飽きる
2008/09/09/Tue
最近とみに思うことだが、定型発達者の「飽きる」と非定型発達者の「飽きる」は別物じゃないだろうか。
定型発達者の「飽きる」には、大体妥協的な意味が込められている。
一方、非定型発達者のそれは、自分が納得するまで「それ」に執着する(たとえば自閉症者の「こだわり」や「囚われ」、『アンチ・オイディプス』なら「分裂症者が制作する自己増殖する机」など)。
「それ」は部分対象的なものであり、その執着は部分欲動的である。クリステヴァの言葉なら、セミオティックな「それ」をサンボリック(象徴)化すること、ラカン風に言うならば対象aをシニフィアン(S2)化することが、彼らの「飽きる」なのだ。
ここではそれをこう表現しよう。
対象a→S2
対象aをS2化するには、S1即ちファルスの親近領域を通過しなければならない。彼らの「飽きる」という行為は、常に鏡像段階のトラウマ回帰的症状の色彩を帯びているのではないか。つまり、彼らは「飽きる」たびに一つの生死の境をPTSD的に惹起させているのではないか。彼らは「飽きる」たびに対象aを殺害している。彼らの「飽きる」とは、「去勢の承認/否認」などではない、リアルな去勢そのものなのだ。対象aとは(想像的)自我でもある。他我でもある。それらを内包する本質的な領域にある。よってそれを殺害することは、自殺とも表現可能である。それは、主体の主観世界の中ではまさに生死の再現となる。フロイトで言うならば「フォルト・ダー遊び」である。
平たく言えば、死の欲動的。
むしろこう言わなければならないだろう。彼らの「飽きる」は、「飽きる」という様態を帯びていない。「飽きる」という表現が既にふさわしくない。
たとえば、自閉症者の「こだわり」「囚われ」が終結することは、常に生死を再現している。頭でそう思っていなくとも、彼らの身体がそう認知している。彼らが何かに「飽きて」他の対象に「こだわる」こととは、一つの生まれ変わりのようなものである。暴論的に言えば、そんな風に表現することもできる。
この記事より。
=====
彼女(ドナ・ウィリアムズ)は、【精神的自殺と復活を繰り返すような状態で生きていた】とも書いています。
=====
非定型発達者の現実原則は、決して妥協的なものではない、むしろ生死を直接的に惹起させるものである、ということだ。
一方、定型発達者の「飽きる」は、非常にドライである。定型発達者即ち神経症者の主観世界を精密に述べたラカン論によるならば、その構造は、
S2→(別の)S2
と表現される。
ここでも、前者のS2は殺害されている。ということは、定型発達者の「飽きる」も一つの生死の再現行為であるとは言える。しかし、ここで殺害される「それ」は、対象aではなくあくまでもシニフィアンとしてのS2である。
S2が連鎖し続けることは即ち死を迂回することである。それが生の欲動である。即ち、定型発達者の「飽きる」は非常に生の欲動的なのだ。
たとえば、オタク文化に象徴される消費主義的文化も、巷の哲学者が口角泡して述べるヘーゲルの「止揚」も、それらは等しくシニフィアンの連鎖である。等しく定型発達的な「飽きる」なのだ。
とはいえ、個人的な生理的嫌悪感を基準として考えるならば、パラノイアの防衛としてのフェティシスムに陥るよりマシだとは思う。消費も止揚も。
故に、わたしは資本主義者である。
こう考えると、同じ「殺害」という行為なのに、一方は死の欲動と呼ばれ、一方は生の欲動と呼ばれることに違和感もあろう。しかし、この記事で述べているように、死の欲動こそが乳児の「生きるやり方」であり、本質的な「生」なのだ。
殺害される対象がシニフィアンであるから、「死」という連想がされないだけである。シニフィアンだから「殺害」とならないだけなのだ。「死」的な印象がない。生々しくない。従ってそれを生の欲動と呼んでいるだけである。
人間の「生」とは、いかに「死」を迂回していくかという意味しか持っていない。藤田博史が述べていることと符号する。
ここでは「定型発達者の「飽きる」」と「非定型発達者の「飽きる」」を恣意的に区分して論じているが、これらは連続している。その主体にそれら二つの「飽きる」は併存することは可能である。同じ主体であっても、時と場合によって同じ「飽きる」が別の意味を持つことだってある。
「定型発達者の「飽きる」」はシニフィアン連鎖的な傾向が強く、「非定型発達者の「飽きる」」は対象aの殺害的な傾向が強い、という話である。あくまで傾向としての話。
ただし、一つの主体において、この傾向が逆転していくことは、連続しているとは言えないだろう。
連続していたら、たとえば「自閉症者は甘えているだけだ」という言説に賛することになる。理屈的に。何故ならこの言説の裏には「非定型発達者も定型発達者も同じ主観世界を生きている」という前提が働いているからだ。「あなたもわたしも同じ人間である」というパラノイアの基本病理である。人格に執着するのがパラノイアだ。物自体を隠蔽する人格という幻想に執着することで人格が形成されるのだ。「人格とはパラノイアである」という言葉が示す事実を、特に精神分析を学ぶ定型発達者たちは真摯に考えなければならない。
定型発達者と非定型発達者、これら二つの主体の傾向が連続しているならば、そのパラノイアックな主張を補強することになる。パラノイア思考即ち人格主義に陥ってしまう。
故に、狂人と正常人の間に断絶を設定しているラカン論を、わたしは支持する。
「正常という狂気」を語るためには、この断絶を棄却してはならない。
そういう意味で、わたしは保守主義の立場を取る。
まあそんなことをふらふら考えながら『相棒』見てます、っていうご報告。
右京様かっこええ。
ラカン論を援用しながら、自閉症を研究している人もごくわずかだがいる。しかし、そいつらはラカン論自体から抜け出せていない。
ラカン論とは定型発達者の精神構造を緻密に述べた理屈体系である。だからこそ定型発達者即ち神経症者の精神を切り刻むメスとして非常に鋭いものとなるのだ。フロイト批判の文脈でラカン論を批判しているガタリですら、「ラカン論は神経症者を分裂症者化させる道筋とはなり得る」と認めているが、それは神経症者の精神構造をその緻密さで切り刻んだ場合の話である。実際の分析治療ならば、デプレッションを引き起こす段階での話である。フロイトならば、まさしくヒステリー女性に言った「あなたはその男にレイプされたがっているのですよ」である。
自閉症者は、非定型発達者即ち未去勢な主体であるという意味で、非神経症者である。ラカン論を用いて自閉症を語るならば、わたしの「サバルタンのディスクール」などといった新しい概念や図式が必要となる。あるいは、サントームなどといった晩年の論を利用するしかない。晩年は特に精神病即ち非神経症的な領域に目を向けている事実はラカニアンなら知っているだろう。
しかし、一部の論文では、自閉症の精神構造にむりやり神経症の構造を当てはめていたりする。わたしは『アンチ・オイディプス』はその「語る主体」に生理的嫌悪感を覚えてしまうのだが、そんな論文を読むと、彼らが「精神分析は専制君主制を助長・促進している」として批判しているその論に組してしまいそうになる。オイディプスという王の代わりにボロメオの輪が(専制君主とは言い難いので)国旗になっただけだ。
事実、自閉症を語る際には、ガタリ論の言葉は使い易い。あくまで「定型発達者向けに語る場合」ではあるが。しみじみそう思ってしまう。ああいやだ。吐きそう。自分に。
自閉症を研究するラカニアンですら、定型発達者なのであろう。彼らは無自覚に自閉症という領土を侵略している。非神経症者が生きる領域を略奪している。非定型発達者をレイプしている。精液をぶっかけている。知識という真珠を埋め込んだごつごつしたファルスをもって。
とはいえなんだかんだ言ってそいつらも一応は本職の臨床家なわけだから、反論するにも戦略を練りたくなる。言葉の裏の裏を読んでしまう。要するに、わたしは怖気づいている。
原則人見知りなのだよ。
……ごめん、もう少し力を貯めさせて。その前に自閉症という概念に飽きちゃうかもしれないけれど。
っていうか誰に謝ってるのだろう? わたしに謝ってるのか。わたしの非定型発達的な部分に。
ああもういやだ。誰か止めて。わたしを。
止めてくれるその手にすら噛みついてしまうけれど。
なんでだろう。
なんでだろう。
定型発達者の「飽きる」には、大体妥協的な意味が込められている。
一方、非定型発達者のそれは、自分が納得するまで「それ」に執着する(たとえば自閉症者の「こだわり」や「囚われ」、『アンチ・オイディプス』なら「分裂症者が制作する自己増殖する机」など)。
「それ」は部分対象的なものであり、その執着は部分欲動的である。クリステヴァの言葉なら、セミオティックな「それ」をサンボリック(象徴)化すること、ラカン風に言うならば対象aをシニフィアン(S2)化することが、彼らの「飽きる」なのだ。
ここではそれをこう表現しよう。
対象a→S2
対象aをS2化するには、S1即ちファルスの親近領域を通過しなければならない。彼らの「飽きる」という行為は、常に鏡像段階のトラウマ回帰的症状の色彩を帯びているのではないか。つまり、彼らは「飽きる」たびに一つの生死の境をPTSD的に惹起させているのではないか。彼らは「飽きる」たびに対象aを殺害している。彼らの「飽きる」とは、「去勢の承認/否認」などではない、リアルな去勢そのものなのだ。対象aとは(想像的)自我でもある。他我でもある。それらを内包する本質的な領域にある。よってそれを殺害することは、自殺とも表現可能である。それは、主体の主観世界の中ではまさに生死の再現となる。フロイトで言うならば「フォルト・ダー遊び」である。
平たく言えば、死の欲動的。
むしろこう言わなければならないだろう。彼らの「飽きる」は、「飽きる」という様態を帯びていない。「飽きる」という表現が既にふさわしくない。
たとえば、自閉症者の「こだわり」「囚われ」が終結することは、常に生死を再現している。頭でそう思っていなくとも、彼らの身体がそう認知している。彼らが何かに「飽きて」他の対象に「こだわる」こととは、一つの生まれ変わりのようなものである。暴論的に言えば、そんな風に表現することもできる。
この記事より。
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彼女(ドナ・ウィリアムズ)は、【精神的自殺と復活を繰り返すような状態で生きていた】とも書いています。
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非定型発達者の現実原則は、決して妥協的なものではない、むしろ生死を直接的に惹起させるものである、ということだ。
一方、定型発達者の「飽きる」は、非常にドライである。定型発達者即ち神経症者の主観世界を精密に述べたラカン論によるならば、その構造は、
S2→(別の)S2
と表現される。
ここでも、前者のS2は殺害されている。ということは、定型発達者の「飽きる」も一つの生死の再現行為であるとは言える。しかし、ここで殺害される「それ」は、対象aではなくあくまでもシニフィアンとしてのS2である。
S2が連鎖し続けることは即ち死を迂回することである。それが生の欲動である。即ち、定型発達者の「飽きる」は非常に生の欲動的なのだ。
たとえば、オタク文化に象徴される消費主義的文化も、巷の哲学者が口角泡して述べるヘーゲルの「止揚」も、それらは等しくシニフィアンの連鎖である。等しく定型発達的な「飽きる」なのだ。
とはいえ、個人的な生理的嫌悪感を基準として考えるならば、パラノイアの防衛としてのフェティシスムに陥るよりマシだとは思う。消費も止揚も。
故に、わたしは資本主義者である。
こう考えると、同じ「殺害」という行為なのに、一方は死の欲動と呼ばれ、一方は生の欲動と呼ばれることに違和感もあろう。しかし、この記事で述べているように、死の欲動こそが乳児の「生きるやり方」であり、本質的な「生」なのだ。
殺害される対象がシニフィアンであるから、「死」という連想がされないだけである。シニフィアンだから「殺害」とならないだけなのだ。「死」的な印象がない。生々しくない。従ってそれを生の欲動と呼んでいるだけである。
人間の「生」とは、いかに「死」を迂回していくかという意味しか持っていない。藤田博史が述べていることと符号する。
ここでは「定型発達者の「飽きる」」と「非定型発達者の「飽きる」」を恣意的に区分して論じているが、これらは連続している。その主体にそれら二つの「飽きる」は併存することは可能である。同じ主体であっても、時と場合によって同じ「飽きる」が別の意味を持つことだってある。
「定型発達者の「飽きる」」はシニフィアン連鎖的な傾向が強く、「非定型発達者の「飽きる」」は対象aの殺害的な傾向が強い、という話である。あくまで傾向としての話。
ただし、一つの主体において、この傾向が逆転していくことは、連続しているとは言えないだろう。
連続していたら、たとえば「自閉症者は甘えているだけだ」という言説に賛することになる。理屈的に。何故ならこの言説の裏には「非定型発達者も定型発達者も同じ主観世界を生きている」という前提が働いているからだ。「あなたもわたしも同じ人間である」というパラノイアの基本病理である。人格に執着するのがパラノイアだ。物自体を隠蔽する人格という幻想に執着することで人格が形成されるのだ。「人格とはパラノイアである」という言葉が示す事実を、特に精神分析を学ぶ定型発達者たちは真摯に考えなければならない。
定型発達者と非定型発達者、これら二つの主体の傾向が連続しているならば、そのパラノイアックな主張を補強することになる。パラノイア思考即ち人格主義に陥ってしまう。
故に、狂人と正常人の間に断絶を設定しているラカン論を、わたしは支持する。
「正常という狂気」を語るためには、この断絶を棄却してはならない。
そういう意味で、わたしは保守主義の立場を取る。
まあそんなことをふらふら考えながら『相棒』見てます、っていうご報告。
右京様かっこええ。
ラカン論を援用しながら、自閉症を研究している人もごくわずかだがいる。しかし、そいつらはラカン論自体から抜け出せていない。
ラカン論とは定型発達者の精神構造を緻密に述べた理屈体系である。だからこそ定型発達者即ち神経症者の精神を切り刻むメスとして非常に鋭いものとなるのだ。フロイト批判の文脈でラカン論を批判しているガタリですら、「ラカン論は神経症者を分裂症者化させる道筋とはなり得る」と認めているが、それは神経症者の精神構造をその緻密さで切り刻んだ場合の話である。実際の分析治療ならば、デプレッションを引き起こす段階での話である。フロイトならば、まさしくヒステリー女性に言った「あなたはその男にレイプされたがっているのですよ」である。
自閉症者は、非定型発達者即ち未去勢な主体であるという意味で、非神経症者である。ラカン論を用いて自閉症を語るならば、わたしの「サバルタンのディスクール」などといった新しい概念や図式が必要となる。あるいは、サントームなどといった晩年の論を利用するしかない。晩年は特に精神病即ち非神経症的な領域に目を向けている事実はラカニアンなら知っているだろう。
しかし、一部の論文では、自閉症の精神構造にむりやり神経症の構造を当てはめていたりする。わたしは『アンチ・オイディプス』はその「語る主体」に生理的嫌悪感を覚えてしまうのだが、そんな論文を読むと、彼らが「精神分析は専制君主制を助長・促進している」として批判しているその論に組してしまいそうになる。オイディプスという王の代わりにボロメオの輪が(専制君主とは言い難いので)国旗になっただけだ。
事実、自閉症を語る際には、ガタリ論の言葉は使い易い。あくまで「定型発達者向けに語る場合」ではあるが。しみじみそう思ってしまう。ああいやだ。吐きそう。自分に。
自閉症を研究するラカニアンですら、定型発達者なのであろう。彼らは無自覚に自閉症という領土を侵略している。非神経症者が生きる領域を略奪している。非定型発達者をレイプしている。精液をぶっかけている。知識という真珠を埋め込んだごつごつしたファルスをもって。
とはいえなんだかんだ言ってそいつらも一応は本職の臨床家なわけだから、反論するにも戦略を練りたくなる。言葉の裏の裏を読んでしまう。要するに、わたしは怖気づいている。
原則人見知りなのだよ。
……ごめん、もう少し力を貯めさせて。その前に自閉症という概念に飽きちゃうかもしれないけれど。
っていうか誰に謝ってるのだろう? わたしに謝ってるのか。わたしの非定型発達的な部分に。
ああもういやだ。誰か止めて。わたしを。
止めてくれるその手にすら噛みついてしまうけれど。
なんでだろう。
なんでだろう。