「ごっこ遊び」とファルス
2008/09/18/Thu
自閉症者は、幼児期に「ごっこ遊び」をしない。
一概にそうとは言い切れない。確かに幼児期に「ごっこ遊び」をしてた主体でも、自閉症であることはあろう。であるならば、「自閉症者は幼児期に「統計的に」「ごっこ遊び」をしないことが多い」という現象の本質を探るべきである。
結論から先に言えば、これはこの記事で述べた、まさに「間主観的自己感の形成期における情動の模倣の不具合」によるものと考えられる。
「情動の模倣」とは、表情など以外の身体的なものを含む動作の模倣を示すと考えてよい。であるならば、これが「ごっこ遊び」の本質たる「人間ごっこ」とでも言えるべきものであることがわかるだろう。生後二年以内に乳児が行う「人間ごっこ」こそが、間主観的自己感の形成期に乳児が学ぶ「情動の模倣」なのだ。
注意しておきたいのは、「情動の模倣」たる「人間ごっこ」と、「ごっこ遊び」という言葉が示すものは、全く別物である、ということである。それらの関係は(解釈するわたしたちにとって)象徴的に繋がっているという話であり、生後二年以内に「情動の模倣」的な行動が見えなくても、内部でそれが行われていることもあろう。クラインも乳児分析において似たようなことを指摘している。要するに、見た目「だけ」ではわからない、ということだ。事実、一歳までの新生児について、その見た目から、自閉症のような行動パターンが見て取れたとしても、その子らが成長後自閉症になるとは言えない、ということは臨床統計的に示されている。自閉症は器質因的な先天性のものと考えられているにも関わらず、「見た目」では早期の診断はできない、という事実。これらのことから、その内部を解釈する精神分析、特にクライン論やクリステヴァ論やそれこそスターン論のような、言語を獲得する以前の乳児についての精神分析論が有効な突破口になるとわたしは考える。
とはいえ、内部を解釈すると言っても、それは見た目によらなければならない。そもそもこの矛盾は、精神分析が妄想の学だとされる所以である。
赤ん坊や自閉症者に内部、即ち心はあるのか、という哲学的な領域まで発展しそうな問いが、自閉症研究に大きく立ちはだかっている。
話がそれた。先に進めよう。
ここまでの論を要約するならば、間主観的自己感の形成期に近い時期の幼児(たとえば五歳くらいまで)の行う「ごっこ遊び」は、「情動の模倣」たる「人間ごっこ」の反復あるいは回帰であり、「ごっこ遊び」を「する/しない」が間主観的自己感の形成の不具合を統計的に測るベンチマークとなることが精神分析理論からも説明できるということを示したわけだ。
精神分析的にはこういう説明でもよかろう。「ごっこ遊び」とは「情動の模倣」の象徴的概念である、と。「生死の模倣」の象徴としての「フォルト・ダー遊び」のごとく。
pikarrr氏などは現在、哲学あるいは社会学の側面から「身体知」という概念を思考しているが、この「知」の形成を臨床的側面から考えるならば、定型発達者は経験し自閉症者は経験しない「ごっこ遊び」が重要になるだろう。たとえば、定型発達者は「ごっこ遊び」によって「身体知」を学習する、などという風に。
学習障害について、自閉症スペクトラムとの相違のあるなしがよく問題となる。
しかし、学習障害にも様々な考え方がある。学習障害とは「読む」「書く」「計算する」「聞く」「話す」「推論する」能力に障害があるものだが、後半の「聞く」「話す」「推論する」能力を含めない定義もある。日本の文部省の定義は後半の障害を含める定義となっている。
ラカニアンの読者はこれだけでピンとくるかもしれないが、前半の「読む」「書く」「計算する」などと言った能力は、言語的あるいは記号的な、象徴界的なものであり、後半の「聞く」「話す」「推論する」などと言った能力は、イメージ的あるいは体感的な、想像界的なものであることが明らかである。
大雑把な考えになるが、ここで山岸氏が「自閉症者は他人の心を想像する能力が欠けている」としているように、自閉症とは想像界的な能力の障害と考えられる。であるならば、後半の想像界的な能力の障害を含める学習障害には、自閉症は含まれると考えることができる。
しかし一方、前半の象徴界的な能力の障害に限定した定義ならば、自閉症と学習障害は、想像界の障害と象徴界の障害と違いという意味で、全く別物となってしまう。
未だ現場にも残っている自閉症と学習障害という症状の混乱は、こんなところにあるように思える。
とはいえ、前半の象徴界的な能力の障害が自閉症者に全く見られない、などと言うつもりはない。象徴界的な能力の障害が自閉症と合併することはよく知られている。
たとえば、わたしの知り合いのアスペルガー症候群者は、確かに理数系の成績がよくコンピュータープログラミング技術に長けているのだが、ある時、小説に関する議論を振り返ってこんなことをぼやいた。
「周りの人たちは概念で物事を考えている。私はイメージで物事を考えるから、話が通じない」
わたしはそれに対し、「むしろそれはお前が概念化できないということだ」などと言ってしまったのだが、これについての批判は認める。彼と会話(議論ではなく相談のようなもの)していて彼の体調を崩させたのは一度ではない。
こういった臨床を考えるに、自閉症を単純に「想像力の障害」と考えるのはおかしいのである。
彼らに想像力はある。事実、先述の山岸氏などは設計の仕事をしている。わたしも建築設計をやっていたからわかるが、それはイメージ化能力が長けていないとできない仕事である。技術営業もやっていたが、図面の説明をするのに、こっちがいらいらするほど図面をイメージ化できない人間(恐らく定型発達者)が多数いた。政治家や営業畑の人間や女性にこういう人間は多いように思う。わたしの実体験をもってそう言える。
また、自閉症者に絵画的あるいは音楽的才能が見られるのは、よく論じられていることである。
一方、象徴界的な能力の障害であるとする論もある。斎藤環などは、ベイトソンの学習理論を応用し、自閉症者は学習理論で言うところの学習2の段階に不具合があり、それは言語的側面で言えば(多義的な)文脈の学習に相当するものだ、としている。従って、「話せる自閉症者」たるアスペルガー症候群者たちは、「(多義的な)文脈が読めない」即ち「空気が読めない」となるわけだ。
このことは先述の「イメージで物事を考え概念化できない」彼にも当てはまろう。議論のテーマが小説であることからも、そこで語られる概念は多義的なものが多くなろう。彼は、そのイメージを多義的な表現(比喩を駆使したものと考えてよい)で自分が述べられないことを、あるいは相手が述べる多義的な概念を理解できないことをぼやいた、と解釈できる。
では、自閉症の障害は想像界と象徴界、どちらにあるのだ? と思われるかもしれない。
実は、想像界や象徴界という区別は関係ないのだ。この区別に囚われている限り、その症状の本質は解釈できない。想像界や象徴界という概念は、自閉症の本質の解釈においては、あくまで一つの切り口にすぎない。
ここで、バロン=コーエンによるSAMという概念が重要となる。
定型発達者たちは、生後二年以内に、このSAMを形成し、それを基に「心の理論」を形成する。自閉症者たちはこのSAMの形成に不具合があるから、「心の理論」について障害がある、となる。
この論を採用するならば、むしろ自閉症の障害はこう表現されるべきだろう。
人間が生来持っている想像力を、たとえば「心の理論」なるもので、対人関係を重視させるように固定化したのが、定型発達者の考える想像力なのであり、精神医学で考えられている「正常な想像力」なのである。故に、自閉症の「想像力の障害」なるものを厳密に言うならば、「想像力を対人関係に関するものに固定観念化させることについての障害」である、となる。
たとえば「アスペルガー症候群者は空気が読めない」という統計的に多いと考えられる現象について、ここで言う「空気」とは対人関係における雰囲気であり、この理屈に合致することがわかる。
とはいえ、対人関係に障害があれば全て自閉症だ、というわけではない。対人関係を定型的に築き上げることができるための原則の学習が欠如しているのが自閉症である。対人関係を築き上げる基礎を知っていても、なんらかの原因でそれがうまく機能しないこともあろう。基礎は学んでいてもそれを応用する能力が貧弱であった場合、対人関係そのものが心的外傷になることもあろう。ネットワーク社会である現代は、いたるところで対人関係が生じてしまう。そのような心的外傷はいたるところで生じていると考えられる。これが定型発達者が罹患する対人恐怖症などである。山岸氏もここで自閉症と(定型発達的な)対人障害との区別を強調している。わたしの論ならば、「本来のスキゾイド型ひきこもりと社会型ひきこもりの差異」などと符号するだろう。
要するに、自閉症と正常人の差異とは、対人関係の基礎(原則あるいは固定観念)を生後二年以内に学んでいるかいないかの差異であって、対人恐怖症的症状とはなんら無関係と考える方が、誤謬は少なく済むだろう、という話である。何故なら、当然の如く定型発達者が罹患する対人恐怖症の症例数の方が圧倒的に多いため、これらを関連づけてしまうと、その関連づけた主体の「心の理論」により、多数決的に定型発達者が罹患する対人恐怖症がその思考に強く影響してしまうからである。自閉症の対人障害は、統計的な誤差として、その思考から棄却されるだろう。それが「心の理論」なのである。微細な差異を棄却して、妄想的な統合性を構築するのが、ファルスなのである。
補足するならば、他記事の繰り返しになるが、このSAMはラカン論で言うところの、(神経症者たちは)生後十八ヶ月以内に経験する鏡像段階により生じるファルスに相当するだろう。従って、自閉症者はファルスが壊れている、となり、自我や超自我はこのファルスによって形成されるものであるので、自閉症者の自我や超自我は壊れている、となる。
とはいえ、壊れながらも、自我や超自我「のようなもの」を形成していくだろう。特にカナー型より社会適応が可能なアスペルガー症候群者たちは。これが、山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」である。ラカン論ならば、わたしは未だ詳細は説明できないが、憶測を許されるならば、それは「工夫そのもの」であるサントームと関連するものだろう、と考える。彼らだって生きている。その生きるやり方が、「心の理論」に縛られていないのである。縛られていない故、特に生き方を固定化する社会なるものの中を生きていくためには、膨大な工夫の積み重ねが必要となる。その積み重ねは無意識領野でも意識領野でも蓄積されていくだろう。要するに、定型発達者たちは、人と関係するために、人の集合体である社会を生きていくわけだが、自閉症者たちは、単に生きるために、膨大な工夫を凝らして、社会を生きている。この膨大な工夫を、ここのコメント者は「エクセルに入力した計算式」と表現しているのだ。
一方、生後二年以内にSAMあるいはファルスという統合性(即ち固定化)を学習した主体は、それについて盲目となるだろう。無意識化するのである。何故なら去勢(鏡像段階)とは、それまでの世界を、自分を殺害することだからである。定型発達者にとって、SAMやファルスは、大きな心的外傷なのだ。正常人という共通項を共通たらしめるトラウマなのだ。正常人たちは、トラウマを共通性として、他人を正常人と認め自分が正常人と認められるのである。「心の理論」なりといった統合性あるいは固定観念をあるいはただの妄想を、「人が人であるための真理」として、共有できるのである。それが、ラカン論における「人格とはパラノイアである」という言葉が示す事実である。
SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を導入することによって、初めて学習障害と自閉症(という概念)が示差される、という話である。
しかしもちろんこれはわたしの論にすぎない。学問なるものは「真」に基づくものではあるが、「人が人であること」の真理こそがSAMや間主観的自己感やファルスそのものである。現代の精神医学の「人間らしく生きられるようになることが治療である」という教義から考えて、間違った論とされるだろう。自閉症者が自閉症者らしく生きることは、決して(定型発達者が考える)人間らしく生きることとはならないからだ。SAMや間主観的自己感やファルスに不具合がある人間など存在しない、何故ならそれは人ではないから、という思考構造により、わたしの論は棄却されるだろう。
SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を導入しない限り、現代の精神医学では、学習障害と自閉症の区別は、「同じものである」「いや別物である」といういたちごっこを続けるだけとわたしは予測する。
また山岸氏の論になってしまうが、彼は自閉症と「聞き分けの良い知恵遅れの子」の違いを述べている。あくまで正確なものではない、喩え話のようなものであるとして説明するならば、従来のカナー型より知能が高い(知的障害がない)のがアスペルガー症候群であるならば、「聞き分けの良い知恵遅れの子」より知能が高い(知的障害がない)主体も存在するだろう。それが、SAMや間主観的自己感やファルスに不具合がない学習障害、即ち自閉症ではない学習障害を、比喩的に示している、と言えよう。
この示差と比喩が許されるのならば、この記事やこの記事の繰り返しになるが、土鍋ごはんさんやかのコメント者は、それらをクリステヴァ的テクスト分析をした限りでは、「聞き分けの良い学習障害者」であろう、という結論にどうしても行き着いてしまう。乱暴な推論だと自覚しながら言うが、この二人は幼児期に「ごっこ遊び」をしていたのではないか、とわたしには思える。
余談ではあるが、この「自閉症と「聞き分けの良い知恵遅れの子」の違い」は、認知心理学の知見でも明らかとなっている。ウタ・フリス著『自閉症の謎を解き明かす』によれば、精神年齢を他のテストで測定し、自閉症者、精神遅滞(知的障害)者、それらより年少の健常者の三タイプを、精神年齢を揃えてサンプル化し、テストした結果、自閉症の特徴が鮮明に表れた、とある。
この特徴を彼女は「文脈を理解する能力の障害」としている。それは斎藤の論を引用し先述したように、わたしも論拠としている要件である。
ではあるが、と疑問が残る。
たとえば、文脈は理解しているが、学習障害的な要因などにより、文脈理解をテスト結果で示すことができない事例もあるのではないか、と。あたかも自閉症的な対人障害がない即ち本質的なコミュニケーション能力に支障はないが、なんらかの心因によりコミュニケーションを否認する(ポスト・フェストゥム的な)対人(赤面)恐怖症のごとく。また逆に、文脈は理解できているようなテスト結果を示しているのにも関わらず、それはその賛嘆すべき脳内エクセルによってのものであり、定型発達的な「文脈を理解している」ものではない事例もあるのではないか、と。あたかも中沢新一や森岡正博などの思想から自閉症という実存在に近づこうとしているドードーとら氏のごとく。
もちろん、これらの認知心理学の研究を一概に否定するつもりはない。ただし、それらの知見は結論ではなく大きな示唆を与えてくれているものと捉えるべきだ、という話である。
仮に、結論的に「文脈を理解する能力」のあるなしが自閉症の定義とされたとしよう。それは、「文脈を理解する能力の障害」に表象されている、その本質を見逃すことにならないだろうか、とわたしは懸念してしまうのだ。
このことは、初めに述べた「自閉症者は「ごっこ遊び」をしない」という要件と同じ構図をしている。確かに「文脈を理解する能力の障害」がテストなどにより見られる主体が、統計的に自閉症者である確率は高いだろう。とはいえ、「文脈を理解する能力の障害」や「ごっこ遊びをしない」という表象が、自閉症の実存在に親近する要件、即ち限りなく本質に親近した要件であると言えるのだろうか? 本質を、仮にでもいいから設置し、そこから派生するものとして、それらの要件(表象)を生じさせている、と考えるべきではないのか。そうすることにより、自閉症に限らない様々な症状の表象の、たとえば優先順位などといった構造化が可能になるのではないか。
「文脈を理解する能力の障害」にしろ「ごっこ遊びをしない」にしろ、対象が示す表象の本質を、たとえトライ&エラーを延々と繰り返すことになろうと、探ることが学問の使命だとわたしは考える。
わたしは、トライとして、自閉症の症状の本質に、SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を仮設しているのである。これならば、少なくとも「自閉症者は「ごっこ遊び」をしない」と「文脈を理解する能力の障害」の二つの表象が矛盾なく説明できる。
とはいえ当然トライにすぎないので、エラーがあれば、それが適切であれば認めるし、エラーがない状態こそわたしがもっとも嫌悪する「教義化」なので、エラーはあった方が個人的にはよい。
本質とは、観察者とサンプル(人である必要はない)の間で共有されるものでなくてはならない。従ってラカン派精神分析などでは、「真理はその主体の数だけある」となる。分析家とクライアントの間で共有された真理は、その時々によって別物となるのだ。
一方認知心理学は、テストなどといった科学的実験手法というルールによって、観察者の主観を排除しているわけだが、本当に排除できているのであろうか? とわたしは疑問に思う。テストの作成時や、テスト結果の解釈に、その色眼鏡は反映されていないと言い切れるのだろうか?
定型発達者にとっての主観とは、その皮膚に癒着した鎧のようなものである。主観を排除することとは劇的な痛みを伴う。確定的な主観が欠損してしまったのが統合失調症である。彼らは統合失調症的な苦痛を感じながら観察しているのであろうか?
とはいえ、現実的に考えるならば、主観がなくては観察できない。この問題は量子力学の不確定性原理と構造が似ている。
個人的に、観察者の主観問題を、その色眼鏡を机上に取り戻し、この仮設される本質への接近の仕切り直しを行える学問は、わたしの管見になるが、今のところ精神分析だけのように思える。
以上の論を短絡的に要約するならば、「ごっこ遊び」をしていた主体であるならば、成人後自閉症的なコミュニケーション能力の障害を示していたとしても、それは自閉症ではなく学習障害を疑うべきではないか、という話である。自閉症の定義に、SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を付加する理屈体系ならば、必然的にそうなってしまう。
とはいえ、これはただ定義の問題であり、たとえば学習障害に自閉症が含まれてもよいし、別物であっても構わない。シニフィアンの恣意性とはそういうものである。また現実では、それらの症状が併発するケースだってあってよかろう。学習障害と自閉症の相違は確定されにくいものという現実は、わたしは否定しない。
しかし、たとえばSAMが形成された学習障害という恣意的な示差が可能ならば、理論面に限らず現場においても、様々な寄与があるように思える。もちろん治療者や関係者側の利点だけではなく、「聞き分けの良い学習障害者」と「それと明らかに異質なアスペルガー症候群者」たちにとっても、彼ら自身の実存在についても、様々な恩恵をもたらすだろう。
当然、悪弊や混乱も生じるであろうことは否定しないが。
学習障害は、その言葉の意味の悪さから、最近はLDと表記されることが多い。ここには関係者たちの「気遣い」が明確に見て取れる。そのこと自体は批判するつもりはない。わたしは個人的にLDと書かれるとライブドアしか連想できないから学習障害と書いているだけである(一応説明しておくと批判はしないが揶揄ぐらいはさせてもらうぜってことだ)。
この「気遣い」は、先に述べた「観察者が宿命的に担う色眼鏡」のもっとも劣化したものである。わたしはよくこれを「精液」などと表現するが、幼児がキチガイのようにその中ではしゃぐ原色のゴムボールプールをパステルカラー化させることだと文芸的に補足して余計に読者を混乱させておく。
この「気遣い」は、この記事で述べているように、まさに「情動の模倣」を本質としている。快楽原則や「心の理論」という想像力の固定観念を生じさせるものである。つまり、「気遣い」こそが「心の理論」の一つの象徴なのである。
逆に言えば、「気遣い」によって、人は「人であること」という契約を取り交わすのである。この「気遣い」は、定型発達的な関係者たちによる、学習障害者を人であらしめようとする権力なのである。わたしは権力という概念について一概に否定しない。この場合に限っての権力は、よいとも悪いとも言わない。これについては揶揄でも批判でもないと言い切れる。権力的な「人であること」という関係を享受するかどうかは、その主体によるし、その主体の自由なのだから。
それにしても、LDと表記しても、調べればすぐ学習障害という意味であることがわかるのに、何故隠すのだろう? とわたしなんかは不思議に思う。ここには関係者たちの、何か神経症的(即ち精神分析的)な、その主体が(精神分析の定理として)否認するであろう真理が隠されているようにすら思える。
気遣いなしで言おう。学習障害を、言葉の響きが悪いから、と言ってLDと表記するその「気遣い」は、神経症的な、強迫症的な症状である。
「学習障害と表記すると、学習障害者たちが差別されるだろう。だからLDと表記すべきだ」
この思考には、その主体のある真理が隠されている。こう言った発言をする主体の中に、「学習障害」という言葉を差別している感情があるのだ。
とはいえ、もちろん「周りがそう表記しているから」そう表記しているだけの場合もあろう。それならばその主体は当然否認しない。何故ならLDと表記しようが学習障害と表記しようが別に構わないと思っているからだ。何故そう表記されるのかについて興味を持っていないはずだからだ。平たく言うなら「周りはそうかもしれないけれど、正直どっちでもいい」となる。
そんな風なこだわりのなさ故のものではなく、なにがしかの思いがあってLDと表記「しなければならない」となっている主体は、先のわたしの文章に、なんらかの否認的感情が惹起されただろう。そのような関係者は、一度己の心を見つめ直してみるとよいかもしれない。
強迫症の症状とは、象徴界に開いた穴の執拗な隠蔽工作である。関係者たちは、「学習障害」という言葉で示される実存在という象徴界の穴を、執拗に隠蔽しているのである。自分自身がその実存在を差別している、あるいは差別してしまいそうなことを、隠蔽しているのだ。「気遣い」という精液的な糊と「LD」というラベルによって。
ここで一応断っておくが、こういった精神分析において典型の理屈は、自閉症者には適用されないことは留意されたい。隠蔽できないのが自閉症という症状であるからだ。隠蔽とはラカン論においては隠喩(構造)となる。「文脈を理解する能力の障害」について、斎藤のベイトソン論の応用を結びつけたならば、学習2により啓かれる次段階、学習3は比喩表現の学習にも相当する。要するに文脈を読むことを学んで初めて比喩を学べるのである。機械的に辻褄が合ってしまう。また、自閉症は「自閉」ではなく「自開」だとする言説にも符号するだろう。むしろ、隠蔽してしまうのが神経症即ち「定型発達という精神障害」なのである。
それはともかく、先述の自閉症と学習障害の示差を採用した上で、これらの関係者の言動を強迫症的な症状だと解釈したならば、ある一つの仮説が浮かび上がる。
土鍋ごはんさんにしろ、かのコメント者にしろ、「学習障害」という言葉に纏わりつく差別的情動を強迫的に隠蔽するために、一部の学派ではそれと相当するとまでされている自閉症スペクトラムを当てはめられたのではないか?
学習障害と自閉症を相似させる考えは、意外と広く見受けられるように思う。自閉症研究の権威である杉山登志郎などはこれに近い立場を取っている。ここから引用する。
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代表は、学習障害(LD)と高機能広汎性発達障害との異同に関する問題であるが、自分の中では、これは既に決着済みと勝手に考えている。非言語性学習障害の診断は、発達性協調運動障害以外は、ほぼ全て広汎性発達障害(高機能に限らない!)、学習障害の診断の相当数も広汎性発達障害の児童である。
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補足しておくと、広汎性発達障害とは、言葉の定義だけ考えれば、一部を除いてほぼ自閉症を示している。一般では誤解が多いがたとえばここにADD、ADHDなどは含まれない。少なくともこのテクストに限れば、その後アスペルガー症候群関連の話になっているので、杉山は「広汎性発達障害とはほぼ自閉症を示す」と考えていることは明らかだろう。これは定義の問題にすぎないので、このことにはわたしは反論しない。
しかし、SAMの欠陥の代表症状である自閉症を、SAMの欠陥のない症状と混同させる彼の態度、ひいては現代医学の風潮に、わたしは強い懸念を覚える。そもそも現代の自閉症研究のトレンド(笑)では、バロン=コーエンの説は、たとえば「SAMなど科学的に説明し切れない。妄想の概念である」などという理由で軽視されがちである。物性物理を専攻し科学哲学も学んだわたしから言えば、そんなことを言える奴の「科学的なるもの」こそが妄想である、となるが。
わたしは、SAMとラカン論のファルスは、短絡的に等しいものとは言えないが、非常に似た概念だと考えている。
この、「自閉症の本質問題たるSAMの軽視」とでも呼べる風潮に、精緻な理屈で対抗するには、ラカン論がもっとも有効であろう。先の斎藤の論文の論旨も、自閉症においてファルスがどう不具合を起こしているのか(それを探るためにシニフィアンではなく、精神分析理論の弱点とも呼べる領域である知覚変容からの視点を取っている)、というものである。
ラカニアンたちは、この「自閉症の本質問題たるSAMの軽視」の風潮に対抗しなければならない。何故ならこれは、お前たちのファルス信仰を、臨床現場から脅かすものだからだ。もしこの風潮が蔓延すれば、さらにラカン論は臨床から遠ざかっていくだろう。ジジェクがやっているように哲学や社会学や芸術評論のおもちゃになっていくだろう。いや、既に蔓延しているからそうなっているのだ、とすらわたしには思える。
定型発達者(去勢済みの主体)にしろ非定型発達者(未去勢な主体)にしろ、それらを区切るファルスを掘り当てるのが精神分析という学の使命の一つではないのか。「分析家のディスクール」とはそういうものではなかったか。
ラカニアンたちは、自らのファルス信仰を自覚し、それについてもっと敏感でなければならない。でなければラカニアンを名乗る資格はない。
ついでなので先の杉山のテクストを逆精神分析したならば、彼はパラノイアを疑ってみた方がいいかもしれない。
彼は、自分が自閉症と認めるニキリンコ氏やペンギン氏を攻撃する主体について、嫌悪感を感じている。それは感情移入、精神分析的に言えば転移である。彼は攻撃されたニキリンコ氏やペンギン氏に同情している。想像的同一化している。
この想像的同一化に基づいて、彼は攻撃する主体(ここでは山岸氏となるらしい。わたしは事実関係を確認していないので断言はできない)を「偽アスペ」だと断じている。これらの文脈を定型的に要約したならば(少なくとも彼はSAMが機能している定型発達者であろう)、彼のこんな無意識が浮かび上がってくる。
「私は私が気に入らない人間は、自閉症と認めない」
……これは医学に携わる者の態度としていかがなものだろうか?
もちろん学徒が感情に左右されることをわたしは否定しない。しかし感情と理屈は、パトスとロゴスは分離されていなければならない。とはいえロゴスの世界を突き進む原動力は、パトスの領域にあるものである。学問を含めた「人なるもの」同士の関係においては、パトスとロゴスはミルフィーユのように重なり合っている。わたしはむしろ現代の学徒たちはもっと感情的であれ、とすら思っている。社会学の羽入-折原論争など、わたしは内容はさっぱりだが、彼らの熱のこもった応酬は、社会学の発展になんらかの寄与があるだろうと思っている。精神分析的な予測として。
しかし彼は、攻撃する主体を「偽アスペ」とする自分の判断に疑いを挟んでいない。その攻撃する主体を観察分析する手順が、(少なくともこのテクストから)完全に抜け落ちていることに言及すらしていない。もし観察分析していたとしても、山岸氏が指摘している通り、テクストによる診断に異を唱える論旨になっているが(学問的にはラカン派精神分析やクリステヴァ的テクスト分析に依拠する立場のわたしは反論するべきだが、ここでは置いておく)、自分がテクストだけで診断をくだしてしまうことになる。これは医師として、学徒としていかがなものか。自分が医師という立場をもってそうしていることに気づいているのだろうか、とさえ思える。
ここにははっきりとパラノイアの妄想の典型構造が見て取れる。想像的同一化(感情移入)というファルスに依拠したシニフィアン連鎖構造(思考様式)をもってして、「攻撃している主体もアスペかもしれない可能性」という現実を否認している。彼にとって自閉症という言葉がまさに「後付けのファルス」になっている。彼は、宗教者にとっての神のごとく「自閉症という概念」を信仰している。この態度は彼の様々なテクストの端々に読み取れる。わたしは確認していないが、「自閉症とは人間の進化型である」などとも述べたことがあるようだ。
気の毒に、と思う。一度心理カウンセリングなどではなく本物の精神分析を受けてみたらいかがか、と本気で思う。揶揄などではなく。同じ学徒として、心配して言っている。
山岸氏にしろ、記事下に挙げられたテクストの筆者森口奈緒美氏にしろ、やはりこの多義的な即ち感情論的な文脈が読めないらしく、定型発達者は簡単に見抜けるこの傲慢でファロセントリックでパラノイアックな精神構造を見抜けないでいる。逆に多くの定型発達者は、感覚的に見抜けていても理屈にできないことが多いようだが。特に女性は。
所詮定型発達者が縛られている「心の理論」など(曖昧なものではなるが)有限的なものである。それを理屈で表現しようが比喩で表現しようが何が違うのだろう、と最近常々思っている。理屈にも比喩にもメリットデメリットはある。理屈も比喩も、統合も拡散も、道具にすぎない。
彼は、この限られたテクストだけで判断したならば、少なくともパラノイアックなボーダーであろう。逆に言えばこのことは、ラカン論では「人格とはパラノイアである」のだから、彼は人格者(笑)ということになるが。
先の「学習障害をLDと表記したがる精神構造は強迫症のそれである」という論と合流させるなら、ここには同じ構造が見て取れる。即ち、学習障害をLDと表記したがる関係者にしろ、学習障害を自閉症と同じものと見たがる杉山にしろ、自らのファルスを隠蔽しようとして、自閉症のファルスの不具合を認めたがらない、否認している、という構造である。
これらの論を妄想だと一蹴されても構わない。そもそも精神分析など、認知心理学系の論者などに言わせれば「妄想の学だ」となるわけで、であるならばわたしのやっていることは非常に精神分析的な行為だということになるからだ。それ以前に、関係者あるいは杉山がわたしのこの論に反論してきたら、少なくとも精神分析を学ぶ者は、「否認することほどその主体を真理を示している」という定理を思い起こすだろう。ネタバレしてしまったのでしてこないと予測できるが。わたしは少なくともこの議論については学問の領域で語りたいため、自分勝手にネタバレしておく。
これらの妄想を仮に採用した場合、先の土鍋ごはんさんやかのコメント者は、「人であること」という権力の被害者であるかもしれない構図が浮かび上がる。
自閉症者には、定型発達者が無自覚的に共有できている「人であること」の真理が欠けている。この真理によって形成される「人であること」という観念は、妄想的な固定観念にすぎない。定型発達者たちはこのことを否認するだろう。自分の「人であること」という信念が危機に晒されるからだ。この否認の一つとして、SAMがある学習障害者とSAMに欠陥のある自閉症の混同が行われているのではないか。土鍋ごはんさんやかのコメント者は、関係者の「人であること」という妄想の防衛のために、その症状を利用されたのではないか。SAMに欠陥のない学習障害者を自閉症と診断することにより、自閉症だって「人間なんだ」(この場合のそれは「定型発達者の固定観念たる「人であること」という妄想は自閉症にも適用可能な現実的普遍的な真理だったのだ」という意味になる)という信念の強化に利用したのではないか。関係者たちは、無意識的にそのような誤謬に陥ってはいないだろうか。
この際、精神医学はラカン論的な「神経症スペクトラム」でも仮設し、自閉症の症状と対比させるなりして、自分たちの無意識を見つめ直してみたらどうだろうか? わたしから見れば定型発達者(神経症者即ち正常人)こそが精神障害者なのだから。
とっても妄想的な解釈だと自認するが、わたしにはこの説明が何故かとても辻褄が合ってしまう。
わたしは、想像的なものにしろ象徴的なものにしろ、社会における力動は、大体茶番劇に見えてしまう。従って、このような茶番劇的な物語的な構造を当てはめてしまう。
ごめんね。元演劇オタだし。っていうか常にこんな目線で物語に接してたらそりゃー物語恐怖症にもなるわな。まあ「ハイウェイ」的な解釈だと思ってくれい。ラカニアンにしかわからない言い方だろうけど。
戦車って意外と速いのねー(いえこっちの話)。
正直、わたしは精神分析理論は自閉症の主体を解釈するのにあまり役に立たないと考えている。わたしが関係者の立場だったら、認知心理学や脳科学に期待を寄せるだろう。
では何故こんなことをやっているかと言うと、実はわたしは自閉症の解釈をしているようで、自閉症に関わる定型発達者たちの心を切り裂いているのだ。自閉症の解釈については、知識の羅列にすぎない。その羅列構造に、特に乳児期の精神分析論が有効であるのは本気でそう考えてはいるが。
自閉症の心は、固定観念に縛られていないものである。無限に広がる空間のようなものである。もちろん一人一人の自閉症者の心が、というわけではない。一人一人のそれは、「心の理論」という道路地図の粗密が激しい、という表現になろう。一方、「心の理論」がある定型発達者の道路地図は、ラカンの言葉なら「ハイウェイ」などと表現されよう。これはまさにここのコメント者の「読んで意味がわからないのにイチャモンつけているとは推測できる」症状が好例となる。彼女はハイウェイを走行している故、「読んで意味がわからないのに」シニフィアン連鎖を滑走させ「イチャモンつけている」という結論が出せるのだ。こんな短文でも精神分析的視点を取ればその主体の実存在は浮き彫りになる。またあるいは、『自閉症の謎を解き明かす』(p282)に示されたルーシーという定型発達者の仮想症例も参考になるだろう。これらの症例を読んでもらえば、ある感性を持った人間から見ると、「気遣い」の本質契機たる「心の理論」なるものは、美しく優しい肯定的なものなどでは全くなく、おぞましい権力的なものであることがわかってくれるだろうか。これらの対人関係に言えることは、定型発達者が自身の心を短絡化するあまり、(定型非定型問わない)他人の心まで短絡化しているのが明確に見て取れる、ということだ。これこそが、ドナが抱いた「愛や主体化への恐れ」なのである。
一方、「心の理論」という固定観念を持たない自閉症者たちは、ハイウェイを走れない。そのような思考の短絡化とも呼べる能力が欠けている。道路の粗密が激しいから短絡化できない。確かに「語れる自閉症者」であるアスペルガー症候群者などは、定型発達者と比較すれば距離は短く一本道となろうが、短絡化が可能なハイウェイが走っている箇所がある。一方、高速で走れない獣道のような箇所もある。全体として見れば入り組んだ森の迷路のようである。彼らは心を力動させるたび、木の枝に引っかかったり獣に追われたりして、傷だらけとなる。
このような自閉症という言葉で括られる様々な道路地図を総合したそれは、道路などあってないようなものとなる。そこには道路に固縛されない無限の空間がある。ドゥルーズ=ガタリの言う脱領土化した空間である。いささか称揚しすぎな文面となっているが、一人一人の粗密の激しさにはなんらかの定型はないと考えた方が、誤謬は少なく済むと予測するため、このような表現となる。
そういう意味では、「自閉症(という総体)には(領土化された)心がない」と言ってもよかろう。ただし、ここにはラカンの「女性(という概念)は(無限領域として)存在しない」という言葉と同じレトリックがあることを踏まえなければならない。
であるならば、自閉症者の心を記述するならば、定型発達者の心を、「心の理論」という有限空間を対比させなければ、意味は通らない。無限の空間は、無限義のシニフィアンでしか記述できないからだ。それは無意味と等値である。
自閉症者の心の記述を、意味のあるものにしたければ、定型発達者の心の、関係者たちの己の心を対比させなければ、机上に載せなければならない。無意味化を避けるには、色眼鏡は存在しなくてはならない。ただ、その存在を隠蔽させてはならない。
この対比からは、恐らくクリステヴァのアブジェクシオン論における「棄却の構造」が立ち現れるだろう。関係者たちにとっては、認めたくない(まさに神経症的に否認するであろう)構造が。
自閉症は器質因と考えられている。わたしはアスペルガー症候群に限っては、器質因と心因の中間領域として設置された内因性である、という立場を取っている。器質因と内因の違いについては、先の斎藤の論文で非常に簡潔にまとめられているので、引用しておく。
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脳そのものに物理的な異常を来す器質性精神病と、そのような物理的病因をいまだに特定できない分裂病などの内因性精神病の相違点を中井久夫氏が適切に指摘している(シンポジウム「精神医学と生物科学のクロストーク」での発言から)。氏によれば、前者の異常は、粗大な脳の変化から粗大な症状が発現するものである。後者については、微細な現象から大きな変化が生じているのであるという。
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つまり、脳波検査などで明らかにその病理と判断できる「粗大な脳の変化」を伴うのが器質因であり、脳の「微細な現象」の異常から、なんらかの要因により(それこそ環境因を含めてもよいだろう)大きな視覚的症状が生じるのが内因である、ということだ。
逆に言えば、現在の脳科学で病理と特定できない精神障害は、全て内因の領域に放り込まれるわけである。であるならば、アスペルガー型はもちろんだが、カナー型でさえ、脳科学的に病理と明確に判断できる「粗大な脳の変化」は、現代では特定されていない(もちろんここで示したミラーニューロン説など様々な論は存在する)。従って理屈だけで考えれば内因となる。にも関わらず器質因だと言われているのは、脳科学の知見からではなく、その臨床から、先天性のものだろうと判断され、実験などにより証明されてきたからである。繰り返しになるが、わたしはカナー型についてはこの判断に異は唱えないし、恐らく症状と関連する「粗大な脳の変化」が発見されるだろうと思っている。
科学が発展すれば、「脳の微細な異常現象」がことごとく解明され、内因とされる領域は狭まっていくだろう。カナー型アスペルガー型問わず自閉症の器質因としての病理が判明する日が来るかもしれない。
しかしわたしは、内因の領域は決してなくなることはないと考える。これは、わたしの動物的と言ってもいい直観の話であるので、無視してもらって構わない。
学習障害も確かに器質因性あるいは内因性のものだろう。しかし、同じ器質因的なものだと言って、それらを同じものと考えるのは短絡すぎやしないだろうか。
器質因あるいは内因をもって、SAMあるいはファルスといった機能の障害が見られるのが自閉症である。器質因あるいは内因によって引き起こされる様々な障害の一つとして、SAMあるいはファルスの不具合がある。そこから生じる「大きな変化」のさらに一つが、自閉症という症状なのである。
ラカニアンが信仰するファルスなど、ただの物体としての人間が持つ、ある一つの機能にすぎない、とわたしは考える。
しかし、「精神分析理論は自閉症の主体を解釈するのにあまり役に立たないと考えている。」などと述べたが、少なくとも『自閉症の謎を解き明かす』に書かれた内容は、半分程度は精神分析理論で翻訳できる。ちょうど冒頭で「ごっこ遊び」についての重要性をスターン論に依拠して論じたように。であるならば、自閉症の病理は、やはり心因あるいは環境因的なものが大きく関与しているのではないか、とすら思える。とはいえこの環境因は、他の環境因性の神経症などと比べ、はるかに広大で普遍的な領域を視野にいれた環境によるものである。それこそ様々な宗教が模索してきた「獣と人間の差異」で言うところの、「獣ではない人間」そのものである環境。前掲書は世界中で発見される「野生児」について論じ、そこから自閉症との繋がりを論じているが、その中に「過酷な社会的剥奪」という言葉がある。もちろんその論旨は、野生児であれども、自閉症と思われるケースとそうでないケースがある、としていることを確認しておかなければならないが、この「過酷な社会的剥奪」という言葉の背後に、なにかしら文芸的な大きな意味を感じるのは、わたしだけだろうか。
――それはともかく、半分は精神分析理論で翻訳できるとして、後の半分は著者ウタ・フリスの分析になるだろう。やっぱりその「語る主体」を論じなければ精神分析という理屈は成り立たない。ざっと脳内翻訳してみてしみじみそう思えた。
ってゆっかさー、こういう論文的な(後半はアウトだが)文章書いていると何故かパラノイアックな定型発達的なわたしになっちゃうんだけど、それに基づいて愚痴らせてもらうならさー、この記事とか結構ドキドキしながら(充実身体をのた打ち回らせながら)書いたんだけど拍手0ってどーゆーこと? いやまあこういう系の記事人気ないのは拍手傾向からでも読み取れてはいるんだけど、そういった全体的な傾向を含めての愚痴。やっぱこのブログの読者ってわたしの知識目当てなわけ? いや別にいいんだけどさ。愚痴っていうかこれは疑問。
そういう傾向に迎合したい自分と反発したい自分がケンカして困るのよマジデ。とか言ってなんらかのコメントくれたとしてもやりたいようにしかやらないんだけどさ。だからコメントいらないよ。この愚痴については。
お、ちょっと「ヒステリー者のディスクール」っぽい? 全然だめ?
っていうかもういいや、本気でもうイヤになった。自閉症とは手を切ろう。とか言うと飲茶あたりに「脂さんの「飽きた」は信用できない」とか言われるんだろうけど。
最近のわたしは宗教づいている。特定の宗教ではない。なんらかの神なるものを考えてしまう。わたしは、二階堂奥歯の自殺について「恍惚の死」と述べた。文脈からそれは読み取れる。マゾヒスティックな修道女たちに憧れていたように、彼女の死とは、文字通り神に抱かれることだった。
実感を伴って、それがわかる。
わたしは恍惚の死を求めている。
一方、わたしは幻想の世界にしがみついている。「定型発達という精神障害」の本質、生の欲動に従っている。
この文章は、象徴界想像界問わず、わたしの爪立てだ。
ふしゃあああっ。
一概にそうとは言い切れない。確かに幼児期に「ごっこ遊び」をしてた主体でも、自閉症であることはあろう。であるならば、「自閉症者は幼児期に「統計的に」「ごっこ遊び」をしないことが多い」という現象の本質を探るべきである。
結論から先に言えば、これはこの記事で述べた、まさに「間主観的自己感の形成期における情動の模倣の不具合」によるものと考えられる。
「情動の模倣」とは、表情など以外の身体的なものを含む動作の模倣を示すと考えてよい。であるならば、これが「ごっこ遊び」の本質たる「人間ごっこ」とでも言えるべきものであることがわかるだろう。生後二年以内に乳児が行う「人間ごっこ」こそが、間主観的自己感の形成期に乳児が学ぶ「情動の模倣」なのだ。
注意しておきたいのは、「情動の模倣」たる「人間ごっこ」と、「ごっこ遊び」という言葉が示すものは、全く別物である、ということである。それらの関係は(解釈するわたしたちにとって)象徴的に繋がっているという話であり、生後二年以内に「情動の模倣」的な行動が見えなくても、内部でそれが行われていることもあろう。クラインも乳児分析において似たようなことを指摘している。要するに、見た目「だけ」ではわからない、ということだ。事実、一歳までの新生児について、その見た目から、自閉症のような行動パターンが見て取れたとしても、その子らが成長後自閉症になるとは言えない、ということは臨床統計的に示されている。自閉症は器質因的な先天性のものと考えられているにも関わらず、「見た目」では早期の診断はできない、という事実。これらのことから、その内部を解釈する精神分析、特にクライン論やクリステヴァ論やそれこそスターン論のような、言語を獲得する以前の乳児についての精神分析論が有効な突破口になるとわたしは考える。
とはいえ、内部を解釈すると言っても、それは見た目によらなければならない。そもそもこの矛盾は、精神分析が妄想の学だとされる所以である。
赤ん坊や自閉症者に内部、即ち心はあるのか、という哲学的な領域まで発展しそうな問いが、自閉症研究に大きく立ちはだかっている。
話がそれた。先に進めよう。
ここまでの論を要約するならば、間主観的自己感の形成期に近い時期の幼児(たとえば五歳くらいまで)の行う「ごっこ遊び」は、「情動の模倣」たる「人間ごっこ」の反復あるいは回帰であり、「ごっこ遊び」を「する/しない」が間主観的自己感の形成の不具合を統計的に測るベンチマークとなることが精神分析理論からも説明できるということを示したわけだ。
精神分析的にはこういう説明でもよかろう。「ごっこ遊び」とは「情動の模倣」の象徴的概念である、と。「生死の模倣」の象徴としての「フォルト・ダー遊び」のごとく。
pikarrr氏などは現在、哲学あるいは社会学の側面から「身体知」という概念を思考しているが、この「知」の形成を臨床的側面から考えるならば、定型発達者は経験し自閉症者は経験しない「ごっこ遊び」が重要になるだろう。たとえば、定型発達者は「ごっこ遊び」によって「身体知」を学習する、などという風に。
学習障害について、自閉症スペクトラムとの相違のあるなしがよく問題となる。
しかし、学習障害にも様々な考え方がある。学習障害とは「読む」「書く」「計算する」「聞く」「話す」「推論する」能力に障害があるものだが、後半の「聞く」「話す」「推論する」能力を含めない定義もある。日本の文部省の定義は後半の障害を含める定義となっている。
ラカニアンの読者はこれだけでピンとくるかもしれないが、前半の「読む」「書く」「計算する」などと言った能力は、言語的あるいは記号的な、象徴界的なものであり、後半の「聞く」「話す」「推論する」などと言った能力は、イメージ的あるいは体感的な、想像界的なものであることが明らかである。
大雑把な考えになるが、ここで山岸氏が「自閉症者は他人の心を想像する能力が欠けている」としているように、自閉症とは想像界的な能力の障害と考えられる。であるならば、後半の想像界的な能力の障害を含める学習障害には、自閉症は含まれると考えることができる。
しかし一方、前半の象徴界的な能力の障害に限定した定義ならば、自閉症と学習障害は、想像界の障害と象徴界の障害と違いという意味で、全く別物となってしまう。
未だ現場にも残っている自閉症と学習障害という症状の混乱は、こんなところにあるように思える。
とはいえ、前半の象徴界的な能力の障害が自閉症者に全く見られない、などと言うつもりはない。象徴界的な能力の障害が自閉症と合併することはよく知られている。
たとえば、わたしの知り合いのアスペルガー症候群者は、確かに理数系の成績がよくコンピュータープログラミング技術に長けているのだが、ある時、小説に関する議論を振り返ってこんなことをぼやいた。
「周りの人たちは概念で物事を考えている。私はイメージで物事を考えるから、話が通じない」
わたしはそれに対し、「むしろそれはお前が概念化できないということだ」などと言ってしまったのだが、これについての批判は認める。彼と会話(議論ではなく相談のようなもの)していて彼の体調を崩させたのは一度ではない。
こういった臨床を考えるに、自閉症を単純に「想像力の障害」と考えるのはおかしいのである。
彼らに想像力はある。事実、先述の山岸氏などは設計の仕事をしている。わたしも建築設計をやっていたからわかるが、それはイメージ化能力が長けていないとできない仕事である。技術営業もやっていたが、図面の説明をするのに、こっちがいらいらするほど図面をイメージ化できない人間(恐らく定型発達者)が多数いた。政治家や営業畑の人間や女性にこういう人間は多いように思う。わたしの実体験をもってそう言える。
また、自閉症者に絵画的あるいは音楽的才能が見られるのは、よく論じられていることである。
一方、象徴界的な能力の障害であるとする論もある。斎藤環などは、ベイトソンの学習理論を応用し、自閉症者は学習理論で言うところの学習2の段階に不具合があり、それは言語的側面で言えば(多義的な)文脈の学習に相当するものだ、としている。従って、「話せる自閉症者」たるアスペルガー症候群者たちは、「(多義的な)文脈が読めない」即ち「空気が読めない」となるわけだ。
このことは先述の「イメージで物事を考え概念化できない」彼にも当てはまろう。議論のテーマが小説であることからも、そこで語られる概念は多義的なものが多くなろう。彼は、そのイメージを多義的な表現(比喩を駆使したものと考えてよい)で自分が述べられないことを、あるいは相手が述べる多義的な概念を理解できないことをぼやいた、と解釈できる。
では、自閉症の障害は想像界と象徴界、どちらにあるのだ? と思われるかもしれない。
実は、想像界や象徴界という区別は関係ないのだ。この区別に囚われている限り、その症状の本質は解釈できない。想像界や象徴界という概念は、自閉症の本質の解釈においては、あくまで一つの切り口にすぎない。
ここで、バロン=コーエンによるSAMという概念が重要となる。
定型発達者たちは、生後二年以内に、このSAMを形成し、それを基に「心の理論」を形成する。自閉症者たちはこのSAMの形成に不具合があるから、「心の理論」について障害がある、となる。
この論を採用するならば、むしろ自閉症の障害はこう表現されるべきだろう。
人間が生来持っている想像力を、たとえば「心の理論」なるもので、対人関係を重視させるように固定化したのが、定型発達者の考える想像力なのであり、精神医学で考えられている「正常な想像力」なのである。故に、自閉症の「想像力の障害」なるものを厳密に言うならば、「想像力を対人関係に関するものに固定観念化させることについての障害」である、となる。
たとえば「アスペルガー症候群者は空気が読めない」という統計的に多いと考えられる現象について、ここで言う「空気」とは対人関係における雰囲気であり、この理屈に合致することがわかる。
とはいえ、対人関係に障害があれば全て自閉症だ、というわけではない。対人関係を定型的に築き上げることができるための原則の学習が欠如しているのが自閉症である。対人関係を築き上げる基礎を知っていても、なんらかの原因でそれがうまく機能しないこともあろう。基礎は学んでいてもそれを応用する能力が貧弱であった場合、対人関係そのものが心的外傷になることもあろう。ネットワーク社会である現代は、いたるところで対人関係が生じてしまう。そのような心的外傷はいたるところで生じていると考えられる。これが定型発達者が罹患する対人恐怖症などである。山岸氏もここで自閉症と(定型発達的な)対人障害との区別を強調している。わたしの論ならば、「本来のスキゾイド型ひきこもりと社会型ひきこもりの差異」などと符号するだろう。
要するに、自閉症と正常人の差異とは、対人関係の基礎(原則あるいは固定観念)を生後二年以内に学んでいるかいないかの差異であって、対人恐怖症的症状とはなんら無関係と考える方が、誤謬は少なく済むだろう、という話である。何故なら、当然の如く定型発達者が罹患する対人恐怖症の症例数の方が圧倒的に多いため、これらを関連づけてしまうと、その関連づけた主体の「心の理論」により、多数決的に定型発達者が罹患する対人恐怖症がその思考に強く影響してしまうからである。自閉症の対人障害は、統計的な誤差として、その思考から棄却されるだろう。それが「心の理論」なのである。微細な差異を棄却して、妄想的な統合性を構築するのが、ファルスなのである。
補足するならば、他記事の繰り返しになるが、このSAMはラカン論で言うところの、(神経症者たちは)生後十八ヶ月以内に経験する鏡像段階により生じるファルスに相当するだろう。従って、自閉症者はファルスが壊れている、となり、自我や超自我はこのファルスによって形成されるものであるので、自閉症者の自我や超自我は壊れている、となる。
とはいえ、壊れながらも、自我や超自我「のようなもの」を形成していくだろう。特にカナー型より社会適応が可能なアスペルガー症候群者たちは。これが、山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」である。ラカン論ならば、わたしは未だ詳細は説明できないが、憶測を許されるならば、それは「工夫そのもの」であるサントームと関連するものだろう、と考える。彼らだって生きている。その生きるやり方が、「心の理論」に縛られていないのである。縛られていない故、特に生き方を固定化する社会なるものの中を生きていくためには、膨大な工夫の積み重ねが必要となる。その積み重ねは無意識領野でも意識領野でも蓄積されていくだろう。要するに、定型発達者たちは、人と関係するために、人の集合体である社会を生きていくわけだが、自閉症者たちは、単に生きるために、膨大な工夫を凝らして、社会を生きている。この膨大な工夫を、ここのコメント者は「エクセルに入力した計算式」と表現しているのだ。
一方、生後二年以内にSAMあるいはファルスという統合性(即ち固定化)を学習した主体は、それについて盲目となるだろう。無意識化するのである。何故なら去勢(鏡像段階)とは、それまでの世界を、自分を殺害することだからである。定型発達者にとって、SAMやファルスは、大きな心的外傷なのだ。正常人という共通項を共通たらしめるトラウマなのだ。正常人たちは、トラウマを共通性として、他人を正常人と認め自分が正常人と認められるのである。「心の理論」なりといった統合性あるいは固定観念をあるいはただの妄想を、「人が人であるための真理」として、共有できるのである。それが、ラカン論における「人格とはパラノイアである」という言葉が示す事実である。
SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を導入することによって、初めて学習障害と自閉症(という概念)が示差される、という話である。
しかしもちろんこれはわたしの論にすぎない。学問なるものは「真」に基づくものではあるが、「人が人であること」の真理こそがSAMや間主観的自己感やファルスそのものである。現代の精神医学の「人間らしく生きられるようになることが治療である」という教義から考えて、間違った論とされるだろう。自閉症者が自閉症者らしく生きることは、決して(定型発達者が考える)人間らしく生きることとはならないからだ。SAMや間主観的自己感やファルスに不具合がある人間など存在しない、何故ならそれは人ではないから、という思考構造により、わたしの論は棄却されるだろう。
SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を導入しない限り、現代の精神医学では、学習障害と自閉症の区別は、「同じものである」「いや別物である」といういたちごっこを続けるだけとわたしは予測する。
また山岸氏の論になってしまうが、彼は自閉症と「聞き分けの良い知恵遅れの子」の違いを述べている。あくまで正確なものではない、喩え話のようなものであるとして説明するならば、従来のカナー型より知能が高い(知的障害がない)のがアスペルガー症候群であるならば、「聞き分けの良い知恵遅れの子」より知能が高い(知的障害がない)主体も存在するだろう。それが、SAMや間主観的自己感やファルスに不具合がない学習障害、即ち自閉症ではない学習障害を、比喩的に示している、と言えよう。
この示差と比喩が許されるのならば、この記事やこの記事の繰り返しになるが、土鍋ごはんさんやかのコメント者は、それらをクリステヴァ的テクスト分析をした限りでは、「聞き分けの良い学習障害者」であろう、という結論にどうしても行き着いてしまう。乱暴な推論だと自覚しながら言うが、この二人は幼児期に「ごっこ遊び」をしていたのではないか、とわたしには思える。
余談ではあるが、この「自閉症と「聞き分けの良い知恵遅れの子」の違い」は、認知心理学の知見でも明らかとなっている。ウタ・フリス著『自閉症の謎を解き明かす』によれば、精神年齢を他のテストで測定し、自閉症者、精神遅滞(知的障害)者、それらより年少の健常者の三タイプを、精神年齢を揃えてサンプル化し、テストした結果、自閉症の特徴が鮮明に表れた、とある。
この特徴を彼女は「文脈を理解する能力の障害」としている。それは斎藤の論を引用し先述したように、わたしも論拠としている要件である。
ではあるが、と疑問が残る。
たとえば、文脈は理解しているが、学習障害的な要因などにより、文脈理解をテスト結果で示すことができない事例もあるのではないか、と。あたかも自閉症的な対人障害がない即ち本質的なコミュニケーション能力に支障はないが、なんらかの心因によりコミュニケーションを否認する(ポスト・フェストゥム的な)対人(赤面)恐怖症のごとく。また逆に、文脈は理解できているようなテスト結果を示しているのにも関わらず、それはその賛嘆すべき脳内エクセルによってのものであり、定型発達的な「文脈を理解している」ものではない事例もあるのではないか、と。あたかも中沢新一や森岡正博などの思想から自閉症という実存在に近づこうとしているドードーとら氏のごとく。
もちろん、これらの認知心理学の研究を一概に否定するつもりはない。ただし、それらの知見は結論ではなく大きな示唆を与えてくれているものと捉えるべきだ、という話である。
仮に、結論的に「文脈を理解する能力」のあるなしが自閉症の定義とされたとしよう。それは、「文脈を理解する能力の障害」に表象されている、その本質を見逃すことにならないだろうか、とわたしは懸念してしまうのだ。
このことは、初めに述べた「自閉症者は「ごっこ遊び」をしない」という要件と同じ構図をしている。確かに「文脈を理解する能力の障害」がテストなどにより見られる主体が、統計的に自閉症者である確率は高いだろう。とはいえ、「文脈を理解する能力の障害」や「ごっこ遊びをしない」という表象が、自閉症の実存在に親近する要件、即ち限りなく本質に親近した要件であると言えるのだろうか? 本質を、仮にでもいいから設置し、そこから派生するものとして、それらの要件(表象)を生じさせている、と考えるべきではないのか。そうすることにより、自閉症に限らない様々な症状の表象の、たとえば優先順位などといった構造化が可能になるのではないか。
「文脈を理解する能力の障害」にしろ「ごっこ遊びをしない」にしろ、対象が示す表象の本質を、たとえトライ&エラーを延々と繰り返すことになろうと、探ることが学問の使命だとわたしは考える。
わたしは、トライとして、自閉症の症状の本質に、SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を仮設しているのである。これならば、少なくとも「自閉症者は「ごっこ遊び」をしない」と「文脈を理解する能力の障害」の二つの表象が矛盾なく説明できる。
とはいえ当然トライにすぎないので、エラーがあれば、それが適切であれば認めるし、エラーがない状態こそわたしがもっとも嫌悪する「教義化」なので、エラーはあった方が個人的にはよい。
本質とは、観察者とサンプル(人である必要はない)の間で共有されるものでなくてはならない。従ってラカン派精神分析などでは、「真理はその主体の数だけある」となる。分析家とクライアントの間で共有された真理は、その時々によって別物となるのだ。
一方認知心理学は、テストなどといった科学的実験手法というルールによって、観察者の主観を排除しているわけだが、本当に排除できているのであろうか? とわたしは疑問に思う。テストの作成時や、テスト結果の解釈に、その色眼鏡は反映されていないと言い切れるのだろうか?
定型発達者にとっての主観とは、その皮膚に癒着した鎧のようなものである。主観を排除することとは劇的な痛みを伴う。確定的な主観が欠損してしまったのが統合失調症である。彼らは統合失調症的な苦痛を感じながら観察しているのであろうか?
とはいえ、現実的に考えるならば、主観がなくては観察できない。この問題は量子力学の不確定性原理と構造が似ている。
個人的に、観察者の主観問題を、その色眼鏡を机上に取り戻し、この仮設される本質への接近の仕切り直しを行える学問は、わたしの管見になるが、今のところ精神分析だけのように思える。
以上の論を短絡的に要約するならば、「ごっこ遊び」をしていた主体であるならば、成人後自閉症的なコミュニケーション能力の障害を示していたとしても、それは自閉症ではなく学習障害を疑うべきではないか、という話である。自閉症の定義に、SAMあるいは間主観的自己感あるいはファルスという概念を付加する理屈体系ならば、必然的にそうなってしまう。
とはいえ、これはただ定義の問題であり、たとえば学習障害に自閉症が含まれてもよいし、別物であっても構わない。シニフィアンの恣意性とはそういうものである。また現実では、それらの症状が併発するケースだってあってよかろう。学習障害と自閉症の相違は確定されにくいものという現実は、わたしは否定しない。
しかし、たとえばSAMが形成された学習障害という恣意的な示差が可能ならば、理論面に限らず現場においても、様々な寄与があるように思える。もちろん治療者や関係者側の利点だけではなく、「聞き分けの良い学習障害者」と「それと明らかに異質なアスペルガー症候群者」たちにとっても、彼ら自身の実存在についても、様々な恩恵をもたらすだろう。
当然、悪弊や混乱も生じるであろうことは否定しないが。
学習障害は、その言葉の意味の悪さから、最近はLDと表記されることが多い。ここには関係者たちの「気遣い」が明確に見て取れる。そのこと自体は批判するつもりはない。わたしは個人的にLDと書かれるとライブドアしか連想できないから学習障害と書いているだけである(一応説明しておくと批判はしないが揶揄ぐらいはさせてもらうぜってことだ)。
この「気遣い」は、先に述べた「観察者が宿命的に担う色眼鏡」のもっとも劣化したものである。わたしはよくこれを「精液」などと表現するが、幼児がキチガイのようにその中ではしゃぐ原色のゴムボールプールをパステルカラー化させることだと文芸的に補足して余計に読者を混乱させておく。
この「気遣い」は、この記事で述べているように、まさに「情動の模倣」を本質としている。快楽原則や「心の理論」という想像力の固定観念を生じさせるものである。つまり、「気遣い」こそが「心の理論」の一つの象徴なのである。
逆に言えば、「気遣い」によって、人は「人であること」という契約を取り交わすのである。この「気遣い」は、定型発達的な関係者たちによる、学習障害者を人であらしめようとする権力なのである。わたしは権力という概念について一概に否定しない。この場合に限っての権力は、よいとも悪いとも言わない。これについては揶揄でも批判でもないと言い切れる。権力的な「人であること」という関係を享受するかどうかは、その主体によるし、その主体の自由なのだから。
それにしても、LDと表記しても、調べればすぐ学習障害という意味であることがわかるのに、何故隠すのだろう? とわたしなんかは不思議に思う。ここには関係者たちの、何か神経症的(即ち精神分析的)な、その主体が(精神分析の定理として)否認するであろう真理が隠されているようにすら思える。
気遣いなしで言おう。学習障害を、言葉の響きが悪いから、と言ってLDと表記するその「気遣い」は、神経症的な、強迫症的な症状である。
「学習障害と表記すると、学習障害者たちが差別されるだろう。だからLDと表記すべきだ」
この思考には、その主体のある真理が隠されている。こう言った発言をする主体の中に、「学習障害」という言葉を差別している感情があるのだ。
とはいえ、もちろん「周りがそう表記しているから」そう表記しているだけの場合もあろう。それならばその主体は当然否認しない。何故ならLDと表記しようが学習障害と表記しようが別に構わないと思っているからだ。何故そう表記されるのかについて興味を持っていないはずだからだ。平たく言うなら「周りはそうかもしれないけれど、正直どっちでもいい」となる。
そんな風なこだわりのなさ故のものではなく、なにがしかの思いがあってLDと表記「しなければならない」となっている主体は、先のわたしの文章に、なんらかの否認的感情が惹起されただろう。そのような関係者は、一度己の心を見つめ直してみるとよいかもしれない。
強迫症の症状とは、象徴界に開いた穴の執拗な隠蔽工作である。関係者たちは、「学習障害」という言葉で示される実存在という象徴界の穴を、執拗に隠蔽しているのである。自分自身がその実存在を差別している、あるいは差別してしまいそうなことを、隠蔽しているのだ。「気遣い」という精液的な糊と「LD」というラベルによって。
ここで一応断っておくが、こういった精神分析において典型の理屈は、自閉症者には適用されないことは留意されたい。隠蔽できないのが自閉症という症状であるからだ。隠蔽とはラカン論においては隠喩(構造)となる。「文脈を理解する能力の障害」について、斎藤のベイトソン論の応用を結びつけたならば、学習2により啓かれる次段階、学習3は比喩表現の学習にも相当する。要するに文脈を読むことを学んで初めて比喩を学べるのである。機械的に辻褄が合ってしまう。また、自閉症は「自閉」ではなく「自開」だとする言説にも符号するだろう。むしろ、隠蔽してしまうのが神経症即ち「定型発達という精神障害」なのである。
それはともかく、先述の自閉症と学習障害の示差を採用した上で、これらの関係者の言動を強迫症的な症状だと解釈したならば、ある一つの仮説が浮かび上がる。
土鍋ごはんさんにしろ、かのコメント者にしろ、「学習障害」という言葉に纏わりつく差別的情動を強迫的に隠蔽するために、一部の学派ではそれと相当するとまでされている自閉症スペクトラムを当てはめられたのではないか?
学習障害と自閉症を相似させる考えは、意外と広く見受けられるように思う。自閉症研究の権威である杉山登志郎などはこれに近い立場を取っている。ここから引用する。
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代表は、学習障害(LD)と高機能広汎性発達障害との異同に関する問題であるが、自分の中では、これは既に決着済みと勝手に考えている。非言語性学習障害の診断は、発達性協調運動障害以外は、ほぼ全て広汎性発達障害(高機能に限らない!)、学習障害の診断の相当数も広汎性発達障害の児童である。
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補足しておくと、広汎性発達障害とは、言葉の定義だけ考えれば、一部を除いてほぼ自閉症を示している。一般では誤解が多いがたとえばここにADD、ADHDなどは含まれない。少なくともこのテクストに限れば、その後アスペルガー症候群関連の話になっているので、杉山は「広汎性発達障害とはほぼ自閉症を示す」と考えていることは明らかだろう。これは定義の問題にすぎないので、このことにはわたしは反論しない。
しかし、SAMの欠陥の代表症状である自閉症を、SAMの欠陥のない症状と混同させる彼の態度、ひいては現代医学の風潮に、わたしは強い懸念を覚える。そもそも現代の自閉症研究のトレンド(笑)では、バロン=コーエンの説は、たとえば「SAMなど科学的に説明し切れない。妄想の概念である」などという理由で軽視されがちである。物性物理を専攻し科学哲学も学んだわたしから言えば、そんなことを言える奴の「科学的なるもの」こそが妄想である、となるが。
わたしは、SAMとラカン論のファルスは、短絡的に等しいものとは言えないが、非常に似た概念だと考えている。
この、「自閉症の本質問題たるSAMの軽視」とでも呼べる風潮に、精緻な理屈で対抗するには、ラカン論がもっとも有効であろう。先の斎藤の論文の論旨も、自閉症においてファルスがどう不具合を起こしているのか(それを探るためにシニフィアンではなく、精神分析理論の弱点とも呼べる領域である知覚変容からの視点を取っている)、というものである。
ラカニアンたちは、この「自閉症の本質問題たるSAMの軽視」の風潮に対抗しなければならない。何故ならこれは、お前たちのファルス信仰を、臨床現場から脅かすものだからだ。もしこの風潮が蔓延すれば、さらにラカン論は臨床から遠ざかっていくだろう。ジジェクがやっているように哲学や社会学や芸術評論のおもちゃになっていくだろう。いや、既に蔓延しているからそうなっているのだ、とすらわたしには思える。
定型発達者(去勢済みの主体)にしろ非定型発達者(未去勢な主体)にしろ、それらを区切るファルスを掘り当てるのが精神分析という学の使命の一つではないのか。「分析家のディスクール」とはそういうものではなかったか。
ラカニアンたちは、自らのファルス信仰を自覚し、それについてもっと敏感でなければならない。でなければラカニアンを名乗る資格はない。
ついでなので先の杉山のテクストを逆精神分析したならば、彼はパラノイアを疑ってみた方がいいかもしれない。
彼は、自分が自閉症と認めるニキリンコ氏やペンギン氏を攻撃する主体について、嫌悪感を感じている。それは感情移入、精神分析的に言えば転移である。彼は攻撃されたニキリンコ氏やペンギン氏に同情している。想像的同一化している。
この想像的同一化に基づいて、彼は攻撃する主体(ここでは山岸氏となるらしい。わたしは事実関係を確認していないので断言はできない)を「偽アスペ」だと断じている。これらの文脈を定型的に要約したならば(少なくとも彼はSAMが機能している定型発達者であろう)、彼のこんな無意識が浮かび上がってくる。
「私は私が気に入らない人間は、自閉症と認めない」
……これは医学に携わる者の態度としていかがなものだろうか?
もちろん学徒が感情に左右されることをわたしは否定しない。しかし感情と理屈は、パトスとロゴスは分離されていなければならない。とはいえロゴスの世界を突き進む原動力は、パトスの領域にあるものである。学問を含めた「人なるもの」同士の関係においては、パトスとロゴスはミルフィーユのように重なり合っている。わたしはむしろ現代の学徒たちはもっと感情的であれ、とすら思っている。社会学の羽入-折原論争など、わたしは内容はさっぱりだが、彼らの熱のこもった応酬は、社会学の発展になんらかの寄与があるだろうと思っている。精神分析的な予測として。
しかし彼は、攻撃する主体を「偽アスペ」とする自分の判断に疑いを挟んでいない。その攻撃する主体を観察分析する手順が、(少なくともこのテクストから)完全に抜け落ちていることに言及すらしていない。もし観察分析していたとしても、山岸氏が指摘している通り、テクストによる診断に異を唱える論旨になっているが(学問的にはラカン派精神分析やクリステヴァ的テクスト分析に依拠する立場のわたしは反論するべきだが、ここでは置いておく)、自分がテクストだけで診断をくだしてしまうことになる。これは医師として、学徒としていかがなものか。自分が医師という立場をもってそうしていることに気づいているのだろうか、とさえ思える。
ここにははっきりとパラノイアの妄想の典型構造が見て取れる。想像的同一化(感情移入)というファルスに依拠したシニフィアン連鎖構造(思考様式)をもってして、「攻撃している主体もアスペかもしれない可能性」という現実を否認している。彼にとって自閉症という言葉がまさに「後付けのファルス」になっている。彼は、宗教者にとっての神のごとく「自閉症という概念」を信仰している。この態度は彼の様々なテクストの端々に読み取れる。わたしは確認していないが、「自閉症とは人間の進化型である」などとも述べたことがあるようだ。
気の毒に、と思う。一度心理カウンセリングなどではなく本物の精神分析を受けてみたらいかがか、と本気で思う。揶揄などではなく。同じ学徒として、心配して言っている。
山岸氏にしろ、記事下に挙げられたテクストの筆者森口奈緒美氏にしろ、やはりこの多義的な即ち感情論的な文脈が読めないらしく、定型発達者は簡単に見抜けるこの傲慢でファロセントリックでパラノイアックな精神構造を見抜けないでいる。逆に多くの定型発達者は、感覚的に見抜けていても理屈にできないことが多いようだが。特に女性は。
所詮定型発達者が縛られている「心の理論」など(曖昧なものではなるが)有限的なものである。それを理屈で表現しようが比喩で表現しようが何が違うのだろう、と最近常々思っている。理屈にも比喩にもメリットデメリットはある。理屈も比喩も、統合も拡散も、道具にすぎない。
彼は、この限られたテクストだけで判断したならば、少なくともパラノイアックなボーダーであろう。逆に言えばこのことは、ラカン論では「人格とはパラノイアである」のだから、彼は人格者(笑)ということになるが。
先の「学習障害をLDと表記したがる精神構造は強迫症のそれである」という論と合流させるなら、ここには同じ構造が見て取れる。即ち、学習障害をLDと表記したがる関係者にしろ、学習障害を自閉症と同じものと見たがる杉山にしろ、自らのファルスを隠蔽しようとして、自閉症のファルスの不具合を認めたがらない、否認している、という構造である。
これらの論を妄想だと一蹴されても構わない。そもそも精神分析など、認知心理学系の論者などに言わせれば「妄想の学だ」となるわけで、であるならばわたしのやっていることは非常に精神分析的な行為だということになるからだ。それ以前に、関係者あるいは杉山がわたしのこの論に反論してきたら、少なくとも精神分析を学ぶ者は、「否認することほどその主体を真理を示している」という定理を思い起こすだろう。ネタバレしてしまったのでしてこないと予測できるが。わたしは少なくともこの議論については学問の領域で語りたいため、自分勝手にネタバレしておく。
これらの妄想を仮に採用した場合、先の土鍋ごはんさんやかのコメント者は、「人であること」という権力の被害者であるかもしれない構図が浮かび上がる。
自閉症者には、定型発達者が無自覚的に共有できている「人であること」の真理が欠けている。この真理によって形成される「人であること」という観念は、妄想的な固定観念にすぎない。定型発達者たちはこのことを否認するだろう。自分の「人であること」という信念が危機に晒されるからだ。この否認の一つとして、SAMがある学習障害者とSAMに欠陥のある自閉症の混同が行われているのではないか。土鍋ごはんさんやかのコメント者は、関係者の「人であること」という妄想の防衛のために、その症状を利用されたのではないか。SAMに欠陥のない学習障害者を自閉症と診断することにより、自閉症だって「人間なんだ」(この場合のそれは「定型発達者の固定観念たる「人であること」という妄想は自閉症にも適用可能な現実的普遍的な真理だったのだ」という意味になる)という信念の強化に利用したのではないか。関係者たちは、無意識的にそのような誤謬に陥ってはいないだろうか。
この際、精神医学はラカン論的な「神経症スペクトラム」でも仮設し、自閉症の症状と対比させるなりして、自分たちの無意識を見つめ直してみたらどうだろうか? わたしから見れば定型発達者(神経症者即ち正常人)こそが精神障害者なのだから。
とっても妄想的な解釈だと自認するが、わたしにはこの説明が何故かとても辻褄が合ってしまう。
わたしは、想像的なものにしろ象徴的なものにしろ、社会における力動は、大体茶番劇に見えてしまう。従って、このような茶番劇的な物語的な構造を当てはめてしまう。
ごめんね。元演劇オタだし。っていうか常にこんな目線で物語に接してたらそりゃー物語恐怖症にもなるわな。まあ「ハイウェイ」的な解釈だと思ってくれい。ラカニアンにしかわからない言い方だろうけど。
戦車って意外と速いのねー(いえこっちの話)。
正直、わたしは精神分析理論は自閉症の主体を解釈するのにあまり役に立たないと考えている。わたしが関係者の立場だったら、認知心理学や脳科学に期待を寄せるだろう。
では何故こんなことをやっているかと言うと、実はわたしは自閉症の解釈をしているようで、自閉症に関わる定型発達者たちの心を切り裂いているのだ。自閉症の解釈については、知識の羅列にすぎない。その羅列構造に、特に乳児期の精神分析論が有効であるのは本気でそう考えてはいるが。
自閉症の心は、固定観念に縛られていないものである。無限に広がる空間のようなものである。もちろん一人一人の自閉症者の心が、というわけではない。一人一人のそれは、「心の理論」という道路地図の粗密が激しい、という表現になろう。一方、「心の理論」がある定型発達者の道路地図は、ラカンの言葉なら「ハイウェイ」などと表現されよう。これはまさにここのコメント者の「読んで意味がわからないのにイチャモンつけているとは推測できる」症状が好例となる。彼女はハイウェイを走行している故、「読んで意味がわからないのに」シニフィアン連鎖を滑走させ「イチャモンつけている」という結論が出せるのだ。こんな短文でも精神分析的視点を取ればその主体の実存在は浮き彫りになる。またあるいは、『自閉症の謎を解き明かす』(p282)に示されたルーシーという定型発達者の仮想症例も参考になるだろう。これらの症例を読んでもらえば、ある感性を持った人間から見ると、「気遣い」の本質契機たる「心の理論」なるものは、美しく優しい肯定的なものなどでは全くなく、おぞましい権力的なものであることがわかってくれるだろうか。これらの対人関係に言えることは、定型発達者が自身の心を短絡化するあまり、(定型非定型問わない)他人の心まで短絡化しているのが明確に見て取れる、ということだ。これこそが、ドナが抱いた「愛や主体化への恐れ」なのである。
一方、「心の理論」という固定観念を持たない自閉症者たちは、ハイウェイを走れない。そのような思考の短絡化とも呼べる能力が欠けている。道路の粗密が激しいから短絡化できない。確かに「語れる自閉症者」であるアスペルガー症候群者などは、定型発達者と比較すれば距離は短く一本道となろうが、短絡化が可能なハイウェイが走っている箇所がある。一方、高速で走れない獣道のような箇所もある。全体として見れば入り組んだ森の迷路のようである。彼らは心を力動させるたび、木の枝に引っかかったり獣に追われたりして、傷だらけとなる。
このような自閉症という言葉で括られる様々な道路地図を総合したそれは、道路などあってないようなものとなる。そこには道路に固縛されない無限の空間がある。ドゥルーズ=ガタリの言う脱領土化した空間である。いささか称揚しすぎな文面となっているが、一人一人の粗密の激しさにはなんらかの定型はないと考えた方が、誤謬は少なく済むと予測するため、このような表現となる。
そういう意味では、「自閉症(という総体)には(領土化された)心がない」と言ってもよかろう。ただし、ここにはラカンの「女性(という概念)は(無限領域として)存在しない」という言葉と同じレトリックがあることを踏まえなければならない。
であるならば、自閉症者の心を記述するならば、定型発達者の心を、「心の理論」という有限空間を対比させなければ、意味は通らない。無限の空間は、無限義のシニフィアンでしか記述できないからだ。それは無意味と等値である。
自閉症者の心の記述を、意味のあるものにしたければ、定型発達者の心の、関係者たちの己の心を対比させなければ、机上に載せなければならない。無意味化を避けるには、色眼鏡は存在しなくてはならない。ただ、その存在を隠蔽させてはならない。
この対比からは、恐らくクリステヴァのアブジェクシオン論における「棄却の構造」が立ち現れるだろう。関係者たちにとっては、認めたくない(まさに神経症的に否認するであろう)構造が。
自閉症は器質因と考えられている。わたしはアスペルガー症候群に限っては、器質因と心因の中間領域として設置された内因性である、という立場を取っている。器質因と内因の違いについては、先の斎藤の論文で非常に簡潔にまとめられているので、引用しておく。
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脳そのものに物理的な異常を来す器質性精神病と、そのような物理的病因をいまだに特定できない分裂病などの内因性精神病の相違点を中井久夫氏が適切に指摘している(シンポジウム「精神医学と生物科学のクロストーク」での発言から)。氏によれば、前者の異常は、粗大な脳の変化から粗大な症状が発現するものである。後者については、微細な現象から大きな変化が生じているのであるという。
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つまり、脳波検査などで明らかにその病理と判断できる「粗大な脳の変化」を伴うのが器質因であり、脳の「微細な現象」の異常から、なんらかの要因により(それこそ環境因を含めてもよいだろう)大きな視覚的症状が生じるのが内因である、ということだ。
逆に言えば、現在の脳科学で病理と特定できない精神障害は、全て内因の領域に放り込まれるわけである。であるならば、アスペルガー型はもちろんだが、カナー型でさえ、脳科学的に病理と明確に判断できる「粗大な脳の変化」は、現代では特定されていない(もちろんここで示したミラーニューロン説など様々な論は存在する)。従って理屈だけで考えれば内因となる。にも関わらず器質因だと言われているのは、脳科学の知見からではなく、その臨床から、先天性のものだろうと判断され、実験などにより証明されてきたからである。繰り返しになるが、わたしはカナー型についてはこの判断に異は唱えないし、恐らく症状と関連する「粗大な脳の変化」が発見されるだろうと思っている。
科学が発展すれば、「脳の微細な異常現象」がことごとく解明され、内因とされる領域は狭まっていくだろう。カナー型アスペルガー型問わず自閉症の器質因としての病理が判明する日が来るかもしれない。
しかしわたしは、内因の領域は決してなくなることはないと考える。これは、わたしの動物的と言ってもいい直観の話であるので、無視してもらって構わない。
学習障害も確かに器質因性あるいは内因性のものだろう。しかし、同じ器質因的なものだと言って、それらを同じものと考えるのは短絡すぎやしないだろうか。
器質因あるいは内因をもって、SAMあるいはファルスといった機能の障害が見られるのが自閉症である。器質因あるいは内因によって引き起こされる様々な障害の一つとして、SAMあるいはファルスの不具合がある。そこから生じる「大きな変化」のさらに一つが、自閉症という症状なのである。
ラカニアンが信仰するファルスなど、ただの物体としての人間が持つ、ある一つの機能にすぎない、とわたしは考える。
しかし、「精神分析理論は自閉症の主体を解釈するのにあまり役に立たないと考えている。」などと述べたが、少なくとも『自閉症の謎を解き明かす』に書かれた内容は、半分程度は精神分析理論で翻訳できる。ちょうど冒頭で「ごっこ遊び」についての重要性をスターン論に依拠して論じたように。であるならば、自閉症の病理は、やはり心因あるいは環境因的なものが大きく関与しているのではないか、とすら思える。とはいえこの環境因は、他の環境因性の神経症などと比べ、はるかに広大で普遍的な領域を視野にいれた環境によるものである。それこそ様々な宗教が模索してきた「獣と人間の差異」で言うところの、「獣ではない人間」そのものである環境。前掲書は世界中で発見される「野生児」について論じ、そこから自閉症との繋がりを論じているが、その中に「過酷な社会的剥奪」という言葉がある。もちろんその論旨は、野生児であれども、自閉症と思われるケースとそうでないケースがある、としていることを確認しておかなければならないが、この「過酷な社会的剥奪」という言葉の背後に、なにかしら文芸的な大きな意味を感じるのは、わたしだけだろうか。
――それはともかく、半分は精神分析理論で翻訳できるとして、後の半分は著者ウタ・フリスの分析になるだろう。やっぱりその「語る主体」を論じなければ精神分析という理屈は成り立たない。ざっと脳内翻訳してみてしみじみそう思えた。
ってゆっかさー、こういう論文的な(後半はアウトだが)文章書いていると何故かパラノイアックな定型発達的なわたしになっちゃうんだけど、それに基づいて愚痴らせてもらうならさー、この記事とか結構ドキドキしながら(充実身体をのた打ち回らせながら)書いたんだけど拍手0ってどーゆーこと? いやまあこういう系の記事人気ないのは拍手傾向からでも読み取れてはいるんだけど、そういった全体的な傾向を含めての愚痴。やっぱこのブログの読者ってわたしの知識目当てなわけ? いや別にいいんだけどさ。愚痴っていうかこれは疑問。
そういう傾向に迎合したい自分と反発したい自分がケンカして困るのよマジデ。とか言ってなんらかのコメントくれたとしてもやりたいようにしかやらないんだけどさ。だからコメントいらないよ。この愚痴については。
お、ちょっと「ヒステリー者のディスクール」っぽい? 全然だめ?
っていうかもういいや、本気でもうイヤになった。自閉症とは手を切ろう。とか言うと飲茶あたりに「脂さんの「飽きた」は信用できない」とか言われるんだろうけど。
最近のわたしは宗教づいている。特定の宗教ではない。なんらかの神なるものを考えてしまう。わたしは、二階堂奥歯の自殺について「恍惚の死」と述べた。文脈からそれは読み取れる。マゾヒスティックな修道女たちに憧れていたように、彼女の死とは、文字通り神に抱かれることだった。
実感を伴って、それがわかる。
わたしは恍惚の死を求めている。
一方、わたしは幻想の世界にしがみついている。「定型発達という精神障害」の本質、生の欲動に従っている。
この文章は、象徴界想像界問わず、わたしの爪立てだ。
ふしゃあああっ。