ミラーマン(植草じゃないよ)
2008/09/13/Sat
脳科学の知見では、自閉症の原因はミラーニューロンの機能不全によるものとなるらしい。
なんちゃってラカニアンであるわたしは、自閉症の原因は(器質因か内因かは問わず)去勢即ち鏡像段階における不具合にある、という立場を取っている。
ってかミラーだって(笑)、という話。
鏡よ鏡ほんとはわたし
汚い体欲しくはないの
真っ白なのが欲しいのよ
鏡よ鏡ほんとはわたし
ヤキモチなんか妬きたくないの
妬かない心が欲しいのよ
鏡よ鏡どうしてもダメ
それならいいわ毒入りリンゴ
白雪姫を殺しちゃえ
鏡像段階を上手く通過できなかった未去勢な主体の歌だと考えれば、
……いやーどーだろ?
わたしは鏡を壊しちゃうな。
割れた鏡の破片。破片に映るいくつものわたし。見た目は統合されているのに、断片のわたし。
主人公の欲動は、鏡に反射して白雪姫に届いている。統合されている。欲動が欲望になった瞬間の歌……ってまさに鏡像段階か。あーあ。
わたしの鏡は割れている。
白雪姫には届かない。
わたしの世界に白雪姫は存在しない。
わたしは原初から白雪姫を殺している。
魔女が未去勢な主体即ち子供であって、白雪姫の方が去勢済みの主体即ち大人だったと、そういう歌だな。
ボスケテ。
前記事の要約っていうか本音(あっちも本音だけどってむしろこっちが隠蔽臭い)でも書いとこっか。
心因性の精神疾患は、他の定型発達者が物語的に感情移入できる劇的なトラウマがあるのだから、理解してもらえる確率が高い。一方、自閉症やら統合失調症やら癲癇やらという器質因性あるいは内因性の精神疾患は、それがない。重篤なものなら一目で「あ、こいつキチガイだな」とわかってくれるが、軽度のものだと気づかれにくい。よって、劇的なトラウマがある精神疾患者たちがあんまり声高に自分の居場所を主張すると、トラウマのない軽度の器質因性あるいは内因性の精神疾患者たちの居場所が失われてしまう、ということだな。この居場所は別に障害補償とかって経済的な問題もあるけれど、人の心の問題の方が大きい。人の心なんて一人一人キャパは決まっているもの。少なくとも無限じゃない。キリストとかブッダとか真性パラノイアとかじゃない限り。
それ以前に、トラウマが社会的に認知された現代は特に、見た目でもトラウマでも判断できない軽度の器質因性あるいは内因性の精神疾患者は、相対的に「気合いが足りないんだろ?」的根性論を一身に引き受けることになる。わたしの心的事実をもってそう予測できる。こいつは見た感じヤバイし、こいつはトラウマがあるらしいから、じゃあお前に根性論ぶつけちゃえ、ってなる。根性論っていうのは(その主体がそうありたいという)欲望なんだから、どこかにはけ口が必要となる。特にファルスを持つ者は、その恐るべき動物的嗅覚で、ファルスの弱い者を獲物に定める。わたしの恋愛が大体暴力を伴ったのもこういう図式だろう。わたしの無意識が彼を殴らせている、即ちわたしの無意識が殴られたいのだ、みたいな。早いうちにそういう運命だと悟ったから殴られ続けてるけどね。……すみませんウソ言いました最近は恋愛自体していません(歪んだ笑)。
「正常という狂気」「定型発達という精神障害」は、象徴的であれ想像的であれ、生贄(対象a)がいないと成り立たない。
トラウマがあるだけまだマシよねー、って話さー。
自閉症チックな器質因あるいは内因による「愛や(それこそ「気遣い」や)主体化(という暴力)への怖れ」は、心因性あるいは環境因性のものと思われやすい。トラウマという概念が日常化した現代では特に。ここにわたしは定型発達者たちのむしろ懺悔的気持ちすら感じるので、これらの混同をあまりとやかく言いたくはないのだが、違うものは違うと言っておきたい。その「気遣い」と事実は別だ、という話。
要するに、彼女はむしろそのトラウマを武器に、さらに弱い者を叩いている。彼女の意思とは関係なく。という話?
とかって書くとどうでもよくなっちゃった。好きにやっていいよ。暴力を振るう人間の存在だって実存在だ。
わたしのやっていることは、「(スキゾフレニックな)狂気の伝染」「苦痛の感応」であると書いた。それは決して快いものではない、と。それと比較するならば、このブログ主の文章を文芸的に読むと、自分の苦痛を昇華してもらいたがっている、治療してもらいたがっている行間が感じられる。その行間を感じ取っているからこそ、明らかに快楽原則ばりばりな昇華したがりな救いたがりな牧師になりたがりな二十四時間テレビで感動して泣いちゃうような正常人どもが、彼女のブログに群がるのだろう。コメントからそれがはっきりと読み取れる。彼女も昇華されたがっているのだからそれはそれで正しい関係なのだ。合意主義的に言えば。確かに、彼女はそういったコメント者たちの「気遣い」を否認するような素振りを見せたりもしている。しかし一方、それによってコメント者たちはさらに彼女に感情移入していっている。ここに立ち現れている空間はまさにヒステリー者と精神分析家が向き合った時のそれである。大量の「お助けおじさん」が釣れているのが明確に見て取れる(一応補足しておくがリンク先の林公一は新サイトでどうもこの単語を削除しているようだ。まあどうでもいいけど)。
このブログを総評すると(コメント欄含め)、わたしから見れば茶番劇にしか見えない。彼女を主人公にしたビルドゥングスロマンだな。すみません演劇オタだし。要するに全く生々しくないってこと。文芸的な読み方をすれば、ってことよ?
彼女は「気持ちの資本家」として、その資本により自分の苦痛を幻想化し、それを共有したがっている。これは彼女が神経症者の団体を主宰していることからも推測できる。別にそのことを批判するわけではないが、ここに彼女の「気持ちの資本家」らしさが顕著に表れている、という話である。作家で喩えるならば、車谷長吉や笙野頼子やセリーヌのようなそれ(中原昌也クンも本人の志向を考えれば入れてあげてもいいが入れてあげない)ではなく、商業作家のようなものである。
あ、念のため断っておくけどこのブログ主の心的苦痛を詐病だ、などと言っているわけじゃないよ。治療がんばってね、と普通に思う。しかし、少なくともわたしの心的苦痛とは別物であり、わたしのやりたい「ヒステリー者のディスクール」じゃない、という身勝手な話。
ここで『ナッツ』という映画に感じた違和感を述べているが、そういうことかもしれない。このブログよかリアリティはあると思うけど。わたしの自分勝手な(即ち他人に理解してもらえないであろう瑣末な)トラウマが惹起されたってことかな。慢性的な、ぼんやりとした、電子雲のような。不確定性トラウマ? いや言ってみただけ。
んで後半。
正直さ、何故「気を遣い合うことが不快からの回避」となるのだろうね? フシギ。
このコメント者は、「気を遣い合えば不快から逃れられる」ことを知っている。それを無意識的に前提にできている。
そもそも自閉症というのは、器質因的あるいは内因的に「気を遣えない物体」なわけだから、「気を遣うこと」はその物体にできないことをやらせているわけで、摂理として「不快からの回避」にならないのだ。わたしは自閉症ではないが少なくともわたしにとっての「気遣い」とはそこで書いているようにチェスの「駆け引き」のようなもので、「心のゆとり」的な快楽では全くない。むしろ体内の神経があちこちで発火しているような状態である。身体的には不快な刺激として認知している。この身を焦がすような不快さがいーんじゃーん、などという癲癇発作を自慰的に楽しむ癲癇症者のような考えをしているのはまあ認めなくもないが、少なくともそこに「ゆとり」などない。とはいえ「身を焦がすような不快さ」を楽しむのも、時と場合による。恋愛している時などはそれに夢中になるが、ほぼ普段の生活では不快以外の何物でもない。たとえば、仕手株に数千万単位でぶっこんだ時のような(最近はしてませんええ命は大事です)、まさに『カイジ』的な生死を賭したひりひりする感覚である。不快と表裏一体の快楽、という言い方になるだろうか。なんちゃってラカニアンであるわたしはそれこそ享楽だと言い張るがね。
「定型発達という精神障害」が、「他人と気を遣い合えば不快から逃れられる」という妄想をパラノイアックに共有できているだけの話であり、このコメント者は少なくともその妄想を実存在として認知できているように思える。つまり、それが快楽になることを知っている、少なくとも一度は経験しているからこそ、これほど確信的に「気を遣い合うことで不快から逃れられる」などと言えるのではないか、ということ。土鍋ごはんさんにも同じことが言える。
気を遣い合うことが不快からの逃避即ち快楽になる、ということを最初に学習するのは、スターン論の間主観的自己感の形成期に相当するだろう。そこで乳児は養育者の情動を(まさに鏡像的に)模倣する。この情動の模倣が、彼にとって不快からの逃避となる。後に大人の我々が認知する「気遣い」の原型であり、「心の理論」の原理たる想像的同一化(同情とか感情移入とかそんなようなもん)の機制である。「気遣い」なんて種明かししたらこの程度のものだよ。
このブログで何度も述べているが、ラカンの鏡像段階とスターンの間主観的自己感の形成期とバロン=コーエンのSAMの形成期は、大体生後十八ヶ月を中心として期を同じくしている。これらを短絡的に同じ発達機制と考えるわけにはいかないが、強く関連づけて考えてよいように思える。
短絡的に考えるならば、間主観的自己感の形成期を定型的に通過できている主体は、鏡像段階もSAMの形成期も定型的に通過できているはず、となる。ということは、「気を遣い合うことは不快からの逃避即ち快楽である」ことを、知識としてではなく実感をもって知っている主体は、ファルスがある即ちSAMが機能している、ということになる。
一方、山岸氏やこうもり氏のような、本当に「鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成あるいはSAMの形成に(器質因か内因か環境因かはここではエポケーする)不具合がある」主体は、「気を遣い合えば不快から逃れられる」という(妄想の)原理を学習しないまま成長してしまったものと考えられる。この原理が欠如したまま彼らの「壊れた自我や超自我」は形成されてしまっている。もう後戻りはできないのだ。大人は乳児に戻れない。
これが山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」の一つの学術的補足となるだろうか。いや当の本人から反論されそうな気もするが。要するにわたし自身がこの説明で納得し切れていない。
やっぱり、土鍋ごはんさんやこのコメント者のファルスあるいはSAMは壊れていなさそうだ。どうしてもそんな結論に行き着いてしまう。心的外傷が明確に症状と結びつく時点で、ファルスは存在することになるのだ。何故なら心的外傷を隠蔽抑圧するのが神経症だから。心的外傷は現実界的なものではあるが現実界そのものではない。現実界のうねりを伝達する象徴界あるいは想像界に開いた穴が、心的外傷だ、ということだな。象徴界と想像界が現実界と連結できているからこそ、穴となる。即ち心的外傷が症状と明確に結びつく。
んで最後の笙野関連。
要するにわたしは珍しく小説の登場人物に感情移入、あるいは転移できているという話である。わたしにとっては物語恐怖症寛解後初めてと言っていいほどのことだ。この感情移入とは先に述べたように精液的なものなので、わたしは何年ぶりかで射精できたとも言えるだろう。演技的な感情移入はしてたけど。イクフリって奴。まさしく「斜に構えた熱狂」。
従って、いぶきを隠蔽劣化することは、圧殺することは、わたしを殺すことになる。まあそういう『ミザリー』的な文章だと思ってくれねい。
彼女の作品は、確かにわたしを受容する器だった。しかし器であり過ぎたため、わたしの真下に穴が開いた。わたしはそこから漏れた。
そんなカンジー? 三部作全体の総評として。
まあ初期作品群があるから『ミザリー』(笑)にゃならんよ。そのテクストの「語る主体」と実際の作家本人を混同するほどわたしゃバカじゃない。
ただ、学問と芸術という領域に関与している限り、わたしは正常人でいられる、パラノイアックなそれとしての人格を保持できる、ということか、……いやーどーだろ? どっちが欠けてもあっさりパラノイアになりそうだわ。
ぐ、某さんからこええツッコミが。
むー、断絶を「中に」引き入れることが擬似SAMの条件? 確かに山岸美代子氏は「ドナの中の三人」と述べている。自閉症という自分たる物体を保持できてているから? 夫という(壊れてはいるけども)鏡をもって。うん、「中に」だと「所有」になる。ラカンの「外側に内密している」という意味での「外-密」とかって言葉は便利だけどポモ野郎とかがすぐクラインの壷とか持ち出すから好きじゃない。クラインの壷とかメビウスの輪とか単にそれこそ物語的自己感で、主観形成の極みで人は退行を促されるという話に過ぎず、クラインの壷やメビウスの輪がスキゾフレニックな構造だとは全く思えない。むしろ人格というパラノイアの極点がそういう構造ではないのか。実際クラインの壷を好んで取り上げる思想家(浅田彰や中沢新一)は、その言動を理屈ではなく精神分析的に解釈すれば、全くパラノイアのボーダーであることがわかる。
皮膚が裏返った自分というのを夢でよく見る。それは『CSI』的なリアルなものじゃなく(とはいえもちろん痛みはある)、裏返った身体はカラフルな無数の宝石がごちゃごちゃとぐつぐつと煮えているようなものだったりするけれど、そういうもの。わたしにとって「外-密」は。だからこの場合イマイチピンとこない。
というわけで保留。
快楽原則って便利よね、としみじみ思った。
「わたしはナッツなんかじゃない。ナッツは、お前ら正常人どもだ」
なんちゃってラカニアンであるわたしは、自閉症の原因は(器質因か内因かは問わず)去勢即ち鏡像段階における不具合にある、という立場を取っている。
ってかミラーだって(笑)、という話。
鏡よ鏡ほんとはわたし
汚い体欲しくはないの
真っ白なのが欲しいのよ
鏡よ鏡ほんとはわたし
ヤキモチなんか妬きたくないの
妬かない心が欲しいのよ
鏡よ鏡どうしてもダメ
それならいいわ毒入りリンゴ
白雪姫を殺しちゃえ
鏡像段階を上手く通過できなかった未去勢な主体の歌だと考えれば、
……いやーどーだろ?
わたしは鏡を壊しちゃうな。
割れた鏡の破片。破片に映るいくつものわたし。見た目は統合されているのに、断片のわたし。
主人公の欲動は、鏡に反射して白雪姫に届いている。統合されている。欲動が欲望になった瞬間の歌……ってまさに鏡像段階か。あーあ。
わたしの鏡は割れている。
白雪姫には届かない。
わたしの世界に白雪姫は存在しない。
わたしは原初から白雪姫を殺している。
魔女が未去勢な主体即ち子供であって、白雪姫の方が去勢済みの主体即ち大人だったと、そういう歌だな。
ボスケテ。
前記事の要約っていうか本音(あっちも本音だけどってむしろこっちが隠蔽臭い)でも書いとこっか。
心因性の精神疾患は、他の定型発達者が物語的に感情移入できる劇的なトラウマがあるのだから、理解してもらえる確率が高い。一方、自閉症やら統合失調症やら癲癇やらという器質因性あるいは内因性の精神疾患は、それがない。重篤なものなら一目で「あ、こいつキチガイだな」とわかってくれるが、軽度のものだと気づかれにくい。よって、劇的なトラウマがある精神疾患者たちがあんまり声高に自分の居場所を主張すると、トラウマのない軽度の器質因性あるいは内因性の精神疾患者たちの居場所が失われてしまう、ということだな。この居場所は別に障害補償とかって経済的な問題もあるけれど、人の心の問題の方が大きい。人の心なんて一人一人キャパは決まっているもの。少なくとも無限じゃない。キリストとかブッダとか真性パラノイアとかじゃない限り。
それ以前に、トラウマが社会的に認知された現代は特に、見た目でもトラウマでも判断できない軽度の器質因性あるいは内因性の精神疾患者は、相対的に「気合いが足りないんだろ?」的根性論を一身に引き受けることになる。わたしの心的事実をもってそう予測できる。こいつは見た感じヤバイし、こいつはトラウマがあるらしいから、じゃあお前に根性論ぶつけちゃえ、ってなる。根性論っていうのは(その主体がそうありたいという)欲望なんだから、どこかにはけ口が必要となる。特にファルスを持つ者は、その恐るべき動物的嗅覚で、ファルスの弱い者を獲物に定める。わたしの恋愛が大体暴力を伴ったのもこういう図式だろう。わたしの無意識が彼を殴らせている、即ちわたしの無意識が殴られたいのだ、みたいな。早いうちにそういう運命だと悟ったから殴られ続けてるけどね。……すみませんウソ言いました最近は恋愛自体していません(歪んだ笑)。
「正常という狂気」「定型発達という精神障害」は、象徴的であれ想像的であれ、生贄(対象a)がいないと成り立たない。
トラウマがあるだけまだマシよねー、って話さー。
自閉症チックな器質因あるいは内因による「愛や(それこそ「気遣い」や)主体化(という暴力)への怖れ」は、心因性あるいは環境因性のものと思われやすい。トラウマという概念が日常化した現代では特に。ここにわたしは定型発達者たちのむしろ懺悔的気持ちすら感じるので、これらの混同をあまりとやかく言いたくはないのだが、違うものは違うと言っておきたい。その「気遣い」と事実は別だ、という話。
要するに、彼女はむしろそのトラウマを武器に、さらに弱い者を叩いている。彼女の意思とは関係なく。という話?
とかって書くとどうでもよくなっちゃった。好きにやっていいよ。暴力を振るう人間の存在だって実存在だ。
わたしのやっていることは、「(スキゾフレニックな)狂気の伝染」「苦痛の感応」であると書いた。それは決して快いものではない、と。それと比較するならば、このブログ主の文章を文芸的に読むと、自分の苦痛を昇華してもらいたがっている、治療してもらいたがっている行間が感じられる。その行間を感じ取っているからこそ、明らかに快楽原則ばりばりな昇華したがりな救いたがりな牧師になりたがりな二十四時間テレビで感動して泣いちゃうような正常人どもが、彼女のブログに群がるのだろう。コメントからそれがはっきりと読み取れる。彼女も昇華されたがっているのだからそれはそれで正しい関係なのだ。合意主義的に言えば。確かに、彼女はそういったコメント者たちの「気遣い」を否認するような素振りを見せたりもしている。しかし一方、それによってコメント者たちはさらに彼女に感情移入していっている。ここに立ち現れている空間はまさにヒステリー者と精神分析家が向き合った時のそれである。大量の「お助けおじさん」が釣れているのが明確に見て取れる(一応補足しておくがリンク先の林公一は新サイトでどうもこの単語を削除しているようだ。まあどうでもいいけど)。
このブログを総評すると(コメント欄含め)、わたしから見れば茶番劇にしか見えない。彼女を主人公にしたビルドゥングスロマンだな。すみません演劇オタだし。要するに全く生々しくないってこと。文芸的な読み方をすれば、ってことよ?
彼女は「気持ちの資本家」として、その資本により自分の苦痛を幻想化し、それを共有したがっている。これは彼女が神経症者の団体を主宰していることからも推測できる。別にそのことを批判するわけではないが、ここに彼女の「気持ちの資本家」らしさが顕著に表れている、という話である。作家で喩えるならば、車谷長吉や笙野頼子やセリーヌのようなそれ(中原昌也クンも本人の志向を考えれば入れてあげてもいいが入れてあげない)ではなく、商業作家のようなものである。
あ、念のため断っておくけどこのブログ主の心的苦痛を詐病だ、などと言っているわけじゃないよ。治療がんばってね、と普通に思う。しかし、少なくともわたしの心的苦痛とは別物であり、わたしのやりたい「ヒステリー者のディスクール」じゃない、という身勝手な話。
ここで『ナッツ』という映画に感じた違和感を述べているが、そういうことかもしれない。このブログよかリアリティはあると思うけど。わたしの自分勝手な(即ち他人に理解してもらえないであろう瑣末な)トラウマが惹起されたってことかな。慢性的な、ぼんやりとした、電子雲のような。不確定性トラウマ? いや言ってみただけ。
んで後半。
正直さ、何故「気を遣い合うことが不快からの回避」となるのだろうね? フシギ。
このコメント者は、「気を遣い合えば不快から逃れられる」ことを知っている。それを無意識的に前提にできている。
そもそも自閉症というのは、器質因的あるいは内因的に「気を遣えない物体」なわけだから、「気を遣うこと」はその物体にできないことをやらせているわけで、摂理として「不快からの回避」にならないのだ。わたしは自閉症ではないが少なくともわたしにとっての「気遣い」とはそこで書いているようにチェスの「駆け引き」のようなもので、「心のゆとり」的な快楽では全くない。むしろ体内の神経があちこちで発火しているような状態である。身体的には不快な刺激として認知している。この身を焦がすような不快さがいーんじゃーん、などという癲癇発作を自慰的に楽しむ癲癇症者のような考えをしているのはまあ認めなくもないが、少なくともそこに「ゆとり」などない。とはいえ「身を焦がすような不快さ」を楽しむのも、時と場合による。恋愛している時などはそれに夢中になるが、ほぼ普段の生活では不快以外の何物でもない。たとえば、仕手株に数千万単位でぶっこんだ時のような(最近はしてませんええ命は大事です)、まさに『カイジ』的な生死を賭したひりひりする感覚である。不快と表裏一体の快楽、という言い方になるだろうか。なんちゃってラカニアンであるわたしはそれこそ享楽だと言い張るがね。
「定型発達という精神障害」が、「他人と気を遣い合えば不快から逃れられる」という妄想をパラノイアックに共有できているだけの話であり、このコメント者は少なくともその妄想を実存在として認知できているように思える。つまり、それが快楽になることを知っている、少なくとも一度は経験しているからこそ、これほど確信的に「気を遣い合うことで不快から逃れられる」などと言えるのではないか、ということ。土鍋ごはんさんにも同じことが言える。
気を遣い合うことが不快からの逃避即ち快楽になる、ということを最初に学習するのは、スターン論の間主観的自己感の形成期に相当するだろう。そこで乳児は養育者の情動を(まさに鏡像的に)模倣する。この情動の模倣が、彼にとって不快からの逃避となる。後に大人の我々が認知する「気遣い」の原型であり、「心の理論」の原理たる想像的同一化(同情とか感情移入とかそんなようなもん)の機制である。「気遣い」なんて種明かししたらこの程度のものだよ。
このブログで何度も述べているが、ラカンの鏡像段階とスターンの間主観的自己感の形成期とバロン=コーエンのSAMの形成期は、大体生後十八ヶ月を中心として期を同じくしている。これらを短絡的に同じ発達機制と考えるわけにはいかないが、強く関連づけて考えてよいように思える。
短絡的に考えるならば、間主観的自己感の形成期を定型的に通過できている主体は、鏡像段階もSAMの形成期も定型的に通過できているはず、となる。ということは、「気を遣い合うことは不快からの逃避即ち快楽である」ことを、知識としてではなく実感をもって知っている主体は、ファルスがある即ちSAMが機能している、ということになる。
一方、山岸氏やこうもり氏のような、本当に「鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成あるいはSAMの形成に(器質因か内因か環境因かはここではエポケーする)不具合がある」主体は、「気を遣い合えば不快から逃れられる」という(妄想の)原理を学習しないまま成長してしまったものと考えられる。この原理が欠如したまま彼らの「壊れた自我や超自我」は形成されてしまっている。もう後戻りはできないのだ。大人は乳児に戻れない。
これが山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」の一つの学術的補足となるだろうか。いや当の本人から反論されそうな気もするが。要するにわたし自身がこの説明で納得し切れていない。
やっぱり、土鍋ごはんさんやこのコメント者のファルスあるいはSAMは壊れていなさそうだ。どうしてもそんな結論に行き着いてしまう。心的外傷が明確に症状と結びつく時点で、ファルスは存在することになるのだ。何故なら心的外傷を隠蔽抑圧するのが神経症だから。心的外傷は現実界的なものではあるが現実界そのものではない。現実界のうねりを伝達する象徴界あるいは想像界に開いた穴が、心的外傷だ、ということだな。象徴界と想像界が現実界と連結できているからこそ、穴となる。即ち心的外傷が症状と明確に結びつく。
んで最後の笙野関連。
要するにわたしは珍しく小説の登場人物に感情移入、あるいは転移できているという話である。わたしにとっては物語恐怖症寛解後初めてと言っていいほどのことだ。この感情移入とは先に述べたように精液的なものなので、わたしは何年ぶりかで射精できたとも言えるだろう。演技的な感情移入はしてたけど。イクフリって奴。まさしく「斜に構えた熱狂」。
従って、いぶきを隠蔽劣化することは、圧殺することは、わたしを殺すことになる。まあそういう『ミザリー』的な文章だと思ってくれねい。
彼女の作品は、確かにわたしを受容する器だった。しかし器であり過ぎたため、わたしの真下に穴が開いた。わたしはそこから漏れた。
そんなカンジー? 三部作全体の総評として。
まあ初期作品群があるから『ミザリー』(笑)にゃならんよ。そのテクストの「語る主体」と実際の作家本人を混同するほどわたしゃバカじゃない。
ただ、学問と芸術という領域に関与している限り、わたしは正常人でいられる、パラノイアックなそれとしての人格を保持できる、ということか、……いやーどーだろ? どっちが欠けてもあっさりパラノイアになりそうだわ。
ぐ、某さんからこええツッコミが。
むー、断絶を「中に」引き入れることが擬似SAMの条件? 確かに山岸美代子氏は「ドナの中の三人」と述べている。自閉症という自分たる物体を保持できてているから? 夫という(壊れてはいるけども)鏡をもって。うん、「中に」だと「所有」になる。ラカンの「外側に内密している」という意味での「外-密」とかって言葉は便利だけどポモ野郎とかがすぐクラインの壷とか持ち出すから好きじゃない。クラインの壷とかメビウスの輪とか単にそれこそ物語的自己感で、主観形成の極みで人は退行を促されるという話に過ぎず、クラインの壷やメビウスの輪がスキゾフレニックな構造だとは全く思えない。むしろ人格というパラノイアの極点がそういう構造ではないのか。実際クラインの壷を好んで取り上げる思想家(浅田彰や中沢新一)は、その言動を理屈ではなく精神分析的に解釈すれば、全くパラノイアのボーダーであることがわかる。
皮膚が裏返った自分というのを夢でよく見る。それは『CSI』的なリアルなものじゃなく(とはいえもちろん痛みはある)、裏返った身体はカラフルな無数の宝石がごちゃごちゃとぐつぐつと煮えているようなものだったりするけれど、そういうもの。わたしにとって「外-密」は。だからこの場合イマイチピンとこない。
というわけで保留。
快楽原則って便利よね、としみじみ思った。
「わたしはナッツなんかじゃない。ナッツは、お前ら正常人どもだ」