メリハリとは
2006/12/12/Tue
映画でも演劇でも小説でもマンガでもアニメでも、物語にはメリハリというものが必要となります。
メリハリとは「間」がいいか悪いかだと私は思っています。
以前某サイトに「間」と笑いについてのだらっとした考察を書いたので、そちらも読んでいただければ。
「間」というとちょっとわかりにくいかもしれないので、わかりやすくいうと、マンガでいう「捨てゴマ」とか、そういうのにあたるものになるんじゃないかなー、と思っています。
うーん、まずマンガの「捨てゴマ」というものを考えてみましょう。
捨てゴマというのは、ストーリー上こんなコマなくてもいーんじゃねーの? みたいなコマです。
例えば、風景だけ書いてあるとか。
コマと考えたらもったいないですよね。そこにキャラ書けば「who」と「where」という情報が与えられるわけですから。
でも、役割がないわけではないんですね。
風景であるなら場面転換とか。例えば部屋の中だよー、ということを知らせる役割があることが多いですね。
でも、それだけの役割なんですよね。というか、それ以外の役割や意味をあえて避けているコマが「捨てゴマ」です。
そういうコマは、上で書いたように、それだけでコマを使うのは本来もったいない、というのがマンガの原則だったりするのですが、少女漫画や、少年漫画ならあだち充さんなどが多用してたりしてますね。
というか、手塚治虫さんもこの「捨てゴマ」というのを結構使ってたりします。映画手法なんですよね。元は。
「間」というものを考えると、方向性として役割や意味などを無くしていく、「記号ゼロ度」というのが本質になると思います。
「なんでもない=なんにでもなりうる」という状態が「間」なわけです。
つまり、そのコマになるべく役割や意味を与えないこと、ということになりますね。
あるのは、読者にその後に新しい展開がくるという予感を与える、というと変な言い方になりますが、前後の違った展開をくっつける糊みたいな役割と考えればいいでしょうか。
もちろん、すべての展開が変わるときに持ちいるべきと言ってるわけではありませんし、なくてもつながればよいと思います。
まあ、その展開が変わるところをメリハリとして見せたい、というのであれば、有効な手法だよ、というぐらいに思っていただければ。
さて、「捨てシーン」ということを考えてみます。
シーンであるわけですから、構成的な視点になりますね。
マンガのコマとは違って、役割というか、意味をゼロにするのは物理的にムリですよね。シーンなんですし。
なので、ゼロっぽい、意味がなさげなイメージを持ってくる、という考え方が有効かもしれません。
(わざと)読者に何の感情も想起させないようなシーン、という言い方になるかな。
読者の心の動きを記号度ゼロにする、かなー。うーん。こういうと語弊がありそうだなー。
まあ、そんな感じというぐらいで。
具体的にはー。うーん。
キャラがとりとめのないことを考えている、とか、シーンとして動きがほとんどないとかになるのかな。
ミステリなどでは、クライマックスの謎解きの直前に、キャラが考え事をしてるなどという形をとりつつ、事件を整理するという役割で使われてたりしますね。それ以外の役割を極力削って、動きも少なくして。
究極的には何も書かない、つまりシーンの途切れ目、最近では一行開けて表現していたりしますね。この何も書かれていない一行も、「間」になりうると思います。前の記事でも書きましたが、「純粋なシニフィエ」的な「間」という言い方になるでしょうか。
うーん。話をおもしろくするには、そのシーンに役割をたくさんつめこめばいいと思いがちですが、構成的メリハリとして(構成的なテンポとか、クライマックス前のタメとか)、こういう一見無駄に見えるような、意味がないように思えるシーンの挿入というのは有効なのではないでしょうか、という話、ですかねえ。
あー、もちろんクライマックスの直前に持ってくるとは限りませんよ。
ただ、こういったシーンの使い方って難しいと思います。
シーンそのものを読ませる文章力としても、構成力としても。
まあそういったところを表現するのが作家というものなんでしょうね……。
メリハリとは「間」がいいか悪いかだと私は思っています。
以前某サイトに「間」と笑いについてのだらっとした考察を書いたので、そちらも読んでいただければ。
「間」というとちょっとわかりにくいかもしれないので、わかりやすくいうと、マンガでいう「捨てゴマ」とか、そういうのにあたるものになるんじゃないかなー、と思っています。
うーん、まずマンガの「捨てゴマ」というものを考えてみましょう。
捨てゴマというのは、ストーリー上こんなコマなくてもいーんじゃねーの? みたいなコマです。
例えば、風景だけ書いてあるとか。
コマと考えたらもったいないですよね。そこにキャラ書けば「who」と「where」という情報が与えられるわけですから。
でも、役割がないわけではないんですね。
風景であるなら場面転換とか。例えば部屋の中だよー、ということを知らせる役割があることが多いですね。
でも、それだけの役割なんですよね。というか、それ以外の役割や意味をあえて避けているコマが「捨てゴマ」です。
そういうコマは、上で書いたように、それだけでコマを使うのは本来もったいない、というのがマンガの原則だったりするのですが、少女漫画や、少年漫画ならあだち充さんなどが多用してたりしてますね。
というか、手塚治虫さんもこの「捨てゴマ」というのを結構使ってたりします。映画手法なんですよね。元は。
「間」というものを考えると、方向性として役割や意味などを無くしていく、「記号ゼロ度」というのが本質になると思います。
「なんでもない=なんにでもなりうる」という状態が「間」なわけです。
つまり、そのコマになるべく役割や意味を与えないこと、ということになりますね。
あるのは、読者にその後に新しい展開がくるという予感を与える、というと変な言い方になりますが、前後の違った展開をくっつける糊みたいな役割と考えればいいでしょうか。
もちろん、すべての展開が変わるときに持ちいるべきと言ってるわけではありませんし、なくてもつながればよいと思います。
まあ、その展開が変わるところをメリハリとして見せたい、というのであれば、有効な手法だよ、というぐらいに思っていただければ。
さて、「捨てシーン」ということを考えてみます。
シーンであるわけですから、構成的な視点になりますね。
マンガのコマとは違って、役割というか、意味をゼロにするのは物理的にムリですよね。シーンなんですし。
なので、ゼロっぽい、意味がなさげなイメージを持ってくる、という考え方が有効かもしれません。
(わざと)読者に何の感情も想起させないようなシーン、という言い方になるかな。
読者の心の動きを記号度ゼロにする、かなー。うーん。こういうと語弊がありそうだなー。
まあ、そんな感じというぐらいで。
具体的にはー。うーん。
キャラがとりとめのないことを考えている、とか、シーンとして動きがほとんどないとかになるのかな。
ミステリなどでは、クライマックスの謎解きの直前に、キャラが考え事をしてるなどという形をとりつつ、事件を整理するという役割で使われてたりしますね。それ以外の役割を極力削って、動きも少なくして。
究極的には何も書かない、つまりシーンの途切れ目、最近では一行開けて表現していたりしますね。この何も書かれていない一行も、「間」になりうると思います。前の記事でも書きましたが、「純粋なシニフィエ」的な「間」という言い方になるでしょうか。
うーん。話をおもしろくするには、そのシーンに役割をたくさんつめこめばいいと思いがちですが、構成的メリハリとして(構成的なテンポとか、クライマックス前のタメとか)、こういう一見無駄に見えるような、意味がないように思えるシーンの挿入というのは有効なのではないでしょうか、という話、ですかねえ。
あー、もちろんクライマックスの直前に持ってくるとは限りませんよ。
ただ、こういったシーンの使い方って難しいと思います。
シーンそのものを読ませる文章力としても、構成力としても。
まあそういったところを表現するのが作家というものなんでしょうね……。