不快なものを避ける「原則」が快楽原則
2008/09/15/Mon
念のために断っておくことばっかりしているように思えるが、重武装していると各々の武器のメンテナンスが大変になるようなものだと諦めて書いておく。
戦車かー、むー、いやこっちの話。
わたしはここで「不快を避けるという快楽原則が理解できない」と書いた。不快なものに向かってしまうのがわたしである、と。
しかしそれは、全ての不快なものに向かっていくという話ではない。不快なものにもそれぞれ差異がある。向かってしまう不快があれば避ける不快もある。
向かってしまう不快と避けてしまう不快と、大雑把に二分したが、それらに共通点はない。それぞれが一つ一つ独立した不快である。であるならば、どんな不快に向かってどんな不快を避けるか、というわたし内部の基準の問題である、となる。とはいえその基準も、今現在の大体な輪郭なら説明できるかもしれないけれど、やっぱりできない。言葉にならない。自分のおぼろげな記憶を紡ぎ合わせて考えると、向かうか避けるかの判断基準なんて、「時と場合による」としか答えられない。
一方、快楽原則というのは、不快なものであれば一律的に避ける、という「原則」である。不快なものを一律的(あるいは統合的)に不快なものとして見ないようにすることができるのが、快楽原則という自己防衛機制である。快楽原則が定立した主体は、不快なもののの本質が見えない。見えなくさせられている。それこそ『姑獲鳥の夏』における関口巽のごとく。
とはいえもちろんそんな原則だけで人は生きていけないので、「責任」などといった概念群を構造化し、それによって不快なものに向かわざるを得ないルールを付加させる。これが現実原則である。そうすることによって人はその矛盾を埋め合わせしようとする。本当の意味での現実と妥協しようとする原則が現実原則であり、現実原則が現実ではないのだ。
この快楽原則と現実原則の組み合わせにより、不快なものの選別基準が定型化される。人と人の関係の総体、たとえば社会なるものにおいて、「どういう不快を許容しどういう不快を排除するか」という、言語的かつ体感的なルールが形成される。単純に常識や道徳などと表現してもよい。体感的な側面をフィーチャーするならば、「空気を読む」の「空気」がこのルールに当てはまるだろう。
常識や道徳や空気や倫理などといった、世の中の全ての(象徴的想像的問わず)社会的ルールは、不快なものをどう避けるか、どこまで不快を許容するか、ということを根拠にして成り立っていると言ってよい。たとえば法律などというものの原理もこれである。殺人などといった定型的に「許されない不快」を選別するルールである。
この「不快を棄却(排除)する」構造に着目し、棄却される側から、多神教的な供犠~旧約聖書~新約聖書が定立せしめる「棄却の構造」の変遷を読み解き、それをアブジェクシオンという語で概念化したテクストが、クリステヴァの『恐怖の権力』である。
わたしはよくラカニアンではなくクリステヴァ論者だと主張することが多いが、これでなんとなくわかってもらえただろうか? ラカン論は今のわたしにとってもっとも優れた道具ではあるが、(一部の)ラカニアンたちの、まるで麻原に心酔するオウム信者のごとき「父の名」にうっとりする態度には、正直鳥肌が立つ。
不快なものに向かう「こともある」という点では、わたしの主張は現実原則的なものとは言えるが、そこに「責任」などといった概念は存在しない。わたしは不快なものに向かって「しまう」のである。自分の身体反応がどうであれ。
わたしの不快なものに向かって「しまう」状態は、死の欲動を根拠にしているだろう。現実原則とは超自我でもある。これが「超自我の原因は死の欲動である」というフロイト論の言葉が意味するところである。
しかし、それが原因ではあろうが、死の欲動と現実原則は別物である。原因と結果という関係で結びついているだけにすぎない。むしろ快楽原則と現実原則の綻びに、フロイトは死の欲動を見出したのである。
この、現実原則という派生物と死の欲動という本質との差異こそが、二階堂奥歯が述べた「社会に対する違和感」と「世界に存在することへの違和感」の差異であろう。二階堂奥歯は、超自我に基づいて自殺したのではないことが明確にわかる。昨今のBPDは超自我が強い故自傷する、という論が主流になっているが、少なくとも二階堂はそれに当てはまらない。彼女の自殺は、責任感が強すぎる故の自殺ではない。彼女の一連のテクストは、未去勢な主体が、鏡像段階から何年も遅れて、圧倒的な「死なるもの」により去勢された「物語」である。わたしは未だかつてこれほどの悲劇を読んだことがない。
去勢の瞬間とは享楽でもある。従ってわたしは彼女の死を「恍惚の死」と呼ぶ。彼女の生前のテクストからは、明らかに死を恍惚的なものとして見ていたことが読み取れる。
現代社会は、二階堂の死ですら、「社会に対する違和感」によるものと、超自我が強すぎた故のものと、責任感故のものと、解釈しかねない。
二階堂奥歯は、わたしはBPDだったと解釈する。未去勢との境界例である。ここではスキゾフレニックなボーダーと表現しよう。
しかし、最近の心理学界では、BPDは超自我が強すぎる故のもの、という説が主流となっている。死の欲動が超自我化されているならば、それは未去勢ではない。その主体は去勢されている。従って、こういったBPDを、「人格とはパラノイアである」というラカン論に則って、パラノイアックなボーダーと表現しよう。
確かに、近代的自我なる文脈が蔓延した現代では、未去勢的な主体より去勢済みな主体の方が圧倒的多数であろう。統計的に、BPDがパラノイアックな(あるいはポスト・フェストゥム的な)症状である、とされるのは必然的なことと思える。
しかし、二階堂の死は、それらの症状とは明らかに別物である。
統計的にそういう言説になることは否定しない。それは学問として仕方のない側面ではある。しかし、統計から漏れたものを無視するのは学問ではない。
もちろん、「無視なんかしていない」と精神科医たちは反論するだろう。しかしわたしは、お前たちの超自我が、即ち無意識が無視してはいないか? と問うているのである。その反論は、精神分析で言うところの否認になってはいないか? と。
わたしは、この統計的思考様式により棄却されそうなっているものを、学問という象徴界的な幻想に送り返しているのである。
現実界と幻想の狭間を、ひき肉の街をふらふらとさまようわたしが、幻想のためにしてやれるのは、このぐらいのことだけである。
それが、幻想に生きる者にとって、不快なものであっても、糞便と思われても、わたしは構わない。
何故ならわたしは、不快なものを避ける原則が理解できない魔女なのだから。
補足。
わたしは精神分析を学んでいる人間であるので、「境界例」という言葉は、原義たる「精神病(パラノイアや分裂病)と神経症の境界と思われる症例」という意味で使っております。DSMに基づいた反論とかしてこないでね。「ぷw そんなこと知ってるわw」ってリアクションしちゃうから。
ぷはーっ。
戦車かー、むー、いやこっちの話。
わたしはここで「不快を避けるという快楽原則が理解できない」と書いた。不快なものに向かってしまうのがわたしである、と。
しかしそれは、全ての不快なものに向かっていくという話ではない。不快なものにもそれぞれ差異がある。向かってしまう不快があれば避ける不快もある。
向かってしまう不快と避けてしまう不快と、大雑把に二分したが、それらに共通点はない。それぞれが一つ一つ独立した不快である。であるならば、どんな不快に向かってどんな不快を避けるか、というわたし内部の基準の問題である、となる。とはいえその基準も、今現在の大体な輪郭なら説明できるかもしれないけれど、やっぱりできない。言葉にならない。自分のおぼろげな記憶を紡ぎ合わせて考えると、向かうか避けるかの判断基準なんて、「時と場合による」としか答えられない。
一方、快楽原則というのは、不快なものであれば一律的に避ける、という「原則」である。不快なものを一律的(あるいは統合的)に不快なものとして見ないようにすることができるのが、快楽原則という自己防衛機制である。快楽原則が定立した主体は、不快なもののの本質が見えない。見えなくさせられている。それこそ『姑獲鳥の夏』における関口巽のごとく。
とはいえもちろんそんな原則だけで人は生きていけないので、「責任」などといった概念群を構造化し、それによって不快なものに向かわざるを得ないルールを付加させる。これが現実原則である。そうすることによって人はその矛盾を埋め合わせしようとする。本当の意味での現実と妥協しようとする原則が現実原則であり、現実原則が現実ではないのだ。
この快楽原則と現実原則の組み合わせにより、不快なものの選別基準が定型化される。人と人の関係の総体、たとえば社会なるものにおいて、「どういう不快を許容しどういう不快を排除するか」という、言語的かつ体感的なルールが形成される。単純に常識や道徳などと表現してもよい。体感的な側面をフィーチャーするならば、「空気を読む」の「空気」がこのルールに当てはまるだろう。
常識や道徳や空気や倫理などといった、世の中の全ての(象徴的想像的問わず)社会的ルールは、不快なものをどう避けるか、どこまで不快を許容するか、ということを根拠にして成り立っていると言ってよい。たとえば法律などというものの原理もこれである。殺人などといった定型的に「許されない不快」を選別するルールである。
この「不快を棄却(排除)する」構造に着目し、棄却される側から、多神教的な供犠~旧約聖書~新約聖書が定立せしめる「棄却の構造」の変遷を読み解き、それをアブジェクシオンという語で概念化したテクストが、クリステヴァの『恐怖の権力』である。
わたしはよくラカニアンではなくクリステヴァ論者だと主張することが多いが、これでなんとなくわかってもらえただろうか? ラカン論は今のわたしにとってもっとも優れた道具ではあるが、(一部の)ラカニアンたちの、まるで麻原に心酔するオウム信者のごとき「父の名」にうっとりする態度には、正直鳥肌が立つ。
不快なものに向かう「こともある」という点では、わたしの主張は現実原則的なものとは言えるが、そこに「責任」などといった概念は存在しない。わたしは不快なものに向かって「しまう」のである。自分の身体反応がどうであれ。
わたしの不快なものに向かって「しまう」状態は、死の欲動を根拠にしているだろう。現実原則とは超自我でもある。これが「超自我の原因は死の欲動である」というフロイト論の言葉が意味するところである。
しかし、それが原因ではあろうが、死の欲動と現実原則は別物である。原因と結果という関係で結びついているだけにすぎない。むしろ快楽原則と現実原則の綻びに、フロイトは死の欲動を見出したのである。
この、現実原則という派生物と死の欲動という本質との差異こそが、二階堂奥歯が述べた「社会に対する違和感」と「世界に存在することへの違和感」の差異であろう。二階堂奥歯は、超自我に基づいて自殺したのではないことが明確にわかる。昨今のBPDは超自我が強い故自傷する、という論が主流になっているが、少なくとも二階堂はそれに当てはまらない。彼女の自殺は、責任感が強すぎる故の自殺ではない。彼女の一連のテクストは、未去勢な主体が、鏡像段階から何年も遅れて、圧倒的な「死なるもの」により去勢された「物語」である。わたしは未だかつてこれほどの悲劇を読んだことがない。
去勢の瞬間とは享楽でもある。従ってわたしは彼女の死を「恍惚の死」と呼ぶ。彼女の生前のテクストからは、明らかに死を恍惚的なものとして見ていたことが読み取れる。
現代社会は、二階堂の死ですら、「社会に対する違和感」によるものと、超自我が強すぎた故のものと、責任感故のものと、解釈しかねない。
二階堂奥歯は、わたしはBPDだったと解釈する。未去勢との境界例である。ここではスキゾフレニックなボーダーと表現しよう。
しかし、最近の心理学界では、BPDは超自我が強すぎる故のもの、という説が主流となっている。死の欲動が超自我化されているならば、それは未去勢ではない。その主体は去勢されている。従って、こういったBPDを、「人格とはパラノイアである」というラカン論に則って、パラノイアックなボーダーと表現しよう。
確かに、近代的自我なる文脈が蔓延した現代では、未去勢的な主体より去勢済みな主体の方が圧倒的多数であろう。統計的に、BPDがパラノイアックな(あるいはポスト・フェストゥム的な)症状である、とされるのは必然的なことと思える。
しかし、二階堂の死は、それらの症状とは明らかに別物である。
統計的にそういう言説になることは否定しない。それは学問として仕方のない側面ではある。しかし、統計から漏れたものを無視するのは学問ではない。
もちろん、「無視なんかしていない」と精神科医たちは反論するだろう。しかしわたしは、お前たちの超自我が、即ち無意識が無視してはいないか? と問うているのである。その反論は、精神分析で言うところの否認になってはいないか? と。
わたしは、この統計的思考様式により棄却されそうなっているものを、学問という象徴界的な幻想に送り返しているのである。
現実界と幻想の狭間を、ひき肉の街をふらふらとさまようわたしが、幻想のためにしてやれるのは、このぐらいのことだけである。
それが、幻想に生きる者にとって、不快なものであっても、糞便と思われても、わたしは構わない。
何故ならわたしは、不快なものを避ける原則が理解できない魔女なのだから。
補足。
わたしは精神分析を学んでいる人間であるので、「境界例」という言葉は、原義たる「精神病(パラノイアや分裂病)と神経症の境界と思われる症例」という意味で使っております。DSMに基づいた反論とかしてこないでね。「ぷw そんなこと知ってるわw」ってリアクションしちゃうから。
ぷはーっ。