わたしは、「男」でも「女」でもない。
2008/09/19/Fri
人は去勢されて正常人となる。
去勢とは棄却することである。
周りの人間と似たようなものを棄却することで、人間と認められる。
この棄却されるものとは、象徴界においては不確定性のものであり、想像界においては不快なものだ。
従って、棄却の構造を論じたアブジェクシオン論では、アブジェクト(棄却されたもの)は、どろどろぐちょぐちょした自他未分化的なものが、その象徴となる。示差的に不確定で体感的に不快な感じでしょ?
この象徴をもって初めて、アブジェクシオン論は、「象徴界/想像界」の差異ではなく、「現実界/象徴界あるいは想像界」の断絶を述べることができたわけだ。
男性性的なイデオロギーによる抑圧ごっこも、女性性的なツレション感情移入ごっこも、どちらも同じ二次元だ。現実界という三次元とは別物。どちらも棄却によって成り立っている。不確定や不快を棄却して三次元が二次元になる。
どちらにも、「定型発達という精神障害」の暴力性が働いている。
わたしはよくアスペルガー症候群者たちが、社会的なるもの(常識とか道徳とか場の空気とか)を「ネタやコントだ」と言っているのをあげつらっているが、こう思っているのは、本当はわたしだ。いや、この符号があったから自閉症を考えるようになったのは事実だけれど。
わたしは、象徴的なものにしろ想像的なものにしろ、人と人との関係の総体という意味での社会に、全く現実味を感じない。感じないまま生きてきた。これを離人症状とか統合失調症的な「現実感の喪失」症状などと呼ばれても構わない。わたしはそんな診断名だけを信じない。それらにぶら下がる意味群(象徴界も想像界も含むということだ)を吟味するのみである。
現実感の喪失なんて逆だ。お前ら正常人が現実感を喪失しているのだ、と本気で思う。ラカン論を学んでからは特に。ラカン論を知らなかったら、この現実感の齟齬にわたしは未だ苦しんでいただろう。
わたしにとって、よくある男女性の心的事実の齟齬は、象徴界主義か想像界主義かという違いにすぎず、「ネタやコント」の世界における齟齬にすぎない。
アホらしい。
象徴的なものにしろ想像的なものにしろ、わたしにとっては、お前ら正常人が、わたしの世界を「ネタやコント」化させているのだ。
本気でそう思う。
だから、正常人は八割死んでいいと思う。
素で。
巻き込まれてわたしも死んでいいよ? それこそ現実だ。
メルヘンチックな鏡の国などではない、華厳の極楽だ。
ここのコメント欄から再利用。
=====
わたしは、子供の頃からある思想を持っていました。それは、「子供は男でも女でもない。少年でも少女でもない」という考え。今ならばジェンダーフリー的な言い方になりますが「子供は無性だ」などという表現になるでしょうか。今思うと「無性」でもないのですよね。「男」と「女」という性の他に、「子供(あるいはわたし)」という性がある、と。この「子供」は、大人が思うような純粋で無垢でかわいらしい「子供」ではなく、おたまじゃくしの足はどこから生えてくるのかと疑問に思った末おたまじゃくしをカッターで解剖するなどといった残酷性や攻撃性を持った「子供」です。一方、「男(少年含む)」と「女(少女含む)」などは、融合したがりらぶらぶちゅっちゅしたがりの、「性質」という意味で「性」と呼べないものであり、むしろ「男」や「女」の方が「無性」である、みたいな感じかな。
=====
ここのコメント欄も読むとよいかも。
去勢とは棄却することである。
周りの人間と似たようなものを棄却することで、人間と認められる。
この棄却されるものとは、象徴界においては不確定性のものであり、想像界においては不快なものだ。
従って、棄却の構造を論じたアブジェクシオン論では、アブジェクト(棄却されたもの)は、どろどろぐちょぐちょした自他未分化的なものが、その象徴となる。示差的に不確定で体感的に不快な感じでしょ?
この象徴をもって初めて、アブジェクシオン論は、「象徴界/想像界」の差異ではなく、「現実界/象徴界あるいは想像界」の断絶を述べることができたわけだ。
男性性的なイデオロギーによる抑圧ごっこも、女性性的なツレション感情移入ごっこも、どちらも同じ二次元だ。現実界という三次元とは別物。どちらも棄却によって成り立っている。不確定や不快を棄却して三次元が二次元になる。
どちらにも、「定型発達という精神障害」の暴力性が働いている。
わたしはよくアスペルガー症候群者たちが、社会的なるもの(常識とか道徳とか場の空気とか)を「ネタやコントだ」と言っているのをあげつらっているが、こう思っているのは、本当はわたしだ。いや、この符号があったから自閉症を考えるようになったのは事実だけれど。
わたしは、象徴的なものにしろ想像的なものにしろ、人と人との関係の総体という意味での社会に、全く現実味を感じない。感じないまま生きてきた。これを離人症状とか統合失調症的な「現実感の喪失」症状などと呼ばれても構わない。わたしはそんな診断名だけを信じない。それらにぶら下がる意味群(象徴界も想像界も含むということだ)を吟味するのみである。
現実感の喪失なんて逆だ。お前ら正常人が現実感を喪失しているのだ、と本気で思う。ラカン論を学んでからは特に。ラカン論を知らなかったら、この現実感の齟齬にわたしは未だ苦しんでいただろう。
わたしにとって、よくある男女性の心的事実の齟齬は、象徴界主義か想像界主義かという違いにすぎず、「ネタやコント」の世界における齟齬にすぎない。
アホらしい。
象徴的なものにしろ想像的なものにしろ、わたしにとっては、お前ら正常人が、わたしの世界を「ネタやコント」化させているのだ。
本気でそう思う。
だから、正常人は八割死んでいいと思う。
素で。
巻き込まれてわたしも死んでいいよ? それこそ現実だ。
メルヘンチックな鏡の国などではない、華厳の極楽だ。
ここのコメント欄から再利用。
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わたしは、子供の頃からある思想を持っていました。それは、「子供は男でも女でもない。少年でも少女でもない」という考え。今ならばジェンダーフリー的な言い方になりますが「子供は無性だ」などという表現になるでしょうか。今思うと「無性」でもないのですよね。「男」と「女」という性の他に、「子供(あるいはわたし)」という性がある、と。この「子供」は、大人が思うような純粋で無垢でかわいらしい「子供」ではなく、おたまじゃくしの足はどこから生えてくるのかと疑問に思った末おたまじゃくしをカッターで解剖するなどといった残酷性や攻撃性を持った「子供」です。一方、「男(少年含む)」と「女(少女含む)」などは、融合したがりらぶらぶちゅっちゅしたがりの、「性質」という意味で「性」と呼べないものであり、むしろ「男」や「女」の方が「無性」である、みたいな感じかな。
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ここのコメント欄も読むとよいかも。