やるせない不確定性トラウマ
2008/09/22/Mon
『相棒』再放送にどっぷりはまってるんだけど、桐谷健太が出た回の奴(シーズン4の第13話らしい)。しがない麻薬の売人で警察の情報屋やってて、と事件は大きくなるかと思ったら、事実はほんの些細なものだった。
すげえいい。
後いろいろ残ってしまうような、すっきりしない終わり方もいい。何より桐谷の演技がいい。
そうそう、こういうの。
変に大風呂敷広げるのもいいけれど、現実のやるせない違和感が残るような、こういうの。
泣いたり笑ったりはしないけど、なんかじっとりと残ってしまう感じ。
トラウマとか、そんな仰々しいものじゃない。日常の些細なあちこちに、やるせなさはこびりついている。
不確定性トラウマ。
いやそういう話じゃないけれど。
この回人気ないだろうな。だけどこういうのが引っかかってしまう人は、不確定性トラウマがあるのかもしれない。
心因のトラウマは、明確に症状と結びつく。それが劇的であればあるほど、物語の魔力が、自分他人問わず、その心を捕らえる。
器質因の、粗大な脳の異常と症状のごとく。
この結びつきが明確にならないのが、内因だ。
その症状の原因は、いつも不確定だ。
内因は、やるせない。
ふとそんなことを思った。
そういえば斎藤環が古井由吉の作品を「内因性の文学」だなんて言ってたな。
うん。そう。
彼の作品にも、答えはない。それとわかる原因がない。すっきりしない。いやすっきりしないだけなら純文学にはたくさんあるけれど、「すっきりしないこと」を主題にしているわけじゃない。すっきりしないことが常態なのだ。
だから、やるせない。古井の作品が、という話ではなく、それ自体が。
そんな感じ。
それとわかる原因がないことを常態化させたのが、保坂和志の作品であろう。しかし彼の場合、原因がない故に言葉が無際限に紡がれるというまさに作家的な状態において、ある種のファルス的享楽的な快楽がそこにある。これは批判ではなく、むしろこれこそが保坂作品の魅力なわけだが、このそれとわかる原因がないという常態において、無際限に言語化されるということが、彼の場合やるせなくない、という話である。そういう意味で、彼の作品はすっきりしている。作品というか、保坂の世界観は、確定されている。
古井の場合、保坂と同様のそれとわかる原因がない常態を描いている。しかしそこにおける言語化が、やるせなく感じる。作品そのものではなく、言わば小説を書くことという営為自体が、やるせなく感じられてしまう。彼は何故小説を書いているのか。そんな感じのすっきりしなさ。
人はトラウマによって愛を学ぶ。
「人であること」という妄想に裏打ちされた愛。人格に対する愛。パラノイアックな愛。王様ゲームとしての愛。確定的な愛。
であるならば、不確定性トラウマによる愛は、やはり不確定になるだろう。
不確定性慈悲。
……バイタだな。
夢は叶って街じゅうが私を語る
小さな子でさえ私のこと意味も知らずに呼びかけるの
「バ・イ・タ」
はいはい中島みゆきですすみませんねえすみません。
すげえいい。
後いろいろ残ってしまうような、すっきりしない終わり方もいい。何より桐谷の演技がいい。
そうそう、こういうの。
変に大風呂敷広げるのもいいけれど、現実のやるせない違和感が残るような、こういうの。
泣いたり笑ったりはしないけど、なんかじっとりと残ってしまう感じ。
トラウマとか、そんな仰々しいものじゃない。日常の些細なあちこちに、やるせなさはこびりついている。
不確定性トラウマ。
いやそういう話じゃないけれど。
この回人気ないだろうな。だけどこういうのが引っかかってしまう人は、不確定性トラウマがあるのかもしれない。
心因のトラウマは、明確に症状と結びつく。それが劇的であればあるほど、物語の魔力が、自分他人問わず、その心を捕らえる。
器質因の、粗大な脳の異常と症状のごとく。
この結びつきが明確にならないのが、内因だ。
その症状の原因は、いつも不確定だ。
内因は、やるせない。
ふとそんなことを思った。
そういえば斎藤環が古井由吉の作品を「内因性の文学」だなんて言ってたな。
うん。そう。
彼の作品にも、答えはない。それとわかる原因がない。すっきりしない。いやすっきりしないだけなら純文学にはたくさんあるけれど、「すっきりしないこと」を主題にしているわけじゃない。すっきりしないことが常態なのだ。
だから、やるせない。古井の作品が、という話ではなく、それ自体が。
そんな感じ。
それとわかる原因がないことを常態化させたのが、保坂和志の作品であろう。しかし彼の場合、原因がない故に言葉が無際限に紡がれるというまさに作家的な状態において、ある種のファルス的享楽的な快楽がそこにある。これは批判ではなく、むしろこれこそが保坂作品の魅力なわけだが、このそれとわかる原因がないという常態において、無際限に言語化されるということが、彼の場合やるせなくない、という話である。そういう意味で、彼の作品はすっきりしている。作品というか、保坂の世界観は、確定されている。
古井の場合、保坂と同様のそれとわかる原因がない常態を描いている。しかしそこにおける言語化が、やるせなく感じる。作品そのものではなく、言わば小説を書くことという営為自体が、やるせなく感じられてしまう。彼は何故小説を書いているのか。そんな感じのすっきりしなさ。
人はトラウマによって愛を学ぶ。
「人であること」という妄想に裏打ちされた愛。人格に対する愛。パラノイアックな愛。王様ゲームとしての愛。確定的な愛。
であるならば、不確定性トラウマによる愛は、やはり不確定になるだろう。
不確定性慈悲。
……バイタだな。
夢は叶って街じゅうが私を語る
小さな子でさえ私のこと意味も知らずに呼びかけるの
「バ・イ・タ」
はいはい中島みゆきですすみませんねえすみません。