想像界に潜む「人間らしさ」という暴力。あるいは『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』への違和感。
2008/09/12/Fri
この記事のコメント欄と、この記事。
いろいろ考えている。
この記事で、「社会に対する違和感」と「世界に存在することへの違和感」は、別物であるが、本質的に連接している、と述べた。
この違和感とは、精神的な苦痛の根拠である。定型発達者の場合、それはほとんど「社会に対する違和感」となる。その主体が非定型発達者(未去勢な主体)であるかどうかを判断するのに、その違和感が「世界に存在することへの違和感」であるかどうかの見極めが有効になる、という話だ。
これらが別物であることが、わたしの主張する「断絶」だ。
しかし、これらは連接している事実も認識する。
引用する。
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「世界に存在することの違和感」と「社会に対する違和感」は、全く別物などではない。それらの本質は連接している。
ドゥルーズ=ガタリに言わせれば、精神分析的な主体に関する欲望機械と、社会的な機械は同じ欲望機械である、となる。確かに彼らの言う通りその実体は等しいものである。要するに、この違和感とは、両方とも器官なき身体と身体なき器官の間の軋轢である。充実身体と欲望機械の間の軋轢である。
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これはこの記事でこう述べていることとも符号するだろう。
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ラカン論は、精神病と神経症の間に、「父の名の排除」という断絶を設定している。ここがクライン論と違うところだ。だからラカン派はボーダーを認めたがらない。
とはいえ、わたしはクライン論や(フロイト派だが明らかにクライン論の影響が強い)クリステヴァ論に依拠する立場も取っている。つまり、狂気と正常の間に、断絶即ち欠如を敷いてない論の立場を取っている。それは、彼女らの言説には、この断絶における苦痛が描かれているからだ。
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しかし、だからといって断絶をないものとされると、わたしの「世界に存在することへの違和感」は、多数決的に「社会に対する違和感」に飲み込まれる。サバルタンのごとく、わたしの主張する違和感は改竄される。この事実は、わたしの心的事実として実際にある。
彼ら、定型発達者たちが愚痴る「社会に対する違和感」とは、その本質は確かに器官なき身体と身体なき器官の間の軋轢だが、彼らはその本質を隠蔽する。
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ところが、定型発達者が述べる「社会に対する違和感」は、社会的な機械と欲望機械の軋轢でしかない。それ以上、軋轢の本質に踏み込めない。
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それをこちらから指摘しても、彼らはヒステリックに否認する。わたしの指摘を「幼児的だ」だとか「やり方が汚い」などと言う。当然である。わたしは未去勢の立場から、彼らのささやかな未去勢の部分に語りかけているのだから。美とケガレを選別する快楽原則の「軸」が、去勢によって生じる象徴的ファルスなのだから。
なので、ヒステリックになってくれた方がわたしの目的と合致する。彼らはほんの少しではあろうが、退行していることになるからだ。
自他問わず主体を退行せしめるのが、わたしの主張する逆精神分析である。
わたしは、社会人になって精神を病んだ。パニック障害、抑鬱状態、適応障害などと診断された。解離性障害の可能性もおまけについた。単にその医者にひきつけのことを話したからかもしれない。自己分析でも自分はヒステリーだと思える。
今もらっている薬で満足しているので診断名など正直どうでもいいのだが、これらは精神分析を学んだ今のわたしから言わせれば、全て「定型発達者も罹患可能な精神障害」である。臨床的、理屈的にそれは明らかである。
ところが土鍋ごはんさんは、わたしが解離性同一性障害に対し「キモイ」と発言したことについて、「解離性障害者を差別している」と思われたようだ。確かにそれは間違いではない。わたしはわたしにも部分として存在する定型発達的な自分、即ち身体なき器官を差別している。差別なんて言葉すら生温い。殺意。憎悪。怨念。
ちなみにわたしは抑鬱状態についても、「抑鬱症者はキモイ」と述べている。
精神障害者サイトを時々巡ったりするのだが、中には様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログなどがある。
正直わたしは理解できない。様々な診断名がつけられることに不快を感じないことが。その苦痛に様々な名称をつけられるということは、苦痛を感じている自分という実存在が希薄になることと思わないのだろうか? 多分、定型発達者は思わないのだろう。ここで言う「自分という実存在」とは現実界と離接するものである。要するにそれはしかめっ面をしているのである。しかめっ面をしているからこそ、人はそれを棄却する。それはアブジェクトとなる。このアブジェクシオンを経て、人は去勢される。「定型発達という精神障害」を患う。
わたしは二つの診断名だけで、精神科というシステムに不信を覚えた。不信というか、それらの病名がどういう意味を持つのか自分で調べるようになった。その延長で精神分析を学ぶようになった。少なくともはまるきっかけになったのは、そこには、現在の精神科のシステムにはない、「自分という実存在」に近づける道具があったからなのは確かである。もちろんそれは「わたしにとって」という意味で、精神分析を広げたいなどという意図はない。これについても、特にラカン派精神分析は「わかりやすさの危険」を説いており、「わかりやすさを重視する=学説を広めたい」というわたしの癇に障る要素を排除できている故、好感が持てた。
とはいえ、精神分析を学んだ今では、そういった診断基準の曖昧さにも一理あると思っている。たとえば、診断基準の統一を目指しDSMなどといったものが発行されていたりするが、そのDSMに関するある論文では、「診断には柔軟な対応を期待する」などと述べられている。DSMは確かに診断基準を統一させる目的があるが、精神医学は現場において不可避的に存在する診断の曖昧さを否定していないのだ。
診断の曖昧さを許容することで、様々な種類の薬や治療法をトライ&エラーできる。様々な病理論を構築できる。たとえば、一般から見ればギャグとしか思われないだろうが、木村敏などは自分の学を現象学的精神病理学などと述べ、哲学の現象学に基づいて精神病理論を構築している。
もちろん、他の内科や外科などではエラーなんてしてはいけないのだが、精神科では、診断そのものに不確定な要素がどうしても存在してしまうので、トライ&エラーを許容しないとやっていけないのである。患者の苦痛を除去すること即ち治療を最優先するならば、この妥協は間違っていないとわたしは考える。
そもそも人の心なんて確定できるものではない。確定できると思える人間は、精神病としてのパラノイアである。
わたしは、こういったことを知識として知っているので、「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」などを見ると、本当にわけがわからなくなる。何故そこまである道標を利用して「自分という実存在」の熟考に向かわないのかが理解できない。「自分を見つめる孤独な毎日」のためのきっかけがそんなにあるのに、レーダーマンになれない自分を見つめないのかがわからない。
わたしが見かけた「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」記事には、少なくとも「自分という実存在」の熟考を述べている記事はなかった。いや、見かけは熟考しているように見えるのだが、わたしにはそれらの言葉が「自分という実存在」の隠蔽のように思えた。全てが言い訳に聞こえる。ほぼ「わたしは苦痛に選ばれた人間だから仕方がない」「わたしの苦痛をわかって」という内容に見える。だから、彼女が「あたかも戦歴のごとく診断名を列挙する」のは、「わたしの苦痛はこんなにすごいのよ」と主張したいためだと思えた。自分の苦痛を本当にわかって欲しいならそんなことをするわけがない。何故ならそんなに様々な診断名が当てはまるならば、その苦痛がどうして生じるのかが、自分自身で認知・理解できなくなるからである。苦痛を感じる「自分という実存在」を熟考できなくなる。
彼女はこう書いていた。
「虐待・暴力の残酷さへの理解を広げたく、ランキングに参加しています。」
彼女も定型発達者即ち「気持ちの資本家」だな、と思った。彼女もまた精液を撒き散らかしている。
わたしの述べる「狂気の伝染」は、確かに「未去勢者が感じる苦痛(それこそ「世界に存在することへの違和感」)への理解を広げる」ことと思われかねない。別にそう思われても構わない。
しかし、厳密に言葉を選ぶなら、「未去勢者が感じる苦痛を感応させる」ことと言い換えることはできるだろう。
「理解」と「感応」は違う。
「理解」ならば、「ふんふんそうなんだ大変だったねえ」のような反応でも「理解」である。「理解」してくれている人間が、同じ苦痛を感じる必要はない。だから、「わたしも昔は同じことで苦しんでいたのよ」などと牧師にでもなったかのようにわたしを諭してくる体中にペニスを生やし射精しまくっているような奴ら(念のために言っておくが生物学的男女は問わない)でさえも、「理解」してくれていることになる。
しかし、「感応」は違う。同じ苦痛を感じることが「感応」である。
従ってわたしはこう言っている。わたしの文章は、定型発達者を苦しめるもの、不快にさせるものだと。
定型発達者が精液をぶっかけて隠蔽しているその未去勢的な非定型発達的な部分に語りかけ、器官なき身体を揺さぶっている。結果、器官なき身体と身体なき器官の軋轢が生まれる。この軋轢こそが、定型非定型問わず精神障害者が感じている苦痛の本質である、と。精神障害そのものの本質である、と。
わたしは、「苦痛の感応」のために、文章を利用しているのだ。
土鍋ごはんさんといいこのブログ主といい、未去勢的な主体即ち非定型発達者即ちスキゾフレニックな狂気と比較すると、決定的に欠けているものがある。
この記事から引用する。
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ここのアスペルガー症候群者(夫もそう診断されている)の手記から引用する。
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私や夫と決定的に違うのは……人によって巾はありますが、いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。どれほど破天荒に見えても、収拾を考えています。押さえるべきところは、寸止めで押さえています。だからこそ、会社という集団で、生き残ってこられたのだと、今思います。
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自閉症に限った話ではない。統合失調症にもこのような症状がある。それは、たとえばガタリの言う「分裂症者が制作する自己増殖する机」がこの症状を象徴的に言い表しているだろう。あるいは、ここの論文も参照できよう。引用する。
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ラカン派の精神科医である加藤敏は分裂病圏の天才の特徴として以下の五点を列挙している(『創造性の精神分析』p150)。1、「真」の存在との出会いの情熱。2、存在の根拠の近くを定常点と分裂気質(ママ)。3、一切の虚偽性を排した独創的思考の企て。4、「長い時間」不耐性。5、根源的シニフィアンの欠如。
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自閉症の特徴である「こだわり」。分裂症の「分裂症者が制作する自己増殖する机」あるいは「「真」の存在との出会いの情熱」。この執着は、先に何度か述べた「「自分という実存在」の熟考」と呼応する。
自閉症者の「こだわり」が「「真」の存在との出会いとの情熱」だとするのはおかしいと思うだろうか? そう思う方はこちらの記事(1,2,3)を読んで欲しい。彼らの「こだわり」がいかに「真なるもの」と出会おうとしてのものであるかわかるだろう。
分裂症者とて同じである。彼は何かを訴えたくて「自己増殖する机」を制作しているのではない。「机」の「真」なる存在と出会おうとして、身を削って机を制作するのだ。
一方、先の二人は、すんでのところで妥協する。快楽原則と現実原則を組み合わせたリミッターによって。心的苦痛に苦しんでいる時は非定型発達的なのではあろうが、すんでのところで定型発達的な自分が、大人の彼女たちが、ストップをかける。
彼女たちは、大人の自分を持てている。
彼女たちが役者の稽古をしたとしても、きっと感情開放で失神したりしないだろう。
具体例を挙げよう。この記事を読んで欲しい。
彼女は、彼女の主観世界において「子供」である弟に対し不快を感じている。これはいい。むしろ、この点だけを考えるならば、多くの定型発達者などより自分の気持ちを隠蔽していない文章だと言える。わたし個人はそこそこ好感を持てる。
しかし、最後の方の文章で、この好感は一変する。
彼女は、「子供」な弟に不快を感じている。しかし彼女は、この告白だけで満足しているようにわたしには思えた。
わたしにとって、不快になることとはそのことあるいはその原因に興味を覚えることだ。たとえば、現代のオタク文化が非常に不快であったから、このブログの前半は主にオタク文化分析で費やされている。自閉症者という実存在が不快だから、後半は自閉症の分析に費やされている。
要するに、わたしは「不快なものを避ける」という快楽原則が理解できない。
彼女は弟に不快を感じた。それはいい。しかし、その「不快を感じたこと」についての思考に到達できていない。何故それを不快と思うのか、自分という物体は不快と思ってしまうのか、そんな本質的な思考に跳躍できていない。「真」なるものから逃げている。
彼女は無意識的に不快を避けている。
彼女の快楽原則は壊れていない。
彼女は不快と対峙して、不快に引き込まれず、立ち止まれている。
彼女の定型発達的な部分が、彼女の筆を止めている。
わたしは彼女のこの態度にこそ、定型発達者が非定型発達者を差別する時の態度を連想してしまう。
この記事などでも『崖の上のポニョ』に対する「薄気味悪さ」を述べているが、その「薄気味悪さ」そのものに踏み込めていない。「丸投げ」という言葉で隠蔽している。とはいえそこから「死」へ連想しているのは、ありきたり(即ち定型的)ではあるが、鋭い思考だと思える。
彼女は、家庭に固着している。自分の家族をひどいものとして書いているが、「理想的な家族像」が彼女の中にあるからこそ家族に固着できている。彼女の文章には、「世間の(彼女が理想的と思っている)家族像と比べてどうよ?」という行間が感じられる。それは「家族ごっこ」という言葉にもっともよく表れている。
反-信仰とは信仰と同義である。否定神学を述べる学者はもっとも敬虔な信仰者なのである。彼女は、アンチ・オイディプスという意味で、オイディプスなのだ。即ち、定型発達者である。彼女こそが「家族ごっこ」に固執している。
また、彼女のもう一人の人格である「あや」についても、断絶のある他人として存在していないことがわかる。
彼女は「あや」を「私が幼児退行して分裂したと思われる<あや>」と認知できている。
それは、たとえばここである高機能自閉症者が述べる「自分の中の自分と断絶のある他人」と比較すれば、はっきり別物であることがわかる。彼女は「あや」について他人として対峙していない。彼女にとって意志に基づいたものでもなく、不本意なことであるのかもしれないが、少なくとも彼女は「あや」を把握即ち所有できている。後者の自閉症者が「自分の中の他人」を五行占いしているのを考えればよくわかるが、現実の他人に向けるのと同じ視線で(彼女と比較すると「冷静に」などとも表現できるだろう)「自分の中の他人」を見ているのとは対照的である。彼女は「あや」に感情移入(ここでは転移と言った方が正確か)できている。彼女が「あや」について語る口調は、非常に物語めいている。「あや」の出現にしろ弟と母の言い争いにしろ、彼女はそれらを断片的な物自体としてではなく、連続的な現象として把握できている。
彼女たちが心的苦痛に苦しんでいる事実は認める。定型だろうが非定型だろうが怪我をしたら痛いに決まっている。
しかし、わたしから見れば、彼女たちは「まだ」物語の中を、幻想を生きられている。彼女のテクストはまさに「ヒステリー者のディスクール」である。この記事で「わたしは「ヒステリー者のディスクール」を目指す」と書いているが、他人を感情移入させ自らもそれに感情移入できている彼女のテクストに対し、嫉妬を覚えていると解釈してもらっても構わない。嫉妬ではなく、彼女という大人を怖れている、と反論するが。
わたしは、子供の立場から、大人の彼女たちに、「もっと苦しめ、苦しみの前で立ち止まるな」と言っている。
快楽原則に縛られている大人の自分を殺せ、と唆している。
そんなに被権力者ぶりたいならば、ね。
後者のブログ主に言うなら、「あや」は別人なんかではない。お前そのものだ、大人のお前が「あや」を殺しているから、「あや」は復讐しにお前の世界にやってきたのだ、と大雑把な分析をしてあげている。
この記事より。
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あやはあや自身を殺したが、私は私を殺さない。
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違う。「あや」を殺したのは、自分を殺さなかったお前だ。
こういった人間たちも、わたしから見れば、子供を殺す大人が子供のフリをしているだけなのだ。「被権力者ブリッコする権力者」なのだ。わたしにとっては、彼女も「精液マシンガンでアンテ・フェストゥム者を殺戮する女性兵士」にしか見えない。
ついでなので、この記事のコメント欄にも突っ込んでおこう。
アリスさんの対応はここでは置いておく。問題は、当事者と名乗る人間のコメントである。
彼の論を要約してみよう。
1.アスペルガー症候群者の定義は、表情や声や言葉や態度の交換に不具合があることを言う。即ち、相手に気を遣えない。
2.だからと言って、「アスペルガー症候群者は人に気を遣わなくていい」となるのはおかしい。「定型発達者の方が気を遣え」となるのはおかしい。
3.わたしだって、他人の嫌な表情や態度には怒りがわく。従って、わたしは正しく気を遣える人間になりたい。
何も問題ないような理屈に見える。しかし、この文脈には、ある統辞的な「心の理論」的な行間が込められている。
まず1。これは問題ない。
2から、なにがしかのノイズが混ざってきている。
自閉症者は相手に気を遣えない。これはいい。しかし、それが「定型発達者の方が気を遣え」となるのかが、まずわたしにはわからない。ここには(彼の主観世界においては)「気を遣い合うことが絶対的正だ」という前提が存在すると考えられる。そうなると、3の「わたしは正しく気を遣いたい」という言葉は、トートロージーとなっていることがわかる。
わたしは、「気遣い」自体を「精液」と表現し、その否定的側面を批判している。この「精液」のせいで、定型発達者たちは、非定型発達者と比較して、「真なるもの」に向かうことができないのである。
しかし、特に関係者などは、自閉症者に対し気を遣っているという事実もあろう。彼はそれを踏まえてそう述べたのかもしれない。
であるならば、2はこう言い換えられる。
2.障害として「他人に気を遣えない」アスペルガー症候群者に対し、関係者などの定型発達者は気を遣っている。なのにアスペルガー症候群者が気を遣わないのはおかしい。
こう書き換えると、彼が言っていることは「心の理論」に正しく則っていることがわかる。アリスさんが先の文章で述べている「根性論」の理屈となっていることがわかる。要するに彼の論はファロセントリックだということだ。象徴的ファルスとは、短絡的に結びつけるのは危険があるが、ここではバロン=コーエンの言うSAMと似たようなものと考えてよい。
従ってこう言える。彼にはSAMがある。
よかったじゃん。「アスペルガーの定義は、「私には全然当てはまっていない」」と思ってるんでしょ? その通りだね、って言ってあげてるの。精神分析をテクストに応用したクリステヴァ的記号分析によってね。
このコメント者も、「心の理論」などというただの固定観念により、「アスペルガー症候群と診断されても気は遣うべきだ」という短絡的な結論を導き出し、それに満足している。即ち、「こだわり」や「「真」の存在との出会いの情熱」を妨害する快楽原則あるいは現実原則に則れている。むしろそれを妨害する精液を称揚している。コメントの文脈を分析すると、彼の精神構造において、ファルスあるいはSAMの統合的作用が働いているのは明確である。要するに、彼の主観世界には、その思考や判断を統合する「軸」となるもの(たとえばこの場合「気を遣い合うことが絶対的正だ」という前提)が既に存在している、ということだ。この「軸」とは、ラカン論ならばイメージ通りファルス(軸=ペニス)となるが、バロン=コーエン論に倣うならば「中枢性の統合」と言い換えられるだろう。
とはいえ、彼の「気を遣い合うことが絶対的正だ」という前提が、(あくまでここはエコラリアではないという意味でこう述べるが)エコプラクシア的なものの総体を反復させているものだという可能性もある。それならば文脈がトートロジーになっていることとも符号する。ここのコメントに倣うならば、脳内エクセルに入力した、彼なりに普遍的と判断した計算式に則った上での思考であるとも言える。
しかし、わたしにはどうもそのように思えない。何故ならば、記事本文に対してのコメントであるからだ。つまり、彼はアリスさんのドナ本解釈に乗っかってこういうコメントをした。斎藤環の論によるならば、文脈(コンテクスト)を読めないのが自閉症である。言語は多義的だが有限である。この有限な大体の意味を連結し、他人と交換できるように共有させるのが「心の理論」という言葉にできない想像的なルールである。一義的、理屈的な意味のルールがわからない故、言語を反復させるのがエコラリアだとわたしは考えている。一方、多義的、想像的な意味のルールがわからない故に反復させるのがエコプラクシアであるとなる。大雑把に考えれば、エコラリアは象徴界的なものでエコプラクシアは想像界的なものである、という話である。斎藤の論における「自閉症者は文脈が読めない」という言葉は、ベイトソンの学習理論による学習2、即ち多義的なルールの学習において、自閉症者の不具合はある、という主張によるものだ。従って、特に「語れる自閉症者」であるアスペルガー症候群者のそれは、一義的な文脈は読めるが多義的な文脈は読めない、という意味で、エコプラクシア的なものだとわたしは考えている。故にわたしは先にエコプラクシアと書いたのだ。
彼は、アリスさんのいかにも定型発達的な解釈の文脈を引き継げている。それを引き継いだ上で、「私は自分の意識と違う表情や声になってることがよくあるみたいなんです。」というエコプラクシアが機能していない事実を述べている。それが子供の頃や昔の話ならわかるのだが、少なくとも彼は現在に近い時期の話として述べている。現時点でエコプラクシアが機能していないから、エコプラクシアを機能させたい、という話である。そういう意味で「正しく気を遣いたい」と言っているのであれば、なるほど自閉症の特徴と一致する。しかし、文脈を読めているという事実は、エコプラクシアが機能している証拠である。矛盾するのだ。
彼は、自閉症のそれを症状でしか理解できていない医者に診断されたのではないか? 自閉症者を自閉症たらしめるその心的事実を解釈しないまま、ただのテストの結果、機械的に診断されただけではないか? そういう疑念が浮上してしまう。
たとえば、対人恐怖症ならば、他人と対峙した時、目線を合わせないなど挙動不審とも言える動作が見られるのはよくあることである。様々な神経症は定型発達者も罹患可能であるが、正しい意味での対人恐怖症は定型発達者でないと罹患できない疾患、即ちポスト・フェストゥム的な疾患だとわたしは考えている(非定型発達者でも対人恐怖症と診断可能な症状が引き起こされることは否定しない。しかしその主体の心的事実を分析したならば、非定型発達者が恐怖する「人」とは部分対象的で統合された人格がないものであり、定型発達者が恐怖する「人」とは確定的で統合された人格をもった対象であり、それらが別物であることがわかるだろう。そういう意味で、対「人」恐怖症は定型発達者しか罹患しない症状だと述べている。要するに見た目だけではわからないということだ)。彼が自分の挙動不審さを述べているのは、常に他人と対面している場面に限っている文脈とも符号する(ただし、彼に対人障害的な症状が仮にあったとして、その「人」が人格を持ったものかどうかは、このテクストだけからでは当然解釈できないが)。あるいはこの記事も参考になるだろう。
定型発達者が罹患する神経症とは、非定型発達者が苦しむ様々な症状が、部分的に、間欠泉のように噴き出したものである。象徴界や想像界というフィルターに開いた穴から、現実界のうねりが伝わってくるものである。穴だから、部分的な症状となる。フィルターを通過するから、似て非なる症状となる。
このテクストの場合、「語る主体」は表情や動作におけるなんらかの心的外傷があり、それが穴となって、なんらかの部分的疾患が間欠泉のように噴き出した、などと考える方が、どうしても辻褄が合ってしまうのだ。先述した矛盾はそうでないと解消できない。つまり、彼のそれはエコプラクシアではないとなる。
補足しておくと、自閉症者のエコラリアやエコプラクシアも現実界的なものではない。現実界のうねりから防衛するための、「軸」のない「柵」である。一方、「軸」もあって「柵」もあるのが定型発達者の精神構造である。定型発達者たちは、安心の二重構造により防衛されている。これらの二重構造は精神分析において様々な側面を様々な言い方で表現されている。快楽原則と現実原則、自我と超自我、想像界と象徴界、S1とS2、ファルスとサントーム、セミオティックとサンボリック、等々。先の斎藤の論文ならば、
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言語の習得に際してもっとも重要であるのは、その言語固有のコンテクストを把握する能力である。これに対して純粋な記号の体系においては、コンテクスト概念はあまり重要ではない。
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の「コンテクストが重要化する言語体系」と「純粋な記号の体系」に相当するだろう。
なお、この「軸」は現実的には中空軸であり、「軸」と「柵」は通底している。このことを図式的に表すならば、シフォンケーキの型を想像すればよろしい。この型を上下にくっつけるとあら不思議、ドーナツになる。ラカンの言う言語構造というトーラスになる。
一方、非定型発達者の「軸」のない「柵」とは、底の抜けた鍋である。上下にくっつけても、底の抜けた鍋でしかない。
この図式を、先の「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」の筆者に当てはめるならば、彼女は「軸」と比較すると二次的なものと言える「柵」の方が、なんらかの心的外傷により壊れつつある状態だと言えよう。従って、彼女が受ける全ての刺激は「軸」を直接攻撃するものとなる。その反作用として彼女はむき出しの「軸」をその行間に露出させている。即ち、「赤の他人」と自ら呼んでいる「自分の中の他人」たる「あや」ですら、(男性性的主体と比較すると)生々しい原初的なファルスをもって、自分の物語における登場人物のごとく把握してしまう。彼女の言説が物語めいていることの説明となろう。彼女のテクストには、その行間にすら、痛々しい根拠がある。
なんだかんだ批判的な文章になってしまっているが、この少量のテクストで判断するのはもちろん危険がある。判断材料の少なさを論拠にした反論は自分の中で惹起されているし、他人からされても納得する(が反論はする)。しかし、文脈には読み手が解釈する「語る主体」の真理が隠されているとするのが精神分析でもある。判断材料は多いに越したことはないが、多くなければ分析できないというわけではない。まあ道徳的に多くあった方がいいんだろうねとは思う。精神分析家というカルト集団の教義として。
少なくともこのテクストに限って言えば、わたしが解釈するこの「語る主体」の主観世界には、ファルスが存在する。SAMが正常に機能している、となる。
平たく言えば、アリスさんの記事と関連させて読めば、このコメントは「空気が読めている」のがわかる、ということだ。彼はこのコメントに限れば「正しい気の遣い方」ができている、一義的なそれだけではなく、多義的な、想像的なコミュニケーションが取れている、という話である。
しかも、無意識的に。わたしはそう解釈する。読めない多義的な文脈を繋ごうと、一義的な計算ソフトであるエクセルを必死で走らせているぎくしゃく感がない。文芸的な読み方をすればそれがわかる。
無意識的な統合性だからこそ、ファルスなのだ。
先に述べた文章の統合(統辞)性と、アリスさんの記事について「空気が読めている」ことと、さらにそれらが無意識的に行われているであろうことを考えれば、彼が実際に自閉症と診断された事実を問わず、彼のファルスあるいはSAMの不具合について、わたしは疑念が生じてしまう。
アリスさんのテクストとの連関性も含めて、彼のコメントを考えれば、そこにははっきりとした統合性があることがわかる。無意識的な。ポモ思想における流行言葉を用いるならば、全くスキゾフレニックではない。山岸氏のブログの記事やコメントと比較すれば、たとえば当の山岸氏とドードーとらさんのやり取りの齟齬などとてもわかりやすいが、明らかである。彼らはお互い一義的な(定型発達者から見れば「屁理屈的な」とも表現できよう)文脈をもってしかコミュニケーションが取れない上に、快楽原則や現実原則が壊れている故「こだわり」の機制に囚われてしまうので、このような(定型発達者から見れば「どうでもいい」ような)齟齬が増幅されてしまうのだ。
それは山岸氏やドードーとらさんが積極奇異型だから、という反論もありえようが、彼は自分の考えを、相手に同意する文脈を構築した上で主張している。積極奇異型でないなら受動型となるが、確かに相手に同意する文脈だけならば受動型だからとは言えよう。しかし、相手の意見を統合する形で自分の主張を構築できている点は、受動型とは言えないだろう。コメントの内容からも、自分から他人と接したがっているという点で積極奇異型と考えられる。しかし、積極奇異を自認している山岸氏の会話にはあるぎくしゃく感はない。むしろアリスさんの対応の方に、ぎくしゃく感とまではいかないが奥歯に物が挟まったような感じを受ける。
わたしは、「自閉症者は気を遣えない」「定型発達者は気を遣える」という二項が関係した結果、何故「自閉症者も気を遣うべきだ」となるのかが、本当にわからない。気を遣いたい奴が遣えばいいじゃない、とわたしなんかは思う。実生活で困るなら、気を遣っている演技をすればいい。「すればいい」などと言ったが、未去勢な主体にとってこの演技はとても困難なものである。わたしはだからこそ役者の稽古にはまったのだろう。彼がやりたがっている「気遣い」とはそういうものだろうか? そうならば、エコプラクシアを多大な努力によって(まさにサントーム!)洗練させたい、という主張だとも理解できる。彼のその努力は、このコメントの「空気が読めている」感に見事に反映されている。このコメントをした瞬間に限れば、彼は自閉症を克服できている。
気を遣える者同士ならばもちろん遣った方がいいのではあろうが、遣えない人間に強制するほど大切なものか? 「気遣い」って。ただの精液じゃねえか。などとわたしは思っている。本気で。わたしはわたしの「気遣い」は糞便であると開き直っている。わたしの「気遣い」は常に他人にとって不快なもので、それはどうしようもないことだとわかったから。不快なものではない、糞便ではない「気遣い」も、演技ではできる。しかしそれらはわたしには全く「気遣い」だと思えないのだ。役者の稽古のエチュードである。「気遣い」などではなくチェスのような「駆け引き」である。
彼という自閉症者が、定型発達者の暴力の象徴である「根性論」に組するのは全然問題がない。しかし、彼の考えが、自閉症者一般の考えだとすると、たとえば先の山岸氏のような、「気を遣えない自分という物体」を保持しながら、気を遣えないことにより受ける差別と戦っている自閉症者による自閉症論を、無化することになる。コメント者は、定型発達者になりたがっているだけであり、彼の論は自閉症論とは全く関係がない。むしろ自閉症者による自閉症論を隠蔽劣化する作用があると考えなければならない。
「気を遣えない自分という物体」を保持することを「アブノーマライゼーション」、「気を遣うことは絶対的正である」という考え方を「人間らしさ」と翻訳するなら、このブログの主張も、山岸氏の主張と構造的に符号していると言えるだろう。この記事から引用する。
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もちろん、この方向性で満足している当事者ならば、それで大丈夫です。ノーマライゼーションやインクルージョンの理念に基づく支援は、そんなあなたの「人間らしさ」の実現に喜んで協力してくれるでしょう。ところが、ある種の感性とを持った当事者はそこに疑いの目を向けることになります。
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「この方向性で満足している当事者」こそが、山岸氏が警戒している「偽アスペ」なるものではないだろうか、とさえ思える。もちろん人の心なぞ確定できるものではないが、統計的に「この方向性で満足している当事者」にSAMあるいはファルスの不具合がない定型発達者が多く含まれているのではないだろうか。
また、自閉症のシンボルとも言えるドナのテクストにも、この「「人間らしさ」に対する疑いの目」と符合する箇所がある。先の斎藤の論文から引用する。
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彼女がおそれる具体的な行為を挙げてみよう。それはまず相手と視線を合わせることであり、抱きしめられることであり、体に触られること、指示されること、そして優しくされることである。例えば「やさしさ、親切、愛情には身がすくむp.58」とある。
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や
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ドナの手記において顕著な傾向として、まさにこの「主体化への恐れ」が挙げられる。
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である。
念のために断っておくが、この「愛や主体化への恐れ」を、PTSDのような(たとえばそれこそ虐待などという)心的外傷を原因とするものと混同してはならない。同論文から。
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(蛇足ながらここで心因についても触れておくなら、そこにみられるのは外傷とその心的加工としての回帰であり、これはまたベルクソン=ドゥルーズいうところの「着衣の反復」なのである)
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先の「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」の筆者はこちらに当てはまるだろう。
わたしは自閉症でないが、この「人間らしさ」に関する疑念を、ラカン論の「人格とはパラノイアである」という言葉や、わたしの感性によって「精液」などという言葉で表現している。
また、こうもり氏の「「人間らしさ」とは単なる規格化ではないか?」というブログテーマも、わたしの「「心の理論」とは単なる固定観念である」という主張と符号する。
よく「自閉症者には心がない」のような言説を見るが、それは、定型発達者の心が様々な固定観念で縛られており、一方自閉症者の心は縛られていないため、定型発達者の主観世界には、その固定観念に合致しない自閉症者の心の力動が存在しなくなるだけなのである。双方の心的事実を解釈すれば、「自閉」しているのはむしろ定型発達者の方であることがわかる。
定型発達者という本質的自閉者を縛りつける固定観念こそが、「心の理論」や「愛や主体化への執着」なのである。
「自閉症者には心がない」という言葉の底にある精神構造は、まさしくパラノイアのそれである。
自閉症者の「こだわり」が「真なるもの」「物自体的なもの」への執着だとするならば、パラノイアックな主体としての定型発達者のそれは「人であること」という幻想(妄想)への執着である、などとも表現できるかもしれない。同じ「執着」「こだわり」でも、症状の視覚的判断だけではなく、コミュニケーションの内容を慎重に分析解釈すれば、区別可能な線引きがあるとわたしは考える。
補足しておくが、気を遣わないことが、「人間らしさ」を否定することが全面的に正しい、などと言っているわけではない。確かに他人の嫌な表情や態度は、たとえ他人の気持ちを想像できないと言われている自閉症者でも、不快に感じることはあろう。不快に感じてよいのだ。
しかし、不快を排除することとは問題が全く違う。
彼は、「不快だから正しく気を遣いたい」と言っている。不快を排除しようとしている。そもそも自閉症者は「気を遣えない」即ち「空気が読めない」から、「空気が読める」定型発達者たちから排除されているのだ。
彼は不快を排除しようとしている。彼の快楽原則は壊れていない。
彼もまた、差別される側から差別する側に、排除される側から排除する側に回ろうとしているだけなのである。アリスさんの言葉を借りるならば定型発達者に「100歩譲る」ことで、非定型発達者の「真なるものと出会おうとする情熱」が否定されている。彼がいかに自閉症と診断されていようが、山岸氏のような自閉症者にしてみれば、定型発達者たちが行っている暴力と同じ暴力を行使しているのである。
彼が本当に自閉症者ならば、こういった論を組み立てる前に、自分が何故気を遣えないのか、「こだわり」行動に囚われてしまうのか、熟考すべきなのだ。
その答えを、単純に「アスペルガー症候群」という言葉で納得できているなら、それは充分快楽原則が機能している定型発達者だと言える。
長くなるがこの手記から引用しよう。
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私の三人とは、
自閉症の私(=生物学的な特徴からくる私)
正常な私(=学校教育によって作られた私)、
大人の私(=成熟した知性を持つ私)
一応、仮にこう擬人化してみただけで、ドナのように情報元にわざわざ固有名詞をつけようとまでは
思いません。
(中略)
「正常な私」も出自は自閉症ですから、聞けば『やっぱり私は正常だった』と、ストレートに信じます。
但し「ココロ」の教育を叩き込まれた為、これに理由付けします。
四苦八苦した挙げ句『自閉症に詳しい人がそう言ったから』などという、幼稚な理由が選ばれます。
この辺りが「正常な私」の限界です。
(中略)
「大人の私」の知性は、自閉症の影響は受けません。
「詳しい人がそう言った」などという理由では納得しません。
断固『私は自閉症である。正常ではない』と言い張ります。
(中略)
「大人の私」だけが『あの発言は真実ではない』という事をどうやってあとの二人に
説得すればいいのか?と、延々思考状態(=こだわり)に陥ります。
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自閉症者の「こだわり」や分裂症者の「真なるものとの出会いへの情熱」は、充実身体によるものである。充実身体とは医学的に治療された身体とは全く正反対の、死の欲動的なもの、即ち快楽原則や現実原則の綻びにあるものである。山岸美代子氏の「こだわり」が、不快を避けるためのものでもなく(彼女は自身の「こだわり」を苦痛に感じている)、社会的なルールと妥協(関与)するためのものでもなく(「こだわり」はむしろ社会生活に支障を及ぼしている)、「哲学」的な「真なるもの」を求めてのものであることがわかるだろう。
一方、「気を遣い合うことが絶対的正だ」とするコメント者は、自閉症と診断された自分自身についての「こだわり」を、「自閉症と診断されたこと」という解答によって終結させ、「気を遣い合うことで不快を避ける」という結論を導き出している。美代子氏の言う「正常な私」が彼の思考を支配している。
土鍋ごはんさんにしろ先のコメント者にしろ「こだわり」に振り回されていないように見える。彼らの症状は、わたしの分析の限りでは、自閉症というよりもっと広汎な括りである学習障害と表現するのが正しいのではないか、と思える。
とはいえ当然これだけの文章で、彼は自閉症者ではない、あるいは自閉症者の鑑である、などと断言するつもりはない。これらの文章には表れていないところで、彼がなんらかにこだわっている可能性もある。しかし少なくともここに提示したテクストに限れば、彼の快楽原則あるいは現実原則は、山岸夫妻やこうもり氏のそれより壊れていないのは確かであるようだ。
彼が自閉症であるかどうかの問題ではなく、このコメントそのものに対して、わたしは突っ込みを入れているのである。
彼が本当に自閉症者ならば、差別される側から差別する側に、排除される側から排除する側に回ろうとしているのである。結果、彼の殴っている相手は、現在の差別されている、排除されている側となっている。彼にそのつもりがあるかないか関係なく。
わたしにとって、ここで述べられている「気遣い」など、先に述べたDSMという定義と現場の曖昧な診断との対立と同じ構造でしかない。
わたしはDSMそのものに批判的だが、だからと言って現場の曖昧な診断を支持するわけでもない。ただ、それは現実として不可避なものだとは思っている。エラーを出さない、厳密さを保持する、という医学のルールにおいては、正しくない状態である。しかし、現実的にどうしようもないことなので、精神科医たちは常に妥協ラインを模索している。
この「妥協ラインの模索」が、日常の対人関係においては「気遣い」あるいは「駆け引き」となるだけである。むしろ、現場において曖昧さを保持することが、精神科医たちの治療を目的とした「気遣い」、あるいは患者の症状との「駆け引き」なのである、という言い方をすればわかりやすいか。
わたしの中では、「気を遣うことは絶対的正だ」などという考えは、ただの固定観念に過ぎない。しかし、その固定観念は現実として存在し、そのメリットも認めている。それを無化しようなどというつもりはない。しかし定型発達者や定型発達者になりたがる非定型発達者の群れの中では、「気遣い」のデメリット面が排除されてしまう。あたかも宗教の教義のごとく。従ってわたしは意地悪く幼児的にそのデメリットをあえて主張する。そういう話である。
喧嘩相手がいなくなったらいなくなったでランダ困っちゃう。
アリスさんもアリスさんだよな。「100歩譲る」って言葉から考えるに彼のそういう考えがどういうことかわかっていそうなのに、彼が本当に自閉症者という言葉で表現されるファルスあるいはSAMに不具合がある実存在ならば、遅かれ早かれ「学校いやだった~、○○先生いやだった~」状態になるだけってことを言わないなんて。ドードーとらさんも似たようなこと言ってなかったかい? 「それはどうしようもないことなんですよ」みたいなさ。こういったところに定型発達的な「やさしさに変換(隠蔽)されたいやらしさ」すら感じるのがわたしという物体なのだがまあアリスさんはそういう人間だと思ってくれてそうなのであえて言っておく。奥歯に物が挟まった言い方しているし。
彼女は、彼の言説に感じた違和感(「私(定型人)がこの文章を読むと、反論したくなってしまいます。」)について、むりやり定型発達者へと矛先を変えている。「もちろん、相手はドナさんや当事者さんではなく、同じような内容の言葉を話し、相手に要求するであろう定型人に対してです。」などという言葉で妥協しようとしている。ここに理屈はない。アリスさんなりの非理屈的な即ち言語化され得ない「心の理論」によって、アリスさんはそうせざるを得なかった。このことが、「自閉症者は、定型発達者にとってアンタッチャブルでなければならない」というアリスさんの無意識をさらけ出している。アンタッチャブルという状態によって、自閉症という実存在を排除しているように、自分と自閉症という実存在の間に断絶を設定しているように、わたしには見える。
しかし逆に言えば、アンタッチャブルじゃないようにすれば、己の定型発達的な部分が非定型発達的な自閉症を殴り殺すことになると、実感をもって知っている彼女だからこその「気遣い」だとも言える。このことはこの記事の言葉からもわかる。引用する。
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それにしても、担任の先生、画伯をよく観察してくださるようになり、そのことを連絡帳に書いてくださるので助かります。「ちゃんとさせなきゃ。」と、画伯と格闘していてはできないことです。
学校の先生って、こどもたちを教えたくて教師を目指されたのですから、見守るというのは自分に【ブレーキをかけたりして】結構大変だと思うのですよ。なので、感謝です。
(【】筆者による)
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わたしはアリスさんのこの態度を批判しているのではない。むしろ彼女の気持ちが痛い。不快である。自らの子供であるのに断絶を認めざるを得ないその気持ちが。わたしには全く関係ないことなのに。
「ブレーキをかけ」るのが「結構大変」であるのは、その先生じゃなくてアリスさん自身なのだ。「画伯と格闘して」しまいそうなのは彼女自身なのだ。自分自身の気持ちをその先生に(想像的に)代理させ隠蔽(隠喩)して述べている、という精神分析においては典型の構造である。
わたしは、単にわたしが解釈する彼女の心的事実を述べているだけである。多少なりの「気遣い」をもって。糞便に塗れた切れ味の悪いメスで彼女の心を恐る恐る切開している。
少なくとも彼女は、自分が権力者であることを自覚できている。被権力者ブリッコなどしていない。
それはともかく、アリスさんのこの対応に、自閉症者と定型発達者の断絶の「どうしようもなさ」が表れているように、わたしには思える。
わたしは、この「どうしようもないこと」をこう表現したのだ。
「自閉症者のエコラリアやエコプラクシアは、定型発達者の超自我や自我とは別物だ。自閉症者の自我や超自我は壊れていると考えなければならない。それを超自我や自我だと表現した時点で、定型発達者の暴力が働いている」
この「壊れた超自我や自我」は、山岸氏の言葉なら「擬似的なSAM」になろう。
壊れたら修復すればいーじゃなーい、と思われるかもしれないが、修復できたならそれは自閉症ではないのだ。何故なら完璧な超自我や自我なんて存在しないから。定型発達者であっても。PTSDなどよい例である。あれはファルスが不安定になっていると考えてよい。PTSDと同じ精神構造であるなどとは言わないが、この視点を取るならば、一般的な思春期の情緒不安定さもそう表現できる。ファルスが不安定になるのは定型発達者でも普通にあることなのだ。この不安定さをも壊れていると表現するなら、「壊れたら修復すればいーじゃなーい」という言葉は、正しい。
全ての壊れているファルスあるいはSAMが修復可能だとするならば、山岸氏の提唱する「擬似的なSAM」なる概念が示す実体は存在しないとなる。自閉症者のエコラリアやエコプラクシアの積み重ねが、脳内エクセルに入力した膨大な計算式が、定型発達者の超自我や自我と同じものであるとなる。理屈的に。わたしはそれには反論する。わたしの言葉ならばそれは、「わたしは狂人と正常人の断絶を守る」と言い換えられる。ラカン論ならば、このSAMと擬似的なSAMの差異は、未だ詳細は説明できないが、ファルスとサントームの違い、「軸」と「柵」との違い、となるだろう、という予測だけはしておく。
山岸氏がよく『アスペルガーの館』で感じた違和感を述べているが、こういうことかなあと、自閉症でもないわたしが言うのもなんだが、思った。また彼は「本当の自閉症の子供が可哀相だ」とかとも述べているが、わたしは山岸氏が可哀相だ。そう思われるのは迷惑かもしれないが、勝手に可哀相だと思ってしまう。
定型発達者には気を遣って同じ自閉症と診断された人間には遣わないってか。ふーん。このコメント者の最後の言葉。
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当事者本や当事者サイトを読むのは私はかなりシンドイんですが、ドナさんの「わたしは自閉症と闘うことができるのだ。 自閉症をコントロールすることができるのだ。」のドナさんなりの出した結論や試行錯誤の部分が興味があるので、いつか気持ちが強い時に読んでみたいと思います。
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「気持ちが強い時」ねえ。
「シンドイ」のはよくわかる。わたしもここで「わたしは自閉症者という実存在が不快なのだ」と述べている。自閉症ではないわたしの意見と一致する。
あなたは、ドナのように「自閉症と闘」っていない。自閉症と向き合ってすらいない。あなたが向き合っているのは定型発達者だ。「自閉症と闘う」こととは、自閉症という実体を排除することなどでは決してない。
とはいえわたしは、シニフィアンの恣意性とはそういうことだと思っているから、彼ら彼女らが「アスペルガー症候群と診断された事実」と、「自閉症という言葉で表現される実存在」は、関連してはいるだろうが別物だと思っている。
だから、彼ら彼女らが「アスペルガー症候群と診断された事実」は別に否定しないけれど、「自閉症という言葉で表現される実存在」が語っている言葉とは思えないなー、違和感あるよなー、この違和感ってわたしがいつも感じている正常人に対する違和感だよなー、って思うのでありました。
別に言葉なんてなんでもいいのだよ。「真なるもの」に近づく道具に過ぎないから。
なんかコメント者への批判みたいになっているが、彼がそうやることは全然どうでもいい。っていうか他人事だし。わたし自閉症じゃないし。彼が本当に自閉症ならば、そういう選択が悪い結果になることを予測してあげつらっているだけ。そうしてしまうだけ。わたしって未去勢な主体らしいから。これがわたしの「気遣い」。
なんにつけ一応は絶望的観測をするのがクセです。
明日孤独になあれ。
精液の土砂降りがやんだ空。それは孤独の世界だった。ばーい中島みゆき。
ドゥルーズ=ガタリのような定型発達者から見れば、器官なき身体に親近する領域に近づくこととは、確かに「逃走」となるだろう。わたしはこの言葉が理解できないが、彼らが「定型発達という精神障害」者であると考えるならば、なんとなく辻褄が合う。
定型発達者が生きる領域から、わたしが生きる世界に近づくことは、きっと「逃走」なのであろう。
しかし、わたしにとって、現実界に近づくことは、決して「逃走」などではない。それが「不快」と定型発達者の生きる領域で表現される事実であることを知りながら、そこに引き込まれてしまう。わたしだって快楽原則に則りたいのだ。しかし則れない。何故なら、わたしの隣には常に既に悪魔が身を寄せているから。
それは、むしろ悪魔との「戦い」だ。悪魔と戦うことで、わたしは魔女になってしまっている。
何故それを「逃走」などと言われなければならないのだ?
ドゥルーズ=ガタリは、わたしの倫理に則れば、極刑に値する。本気で殺意を覚えている。両方死んでるけれど。
この「戦い」を、「逃走」などと表現するから、ドゥルージアンたちはただのニヒリストになる。充実身体のはるか手前で平然と立ち止まれる。「逃走」という言葉そのものに快楽原則と連結する意味が込められている故、快楽原則を破壊できない。ドゥルージアンたちは、無自覚に師の教えと全く逆方向へと進んでいる。彼らはオイディプス化している。
なので、妥協的にドゥルージアンに殺意を抱くわたしでした。
だってだってわたしだって定型発達者(笑)でありたいんだもーん。とか言って権力者であろうとして精神を病んだわけだけど。
「逃走」という語句は脇に置いておくならば、ガタリ論の言葉は、自閉症を語る際には極めて有効だと、最近イヤイヤながら思う。
たとえば、「無意識とはその本質は(家族主義という意味でのオイディプスではない)孤児である」という主張。この「無意識」を、充実身体に関連する文脈をもって解釈し、ラカン風に言い換えたならば、斜線の壊れた主体即ちSとなろう。
完全に斜線が取れているわけではないが、斜線の取れたSは自閉症者の実存在であるとも言える。であるならば、「自閉症とはその本質は孤児である」と言い換えることができる。この表現は、山岸氏の「わたしという物体は他人の気持ちを想像できないのだから、無理して想像することはない」という主張や、こうもり氏の「アブノーマライゼーション」というテーマと呼応しないだろうか?
自閉症者は、定型発達者が無自覚にいとも簡単に取り交わせる「人と人との間で交わされる「人であること」という契約」が、うまく履行できない。即ち、人と人との連鎖から排除されている。従って、彼らは彼らの歴史を語れない。歴史とは人と人との関係を時系列に取りまとめたものであるからだ。彼らの存在は、人と人との関係を時系列に取りまとめた歴史なるものからこぼれていく。彼らの歴史は奪われていく。ドードーとら氏は言った。
「「女は存在しない」と言ったラカンに倣うならば、「アスペやスキゾやアンテ・フェストゥム人間はなおさら存在しない」となる」
彼らは自分自身を、歴史ではなく、一義的な理屈で解体し、仮設的に統合するしかない。
彼らにとって、彼ら自身の歴史を語らせること自体が、帝国主義的な、多義性という想像的な暴力なのだ。ここのコメント欄でブログ主がぼやいた「むしろまさにこれこそが<帝国>そのものなんじゃないか。とおもうのですね。」という言葉と符合する。まあこのブログ読者だからこそこう言えたのかもれないけれどー。
彼らの歴史は、定型発達者が考えるような歴史などではない。データである。ただのデータを物語化させたのが、定型発達者が固定観念的に考える歴史である。スターン論によれば、人格形成史の最終段階は物語的自己感の形成となる。一方、斜線の取れたSとは未去勢な主体を意味する。去勢即ち鏡像段階は、スターン論ならば間主観的自己感の形成期に時期を同じくする。このことからも、自閉症者に(データとしてではない物語としての)歴史を語らせることは、大人(去勢済みの主体)が子供(未去勢な主体)に対して行使する暴力であることがわかるだろう。
定型発達者は、何よりもまず、自分自身の想像的な「人間らしさ」に潜む、本能と表現してもよいレベルにある、その暴力性を見つめなければ、彼らに歴史を語らせる資格はない。
笙野頼子このブログ読んでるかなー? 読んでなくていいけれど。『だいにっほん第三部』についてわたしが感じた違和感な。
つーか『第二部』とか読めば読むほどいぶきが自閉症とは言い切れないが発達障害者即ち非定型発達者即ち未去勢な主体に見えてくる。自閉症だったら積極奇異群になろうな。「火星人落語」の「自分を虐げる権力者の姿を真に迫って演じることで笑いを取る」というところなど、まさに擬似的なSAMと通じるものを感じる。
いぶき、あるいは火星人なるものを、非定型発達者であると解釈するならば、「自我なんてわからん!」といういぶきの叫びはいぶき自身のものだと思える。何故なら非定型発達者とは去勢(鏡像段階)に不具合がある者たちである故、去勢により生じる(想像的な)自我や(象徴的な)超自我も壊れていることになるからだ。定型発達者たちが声高に唱える「自我」なる言葉が示す実存在は、彼ら彼女らの主観世界のそれとは別物だからだ。
ところが、「わたしは火星人の歴史を語る」という言葉は、いぶきにとって「言わされている」ようにしか、わたしには読めない。笙野という作者の暴力から身を守るための、エコラリアやエコプラクシアのようにしか見えない。
はたして、いぶきに歴史を語らせようとした時、笙野はアリスさんのように自分自身の「どうしようもない」暴力を自覚していたのだろうか? そこに断絶を設定していただろうか?
このブログ主のように定型発達者即ち地球人であること自体が暴力であるのに無自覚なまま、地球人との間に「どうしようもない」断絶がある火星人について、自らを語り得ないサバルタンについて、語っているのだろうか?
そういう問いである。
わたしは笙野は少なくとも躊躇していると読んでいる。たとえば、いぶきが帰天する際の「物語だしまた地上に戻ってくるかもしれないけどね」みたいな言い訳めいた文章などから、そう判断する。
しかしあれだな、ドードーとら氏といいこうもり氏といい、山岸氏も自らを「カナブン(カナー型の親分だと)」などと表現しているが、見事なまでに動物的な名前を選択しているな。定型発達的な「人間らしさ」に疑念を持ってしまう彼らは。
かと言ってそれは東浩紀の言う「動物化」とは全く別物だけどね。
わたしは、東の言う「動物」とはブロイラーのような家畜化された動物だと思っている。彼のテクストからもそれは明らかであろう。
一方、自閉症者たちが自らを表現する「動物」は、まさしく野生的な動物である。餌を与えようとする呑気な観光客の手に噛みつく猿である。少なくともわたしは。
そういう違い。
ついでだから、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に対するわたしの考えの要約をここのコメントでしているので、興味があったらどーぞ。
反論があるならこのブログ全部とは言わないけれどせめてリンク先ぐらいはさらっとでいいから読んでからにしてね。じゃないと「ぷw 2ちゃんの脊髄反射レスかよw」などと判断してスルーしちゃうわたしなので。
あー最近なんか情緒不安定だなと思ったら『かよちゃんの荷物』が休載しているからだな。
そういう風に思っとこ。隠蔽として。
いろいろ考えている。
この記事で、「社会に対する違和感」と「世界に存在することへの違和感」は、別物であるが、本質的に連接している、と述べた。
この違和感とは、精神的な苦痛の根拠である。定型発達者の場合、それはほとんど「社会に対する違和感」となる。その主体が非定型発達者(未去勢な主体)であるかどうかを判断するのに、その違和感が「世界に存在することへの違和感」であるかどうかの見極めが有効になる、という話だ。
これらが別物であることが、わたしの主張する「断絶」だ。
しかし、これらは連接している事実も認識する。
引用する。
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「世界に存在することの違和感」と「社会に対する違和感」は、全く別物などではない。それらの本質は連接している。
ドゥルーズ=ガタリに言わせれば、精神分析的な主体に関する欲望機械と、社会的な機械は同じ欲望機械である、となる。確かに彼らの言う通りその実体は等しいものである。要するに、この違和感とは、両方とも器官なき身体と身体なき器官の間の軋轢である。充実身体と欲望機械の間の軋轢である。
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これはこの記事でこう述べていることとも符号するだろう。
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ラカン論は、精神病と神経症の間に、「父の名の排除」という断絶を設定している。ここがクライン論と違うところだ。だからラカン派はボーダーを認めたがらない。
とはいえ、わたしはクライン論や(フロイト派だが明らかにクライン論の影響が強い)クリステヴァ論に依拠する立場も取っている。つまり、狂気と正常の間に、断絶即ち欠如を敷いてない論の立場を取っている。それは、彼女らの言説には、この断絶における苦痛が描かれているからだ。
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しかし、だからといって断絶をないものとされると、わたしの「世界に存在することへの違和感」は、多数決的に「社会に対する違和感」に飲み込まれる。サバルタンのごとく、わたしの主張する違和感は改竄される。この事実は、わたしの心的事実として実際にある。
彼ら、定型発達者たちが愚痴る「社会に対する違和感」とは、その本質は確かに器官なき身体と身体なき器官の間の軋轢だが、彼らはその本質を隠蔽する。
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ところが、定型発達者が述べる「社会に対する違和感」は、社会的な機械と欲望機械の軋轢でしかない。それ以上、軋轢の本質に踏み込めない。
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それをこちらから指摘しても、彼らはヒステリックに否認する。わたしの指摘を「幼児的だ」だとか「やり方が汚い」などと言う。当然である。わたしは未去勢の立場から、彼らのささやかな未去勢の部分に語りかけているのだから。美とケガレを選別する快楽原則の「軸」が、去勢によって生じる象徴的ファルスなのだから。
なので、ヒステリックになってくれた方がわたしの目的と合致する。彼らはほんの少しではあろうが、退行していることになるからだ。
自他問わず主体を退行せしめるのが、わたしの主張する逆精神分析である。
わたしは、社会人になって精神を病んだ。パニック障害、抑鬱状態、適応障害などと診断された。解離性障害の可能性もおまけについた。単にその医者にひきつけのことを話したからかもしれない。自己分析でも自分はヒステリーだと思える。
今もらっている薬で満足しているので診断名など正直どうでもいいのだが、これらは精神分析を学んだ今のわたしから言わせれば、全て「定型発達者も罹患可能な精神障害」である。臨床的、理屈的にそれは明らかである。
ところが土鍋ごはんさんは、わたしが解離性同一性障害に対し「キモイ」と発言したことについて、「解離性障害者を差別している」と思われたようだ。確かにそれは間違いではない。わたしはわたしにも部分として存在する定型発達的な自分、即ち身体なき器官を差別している。差別なんて言葉すら生温い。殺意。憎悪。怨念。
ちなみにわたしは抑鬱状態についても、「抑鬱症者はキモイ」と述べている。
精神障害者サイトを時々巡ったりするのだが、中には様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログなどがある。
正直わたしは理解できない。様々な診断名がつけられることに不快を感じないことが。その苦痛に様々な名称をつけられるということは、苦痛を感じている自分という実存在が希薄になることと思わないのだろうか? 多分、定型発達者は思わないのだろう。ここで言う「自分という実存在」とは現実界と離接するものである。要するにそれはしかめっ面をしているのである。しかめっ面をしているからこそ、人はそれを棄却する。それはアブジェクトとなる。このアブジェクシオンを経て、人は去勢される。「定型発達という精神障害」を患う。
わたしは二つの診断名だけで、精神科というシステムに不信を覚えた。不信というか、それらの病名がどういう意味を持つのか自分で調べるようになった。その延長で精神分析を学ぶようになった。少なくともはまるきっかけになったのは、そこには、現在の精神科のシステムにはない、「自分という実存在」に近づける道具があったからなのは確かである。もちろんそれは「わたしにとって」という意味で、精神分析を広げたいなどという意図はない。これについても、特にラカン派精神分析は「わかりやすさの危険」を説いており、「わかりやすさを重視する=学説を広めたい」というわたしの癇に障る要素を排除できている故、好感が持てた。
とはいえ、精神分析を学んだ今では、そういった診断基準の曖昧さにも一理あると思っている。たとえば、診断基準の統一を目指しDSMなどといったものが発行されていたりするが、そのDSMに関するある論文では、「診断には柔軟な対応を期待する」などと述べられている。DSMは確かに診断基準を統一させる目的があるが、精神医学は現場において不可避的に存在する診断の曖昧さを否定していないのだ。
診断の曖昧さを許容することで、様々な種類の薬や治療法をトライ&エラーできる。様々な病理論を構築できる。たとえば、一般から見ればギャグとしか思われないだろうが、木村敏などは自分の学を現象学的精神病理学などと述べ、哲学の現象学に基づいて精神病理論を構築している。
もちろん、他の内科や外科などではエラーなんてしてはいけないのだが、精神科では、診断そのものに不確定な要素がどうしても存在してしまうので、トライ&エラーを許容しないとやっていけないのである。患者の苦痛を除去すること即ち治療を最優先するならば、この妥協は間違っていないとわたしは考える。
そもそも人の心なんて確定できるものではない。確定できると思える人間は、精神病としてのパラノイアである。
わたしは、こういったことを知識として知っているので、「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」などを見ると、本当にわけがわからなくなる。何故そこまである道標を利用して「自分という実存在」の熟考に向かわないのかが理解できない。「自分を見つめる孤独な毎日」のためのきっかけがそんなにあるのに、レーダーマンになれない自分を見つめないのかがわからない。
わたしが見かけた「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」記事には、少なくとも「自分という実存在」の熟考を述べている記事はなかった。いや、見かけは熟考しているように見えるのだが、わたしにはそれらの言葉が「自分という実存在」の隠蔽のように思えた。全てが言い訳に聞こえる。ほぼ「わたしは苦痛に選ばれた人間だから仕方がない」「わたしの苦痛をわかって」という内容に見える。だから、彼女が「あたかも戦歴のごとく診断名を列挙する」のは、「わたしの苦痛はこんなにすごいのよ」と主張したいためだと思えた。自分の苦痛を本当にわかって欲しいならそんなことをするわけがない。何故ならそんなに様々な診断名が当てはまるならば、その苦痛がどうして生じるのかが、自分自身で認知・理解できなくなるからである。苦痛を感じる「自分という実存在」を熟考できなくなる。
彼女はこう書いていた。
「虐待・暴力の残酷さへの理解を広げたく、ランキングに参加しています。」
彼女も定型発達者即ち「気持ちの資本家」だな、と思った。彼女もまた精液を撒き散らかしている。
わたしの述べる「狂気の伝染」は、確かに「未去勢者が感じる苦痛(それこそ「世界に存在することへの違和感」)への理解を広げる」ことと思われかねない。別にそう思われても構わない。
しかし、厳密に言葉を選ぶなら、「未去勢者が感じる苦痛を感応させる」ことと言い換えることはできるだろう。
「理解」と「感応」は違う。
「理解」ならば、「ふんふんそうなんだ大変だったねえ」のような反応でも「理解」である。「理解」してくれている人間が、同じ苦痛を感じる必要はない。だから、「わたしも昔は同じことで苦しんでいたのよ」などと牧師にでもなったかのようにわたしを諭してくる体中にペニスを生やし射精しまくっているような奴ら(念のために言っておくが生物学的男女は問わない)でさえも、「理解」してくれていることになる。
しかし、「感応」は違う。同じ苦痛を感じることが「感応」である。
従ってわたしはこう言っている。わたしの文章は、定型発達者を苦しめるもの、不快にさせるものだと。
定型発達者が精液をぶっかけて隠蔽しているその未去勢的な非定型発達的な部分に語りかけ、器官なき身体を揺さぶっている。結果、器官なき身体と身体なき器官の軋轢が生まれる。この軋轢こそが、定型非定型問わず精神障害者が感じている苦痛の本質である、と。精神障害そのものの本質である、と。
わたしは、「苦痛の感応」のために、文章を利用しているのだ。
土鍋ごはんさんといいこのブログ主といい、未去勢的な主体即ち非定型発達者即ちスキゾフレニックな狂気と比較すると、決定的に欠けているものがある。
この記事から引用する。
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ここのアスペルガー症候群者(夫もそう診断されている)の手記から引用する。
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私や夫と決定的に違うのは……人によって巾はありますが、いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。どれほど破天荒に見えても、収拾を考えています。押さえるべきところは、寸止めで押さえています。だからこそ、会社という集団で、生き残ってこられたのだと、今思います。
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自閉症に限った話ではない。統合失調症にもこのような症状がある。それは、たとえばガタリの言う「分裂症者が制作する自己増殖する机」がこの症状を象徴的に言い表しているだろう。あるいは、ここの論文も参照できよう。引用する。
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ラカン派の精神科医である加藤敏は分裂病圏の天才の特徴として以下の五点を列挙している(『創造性の精神分析』p150)。1、「真」の存在との出会いの情熱。2、存在の根拠の近くを定常点と分裂気質(ママ)。3、一切の虚偽性を排した独創的思考の企て。4、「長い時間」不耐性。5、根源的シニフィアンの欠如。
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自閉症の特徴である「こだわり」。分裂症の「分裂症者が制作する自己増殖する机」あるいは「「真」の存在との出会いの情熱」。この執着は、先に何度か述べた「「自分という実存在」の熟考」と呼応する。
自閉症者の「こだわり」が「「真」の存在との出会いとの情熱」だとするのはおかしいと思うだろうか? そう思う方はこちらの記事(1,2,3)を読んで欲しい。彼らの「こだわり」がいかに「真なるもの」と出会おうとしてのものであるかわかるだろう。
分裂症者とて同じである。彼は何かを訴えたくて「自己増殖する机」を制作しているのではない。「机」の「真」なる存在と出会おうとして、身を削って机を制作するのだ。
一方、先の二人は、すんでのところで妥協する。快楽原則と現実原則を組み合わせたリミッターによって。心的苦痛に苦しんでいる時は非定型発達的なのではあろうが、すんでのところで定型発達的な自分が、大人の彼女たちが、ストップをかける。
彼女たちは、大人の自分を持てている。
彼女たちが役者の稽古をしたとしても、きっと感情開放で失神したりしないだろう。
具体例を挙げよう。この記事を読んで欲しい。
彼女は、彼女の主観世界において「子供」である弟に対し不快を感じている。これはいい。むしろ、この点だけを考えるならば、多くの定型発達者などより自分の気持ちを隠蔽していない文章だと言える。わたし個人はそこそこ好感を持てる。
しかし、最後の方の文章で、この好感は一変する。
彼女は、「子供」な弟に不快を感じている。しかし彼女は、この告白だけで満足しているようにわたしには思えた。
わたしにとって、不快になることとはそのことあるいはその原因に興味を覚えることだ。たとえば、現代のオタク文化が非常に不快であったから、このブログの前半は主にオタク文化分析で費やされている。自閉症者という実存在が不快だから、後半は自閉症の分析に費やされている。
要するに、わたしは「不快なものを避ける」という快楽原則が理解できない。
彼女は弟に不快を感じた。それはいい。しかし、その「不快を感じたこと」についての思考に到達できていない。何故それを不快と思うのか、自分という物体は不快と思ってしまうのか、そんな本質的な思考に跳躍できていない。「真」なるものから逃げている。
彼女は無意識的に不快を避けている。
彼女の快楽原則は壊れていない。
彼女は不快と対峙して、不快に引き込まれず、立ち止まれている。
彼女の定型発達的な部分が、彼女の筆を止めている。
わたしは彼女のこの態度にこそ、定型発達者が非定型発達者を差別する時の態度を連想してしまう。
この記事などでも『崖の上のポニョ』に対する「薄気味悪さ」を述べているが、その「薄気味悪さ」そのものに踏み込めていない。「丸投げ」という言葉で隠蔽している。とはいえそこから「死」へ連想しているのは、ありきたり(即ち定型的)ではあるが、鋭い思考だと思える。
彼女は、家庭に固着している。自分の家族をひどいものとして書いているが、「理想的な家族像」が彼女の中にあるからこそ家族に固着できている。彼女の文章には、「世間の(彼女が理想的と思っている)家族像と比べてどうよ?」という行間が感じられる。それは「家族ごっこ」という言葉にもっともよく表れている。
反-信仰とは信仰と同義である。否定神学を述べる学者はもっとも敬虔な信仰者なのである。彼女は、アンチ・オイディプスという意味で、オイディプスなのだ。即ち、定型発達者である。彼女こそが「家族ごっこ」に固執している。
また、彼女のもう一人の人格である「あや」についても、断絶のある他人として存在していないことがわかる。
彼女は「あや」を「私が幼児退行して分裂したと思われる<あや>」と認知できている。
それは、たとえばここである高機能自閉症者が述べる「自分の中の自分と断絶のある他人」と比較すれば、はっきり別物であることがわかる。彼女は「あや」について他人として対峙していない。彼女にとって意志に基づいたものでもなく、不本意なことであるのかもしれないが、少なくとも彼女は「あや」を把握即ち所有できている。後者の自閉症者が「自分の中の他人」を五行占いしているのを考えればよくわかるが、現実の他人に向けるのと同じ視線で(彼女と比較すると「冷静に」などとも表現できるだろう)「自分の中の他人」を見ているのとは対照的である。彼女は「あや」に感情移入(ここでは転移と言った方が正確か)できている。彼女が「あや」について語る口調は、非常に物語めいている。「あや」の出現にしろ弟と母の言い争いにしろ、彼女はそれらを断片的な物自体としてではなく、連続的な現象として把握できている。
彼女たちが心的苦痛に苦しんでいる事実は認める。定型だろうが非定型だろうが怪我をしたら痛いに決まっている。
しかし、わたしから見れば、彼女たちは「まだ」物語の中を、幻想を生きられている。彼女のテクストはまさに「ヒステリー者のディスクール」である。この記事で「わたしは「ヒステリー者のディスクール」を目指す」と書いているが、他人を感情移入させ自らもそれに感情移入できている彼女のテクストに対し、嫉妬を覚えていると解釈してもらっても構わない。嫉妬ではなく、彼女という大人を怖れている、と反論するが。
わたしは、子供の立場から、大人の彼女たちに、「もっと苦しめ、苦しみの前で立ち止まるな」と言っている。
快楽原則に縛られている大人の自分を殺せ、と唆している。
そんなに被権力者ぶりたいならば、ね。
後者のブログ主に言うなら、「あや」は別人なんかではない。お前そのものだ、大人のお前が「あや」を殺しているから、「あや」は復讐しにお前の世界にやってきたのだ、と大雑把な分析をしてあげている。
この記事より。
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あやはあや自身を殺したが、私は私を殺さない。
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違う。「あや」を殺したのは、自分を殺さなかったお前だ。
こういった人間たちも、わたしから見れば、子供を殺す大人が子供のフリをしているだけなのだ。「被権力者ブリッコする権力者」なのだ。わたしにとっては、彼女も「精液マシンガンでアンテ・フェストゥム者を殺戮する女性兵士」にしか見えない。
ついでなので、この記事のコメント欄にも突っ込んでおこう。
アリスさんの対応はここでは置いておく。問題は、当事者と名乗る人間のコメントである。
彼の論を要約してみよう。
1.アスペルガー症候群者の定義は、表情や声や言葉や態度の交換に不具合があることを言う。即ち、相手に気を遣えない。
2.だからと言って、「アスペルガー症候群者は人に気を遣わなくていい」となるのはおかしい。「定型発達者の方が気を遣え」となるのはおかしい。
3.わたしだって、他人の嫌な表情や態度には怒りがわく。従って、わたしは正しく気を遣える人間になりたい。
何も問題ないような理屈に見える。しかし、この文脈には、ある統辞的な「心の理論」的な行間が込められている。
まず1。これは問題ない。
2から、なにがしかのノイズが混ざってきている。
自閉症者は相手に気を遣えない。これはいい。しかし、それが「定型発達者の方が気を遣え」となるのかが、まずわたしにはわからない。ここには(彼の主観世界においては)「気を遣い合うことが絶対的正だ」という前提が存在すると考えられる。そうなると、3の「わたしは正しく気を遣いたい」という言葉は、トートロージーとなっていることがわかる。
わたしは、「気遣い」自体を「精液」と表現し、その否定的側面を批判している。この「精液」のせいで、定型発達者たちは、非定型発達者と比較して、「真なるもの」に向かうことができないのである。
しかし、特に関係者などは、自閉症者に対し気を遣っているという事実もあろう。彼はそれを踏まえてそう述べたのかもしれない。
であるならば、2はこう言い換えられる。
2.障害として「他人に気を遣えない」アスペルガー症候群者に対し、関係者などの定型発達者は気を遣っている。なのにアスペルガー症候群者が気を遣わないのはおかしい。
こう書き換えると、彼が言っていることは「心の理論」に正しく則っていることがわかる。アリスさんが先の文章で述べている「根性論」の理屈となっていることがわかる。要するに彼の論はファロセントリックだということだ。象徴的ファルスとは、短絡的に結びつけるのは危険があるが、ここではバロン=コーエンの言うSAMと似たようなものと考えてよい。
従ってこう言える。彼にはSAMがある。
よかったじゃん。「アスペルガーの定義は、「私には全然当てはまっていない」」と思ってるんでしょ? その通りだね、って言ってあげてるの。精神分析をテクストに応用したクリステヴァ的記号分析によってね。
このコメント者も、「心の理論」などというただの固定観念により、「アスペルガー症候群と診断されても気は遣うべきだ」という短絡的な結論を導き出し、それに満足している。即ち、「こだわり」や「「真」の存在との出会いの情熱」を妨害する快楽原則あるいは現実原則に則れている。むしろそれを妨害する精液を称揚している。コメントの文脈を分析すると、彼の精神構造において、ファルスあるいはSAMの統合的作用が働いているのは明確である。要するに、彼の主観世界には、その思考や判断を統合する「軸」となるもの(たとえばこの場合「気を遣い合うことが絶対的正だ」という前提)が既に存在している、ということだ。この「軸」とは、ラカン論ならばイメージ通りファルス(軸=ペニス)となるが、バロン=コーエン論に倣うならば「中枢性の統合」と言い換えられるだろう。
とはいえ、彼の「気を遣い合うことが絶対的正だ」という前提が、(あくまでここはエコラリアではないという意味でこう述べるが)エコプラクシア的なものの総体を反復させているものだという可能性もある。それならば文脈がトートロジーになっていることとも符号する。ここのコメントに倣うならば、脳内エクセルに入力した、彼なりに普遍的と判断した計算式に則った上での思考であるとも言える。
しかし、わたしにはどうもそのように思えない。何故ならば、記事本文に対してのコメントであるからだ。つまり、彼はアリスさんのドナ本解釈に乗っかってこういうコメントをした。斎藤環の論によるならば、文脈(コンテクスト)を読めないのが自閉症である。言語は多義的だが有限である。この有限な大体の意味を連結し、他人と交換できるように共有させるのが「心の理論」という言葉にできない想像的なルールである。一義的、理屈的な意味のルールがわからない故、言語を反復させるのがエコラリアだとわたしは考えている。一方、多義的、想像的な意味のルールがわからない故に反復させるのがエコプラクシアであるとなる。大雑把に考えれば、エコラリアは象徴界的なものでエコプラクシアは想像界的なものである、という話である。斎藤の論における「自閉症者は文脈が読めない」という言葉は、ベイトソンの学習理論による学習2、即ち多義的なルールの学習において、自閉症者の不具合はある、という主張によるものだ。従って、特に「語れる自閉症者」であるアスペルガー症候群者のそれは、一義的な文脈は読めるが多義的な文脈は読めない、という意味で、エコプラクシア的なものだとわたしは考えている。故にわたしは先にエコプラクシアと書いたのだ。
彼は、アリスさんのいかにも定型発達的な解釈の文脈を引き継げている。それを引き継いだ上で、「私は自分の意識と違う表情や声になってることがよくあるみたいなんです。」というエコプラクシアが機能していない事実を述べている。それが子供の頃や昔の話ならわかるのだが、少なくとも彼は現在に近い時期の話として述べている。現時点でエコプラクシアが機能していないから、エコプラクシアを機能させたい、という話である。そういう意味で「正しく気を遣いたい」と言っているのであれば、なるほど自閉症の特徴と一致する。しかし、文脈を読めているという事実は、エコプラクシアが機能している証拠である。矛盾するのだ。
彼は、自閉症のそれを症状でしか理解できていない医者に診断されたのではないか? 自閉症者を自閉症たらしめるその心的事実を解釈しないまま、ただのテストの結果、機械的に診断されただけではないか? そういう疑念が浮上してしまう。
たとえば、対人恐怖症ならば、他人と対峙した時、目線を合わせないなど挙動不審とも言える動作が見られるのはよくあることである。様々な神経症は定型発達者も罹患可能であるが、正しい意味での対人恐怖症は定型発達者でないと罹患できない疾患、即ちポスト・フェストゥム的な疾患だとわたしは考えている(非定型発達者でも対人恐怖症と診断可能な症状が引き起こされることは否定しない。しかしその主体の心的事実を分析したならば、非定型発達者が恐怖する「人」とは部分対象的で統合された人格がないものであり、定型発達者が恐怖する「人」とは確定的で統合された人格をもった対象であり、それらが別物であることがわかるだろう。そういう意味で、対「人」恐怖症は定型発達者しか罹患しない症状だと述べている。要するに見た目だけではわからないということだ)。彼が自分の挙動不審さを述べているのは、常に他人と対面している場面に限っている文脈とも符号する(ただし、彼に対人障害的な症状が仮にあったとして、その「人」が人格を持ったものかどうかは、このテクストだけからでは当然解釈できないが)。あるいはこの記事も参考になるだろう。
定型発達者が罹患する神経症とは、非定型発達者が苦しむ様々な症状が、部分的に、間欠泉のように噴き出したものである。象徴界や想像界というフィルターに開いた穴から、現実界のうねりが伝わってくるものである。穴だから、部分的な症状となる。フィルターを通過するから、似て非なる症状となる。
このテクストの場合、「語る主体」は表情や動作におけるなんらかの心的外傷があり、それが穴となって、なんらかの部分的疾患が間欠泉のように噴き出した、などと考える方が、どうしても辻褄が合ってしまうのだ。先述した矛盾はそうでないと解消できない。つまり、彼のそれはエコプラクシアではないとなる。
補足しておくと、自閉症者のエコラリアやエコプラクシアも現実界的なものではない。現実界のうねりから防衛するための、「軸」のない「柵」である。一方、「軸」もあって「柵」もあるのが定型発達者の精神構造である。定型発達者たちは、安心の二重構造により防衛されている。これらの二重構造は精神分析において様々な側面を様々な言い方で表現されている。快楽原則と現実原則、自我と超自我、想像界と象徴界、S1とS2、ファルスとサントーム、セミオティックとサンボリック、等々。先の斎藤の論文ならば、
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言語の習得に際してもっとも重要であるのは、その言語固有のコンテクストを把握する能力である。これに対して純粋な記号の体系においては、コンテクスト概念はあまり重要ではない。
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の「コンテクストが重要化する言語体系」と「純粋な記号の体系」に相当するだろう。
なお、この「軸」は現実的には中空軸であり、「軸」と「柵」は通底している。このことを図式的に表すならば、シフォンケーキの型を想像すればよろしい。この型を上下にくっつけるとあら不思議、ドーナツになる。ラカンの言う言語構造というトーラスになる。
一方、非定型発達者の「軸」のない「柵」とは、底の抜けた鍋である。上下にくっつけても、底の抜けた鍋でしかない。
この図式を、先の「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」の筆者に当てはめるならば、彼女は「軸」と比較すると二次的なものと言える「柵」の方が、なんらかの心的外傷により壊れつつある状態だと言えよう。従って、彼女が受ける全ての刺激は「軸」を直接攻撃するものとなる。その反作用として彼女はむき出しの「軸」をその行間に露出させている。即ち、「赤の他人」と自ら呼んでいる「自分の中の他人」たる「あや」ですら、(男性性的主体と比較すると)生々しい原初的なファルスをもって、自分の物語における登場人物のごとく把握してしまう。彼女の言説が物語めいていることの説明となろう。彼女のテクストには、その行間にすら、痛々しい根拠がある。
なんだかんだ批判的な文章になってしまっているが、この少量のテクストで判断するのはもちろん危険がある。判断材料の少なさを論拠にした反論は自分の中で惹起されているし、他人からされても納得する(が反論はする)。しかし、文脈には読み手が解釈する「語る主体」の真理が隠されているとするのが精神分析でもある。判断材料は多いに越したことはないが、多くなければ分析できないというわけではない。まあ道徳的に多くあった方がいいんだろうねとは思う。精神分析家というカルト集団の教義として。
少なくともこのテクストに限って言えば、わたしが解釈するこの「語る主体」の主観世界には、ファルスが存在する。SAMが正常に機能している、となる。
平たく言えば、アリスさんの記事と関連させて読めば、このコメントは「空気が読めている」のがわかる、ということだ。彼はこのコメントに限れば「正しい気の遣い方」ができている、一義的なそれだけではなく、多義的な、想像的なコミュニケーションが取れている、という話である。
しかも、無意識的に。わたしはそう解釈する。読めない多義的な文脈を繋ごうと、一義的な計算ソフトであるエクセルを必死で走らせているぎくしゃく感がない。文芸的な読み方をすればそれがわかる。
無意識的な統合性だからこそ、ファルスなのだ。
先に述べた文章の統合(統辞)性と、アリスさんの記事について「空気が読めている」ことと、さらにそれらが無意識的に行われているであろうことを考えれば、彼が実際に自閉症と診断された事実を問わず、彼のファルスあるいはSAMの不具合について、わたしは疑念が生じてしまう。
アリスさんのテクストとの連関性も含めて、彼のコメントを考えれば、そこにははっきりとした統合性があることがわかる。無意識的な。ポモ思想における流行言葉を用いるならば、全くスキゾフレニックではない。山岸氏のブログの記事やコメントと比較すれば、たとえば当の山岸氏とドードーとらさんのやり取りの齟齬などとてもわかりやすいが、明らかである。彼らはお互い一義的な(定型発達者から見れば「屁理屈的な」とも表現できよう)文脈をもってしかコミュニケーションが取れない上に、快楽原則や現実原則が壊れている故「こだわり」の機制に囚われてしまうので、このような(定型発達者から見れば「どうでもいい」ような)齟齬が増幅されてしまうのだ。
それは山岸氏やドードーとらさんが積極奇異型だから、という反論もありえようが、彼は自分の考えを、相手に同意する文脈を構築した上で主張している。積極奇異型でないなら受動型となるが、確かに相手に同意する文脈だけならば受動型だからとは言えよう。しかし、相手の意見を統合する形で自分の主張を構築できている点は、受動型とは言えないだろう。コメントの内容からも、自分から他人と接したがっているという点で積極奇異型と考えられる。しかし、積極奇異を自認している山岸氏の会話にはあるぎくしゃく感はない。むしろアリスさんの対応の方に、ぎくしゃく感とまではいかないが奥歯に物が挟まったような感じを受ける。
わたしは、「自閉症者は気を遣えない」「定型発達者は気を遣える」という二項が関係した結果、何故「自閉症者も気を遣うべきだ」となるのかが、本当にわからない。気を遣いたい奴が遣えばいいじゃない、とわたしなんかは思う。実生活で困るなら、気を遣っている演技をすればいい。「すればいい」などと言ったが、未去勢な主体にとってこの演技はとても困難なものである。わたしはだからこそ役者の稽古にはまったのだろう。彼がやりたがっている「気遣い」とはそういうものだろうか? そうならば、エコプラクシアを多大な努力によって(まさにサントーム!)洗練させたい、という主張だとも理解できる。彼のその努力は、このコメントの「空気が読めている」感に見事に反映されている。このコメントをした瞬間に限れば、彼は自閉症を克服できている。
気を遣える者同士ならばもちろん遣った方がいいのではあろうが、遣えない人間に強制するほど大切なものか? 「気遣い」って。ただの精液じゃねえか。などとわたしは思っている。本気で。わたしはわたしの「気遣い」は糞便であると開き直っている。わたしの「気遣い」は常に他人にとって不快なもので、それはどうしようもないことだとわかったから。不快なものではない、糞便ではない「気遣い」も、演技ではできる。しかしそれらはわたしには全く「気遣い」だと思えないのだ。役者の稽古のエチュードである。「気遣い」などではなくチェスのような「駆け引き」である。
彼という自閉症者が、定型発達者の暴力の象徴である「根性論」に組するのは全然問題がない。しかし、彼の考えが、自閉症者一般の考えだとすると、たとえば先の山岸氏のような、「気を遣えない自分という物体」を保持しながら、気を遣えないことにより受ける差別と戦っている自閉症者による自閉症論を、無化することになる。コメント者は、定型発達者になりたがっているだけであり、彼の論は自閉症論とは全く関係がない。むしろ自閉症者による自閉症論を隠蔽劣化する作用があると考えなければならない。
「気を遣えない自分という物体」を保持することを「アブノーマライゼーション」、「気を遣うことは絶対的正である」という考え方を「人間らしさ」と翻訳するなら、このブログの主張も、山岸氏の主張と構造的に符号していると言えるだろう。この記事から引用する。
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もちろん、この方向性で満足している当事者ならば、それで大丈夫です。ノーマライゼーションやインクルージョンの理念に基づく支援は、そんなあなたの「人間らしさ」の実現に喜んで協力してくれるでしょう。ところが、ある種の感性とを持った当事者はそこに疑いの目を向けることになります。
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「この方向性で満足している当事者」こそが、山岸氏が警戒している「偽アスペ」なるものではないだろうか、とさえ思える。もちろん人の心なぞ確定できるものではないが、統計的に「この方向性で満足している当事者」にSAMあるいはファルスの不具合がない定型発達者が多く含まれているのではないだろうか。
また、自閉症のシンボルとも言えるドナのテクストにも、この「「人間らしさ」に対する疑いの目」と符合する箇所がある。先の斎藤の論文から引用する。
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彼女がおそれる具体的な行為を挙げてみよう。それはまず相手と視線を合わせることであり、抱きしめられることであり、体に触られること、指示されること、そして優しくされることである。例えば「やさしさ、親切、愛情には身がすくむp.58」とある。
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や
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ドナの手記において顕著な傾向として、まさにこの「主体化への恐れ」が挙げられる。
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である。
念のために断っておくが、この「愛や主体化への恐れ」を、PTSDのような(たとえばそれこそ虐待などという)心的外傷を原因とするものと混同してはならない。同論文から。
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(蛇足ながらここで心因についても触れておくなら、そこにみられるのは外傷とその心的加工としての回帰であり、これはまたベルクソン=ドゥルーズいうところの「着衣の反復」なのである)
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先の「様々な診断名を、あたかも戦歴のごとく列挙しているブログ」の筆者はこちらに当てはまるだろう。
わたしは自閉症でないが、この「人間らしさ」に関する疑念を、ラカン論の「人格とはパラノイアである」という言葉や、わたしの感性によって「精液」などという言葉で表現している。
また、こうもり氏の「「人間らしさ」とは単なる規格化ではないか?」というブログテーマも、わたしの「「心の理論」とは単なる固定観念である」という主張と符号する。
よく「自閉症者には心がない」のような言説を見るが、それは、定型発達者の心が様々な固定観念で縛られており、一方自閉症者の心は縛られていないため、定型発達者の主観世界には、その固定観念に合致しない自閉症者の心の力動が存在しなくなるだけなのである。双方の心的事実を解釈すれば、「自閉」しているのはむしろ定型発達者の方であることがわかる。
定型発達者という本質的自閉者を縛りつける固定観念こそが、「心の理論」や「愛や主体化への執着」なのである。
「自閉症者には心がない」という言葉の底にある精神構造は、まさしくパラノイアのそれである。
自閉症者の「こだわり」が「真なるもの」「物自体的なもの」への執着だとするならば、パラノイアックな主体としての定型発達者のそれは「人であること」という幻想(妄想)への執着である、などとも表現できるかもしれない。同じ「執着」「こだわり」でも、症状の視覚的判断だけではなく、コミュニケーションの内容を慎重に分析解釈すれば、区別可能な線引きがあるとわたしは考える。
補足しておくが、気を遣わないことが、「人間らしさ」を否定することが全面的に正しい、などと言っているわけではない。確かに他人の嫌な表情や態度は、たとえ他人の気持ちを想像できないと言われている自閉症者でも、不快に感じることはあろう。不快に感じてよいのだ。
しかし、不快を排除することとは問題が全く違う。
彼は、「不快だから正しく気を遣いたい」と言っている。不快を排除しようとしている。そもそも自閉症者は「気を遣えない」即ち「空気が読めない」から、「空気が読める」定型発達者たちから排除されているのだ。
彼は不快を排除しようとしている。彼の快楽原則は壊れていない。
彼もまた、差別される側から差別する側に、排除される側から排除する側に回ろうとしているだけなのである。アリスさんの言葉を借りるならば定型発達者に「100歩譲る」ことで、非定型発達者の「真なるものと出会おうとする情熱」が否定されている。彼がいかに自閉症と診断されていようが、山岸氏のような自閉症者にしてみれば、定型発達者たちが行っている暴力と同じ暴力を行使しているのである。
彼が本当に自閉症者ならば、こういった論を組み立てる前に、自分が何故気を遣えないのか、「こだわり」行動に囚われてしまうのか、熟考すべきなのだ。
その答えを、単純に「アスペルガー症候群」という言葉で納得できているなら、それは充分快楽原則が機能している定型発達者だと言える。
長くなるがこの手記から引用しよう。
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私の三人とは、
自閉症の私(=生物学的な特徴からくる私)
正常な私(=学校教育によって作られた私)、
大人の私(=成熟した知性を持つ私)
一応、仮にこう擬人化してみただけで、ドナのように情報元にわざわざ固有名詞をつけようとまでは
思いません。
(中略)
「正常な私」も出自は自閉症ですから、聞けば『やっぱり私は正常だった』と、ストレートに信じます。
但し「ココロ」の教育を叩き込まれた為、これに理由付けします。
四苦八苦した挙げ句『自閉症に詳しい人がそう言ったから』などという、幼稚な理由が選ばれます。
この辺りが「正常な私」の限界です。
(中略)
「大人の私」の知性は、自閉症の影響は受けません。
「詳しい人がそう言った」などという理由では納得しません。
断固『私は自閉症である。正常ではない』と言い張ります。
(中略)
「大人の私」だけが『あの発言は真実ではない』という事をどうやってあとの二人に
説得すればいいのか?と、延々思考状態(=こだわり)に陥ります。
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自閉症者の「こだわり」や分裂症者の「真なるものとの出会いへの情熱」は、充実身体によるものである。充実身体とは医学的に治療された身体とは全く正反対の、死の欲動的なもの、即ち快楽原則や現実原則の綻びにあるものである。山岸美代子氏の「こだわり」が、不快を避けるためのものでもなく(彼女は自身の「こだわり」を苦痛に感じている)、社会的なルールと妥協(関与)するためのものでもなく(「こだわり」はむしろ社会生活に支障を及ぼしている)、「哲学」的な「真なるもの」を求めてのものであることがわかるだろう。
一方、「気を遣い合うことが絶対的正だ」とするコメント者は、自閉症と診断された自分自身についての「こだわり」を、「自閉症と診断されたこと」という解答によって終結させ、「気を遣い合うことで不快を避ける」という結論を導き出している。美代子氏の言う「正常な私」が彼の思考を支配している。
土鍋ごはんさんにしろ先のコメント者にしろ「こだわり」に振り回されていないように見える。彼らの症状は、わたしの分析の限りでは、自閉症というよりもっと広汎な括りである学習障害と表現するのが正しいのではないか、と思える。
とはいえ当然これだけの文章で、彼は自閉症者ではない、あるいは自閉症者の鑑である、などと断言するつもりはない。これらの文章には表れていないところで、彼がなんらかにこだわっている可能性もある。しかし少なくともここに提示したテクストに限れば、彼の快楽原則あるいは現実原則は、山岸夫妻やこうもり氏のそれより壊れていないのは確かであるようだ。
彼が自閉症であるかどうかの問題ではなく、このコメントそのものに対して、わたしは突っ込みを入れているのである。
彼が本当に自閉症者ならば、差別される側から差別する側に、排除される側から排除する側に回ろうとしているのである。結果、彼の殴っている相手は、現在の差別されている、排除されている側となっている。彼にそのつもりがあるかないか関係なく。
わたしにとって、ここで述べられている「気遣い」など、先に述べたDSMという定義と現場の曖昧な診断との対立と同じ構造でしかない。
わたしはDSMそのものに批判的だが、だからと言って現場の曖昧な診断を支持するわけでもない。ただ、それは現実として不可避なものだとは思っている。エラーを出さない、厳密さを保持する、という医学のルールにおいては、正しくない状態である。しかし、現実的にどうしようもないことなので、精神科医たちは常に妥協ラインを模索している。
この「妥協ラインの模索」が、日常の対人関係においては「気遣い」あるいは「駆け引き」となるだけである。むしろ、現場において曖昧さを保持することが、精神科医たちの治療を目的とした「気遣い」、あるいは患者の症状との「駆け引き」なのである、という言い方をすればわかりやすいか。
わたしの中では、「気を遣うことは絶対的正だ」などという考えは、ただの固定観念に過ぎない。しかし、その固定観念は現実として存在し、そのメリットも認めている。それを無化しようなどというつもりはない。しかし定型発達者や定型発達者になりたがる非定型発達者の群れの中では、「気遣い」のデメリット面が排除されてしまう。あたかも宗教の教義のごとく。従ってわたしは意地悪く幼児的にそのデメリットをあえて主張する。そういう話である。
喧嘩相手がいなくなったらいなくなったでランダ困っちゃう。
アリスさんもアリスさんだよな。「100歩譲る」って言葉から考えるに彼のそういう考えがどういうことかわかっていそうなのに、彼が本当に自閉症者という言葉で表現されるファルスあるいはSAMに不具合がある実存在ならば、遅かれ早かれ「学校いやだった~、○○先生いやだった~」状態になるだけってことを言わないなんて。ドードーとらさんも似たようなこと言ってなかったかい? 「それはどうしようもないことなんですよ」みたいなさ。こういったところに定型発達的な「やさしさに変換(隠蔽)されたいやらしさ」すら感じるのがわたしという物体なのだがまあアリスさんはそういう人間だと思ってくれてそうなのであえて言っておく。奥歯に物が挟まった言い方しているし。
彼女は、彼の言説に感じた違和感(「私(定型人)がこの文章を読むと、反論したくなってしまいます。」)について、むりやり定型発達者へと矛先を変えている。「もちろん、相手はドナさんや当事者さんではなく、同じような内容の言葉を話し、相手に要求するであろう定型人に対してです。」などという言葉で妥協しようとしている。ここに理屈はない。アリスさんなりの非理屈的な即ち言語化され得ない「心の理論」によって、アリスさんはそうせざるを得なかった。このことが、「自閉症者は、定型発達者にとってアンタッチャブルでなければならない」というアリスさんの無意識をさらけ出している。アンタッチャブルという状態によって、自閉症という実存在を排除しているように、自分と自閉症という実存在の間に断絶を設定しているように、わたしには見える。
しかし逆に言えば、アンタッチャブルじゃないようにすれば、己の定型発達的な部分が非定型発達的な自閉症を殴り殺すことになると、実感をもって知っている彼女だからこその「気遣い」だとも言える。このことはこの記事の言葉からもわかる。引用する。
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それにしても、担任の先生、画伯をよく観察してくださるようになり、そのことを連絡帳に書いてくださるので助かります。「ちゃんとさせなきゃ。」と、画伯と格闘していてはできないことです。
学校の先生って、こどもたちを教えたくて教師を目指されたのですから、見守るというのは自分に【ブレーキをかけたりして】結構大変だと思うのですよ。なので、感謝です。
(【】筆者による)
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わたしはアリスさんのこの態度を批判しているのではない。むしろ彼女の気持ちが痛い。不快である。自らの子供であるのに断絶を認めざるを得ないその気持ちが。わたしには全く関係ないことなのに。
「ブレーキをかけ」るのが「結構大変」であるのは、その先生じゃなくてアリスさん自身なのだ。「画伯と格闘して」しまいそうなのは彼女自身なのだ。自分自身の気持ちをその先生に(想像的に)代理させ隠蔽(隠喩)して述べている、という精神分析においては典型の構造である。
わたしは、単にわたしが解釈する彼女の心的事実を述べているだけである。多少なりの「気遣い」をもって。糞便に塗れた切れ味の悪いメスで彼女の心を恐る恐る切開している。
少なくとも彼女は、自分が権力者であることを自覚できている。被権力者ブリッコなどしていない。
それはともかく、アリスさんのこの対応に、自閉症者と定型発達者の断絶の「どうしようもなさ」が表れているように、わたしには思える。
わたしは、この「どうしようもないこと」をこう表現したのだ。
「自閉症者のエコラリアやエコプラクシアは、定型発達者の超自我や自我とは別物だ。自閉症者の自我や超自我は壊れていると考えなければならない。それを超自我や自我だと表現した時点で、定型発達者の暴力が働いている」
この「壊れた超自我や自我」は、山岸氏の言葉なら「擬似的なSAM」になろう。
壊れたら修復すればいーじゃなーい、と思われるかもしれないが、修復できたならそれは自閉症ではないのだ。何故なら完璧な超自我や自我なんて存在しないから。定型発達者であっても。PTSDなどよい例である。あれはファルスが不安定になっていると考えてよい。PTSDと同じ精神構造であるなどとは言わないが、この視点を取るならば、一般的な思春期の情緒不安定さもそう表現できる。ファルスが不安定になるのは定型発達者でも普通にあることなのだ。この不安定さをも壊れていると表現するなら、「壊れたら修復すればいーじゃなーい」という言葉は、正しい。
全ての壊れているファルスあるいはSAMが修復可能だとするならば、山岸氏の提唱する「擬似的なSAM」なる概念が示す実体は存在しないとなる。自閉症者のエコラリアやエコプラクシアの積み重ねが、脳内エクセルに入力した膨大な計算式が、定型発達者の超自我や自我と同じものであるとなる。理屈的に。わたしはそれには反論する。わたしの言葉ならばそれは、「わたしは狂人と正常人の断絶を守る」と言い換えられる。ラカン論ならば、このSAMと擬似的なSAMの差異は、未だ詳細は説明できないが、ファルスとサントームの違い、「軸」と「柵」との違い、となるだろう、という予測だけはしておく。
山岸氏がよく『アスペルガーの館』で感じた違和感を述べているが、こういうことかなあと、自閉症でもないわたしが言うのもなんだが、思った。また彼は「本当の自閉症の子供が可哀相だ」とかとも述べているが、わたしは山岸氏が可哀相だ。そう思われるのは迷惑かもしれないが、勝手に可哀相だと思ってしまう。
定型発達者には気を遣って同じ自閉症と診断された人間には遣わないってか。ふーん。このコメント者の最後の言葉。
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当事者本や当事者サイトを読むのは私はかなりシンドイんですが、ドナさんの「わたしは自閉症と闘うことができるのだ。 自閉症をコントロールすることができるのだ。」のドナさんなりの出した結論や試行錯誤の部分が興味があるので、いつか気持ちが強い時に読んでみたいと思います。
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「気持ちが強い時」ねえ。
「シンドイ」のはよくわかる。わたしもここで「わたしは自閉症者という実存在が不快なのだ」と述べている。自閉症ではないわたしの意見と一致する。
あなたは、ドナのように「自閉症と闘」っていない。自閉症と向き合ってすらいない。あなたが向き合っているのは定型発達者だ。「自閉症と闘う」こととは、自閉症という実体を排除することなどでは決してない。
とはいえわたしは、シニフィアンの恣意性とはそういうことだと思っているから、彼ら彼女らが「アスペルガー症候群と診断された事実」と、「自閉症という言葉で表現される実存在」は、関連してはいるだろうが別物だと思っている。
だから、彼ら彼女らが「アスペルガー症候群と診断された事実」は別に否定しないけれど、「自閉症という言葉で表現される実存在」が語っている言葉とは思えないなー、違和感あるよなー、この違和感ってわたしがいつも感じている正常人に対する違和感だよなー、って思うのでありました。
別に言葉なんてなんでもいいのだよ。「真なるもの」に近づく道具に過ぎないから。
なんかコメント者への批判みたいになっているが、彼がそうやることは全然どうでもいい。っていうか他人事だし。わたし自閉症じゃないし。彼が本当に自閉症ならば、そういう選択が悪い結果になることを予測してあげつらっているだけ。そうしてしまうだけ。わたしって未去勢な主体らしいから。これがわたしの「気遣い」。
なんにつけ一応は絶望的観測をするのがクセです。
明日孤独になあれ。
精液の土砂降りがやんだ空。それは孤独の世界だった。ばーい中島みゆき。
ドゥルーズ=ガタリのような定型発達者から見れば、器官なき身体に親近する領域に近づくこととは、確かに「逃走」となるだろう。わたしはこの言葉が理解できないが、彼らが「定型発達という精神障害」者であると考えるならば、なんとなく辻褄が合う。
定型発達者が生きる領域から、わたしが生きる世界に近づくことは、きっと「逃走」なのであろう。
しかし、わたしにとって、現実界に近づくことは、決して「逃走」などではない。それが「不快」と定型発達者の生きる領域で表現される事実であることを知りながら、そこに引き込まれてしまう。わたしだって快楽原則に則りたいのだ。しかし則れない。何故なら、わたしの隣には常に既に悪魔が身を寄せているから。
それは、むしろ悪魔との「戦い」だ。悪魔と戦うことで、わたしは魔女になってしまっている。
何故それを「逃走」などと言われなければならないのだ?
ドゥルーズ=ガタリは、わたしの倫理に則れば、極刑に値する。本気で殺意を覚えている。両方死んでるけれど。
この「戦い」を、「逃走」などと表現するから、ドゥルージアンたちはただのニヒリストになる。充実身体のはるか手前で平然と立ち止まれる。「逃走」という言葉そのものに快楽原則と連結する意味が込められている故、快楽原則を破壊できない。ドゥルージアンたちは、無自覚に師の教えと全く逆方向へと進んでいる。彼らはオイディプス化している。
なので、妥協的にドゥルージアンに殺意を抱くわたしでした。
だってだってわたしだって定型発達者(笑)でありたいんだもーん。とか言って権力者であろうとして精神を病んだわけだけど。
「逃走」という語句は脇に置いておくならば、ガタリ論の言葉は、自閉症を語る際には極めて有効だと、最近イヤイヤながら思う。
たとえば、「無意識とはその本質は(家族主義という意味でのオイディプスではない)孤児である」という主張。この「無意識」を、充実身体に関連する文脈をもって解釈し、ラカン風に言い換えたならば、斜線の壊れた主体即ちSとなろう。
完全に斜線が取れているわけではないが、斜線の取れたSは自閉症者の実存在であるとも言える。であるならば、「自閉症とはその本質は孤児である」と言い換えることができる。この表現は、山岸氏の「わたしという物体は他人の気持ちを想像できないのだから、無理して想像することはない」という主張や、こうもり氏の「アブノーマライゼーション」というテーマと呼応しないだろうか?
自閉症者は、定型発達者が無自覚にいとも簡単に取り交わせる「人と人との間で交わされる「人であること」という契約」が、うまく履行できない。即ち、人と人との連鎖から排除されている。従って、彼らは彼らの歴史を語れない。歴史とは人と人との関係を時系列に取りまとめたものであるからだ。彼らの存在は、人と人との関係を時系列に取りまとめた歴史なるものからこぼれていく。彼らの歴史は奪われていく。ドードーとら氏は言った。
「「女は存在しない」と言ったラカンに倣うならば、「アスペやスキゾやアンテ・フェストゥム人間はなおさら存在しない」となる」
彼らは自分自身を、歴史ではなく、一義的な理屈で解体し、仮設的に統合するしかない。
彼らにとって、彼ら自身の歴史を語らせること自体が、帝国主義的な、多義性という想像的な暴力なのだ。ここのコメント欄でブログ主がぼやいた「むしろまさにこれこそが<帝国>そのものなんじゃないか。とおもうのですね。」という言葉と符合する。まあこのブログ読者だからこそこう言えたのかもれないけれどー。
彼らの歴史は、定型発達者が考えるような歴史などではない。データである。ただのデータを物語化させたのが、定型発達者が固定観念的に考える歴史である。スターン論によれば、人格形成史の最終段階は物語的自己感の形成となる。一方、斜線の取れたSとは未去勢な主体を意味する。去勢即ち鏡像段階は、スターン論ならば間主観的自己感の形成期に時期を同じくする。このことからも、自閉症者に(データとしてではない物語としての)歴史を語らせることは、大人(去勢済みの主体)が子供(未去勢な主体)に対して行使する暴力であることがわかるだろう。
定型発達者は、何よりもまず、自分自身の想像的な「人間らしさ」に潜む、本能と表現してもよいレベルにある、その暴力性を見つめなければ、彼らに歴史を語らせる資格はない。
笙野頼子このブログ読んでるかなー? 読んでなくていいけれど。『だいにっほん第三部』についてわたしが感じた違和感な。
つーか『第二部』とか読めば読むほどいぶきが自閉症とは言い切れないが発達障害者即ち非定型発達者即ち未去勢な主体に見えてくる。自閉症だったら積極奇異群になろうな。「火星人落語」の「自分を虐げる権力者の姿を真に迫って演じることで笑いを取る」というところなど、まさに擬似的なSAMと通じるものを感じる。
いぶき、あるいは火星人なるものを、非定型発達者であると解釈するならば、「自我なんてわからん!」といういぶきの叫びはいぶき自身のものだと思える。何故なら非定型発達者とは去勢(鏡像段階)に不具合がある者たちである故、去勢により生じる(想像的な)自我や(象徴的な)超自我も壊れていることになるからだ。定型発達者たちが声高に唱える「自我」なる言葉が示す実存在は、彼ら彼女らの主観世界のそれとは別物だからだ。
ところが、「わたしは火星人の歴史を語る」という言葉は、いぶきにとって「言わされている」ようにしか、わたしには読めない。笙野という作者の暴力から身を守るための、エコラリアやエコプラクシアのようにしか見えない。
はたして、いぶきに歴史を語らせようとした時、笙野はアリスさんのように自分自身の「どうしようもない」暴力を自覚していたのだろうか? そこに断絶を設定していただろうか?
このブログ主のように定型発達者即ち地球人であること自体が暴力であるのに無自覚なまま、地球人との間に「どうしようもない」断絶がある火星人について、自らを語り得ないサバルタンについて、語っているのだろうか?
そういう問いである。
わたしは笙野は少なくとも躊躇していると読んでいる。たとえば、いぶきが帰天する際の「物語だしまた地上に戻ってくるかもしれないけどね」みたいな言い訳めいた文章などから、そう判断する。
しかしあれだな、ドードーとら氏といいこうもり氏といい、山岸氏も自らを「カナブン(カナー型の親分だと)」などと表現しているが、見事なまでに動物的な名前を選択しているな。定型発達的な「人間らしさ」に疑念を持ってしまう彼らは。
かと言ってそれは東浩紀の言う「動物化」とは全く別物だけどね。
わたしは、東の言う「動物」とはブロイラーのような家畜化された動物だと思っている。彼のテクストからもそれは明らかであろう。
一方、自閉症者たちが自らを表現する「動物」は、まさしく野生的な動物である。餌を与えようとする呑気な観光客の手に噛みつく猿である。少なくともわたしは。
そういう違い。
ついでだから、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に対するわたしの考えの要約をここのコメントでしているので、興味があったらどーぞ。
反論があるならこのブログ全部とは言わないけれどせめてリンク先ぐらいはさらっとでいいから読んでからにしてね。じゃないと「ぷw 2ちゃんの脊髄反射レスかよw」などと判断してスルーしちゃうわたしなので。
あー最近なんか情緒不安定だなと思ったら『かよちゃんの荷物』が休載しているからだな。
そういう風に思っとこ。隠蔽として。