曖昧な世界
2006/12/11/Mon
セカイ系ついでに。
蒼い人さんからの指摘で、「漠然とした敵」の世界が「曖昧なまま」でいるのは、その敵が棲む世界を構築できないからだ、という指摘がありました。
彼の視点は、「曖昧な世界」の手前の世界(物語内での現実世界)に対する主人公たちの接し方が、数学的な一義的な対象としての世界への接し方になってしまっている、というものでした。私の「科学信仰への批判」と「記号のサイン化」というオタク文化への批判にも繋がりますし、前の記事でリンクしたpikarrr氏の「象徴界の消失」という批判にも繋がる批判です。本来シンボル(多義性のある記号)である記号(言語)をサイン化(一義的な記号)する力により、象徴界(シンボル界)の消失・希薄化が表出している、という論理ですね。
要は、「物語内で希薄化する社会・世界」というところがセカイ系批判の要点となります。この点については私もお二人に同意で、傾向として見ると感覚的に不気味なものを感じます。しかし私はこの点をあるがままにしておいています。それが何故「いけないこと」なのか。私はオタク文化を表現文化と仮定して、「記号のサイン化」しか読み解けなかったからです。セカイ系の「象徴界の消失」という点は、オタク文化の中の「記号のサイン化」の一表出である、という考え方です。
ここで現実の社会に少し言及しておきますと、pikarrr氏や宮台真司氏は、「社会が流動化」している、と表現しています。確かにアメリカ型自由化経済などは流動化が主題となっている経済システムです。しかし、視点をマクロに移すと、日本においては「アメリカ型資本主義社会」という確固たるイデオロギーが存在しますし、世界においては冷戦終結による「アメリカ型資本主義経済」のグローバル化が見て取れます。内部では流動的ですが、その外側からみるとイデオロギーの一本化、収束の最終段階にあるように思えます。
資本主義社会は「交換」の原理に拠っています(だから「流動化」が重要になるのです)。物の価値が「贈与」的な「主観的なもの」を含めない確かなものになっているわけですね(中沢新一氏著「愛と経済のロゴス」より)。よって資本主義社会はロゴス中心主義的とも換喩できます。こういった世界的視点から言えば、デリダの「ロゴス中心主義批判」や中村雄二郎氏の「近代的知」に対する「パトスの知」「演劇的知」などという概念が批判思想として今後(さらに)重要となっていくでしょう。
資本主義という「確かな」マクロな世界の中に「曖昧な」文化として「オタク文化」や「学校教育」がある。この「父性的」と「母性的」の二重の構造が、現代若者の様々な問題の原因になっている、というのが私の考え方です。
さて、ここではセカイ系における「漠然とした敵」の棲む「曖昧な世界」を、神話学視点と、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理から少し読み解いてみましょう。
(少しおさらいしておくと、アリストテレス的論理の「非A≠A」において、間にある「≠」に「非A∩A」的な、アポリアの原因となるようなものがあるとして、それを「曖昧なもの」と呼び、「非A」と「A」的なものを「確かなもの」と呼ぶ。この二項を根底に事物を読み解くという二項論理です。例えば「曖昧なもの」があるからこそ(中沢新一氏が唱える)「非A」と「A」を行き来する「対称性」が成り立つ、と言った具合に。)
神話でこの「曖昧な世界」はどういう姿をしているでしょう。前にも述べたように「死者の世界」「水界」「森や山の世界」などがあるでしょうか。神話なだけに「神々の世界」はどうかというと、これが結構論理的・具体的なんですよね。だから曖昧というより(論理的に)「確かな世界」的になっていると思います。多分、神話の時代から見て後世の「宗教」の影響で、「神々の世界」が論理化されてしまったのかもしれません。また、死者や水棲動物や野生動物と異なり、「神」そのものが曖昧で(純粋なシニフィアン)、擬人化可能だったことから、擬人化してしまい、結果、曖昧(純粋なシニフィアン)と確かさ(擬人化)の共鳴で確かなものが生まれるという傾向になったのかな、なんて思います。
「水界」や「森や山の世界」における「動物」は目に見えるものですから、擬人化しても確かなものと確かなものの共鳴になりますもんね。
現代では、「神々の世界」に続くように、科学の知により「水界」(海中や川の中)や「森や山の世界」も「確かな世界」になってしまいました。「死者の世界」も、前の三つの世界よりはましですが、宗教を学問化、体系化することにより確かなもの化しつつある印象があります。
そこで人類は新たな「曖昧な世界」を見出しました。「未来の世界」と「宇宙」と「異世界」です。
これを文芸論・物語論で考えたら答えは簡単ですね。前者二つはSF、後者一つはファンタジーです。
科学は世の中の再現性のあるものだけについて場合分けした「知」です。結果、科学の信憑性は再現性に拠ってしまう。つまり、その再現性が正しいのか、未来を予測できるかということになります。この科学の性格とSFは相似します。
宇宙科学については数学的議論がメインですね。数学は記号としては言葉より曖昧さがありません。ロゴス的です。
これらは科学により大きなロゴスのバックグラウンドがあります。ロゴスなので誤解が少ないはずですが、その背景はとてつもなく大きいので、物語にそれら全ての知を押し込めるのは不可能です。第一全ての科学の知を把握している学者もいません。比喩でいうなら、世界を説明するのに虫食い穴のように専門の領分を掘り進めている状態で、一つの科学的学問を修めても世界を理解できたことにならないのです。個人的には虫食い穴の深遠まで到達するとひらめきのように「世界の真理」的なものが見えるのかも知れない、とは思いますが。
しかし、「未来」にしろ「宇宙」にしろ、「物語的知」(神話・説話的に作用する知とでもいいますか)が現代では「科学」に追い抜かれてしまった、背景である「科学」が物語的に要約・圧縮不可能になってしまったことから、SFはかつて持っていた「物語的知に従属している」という性格を失います。本来「共有するために誤解をなくす」というのがロゴスであったはずですが、専門化、細分化することでロゴスの積み重ねがバベルの塔のようになってしまい、その高さゆえ共有化が難しくなっているという矛盾の一表出ですね。かつてサブカル文化が島宇宙化していると評論家は言っていましたが、学問の世界が島宇宙化を先取りしていたので、私はいまさらいうことじゃないんじゃね? と思っていました。まあそういう状況だからこそ、学問の世界では、以前書評で紹介した「知の挑戦」のような「知の統合」が叫ばれるようになり、東京大学でも「ニッチ学問」として新領域創成科学というわけのわからない名称の研究科が出来たりしているわけです。
ファンタジーはどうでしょう。SFのようにロゴスによる縛り、条件付けは少ないですね。あるとするならば、神学や宗教学が確かなもの化してしまった、「指輪物語」的な「神々の世界」がモデルになっている印象があります。物語の神話への回帰的な印象ですね(だからこそ「指輪物語」の世界を体系的に論理化してしまおう、という流れは理解できます)。
現代のファンタジーといえば、今はライトノベルが大きな役割を背負っていると思います。
ライトノベルのファンタジーでは、合理性、整合性が重要視されます。ファンタジーはジャンル的に条件付けが薄いので、「何でもあり」になってしまいがちですから当然のことと言えます。
しかし彼らの想像するファンタジー的な「神々の世界」は、神話から遠く離れた、科学信仰に染まった現代人のものです。科学信仰論理(科学的論理ではありませんよ)ではない「神話哲学的な論理」を理解できないまま「神々の世界」を模倣し、それを科学信仰論理で補完しているのですね。数学の公式や定理を、その途中の論理を理解せずに覚えているだけのような科学信仰。それによる論理は当然薄っぺらいものとなります。その物語世界の根源にある本質的な神話哲学的論理を理解せずに薄っぺらい科学信仰的論理でお化粧しても、できあがる世界は薄っぺらいものにしかなりえません。これがライトノベルのハイファンタジーは薄っぺらい、大人が読める物語ではない、と言われている所以ではないでしょうか(ラノベにおけるローファンタジーやSFにおいては、後者の科学信仰論理がその希薄さに大きく作用していると思います)。
神話哲学的論理の欠如、数学の定理の途中をすっとばしたような科学信仰論理のせいで、物語としての論理が希薄になっている。ではストーリーではない私小説的な人間の情念に焦点をあてた小説か、というとそうでもないですね。これは前の記事でも書きましたが、登場人物を既に記号化されたアニメ・マンガキャラをモデルにすることで、登場人物自体も希薄になっています。これはセカイ系だけではなく、オタク文化の表現作品全体に通底する傾向だと思います。
例えば、ラノベなどはキャラ小説と呼ばれますが、この「キャラ」という言葉には「アニメ・マンガ的なキャラクター」という意味が込められていると思います。リアル人間をモデルにその人物像を抽象化・記号化した二次元的キャラなら問題はないのですが、今のラノベの傾向はそうではなく、アニメ・マンガキャラを原型とした二次創作的なキャラクターである、という印象です。ギャグやコメディなら希薄な人物像でも良いのですが、希薄なキャラでシリアスな物語を展開しているのが問題だと思います。複雑な人間の葛藤でさえ記号化されている。橋本紡氏の「半分の月がのぼる空」やハセガワケイスケ氏の「しにがみのバラッド」なんかにはそれを強く感じます(両方とも一巻しか読んでないですが)。
こういう小説ばかりになってしまうと、アニメキャラでしか感動のできない読者が増えてしまうでしょう。想像界の弱体化ですね。具体的にいうと、ラノベの登場人物は「アニメでどこかで見たことのあるキャラ」がほとんどです。そういった小説にのめり込んだ若い読者は、現実の他人さえも「アニメでどこかで見たことのあるキャラ」として脳内で無意識的に分類・処理してしまうようになるわけです。そうなると、大塚英志氏が長崎少女刺殺事件を例にして「危機(管理)」と表現した状態になりうるのではないか、と私は考えます。
つまり、現実の他者までもアニメ的に記号化されたキャラのように認識してしまう。ラカン的には自我というものは他者という鏡に映った自分でしかありませんから、アニメ的に記号化された他者に影響され、自我さえもアニメ的になってしまう。結果、「気に食わないなら他人を殺しても自殺してもいい」という短絡思考に無意識的に染まってしまうのです。
ラカン的にいうと、セカイ系的な象徴界の貧弱化、ラノベキャラのようなアニメキャラを原型とした登場人物像的な想像界の記号化。自我が記号化、希薄化してしまうのも無理がないという状況になってしまいます。
もちろん、ラノベ作品全てが希薄だとは言いませんし、ラノベ読者全員の自我が記号化しているとも言っているわけではありません。また、残酷な少年犯罪の増加に繋げて論じるつもりもありません。いくら意識層の自我が短絡化したとしても、人を殺す、自殺するという実際の行動に至るまでには、精神的に大きなハードル・予防線があると私は考えています。なので、大塚氏の「危機管理としての」近代小説の復興、という言葉には大いに共感できるのです。
断っておきますが、ラノベで命の大切さをテーマにした小説を増やすべきだと言っているわけではありません。その登場人物造形や物語世界の論理の希薄さ・記号化を問題にしているのです。加えて、細かい話になってしまいすが、記号化についても、それをそのまま批判するわけではないということを説明させてください。
以降はラノベやセカイ系といった枠内での話ではなく、オタク文化全体の傾向としての話です。
私は以前、「萌えキャラは詩と類似した感動の構図を持っている」という論を展開したことがあります。これは東浩紀氏の「オタクはキャラを「読んでいる」のではないか」という論がまずベースにあります。その上で、文章として論理性が希薄で文法として単純な「詩」と、人間味として希薄で単純な「萌えキャラ」を対比し、両方とも「記号的」であり、記号(の単純的な集合体)で感動することはおかしくないことだ、というオタク文化擁護の論でした。詩だけではなく、舞台芸術ならお能やバレエなどは身体の所作を厳密にコード化(記号化)しています。浮世絵なども人間の抽象化は記号的と言っていいほどの域に達していると思います。受取手はその記号化された表現に感動するわけです(余談ですが、私は元々日本人は対象を抽象化≒記号化する能力が高かったのではないか、と考えています)。
しかし、私はことオタク文化に限っては違う印象を持ちました。それを「解釈の一本化」や「言葉の想像的他者化による散種停止」や「象徴界のサイン化」(セカイ系の「象徴界の消失」・法律を記号として捉えてしまう若者たち)や「アニメキャラをさらに抽象化する二次創作的なキャラの記号化」などの表出から、オタクたちは表現における記号を「サイン的(一義的)」に「読んでいる」のではないか、表現側もそのような前提で作品を作っているのではないか。つまりオタク文化に全体的に漂う「記号のサイン化」という力・傾向を私は感じたのです。またそれを加速させる環境として、「母性過多なミクロの集合と父性中心のマクロな社会という二重構造」と、「スキゾ的人格主体の文化へのパラノ的人格(=一般人)の流入」という二点を取り上げました。
これらを要約すると、オタク文化では(想像的他者・象徴的他者問わず)他者や自我が記号化している傾向があり、そのオーバーシュート的な結果として「記号のサイン化」という現象が起きているのではないか、という論です。この「記号化のオーバーシュートとしてのサイン化傾向」を私は問題視し、批判しているのです。
また、これは余談になりますが、東浩紀氏が「不可視なものの世界」でラカン理論の綻びを、「想像界と象徴界の間の曖昧化」として、現代日本文化(特にオタク文化)を根拠に指摘していますが、ラカン理論にも東氏の論にも矛盾せずに「記号のサイン化傾向」でそれを説明できるのではないか、つまり象徴界の下に、想像界との間を繋ぐ抜け道的な「サイン界」が出来つつあるのではないか、と私は考えています。もちろんこの「サイン界」なるものは日本のポストモダン特有の一時的な流行的なものだと思っていますが。
(おさらいですが、「多義的な記号=シンボル」「一義的な記号=サイン」です。デリダの「散種」やラカンの「象徴界」は、言語が「シンボル」だからこそ成り立つのです。)
話を元に戻します。
セカイ系の「象徴界の消失」などといった「希薄さ」は、オタク文化の表現作品には通底するものだという話でしたが、それを一旦脇に置いて、セカイ系の構図を神話学的にもう少し読み解いてみましょう。
神話では、「死者の世界」「水界」「森や山の世界」などといった世界は、明確に書かれていません。当時は「わからない世界」だったのですね。なのでその表現も曖昧になります。「曖昧な世界」としてしか表現できないわけです。
では科学が浸透した現代において、「曖昧な世界」はなくなってしまったのか、と言えばそうではありません。学問でも探求すればするほどわからないものが生まれるように、「曖昧なもの」と「確かなもの」は光と闇の関係の如くどちらも恒久的に存在する(光あるところには、その光を享受する物体があれば、そこに必ず影ができる。闇は無くならない)と私は考えます。
とはいえ、確かに「曖昧な世界」は科学により狭められていると言ってよいでしょう。「異世界」という空想世界での物語=ファンタジーが多いラノベというジャンルは、正しい傾向を進んでいると言ってよいのではないでしょうか。
ここで何故「曖昧な世界」が必要なのか考えてみましょう。
今はセカイ系を入り口に論じましたので、話を物語論的に少し広げ、「何故物語には「曖昧なもの」が必要なのか」という問いとして考えてみます(文字数が多くなりましたので細かくは論じません)。
曖昧なものというのは、そもそも言葉では説明しづらいものです。言葉こそ曖昧なものを差異化して確かなもの化する役割を持つものだからです。そういう曖昧なものを言葉で表現するために比喩などといった手法があるわけですね。ここでは対比項として「ロゴス」を持ち出してみましょう。
ロゴスは「思考を共有する目的で誤解をなくそうとする考え方」です。共有するなら誤解はない方がいいですもんね。しかしロゴスを担う言語・記号は完全に誤解をなくす(完全な自己同一性)ことは不可能だ、とデリダは述べました。つまり言葉は確かなもの化する役割を負ってはいるが、それ自体が曖昧なものを内包している、ということです。ロゴスは言葉より「確かなもの」と言えます。
この曖昧なもの、逆説的に「言葉・ロゴスにできないもの」こそが人間の情念を起動させるのです。
例えば学問における探究心も、そこにわからないもの=曖昧なものがあるからこそ学ぶのです。探究心だけではなく、感情の元になる情念は人間の無意識層=意識できない層=曖昧なところにあります。
これらを比喩的に述べてみましょう。例えば「ロゴス」は哲学的に「パトス(情念)・ミュトス(神話的なるもの)」と対比されます。また、物語論でも、直接的描写や説明的描写や論理的描写は「それ単体では」感動を呼びにくいと言われています。論文では物語的な感動は起こりにくいですよね。もちろん学問の探究心的なところを揺り動かす感動はありえるでしょうけど。また、曖昧なものがあるからこそ確かめたくなる、学問の探究心的に物語を見たくなるということもありますね。ミステリなどはこの構図を最大限に生かした物語ジャンルだと思います。
つまり、感動の根源であるパトス・情念が曖昧なものだから、曖昧なものと共鳴するのです。これらが共鳴して喜怒哀楽などといった「確かな」感動が惹起されるわけですね。
こういった理由から、物語には「曖昧なもの」が必要であり、だからミュトス・神話において「曖昧な世界」は重要な一要素となったわけです。
「曖昧な世界」は「わからない世界」と言い換えてもよいでしょう。私の直感では、言葉がまだなかった(世界を差異化し得なかった)頃の人類にとって、現実の世界こそが「曖昧な世界」だったのではないか、とさえ思います。
では神話においてこの「曖昧な世界」はどのように作用しているのでしょうか。
神話は現実世界の矛盾などを「感覚的に」説明する「知」としての機能がありました。この矛盾を照らし出すためにこの「曖昧な世界」が用いられていたと思います。矛盾の中にいるとその矛盾を感じていたとしても中々言葉にしづらいものです。
また、「曖昧なもの」はそれこそ「シンボル」のように、意味を圧縮することが可能です。「確かなもの」は「何かとの差異」がある故「確かなもの」になるわけですから、その「何か」についての意味は組み込めなくなります。「曖昧な世界」は「確かなもの」よりいろんな暗喩や換喩をそこに組み込むことが可能なわけです。前の記事に書いた、「神」(という言葉)などのような明確なシニフィエを持たない「純粋なシニフィアン」と同じ構図ですね。つまり、曖昧である時点で、情念・パトスと共鳴しやすいのです。
ここでセカイ系にもどりましょう。
セカイ系では上で述べたように「象徴界の消失」という特徴があります。これは神話視点からいうと、「現実世界の矛盾を説明する知」から外れてしまうことになります。
情念の根源が曖昧なところにあるとはいえ、物語の受取手は現実世界の住人なのです。現実世界の牢獄から抜け出している受取手はいません。
まさに、「物語の感動の根源は現実に還元される。何故なら表現者も受取手も現実世界の住人なのだから」 ということです。
この現実世界を感覚的に想起させる要素、リアリティと言ってもよいでしょうが、それが希薄になりつつあるのが、今のセカイ系ではないでしょうか。
うーん、長々と書いた割には終わりが大した文章じゃなくなってるなあ……。文章って難しいわ。
こっからは独り言。
動物化かあ。なんでしょうね一体。表現文化視点だけで捉えるなら、「泣け」と言っている作品だから泣く、「笑え」と言っている作品だから「笑う」、「萌えろ」と言っている作品だから「萌える」。そういうパブロフの犬としての動物化か、詩みたいに「わけわからんけど感動した」っていう身体的感動という意味での動物化か。これらはわけないとなあ、と最近思っております。
うーん、オタク文化ひいてはポストモダンでは、「何だかよくわからないけど感動した」っていう「曖昧な感動」を惹起するような作品が衰退する、という言い方なのかなあ。
実際しているのか。
こう、パブロフの犬的な感動は、無意識層の情念への響き方が浅いというか、そんな感じがします。深いところの情念を揺るがすから意識層に表出する感動は「何だかよくわからない」「言葉で説明しづらい」という感動になる、といった感じでしょうか。
こういった感動を自分の中に発見する知が中村雄二郎氏のいう「パトスの知」になるのかなあ。まあパブロフの犬的な感動も「曖昧な感動」も過剰に表現作品が流通する世界における受動的態度だし。「パトスの知」も受動的ですわな。
うん? すいません独り言でした。
蒼い人さんからの指摘で、「漠然とした敵」の世界が「曖昧なまま」でいるのは、その敵が棲む世界を構築できないからだ、という指摘がありました。
彼の視点は、「曖昧な世界」の手前の世界(物語内での現実世界)に対する主人公たちの接し方が、数学的な一義的な対象としての世界への接し方になってしまっている、というものでした。私の「科学信仰への批判」と「記号のサイン化」というオタク文化への批判にも繋がりますし、前の記事でリンクしたpikarrr氏の「象徴界の消失」という批判にも繋がる批判です。本来シンボル(多義性のある記号)である記号(言語)をサイン化(一義的な記号)する力により、象徴界(シンボル界)の消失・希薄化が表出している、という論理ですね。
要は、「物語内で希薄化する社会・世界」というところがセカイ系批判の要点となります。この点については私もお二人に同意で、傾向として見ると感覚的に不気味なものを感じます。しかし私はこの点をあるがままにしておいています。それが何故「いけないこと」なのか。私はオタク文化を表現文化と仮定して、「記号のサイン化」しか読み解けなかったからです。セカイ系の「象徴界の消失」という点は、オタク文化の中の「記号のサイン化」の一表出である、という考え方です。
ここで現実の社会に少し言及しておきますと、pikarrr氏や宮台真司氏は、「社会が流動化」している、と表現しています。確かにアメリカ型自由化経済などは流動化が主題となっている経済システムです。しかし、視点をマクロに移すと、日本においては「アメリカ型資本主義社会」という確固たるイデオロギーが存在しますし、世界においては冷戦終結による「アメリカ型資本主義経済」のグローバル化が見て取れます。内部では流動的ですが、その外側からみるとイデオロギーの一本化、収束の最終段階にあるように思えます。
資本主義社会は「交換」の原理に拠っています(だから「流動化」が重要になるのです)。物の価値が「贈与」的な「主観的なもの」を含めない確かなものになっているわけですね(中沢新一氏著「愛と経済のロゴス」より)。よって資本主義社会はロゴス中心主義的とも換喩できます。こういった世界的視点から言えば、デリダの「ロゴス中心主義批判」や中村雄二郎氏の「近代的知」に対する「パトスの知」「演劇的知」などという概念が批判思想として今後(さらに)重要となっていくでしょう。
資本主義という「確かな」マクロな世界の中に「曖昧な」文化として「オタク文化」や「学校教育」がある。この「父性的」と「母性的」の二重の構造が、現代若者の様々な問題の原因になっている、というのが私の考え方です。
さて、ここではセカイ系における「漠然とした敵」の棲む「曖昧な世界」を、神話学視点と、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理から少し読み解いてみましょう。
(少しおさらいしておくと、アリストテレス的論理の「非A≠A」において、間にある「≠」に「非A∩A」的な、アポリアの原因となるようなものがあるとして、それを「曖昧なもの」と呼び、「非A」と「A」的なものを「確かなもの」と呼ぶ。この二項を根底に事物を読み解くという二項論理です。例えば「曖昧なもの」があるからこそ(中沢新一氏が唱える)「非A」と「A」を行き来する「対称性」が成り立つ、と言った具合に。)
神話でこの「曖昧な世界」はどういう姿をしているでしょう。前にも述べたように「死者の世界」「水界」「森や山の世界」などがあるでしょうか。神話なだけに「神々の世界」はどうかというと、これが結構論理的・具体的なんですよね。だから曖昧というより(論理的に)「確かな世界」的になっていると思います。多分、神話の時代から見て後世の「宗教」の影響で、「神々の世界」が論理化されてしまったのかもしれません。また、死者や水棲動物や野生動物と異なり、「神」そのものが曖昧で(純粋なシニフィアン)、擬人化可能だったことから、擬人化してしまい、結果、曖昧(純粋なシニフィアン)と確かさ(擬人化)の共鳴で確かなものが生まれるという傾向になったのかな、なんて思います。
「水界」や「森や山の世界」における「動物」は目に見えるものですから、擬人化しても確かなものと確かなものの共鳴になりますもんね。
現代では、「神々の世界」に続くように、科学の知により「水界」(海中や川の中)や「森や山の世界」も「確かな世界」になってしまいました。「死者の世界」も、前の三つの世界よりはましですが、宗教を学問化、体系化することにより確かなもの化しつつある印象があります。
そこで人類は新たな「曖昧な世界」を見出しました。「未来の世界」と「宇宙」と「異世界」です。
これを文芸論・物語論で考えたら答えは簡単ですね。前者二つはSF、後者一つはファンタジーです。
科学は世の中の再現性のあるものだけについて場合分けした「知」です。結果、科学の信憑性は再現性に拠ってしまう。つまり、その再現性が正しいのか、未来を予測できるかということになります。この科学の性格とSFは相似します。
宇宙科学については数学的議論がメインですね。数学は記号としては言葉より曖昧さがありません。ロゴス的です。
これらは科学により大きなロゴスのバックグラウンドがあります。ロゴスなので誤解が少ないはずですが、その背景はとてつもなく大きいので、物語にそれら全ての知を押し込めるのは不可能です。第一全ての科学の知を把握している学者もいません。比喩でいうなら、世界を説明するのに虫食い穴のように専門の領分を掘り進めている状態で、一つの科学的学問を修めても世界を理解できたことにならないのです。個人的には虫食い穴の深遠まで到達するとひらめきのように「世界の真理」的なものが見えるのかも知れない、とは思いますが。
しかし、「未来」にしろ「宇宙」にしろ、「物語的知」(神話・説話的に作用する知とでもいいますか)が現代では「科学」に追い抜かれてしまった、背景である「科学」が物語的に要約・圧縮不可能になってしまったことから、SFはかつて持っていた「物語的知に従属している」という性格を失います。本来「共有するために誤解をなくす」というのがロゴスであったはずですが、専門化、細分化することでロゴスの積み重ねがバベルの塔のようになってしまい、その高さゆえ共有化が難しくなっているという矛盾の一表出ですね。かつてサブカル文化が島宇宙化していると評論家は言っていましたが、学問の世界が島宇宙化を先取りしていたので、私はいまさらいうことじゃないんじゃね? と思っていました。まあそういう状況だからこそ、学問の世界では、以前書評で紹介した「知の挑戦」のような「知の統合」が叫ばれるようになり、東京大学でも「ニッチ学問」として新領域創成科学というわけのわからない名称の研究科が出来たりしているわけです。
ファンタジーはどうでしょう。SFのようにロゴスによる縛り、条件付けは少ないですね。あるとするならば、神学や宗教学が確かなもの化してしまった、「指輪物語」的な「神々の世界」がモデルになっている印象があります。物語の神話への回帰的な印象ですね(だからこそ「指輪物語」の世界を体系的に論理化してしまおう、という流れは理解できます)。
現代のファンタジーといえば、今はライトノベルが大きな役割を背負っていると思います。
ライトノベルのファンタジーでは、合理性、整合性が重要視されます。ファンタジーはジャンル的に条件付けが薄いので、「何でもあり」になってしまいがちですから当然のことと言えます。
しかし彼らの想像するファンタジー的な「神々の世界」は、神話から遠く離れた、科学信仰に染まった現代人のものです。科学信仰論理(科学的論理ではありませんよ)ではない「神話哲学的な論理」を理解できないまま「神々の世界」を模倣し、それを科学信仰論理で補完しているのですね。数学の公式や定理を、その途中の論理を理解せずに覚えているだけのような科学信仰。それによる論理は当然薄っぺらいものとなります。その物語世界の根源にある本質的な神話哲学的論理を理解せずに薄っぺらい科学信仰的論理でお化粧しても、できあがる世界は薄っぺらいものにしかなりえません。これがライトノベルのハイファンタジーは薄っぺらい、大人が読める物語ではない、と言われている所以ではないでしょうか(ラノベにおけるローファンタジーやSFにおいては、後者の科学信仰論理がその希薄さに大きく作用していると思います)。
神話哲学的論理の欠如、数学の定理の途中をすっとばしたような科学信仰論理のせいで、物語としての論理が希薄になっている。ではストーリーではない私小説的な人間の情念に焦点をあてた小説か、というとそうでもないですね。これは前の記事でも書きましたが、登場人物を既に記号化されたアニメ・マンガキャラをモデルにすることで、登場人物自体も希薄になっています。これはセカイ系だけではなく、オタク文化の表現作品全体に通底する傾向だと思います。
例えば、ラノベなどはキャラ小説と呼ばれますが、この「キャラ」という言葉には「アニメ・マンガ的なキャラクター」という意味が込められていると思います。リアル人間をモデルにその人物像を抽象化・記号化した二次元的キャラなら問題はないのですが、今のラノベの傾向はそうではなく、アニメ・マンガキャラを原型とした二次創作的なキャラクターである、という印象です。ギャグやコメディなら希薄な人物像でも良いのですが、希薄なキャラでシリアスな物語を展開しているのが問題だと思います。複雑な人間の葛藤でさえ記号化されている。橋本紡氏の「半分の月がのぼる空」やハセガワケイスケ氏の「しにがみのバラッド」なんかにはそれを強く感じます(両方とも一巻しか読んでないですが)。
こういう小説ばかりになってしまうと、アニメキャラでしか感動のできない読者が増えてしまうでしょう。想像界の弱体化ですね。具体的にいうと、ラノベの登場人物は「アニメでどこかで見たことのあるキャラ」がほとんどです。そういった小説にのめり込んだ若い読者は、現実の他人さえも「アニメでどこかで見たことのあるキャラ」として脳内で無意識的に分類・処理してしまうようになるわけです。そうなると、大塚英志氏が長崎少女刺殺事件を例にして「危機(管理)」と表現した状態になりうるのではないか、と私は考えます。
つまり、現実の他者までもアニメ的に記号化されたキャラのように認識してしまう。ラカン的には自我というものは他者という鏡に映った自分でしかありませんから、アニメ的に記号化された他者に影響され、自我さえもアニメ的になってしまう。結果、「気に食わないなら他人を殺しても自殺してもいい」という短絡思考に無意識的に染まってしまうのです。
ラカン的にいうと、セカイ系的な象徴界の貧弱化、ラノベキャラのようなアニメキャラを原型とした登場人物像的な想像界の記号化。自我が記号化、希薄化してしまうのも無理がないという状況になってしまいます。
もちろん、ラノベ作品全てが希薄だとは言いませんし、ラノベ読者全員の自我が記号化しているとも言っているわけではありません。また、残酷な少年犯罪の増加に繋げて論じるつもりもありません。いくら意識層の自我が短絡化したとしても、人を殺す、自殺するという実際の行動に至るまでには、精神的に大きなハードル・予防線があると私は考えています。なので、大塚氏の「危機管理としての」近代小説の復興、という言葉には大いに共感できるのです。
断っておきますが、ラノベで命の大切さをテーマにした小説を増やすべきだと言っているわけではありません。その登場人物造形や物語世界の論理の希薄さ・記号化を問題にしているのです。加えて、細かい話になってしまいすが、記号化についても、それをそのまま批判するわけではないということを説明させてください。
以降はラノベやセカイ系といった枠内での話ではなく、オタク文化全体の傾向としての話です。
私は以前、「萌えキャラは詩と類似した感動の構図を持っている」という論を展開したことがあります。これは東浩紀氏の「オタクはキャラを「読んでいる」のではないか」という論がまずベースにあります。その上で、文章として論理性が希薄で文法として単純な「詩」と、人間味として希薄で単純な「萌えキャラ」を対比し、両方とも「記号的」であり、記号(の単純的な集合体)で感動することはおかしくないことだ、というオタク文化擁護の論でした。詩だけではなく、舞台芸術ならお能やバレエなどは身体の所作を厳密にコード化(記号化)しています。浮世絵なども人間の抽象化は記号的と言っていいほどの域に達していると思います。受取手はその記号化された表現に感動するわけです(余談ですが、私は元々日本人は対象を抽象化≒記号化する能力が高かったのではないか、と考えています)。
しかし、私はことオタク文化に限っては違う印象を持ちました。それを「解釈の一本化」や「言葉の想像的他者化による散種停止」や「象徴界のサイン化」(セカイ系の「象徴界の消失」・法律を記号として捉えてしまう若者たち)や「アニメキャラをさらに抽象化する二次創作的なキャラの記号化」などの表出から、オタクたちは表現における記号を「サイン的(一義的)」に「読んでいる」のではないか、表現側もそのような前提で作品を作っているのではないか。つまりオタク文化に全体的に漂う「記号のサイン化」という力・傾向を私は感じたのです。またそれを加速させる環境として、「母性過多なミクロの集合と父性中心のマクロな社会という二重構造」と、「スキゾ的人格主体の文化へのパラノ的人格(=一般人)の流入」という二点を取り上げました。
これらを要約すると、オタク文化では(想像的他者・象徴的他者問わず)他者や自我が記号化している傾向があり、そのオーバーシュート的な結果として「記号のサイン化」という現象が起きているのではないか、という論です。この「記号化のオーバーシュートとしてのサイン化傾向」を私は問題視し、批判しているのです。
また、これは余談になりますが、東浩紀氏が「不可視なものの世界」でラカン理論の綻びを、「想像界と象徴界の間の曖昧化」として、現代日本文化(特にオタク文化)を根拠に指摘していますが、ラカン理論にも東氏の論にも矛盾せずに「記号のサイン化傾向」でそれを説明できるのではないか、つまり象徴界の下に、想像界との間を繋ぐ抜け道的な「サイン界」が出来つつあるのではないか、と私は考えています。もちろんこの「サイン界」なるものは日本のポストモダン特有の一時的な流行的なものだと思っていますが。
(おさらいですが、「多義的な記号=シンボル」「一義的な記号=サイン」です。デリダの「散種」やラカンの「象徴界」は、言語が「シンボル」だからこそ成り立つのです。)
話を元に戻します。
セカイ系の「象徴界の消失」などといった「希薄さ」は、オタク文化の表現作品には通底するものだという話でしたが、それを一旦脇に置いて、セカイ系の構図を神話学的にもう少し読み解いてみましょう。
神話では、「死者の世界」「水界」「森や山の世界」などといった世界は、明確に書かれていません。当時は「わからない世界」だったのですね。なのでその表現も曖昧になります。「曖昧な世界」としてしか表現できないわけです。
では科学が浸透した現代において、「曖昧な世界」はなくなってしまったのか、と言えばそうではありません。学問でも探求すればするほどわからないものが生まれるように、「曖昧なもの」と「確かなもの」は光と闇の関係の如くどちらも恒久的に存在する(光あるところには、その光を享受する物体があれば、そこに必ず影ができる。闇は無くならない)と私は考えます。
とはいえ、確かに「曖昧な世界」は科学により狭められていると言ってよいでしょう。「異世界」という空想世界での物語=ファンタジーが多いラノベというジャンルは、正しい傾向を進んでいると言ってよいのではないでしょうか。
ここで何故「曖昧な世界」が必要なのか考えてみましょう。
今はセカイ系を入り口に論じましたので、話を物語論的に少し広げ、「何故物語には「曖昧なもの」が必要なのか」という問いとして考えてみます(文字数が多くなりましたので細かくは論じません)。
曖昧なものというのは、そもそも言葉では説明しづらいものです。言葉こそ曖昧なものを差異化して確かなもの化する役割を持つものだからです。そういう曖昧なものを言葉で表現するために比喩などといった手法があるわけですね。ここでは対比項として「ロゴス」を持ち出してみましょう。
ロゴスは「思考を共有する目的で誤解をなくそうとする考え方」です。共有するなら誤解はない方がいいですもんね。しかしロゴスを担う言語・記号は完全に誤解をなくす(完全な自己同一性)ことは不可能だ、とデリダは述べました。つまり言葉は確かなもの化する役割を負ってはいるが、それ自体が曖昧なものを内包している、ということです。ロゴスは言葉より「確かなもの」と言えます。
この曖昧なもの、逆説的に「言葉・ロゴスにできないもの」こそが人間の情念を起動させるのです。
例えば学問における探究心も、そこにわからないもの=曖昧なものがあるからこそ学ぶのです。探究心だけではなく、感情の元になる情念は人間の無意識層=意識できない層=曖昧なところにあります。
これらを比喩的に述べてみましょう。例えば「ロゴス」は哲学的に「パトス(情念)・ミュトス(神話的なるもの)」と対比されます。また、物語論でも、直接的描写や説明的描写や論理的描写は「それ単体では」感動を呼びにくいと言われています。論文では物語的な感動は起こりにくいですよね。もちろん学問の探究心的なところを揺り動かす感動はありえるでしょうけど。また、曖昧なものがあるからこそ確かめたくなる、学問の探究心的に物語を見たくなるということもありますね。ミステリなどはこの構図を最大限に生かした物語ジャンルだと思います。
つまり、感動の根源であるパトス・情念が曖昧なものだから、曖昧なものと共鳴するのです。これらが共鳴して喜怒哀楽などといった「確かな」感動が惹起されるわけですね。
こういった理由から、物語には「曖昧なもの」が必要であり、だからミュトス・神話において「曖昧な世界」は重要な一要素となったわけです。
「曖昧な世界」は「わからない世界」と言い換えてもよいでしょう。私の直感では、言葉がまだなかった(世界を差異化し得なかった)頃の人類にとって、現実の世界こそが「曖昧な世界」だったのではないか、とさえ思います。
では神話においてこの「曖昧な世界」はどのように作用しているのでしょうか。
神話は現実世界の矛盾などを「感覚的に」説明する「知」としての機能がありました。この矛盾を照らし出すためにこの「曖昧な世界」が用いられていたと思います。矛盾の中にいるとその矛盾を感じていたとしても中々言葉にしづらいものです。
また、「曖昧なもの」はそれこそ「シンボル」のように、意味を圧縮することが可能です。「確かなもの」は「何かとの差異」がある故「確かなもの」になるわけですから、その「何か」についての意味は組み込めなくなります。「曖昧な世界」は「確かなもの」よりいろんな暗喩や換喩をそこに組み込むことが可能なわけです。前の記事に書いた、「神」(という言葉)などのような明確なシニフィエを持たない「純粋なシニフィアン」と同じ構図ですね。つまり、曖昧である時点で、情念・パトスと共鳴しやすいのです。
ここでセカイ系にもどりましょう。
セカイ系では上で述べたように「象徴界の消失」という特徴があります。これは神話視点からいうと、「現実世界の矛盾を説明する知」から外れてしまうことになります。
情念の根源が曖昧なところにあるとはいえ、物語の受取手は現実世界の住人なのです。現実世界の牢獄から抜け出している受取手はいません。
まさに、「物語の感動の根源は現実に還元される。何故なら表現者も受取手も現実世界の住人なのだから」 ということです。
この現実世界を感覚的に想起させる要素、リアリティと言ってもよいでしょうが、それが希薄になりつつあるのが、今のセカイ系ではないでしょうか。
うーん、長々と書いた割には終わりが大した文章じゃなくなってるなあ……。文章って難しいわ。
こっからは独り言。
動物化かあ。なんでしょうね一体。表現文化視点だけで捉えるなら、「泣け」と言っている作品だから泣く、「笑え」と言っている作品だから「笑う」、「萌えろ」と言っている作品だから「萌える」。そういうパブロフの犬としての動物化か、詩みたいに「わけわからんけど感動した」っていう身体的感動という意味での動物化か。これらはわけないとなあ、と最近思っております。
うーん、オタク文化ひいてはポストモダンでは、「何だかよくわからないけど感動した」っていう「曖昧な感動」を惹起するような作品が衰退する、という言い方なのかなあ。
実際しているのか。
こう、パブロフの犬的な感動は、無意識層の情念への響き方が浅いというか、そんな感じがします。深いところの情念を揺るがすから意識層に表出する感動は「何だかよくわからない」「言葉で説明しづらい」という感動になる、といった感じでしょうか。
こういった感動を自分の中に発見する知が中村雄二郎氏のいう「パトスの知」になるのかなあ。まあパブロフの犬的な感動も「曖昧な感動」も過剰に表現作品が流通する世界における受動的態度だし。「パトスの知」も受動的ですわな。
うん? すいません独り言でした。