、帝国主義的な、わたしはそれを「王様ゲーム」などと言ったりしますが、「領土」拡大ゲームに参加できません。
ルールに則れていないと言っても、彼らには彼らなりの居場所が必要です。不確定的であってもささやかであっても。何故なら瑣末なものとはいえ彼らにも定型発達的な「領土への執着」はあるのですから。
あなたにとってのこのささやかな「領土」とは、まさに家族となるでしょう。
確かに定型発達者も罹患可能な精神障害は、事実としてその主体にとって苦痛なものです。だからと言ってその障害とアスペルガー症候群を「ごちゃまぜ」にすることは、アスペルガー症候群者たちにとってのささやかな居場所を確定するための「アスペルガー症候群」という言葉を、征服者たちから身を守るための粗末な防衛柵を、無化させることになります。
この防衛柵が依拠する実存的な本質こそが、わたしの言う「断絶」です。断絶という裂け目の上に構築するわたしの言葉は、人工的なダムのようなものです。
たとえば、あなたと同じアスペルガー症候群と診断された方のこのブログを読むとよいでしょう。
彼は、「定型発達者も罹患可能な精神障害」と「自閉症」という言葉が示す実存在を、「ごちゃまぜ」にしてくる現代の風潮に対し、非常に警戒しています。ドードーとらさんは「フリーライダー問題」などと表現していますね。
「定型発達者も罹患可能な精神障害」を罹患した定型発達者たちが、無自覚にフリーライダーとなって、本来の非定型発達者であるアスペルガー症候群者たちの精神的な「領土」を略奪している。これは、「精神障害という苦痛は自分の意図ではどうにもならないものである」という近代の大雑把な問題とは別物の、次の派生的な、現代の繊細な問題です。
あなたは、この略奪マルチ商法に加担しているのです。マルチ商法を喧伝する営業員たちの大言壮語に騙されている。
一方、先に挙げた山岸氏は、自分にくだされた診断名「アスペルガー症候群」という言葉、それにぶら下がる様々な無数の言葉で表される自分という実存在を守ろうとしている。それらの言葉を分析し構築した、人工的なダムをもってして。
あなたは、「差別と戦っている」と仰いましたね。
わたしの個人的な感想で申し訳ないのですが、この山岸氏と比較すると、あなたのやっている「差別との戦い」は、「差別される側から差別する側に回ろうとする戦い」であるように思えます。差別をなくするための「ごちゃまぜ」ではなく、差別する側に回るため「ごちゃまぜ」を利用しているように。
一方山岸氏は、「アスペルガー症候群」という言葉で表現される自分の実存在について熟考しています。その上で、「定型発達者も罹患可能な精神障害」と「アスペルガー症候群」という言葉で表される実存在の差異に拘っています。山岸氏の方が、差別される側が生きるささやかな「領土」を死守しながら、差別と戦っているように、わたしには思えます。
そんな、アスペルガー症候群と診断された人たちの中では一部かもしれないですが、差別される側である自分という物体を保持して戦っている彼らに対し、あなたはあなたのやっている戦いをどう説明するのですか?
わたしに言ったように「心のゆとり」の大切さを説くのですか?
先にも書いたように、全ての人間は、定型発達的な部分と非定型発達的な部分を持ち合わせています。どっちからの影響が強いかによって、その主体を「定型発達者/非定型発達者」と区別しているに過ぎません。人工的に。
『アンチ・オイディプス』とそれに反論したジジェクの著作に倣って言うならば、「器官なき身体」だろうが「身体なき器官」だろうが、純粋なそれは存在しない、ということです。それらの論を読めばわかりますが、定型発達的な部分を純化したのが「身体なき器官」であり、非定型発達的な部分を純化したのが「器官なき身体」です。
それはともかく、山岸氏と比較すると、あなたの定型発達的な部分即ち「身体なき器官」は、彼より大きいように思えます。
わたしについてはわたしは比較できません。わたしの定型発達的な部分が色眼鏡となって、リアルな判断はくだせないでしょうから。しかし周りの人間がどう判断するかも自由です。あなたが「わたしは解離性障害者を差別している」と想像したように、どうとでも想像なさって結構です。間違ってはいませんよ。わたしは定型発達者を差別していますから。自分のそれを含めて。
わたしは、あなたの非定型発達的な部分に、語りかけています。
あなたの大人である部分が言わしめた「心のゆとり」に反論することで、あなたの子供である部分に語りかけている。
あなたの大人である部分が、あなたの子供である部分を殴り殺していると言っている。
あなたの心的外傷は子供である部分にある。
だからあなたが体の不調をきたすのも当然です。
むしろ、わたしの言葉があなたに届いている証拠とも言えます。
あなたは、マルチ商法に騙された大人であるあなたに、殴り殺されている。
差別される側から差別する側に回ろうとする戦いの中で。
わたしは殴り殺されているあなたに語りかけているのだから、苦痛が表面化するのは必然。
そういうことです。
どうぞご自愛ください。
この定型句が、大人の部分に言っているのか子供の部分に言っているのかは、あなたの判断にお任せします。
こちらより。
===土鍋ごはんさんのレス(以下「土」)
鍵コメA(わたし)さん
コメント拝見しました。
そちらではコメントしませんと書きましたので、こちらで自分の考えを書きます。
ごっちゃ混ぜの傲慢とも取れる考えを私がするのはそういう環境にいるからです。
たとえば小中学校も市立、住んでいる所も庶民の住む場所です。
何もかもがごっちゃまぜです。
そんな人たちが住んでいて、一人ひとりが様々な考えを持っていることに気がついたのです。
病気の人もいる、健康な人もいる。
そんな中わずかな違いで差別が生まれる。
大人も子供も序列が出来上がる。
その中での私の考えです。
ここでの差別をはね返さなければどこにも行く場所はありません。
===わたしのレス(以下「脂」)
差別と断絶は違います。
断絶をなくすことで居場所を失う人間だっています。
===脂
たとえば狂人と正常人の断絶をなくそうという定型発達者たちの傲慢な征服欲が、明らかにアスペルガー症候群の臭いがしない人間も、アスペルガー症候群と診断される事態を引き起こしています。
向こうで紹介した山岸氏も、知り合いの別の自閉症者も同じことを述べています。
本来人口の0.数%に過ぎなかったアスペルガー症候群者たちの居場所を失わせています。
わたしは自閉症ではありませんので、自閉症と非自閉症の断絶は守る必要ありませんが、その断絶の実存在は、わたしが今現在苦しんでいるこの居場所、断絶と似通っているように思います。
何故断絶が差別になるのか?
それこそ「定型発達という精神障害」者が、征服者的な快楽原則や現実原則という狂気に則って生きているからです。
この「断絶」が、心ない定型発達者の元で「差別」となるのです。本人たちは無自覚でしょうが。
あなたは定型発達者なのですか?
===脂
一つ質問です。
あちらにも書きましたが、例の友人は、自分の病名を「解離性人格障害」だと述べているのですか?
その友人についてとやかく言うつもりはありませんが、これだけ気にかかりました。
===脂
ドードーとらさんともお話したことですが、「なんでもかんでもごちゃまぜになった状態」は、人間にとって苦痛なものです。
このことを、わたしは「本当の相対主義者は狂気の領域に生きている」と述べ、定型発達者が都合のよい時だけ相対主義的立場に立つことを、「口先だけの相対主義」と言って批判しています。
彼らは自分を縛りつけている快楽原則と現実原則に無自覚なクセに、それがないような口ぶりをする。
あなたが差別と戦うために「ごちゃまぜ」主義に走るのは批判しません。
むしろ、(もしあなたが非定型人であるならば)やはりあなたは無自覚に自分が不快になる方向に進んでいるのだな、と思いました。
「ごちゃまぜ」という不快に。
それはいいのですが、あちらでのお話の内容となった、「境界性人格障害」と「解離性同一性障害」をごちゃまぜにするのは、あなたの「差別との戦い」にどんな関係があるのでしょうか?
解離性同一性障害者が境界性人格障害者を差別しているのですか?
むしろあなたの「境界性人格障害と解離性同一性障害とをごちゃまぜにする考え方」は、その考えを持つ人間の内部で、たとえばあなたの中で、境界性人格障害者や解離性同一性障害者の居場所を奪っていることになりはしませんか?
「境界性人格障害と解離性同一性障害とをごちゃまぜにする考え方」の中では、境界性人格障害あるいは解離性同一性障害の症状という別物の実体が存在しなくなってはいませんか?
これが、断絶をなくすことで居場所が失われるということです。
差別をなくすこととごちゃまぜにすることは等しくなどありません。
===脂
ああ、断っておきますが、わたしは定型発達者を差別していますよ。
わたしの中にもある定型発達的な部分、精液に塗れたがる部分も含めてね。
これは、わたしの心的外傷によるものです。これを否定されることはわたしの心的外傷が存在しなくなることです。
この攻撃性を否定するならば、たとえそれが誰であろうと、わたしは戦いますよ。
「差別」だとかそんなもの関係ありません。わたしの存在を賭けた戦いです。
それが差別だと言われようが、身勝手だと言われようが、関係ありません。
===土
脂さん、コメントしっかり拝見しています。
今日は朝5時過ぎからアルバイトをして、
その後じっくり返信できるのは本日午後からになります。
(病院の予約を入れているためです)
どうぞご了承ください。
===脂
ではもう一つだけ質問しておきます。
あなたは、このブログを読んだ限りでは、社会常識的立場で言えば、とてもずぼらでだらしない生活を送っています(批判ではありませんよ。わたしも似たような生活をしています)。このことはいくら(自意識が弱い自閉症と診断された)あなたでもわかるでしょう。そのようなことを述べた文章もどこかで見かけた気がします。
あなたは、アスペルガー症候群という病名と、家族の理解と協調のお陰で、今の生活を保てているわけですよね。
でもその生活は、社会常識的な生活とはかけ離れた生活です。
ここに、断絶があります。
「あなたの生活」と「社会常識的な生活」との間に。
この断絶はごちゃまぜにしないのですか?
===土
脂さん
立て続けのコメント、
家族のみが私に聞ける事柄への質問など、
私の答えられる範囲を超えました。
私は体調を崩しました。
答えられることのみ答えます。
私は議論はしません。
コメントに、返信するだけです。
脂さんは私が体調を崩すようなコメントをする方だと判断しました。
今後私にこのブログでどのような内容のコメントをされても
私の判断で削除させていただきます。
リンクは、はずさせていただきます。
お手数ですが、脂さんのブログでの
まいにちまなぶのリンクをはずしていただきたいです。
>あなたは定型発達者なのですか?
医師からアスペルガー症候群の疑いありと診断済みです。
「境界性人格障害」と「解離性同一性障害」について理解していることは、
本人が望んで罹る病ではない、ということのみです。
以上です。
これ以外のことは私はお答えしません。
再度申し上げますが私は議論はしません。
===脂
あなたとの会話の中に、わたしが求めている何かがあると思ったので、勝手にいろいろと考えています。あなたが議論を拒否しようが関係なく。
しかし、あなたの反応から考えると、わたしの名前を見ただけで拒否反応を示し、この文章も読まれない可能性があるでしょう。別にそんなの知りません。あなたとの会話の中にわたしの求めるものがあるのかもしれないので、記事をうpします。
定型発達者も非定型発達者もともに精神的苦痛が存在し、苦しんでいる。あなたの言う通り「自分の意図ではどうにもならない苦しみ」に。
それはその通りです。
当時の医学界における「ヒステリーなんて詐病だろ」という風潮の中、ヒステリーを医学が対峙すべき病だとする考えに則って、精神分析は生まれました。現代社会の「傍から見て一般人と思われるような人でも、自分でどうにもならない精神的なものを根拠にした苦痛に苦しんでいる」という考え(あなたにとっては「理解」などとも言えるでしょう)の一つの要因でもあります。
わたしは、この考えを前提にしています。
従って、定型発達者でも罹患可能な精神障害、それこそ解離性障害や境界性人格障害を詐病であるなどとは思っていません。
あなたが戦っているという差別とは、この「それは詐病だ」のような考えですよね。あなたのレスを読んでわたしなりにあなたの思考を考えてみて、そうじゃないかと思いました。
もちろん、現代でも精神障害を「気合いが足りないんだ」みたいに思っている人間は多数います。わたしはそんなの相手にしません。知識が欠如した人間だと思っているから、話す価値もないと。
定型だろうが非定型だろうが、怪我したら「痛い」に決まっています。ある鬱病当事者の本の著者が知り合いなのですが、彼はこう言っていますね。「鬱とは心のカゼ。お薬もらってかるーく治せばいいんだ」と。
ちなみに彼とは実際に(本を出す前から)何度か飲んでいますが、非常にキテレツな人間で、文章だけのあなたと比較するのもあれですけれど、傍から見ればあなたより非定型だと思われるでしょうね。
あなたのレスを読むと、わたしの解離性同一性障害という症状に対して「キモイ」と思った気持ちについて、一言言った、というところからこの会話は始まっています。
あなたは、わたしが「解離性障害や境界性人格障害は詐病だ」と思っている、と思われたのでしょうか?
わたしの言う「定型発達者と非定型発達者との断絶」が、「定型発達者の精神障害は詐病である」という主張に変換されたのでしょうか?
ここに一つのポイントがあります。わたしが最後の鍵コメでした質問とも繋がっています。
もしこのような思考をあなたがしているなら、あなたはわたしの気持ちを想像していることになりますよね。
そしてその想像に基づいて、わたしのブログにコメントした、という話になります。
他人の気持ちを想像する機制に不具合があるのがアスペルガー症候群です。他人の気持ちを想像するやり方のルールが「心の理論」であり、自閉症者に欠けていると言われているものです。わたしはこのルールとは、フロイトの言う快楽原則と現実原則だと考えています。この原則から漏れてしまいがちなのが自閉症者であり非定型発達者であると。
だからと言って、アスペルガー症候群者全員が他人の気持ちを想像しない、なんて言いません。アスペルガー症候群者であろうと、他のどんな非定型発達者であろうと、ささやかなものかもしれないが定型発達の部分は持っていると、わたしは考えていますから。もちろん逆に言えば、どんな定型発達者であろうと、ささやかなものかもしれないが非定型発達の部分は持っている、ということにもなります。
ただ少なくとも、あなたはあなたの望み通り、快楽原則的な「心の理論」的なルールに則って、わたしのブログにコメントした、と言えるでしょう。あなたは、それがエコプラクシアの一貫かどうかわかりませんが、(ぼろっちいものかもしれないけれど)定型発達者の着ぐるみを被れている、と。
わたしはこう言いましたよね。
「あなたは定型発達というマルチ商法に引っかかっているようなものだ」
もちろんこれは、あなたという実存在が非定型発達者であるならば、という前提に基づいた言葉ですけれど。
あなたは、定型発達者も罹患可能な精神障害と、アスペルガー症候群というあなたにくだされた診断名を、「ごちゃまぜ」にしようとしているわけですよね。
『アンチ・オイディプス』を読んでいるようなので、そこで再三繰り返される「領土」という言葉を用いて説明しましょう。
定型発達者が無自覚に学習済みとなっている「心の理論」。わたしはそれをただの固定観念だと表現します。定型発達者は快楽原則や現実原則に無自覚に従っているという事実をもってして。
この快楽原則と現実原則を組み合わせた結果生じる症状は、征服者的な、パラノイアックなものです。自分という精神的な「領土」の保持、拡大のために使用されるルールです。自分自身の人格の根拠になるルールです。ラカニアンが言う「人格とはパラノイアである」という言葉にはこういう意味が込められています。またわたしの「定型発達という精神障害」という言葉にも同様の意味が込められています。
このルールに則れないものは、帝国主義的な、わたしはそれを「王様ゲーム」などと言ったりしますが、「領土」拡大ゲームに参加できません。
ルールに則れていないと言っても、彼らには彼らなりの居場所が必要です。不確定的であってもささやかであっても。何故なら瑣末なものとはいえ彼らにも定型発達的な「領土への執着」はあるのですから。
あなたにとってのこのささやかな「領土」とは、まさに家族となるでしょう。
確かに定型発達者も罹患可能な精神障害は、事実としてその主体にとって苦痛なものです。だからと言ってその障害とアスペルガー症候群を「ごちゃまぜ」にすることは、アスペルガー症候群者たちにとってのささやかな居場所を確定するための「アスペルガー症候群」という言葉を、征服者たちから身を守るための粗末な防衛柵を、無化させることになります。
この防衛柵が依拠する実存的な本質こそが、わたしの言う「断絶」です。断絶という裂け目の上に構築するわたしの言葉は、人工的なダムのようなものです。
たとえば、あなたと同じアスペルガー症候群と診断された方のこのブログを読むとよいでしょう。
彼は、「定型発達者も罹患可能な精神障害」と「自閉症」という言葉が示す実存在を、「ごちゃまぜ」にしてくる現代の風潮に対し、非常に警戒しています。ドードーとらさんは「フリーライダー問題」などと表現していますね。
「定型発達者も罹患可能な精神障害」を罹患した定型発達者たちが、無自覚にフリーライダーとなって、本来の非定型発達者であるアスペルガー症候群者たちの精神的な「領土」を略奪している。これは、「精神障害という苦痛は自分の意図ではどうにもならないものである」という近代の大雑把な問題とは別物の、次の派生的な、現代の繊細な問題です。
あなたは、この略奪マルチ商法に加担しているのです。マルチ商法を喧伝する営業員たちの大言壮語に騙されている。
一方、先に挙げた山岸氏は、自分にくだされた診断名「アスペルガー症候群」という言葉、それにぶら下がる様々な無数の言葉で表される自分という実存在を守ろうとしている。それらの言葉を分析し構築した、人工的なダムをもってして。
あなたは、「差別と戦っている」と仰いましたね。
わたしの個人的な感想で申し訳ないのですが、この山岸氏と比較すると、あなたのやっている「差別との戦い」は、「差別される側から差別する側に回ろうとする戦い」であるように思えます。差別をなくするための「ごちゃまぜ」ではなく、差別する側に回るため「ごちゃまぜ」を利用しているように。
一方山岸氏は、「アスペルガー症候群」という言葉で表現される自分の実存在について熟考しています。その上で、「定型発達者も罹患可能な精神障害」と「アスペルガー症候群」という言葉で表される実存在の差異に拘っています。山岸氏の方が、差別される側が生きるささやかな「領土」を死守しながら、差別と戦っているように、わたしには思えます。
そんな、アスペルガー症候群と診断された人たちの中では一部かもしれないですが、差別される側である自分という物体を保持して戦っている彼らに対し、あなたはあなたのやっている戦いをどう説明するのですか?
わたしに言ったように「心のゆとり」の大切さを説くのですか?
先にも書いたように、全ての人間は、定型発達的な部分と非定型発達的な部分を持ち合わせています。どっちからの影響が強いかによって、その主体を「定型発達者/非定型発達者」と区別しているに過ぎません。人工的に。
『アンチ・オイディプス』とそれに反論したジジェクの著作に倣って言うならば、「器官なき身体」だろうが「身体なき器官」だろうが、純粋なそれは存在しない、ということです。それらの論を読めばわかりますが、定型発達的な部分を純化したのが「身体なき器官」であり、非定型発達的な部分を純化したのが「器官なき身体」です。
それはともかく、山岸氏と比較すると、あなたの定型発達的な部分即ち「身体なき器官」は、彼より大きいように思えます。
わたしについてはわたしは比較できません。わたしの定型発達的な部分が色眼鏡となって、リアルな判断はくだせないでしょうから。しかし周りの人間がどう判断するかも自由です。あなたが「わたしは解離性障害者を差別している」と想像したように、どうとでも想像なさって結構です。間違ってはいませんよ。わたしは定型発達者を差別していますから。自分のそれを含めて。
わたしは、あなたの非定型発達的な部分に、語りかけています。
あなたの大人である部分が言わしめた「心のゆとり」に反論することで、あなたの子供である部分に語りかけている。
あなたの大人である部分が、あなたの子供である部分を殴り殺していると言っている。
あなたの心的外傷は子供である部分にある。
だからあなたが体の不調をきたすのも当然です。
むしろ、わたしの言葉があなたに届いている証拠とも言えます。
あなたは、マルチ商法に騙された大人であるあなたに、殴り殺されている。
差別される側から差別する側に回ろうとする戦いの中で。
わたしは殴り殺されているあなたに語りかけているのだから、苦痛が表面化するのは必然。
そういうことです。
どうぞご自愛ください。
この定型句が、大人の部分に言っているのか子供の部分に言っているのかは、あなたの判断にお任せします。