2008/09/24/Wed
最近、器質因あるいは内因と、心因の差異を強調しているが、実は器質因だろうが内因だろうが心因だろうが環境因だろうが、関係ない。それらは原因なるものをグループ分けしたものにすぎず、万人があるいは当人が、自分の実存在の原因を、どこに設置すれば納得できるか、という問題にすぎない。
原因を確定して固定化したがるのが「定型発達という精神障害」である。このことは、
ラカンのカマキリの喩え話や、『アンチ・オイディプス』が論じているテーマと同一の事実である。
わたしは学問という道具を使う立場において、器質因、内因、心因あるいは環境因というグループ分けを利用しているが、思想的には、人間の全ての症状・症候は内因だと思っている。定型非定型問わず。これは比喩ではない。ただ学問という場において、全ての内因の一部が、器質因や心因あるいは環境因と仮に・多数決的に決定されているものだ、と考えている。
原因を確定させることは、Q.E.D.ではなく、ただの定理である、ということだ。数学のそれより破壊される可能性が高い定理ではあろうが。
数学における不完全性定理は、「数学という記号体系はいつかは究極の完成形を得る」という数学者たちの非理屈的な確信を破壊するものであった。物理における不確定性原理も、物理学者たちに対してそのような意味作用があったと
飲茶などは述べている。物性物理を専攻していたわたしから言わせれば、究極の完成形への確信の破壊というより、物理の中でもミクロというほんの一領域における完成形の先延ばしにすぎないと思っているけれど。よりよい完成形を目指すための妥協的な完成形。確率的な意味を持つ波動関数など考えれば、この妥協という言葉の意味がわかるだろう。
これに照らし合わせると、内因の領域が撲滅されることとは、精神医学や精神分析や心理学が、理屈体系として完成することを意味しているのがわかる。
即ちそれは、学問としての終焉である。
内因の領域は、心に関する学問の終焉に対抗する領域である。
もし、この領域が撲滅されたならば、人間は、少なくとも心に関連する領域において、神になれたということである。
念のため、終焉に邁進することを、人間が神になろうとすることを批判する文章ではないことは、断っておきたい。
内因は、原因を確定できない。何かのせいにできない。
やる瀬がない。それが物自体の世界だ。現実界だ。
中沢新一が
『芸術人類学』で論じた、華厳思想とモナドロジーの接点だ。彼が夢想する、量子力学の次のステージだ。
それは、やるせない世界なのだ。
中沢は、その事実を隠蔽している。はたして中沢に、内因性の精神疾患者(統合失調症者や鬱病者)の世界を生きる覚悟が、その継続的な苦痛を味わう覚悟があるのだろうか?
ただ、それだけのことである。
それだけのことを、わざわざ言わないとわからないのが、
定型発達という精神障害なのである。
ども、はじめまして。Carchemishともーします。
kyupinさんのところのリンクから飛んできました。
初っ端からおもくそ失礼なことをお尋ねしたいのですが(すんません)……脂さんが詳らかにしたい内容って、今脂さんが用いている哲学&言語学関係のコードなしには語れないものなんでしょうか?
というのも、脂さんの文章をちまちまとつまみ食いしてみたところ、おっしゃりたいことがなんとなく判るような気もしたのですが、どうもこのテの形式にはみょうな拒否反応が出てしまって。
別の、もっと相応しい著し方があるような気がして。
……単に私の知能(ってか興味?)が足りてなくて、ない物ねだりをしているだけなのかもしれませんが。
お暇でしたらお答えください。
あ、それと、脂さんのこの一連の文章ですが、いったいどの記事が基点なのでしょー?
リンクが網の目のように張り巡らされていて、途中で手繰り寄せる力が尽き果てました……orz
ズボラのきわみで申し訳ないのですが、できれば教えて貰えませんでしょか。
2008-09-24 水 22:15:06 /URL /Carchemish /
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>哲学&言語学関係のコード
んー、別に道具ですからなんでもいいとは思っていますが。
ちなみに本人は哲学とか言語学はほとんど意識してません。ラカン精神分析論は、(わたしにとって)優れた道具だとは自覚してますが。まーラカン論自体が言語学の流用ですので、そうなるのでしょうね。
>いったいどの記事が基点なのでしょー?
あんまりそういうこと考えてません。読みたいものからどぞ。
リンクはよく言われるのですが、気にしなくてもいいかと。気になればどぞ、ってカンジです。
2008-09-24 水 22:40:09 /
URL /脂 /
編集
ああ、ここ最近のは哲学系ブログに影響されてか特に哲学ジャーゴン多いかもですね。
あんまり考えて使っているわけではありません。
ただ、わかりやすく書いても誤解が多くなるだけですし、正確に書こうと思うと、学問ジャーゴンはその言葉に非常に多くの言葉がぶら下がっているので、便利なのですよ。
自己満足的なものと思ってもらって構いません。
2008-09-24 水 23:04:46 /
URL /脂 /
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脂さん
興味深くブログ拝見させていただいています。
脂さんのブログの内容をとても全部理解できているとは思えないのですが、ひとつ思ったことがあります。
私は以前心理カウンセリング講座を受講したことがあるのですが、その時ミラーリングというスキルを習いました。
要はクライアントとの一体感=ラポールを形成するために相手の動作を鏡に映るごとくまねをする(大げさにしすぎると逆効果ですが)というものです。
ミラーリングをしたとき、別に私は特に相手の話を一生懸命聞こうとはしていませんでした、いや、むしろほとんど聞いていなかったでしょう、相手の動作をなぞることと相手の言葉を鸚鵡返しするのに手一杯で。
その後のフィードバックで
「話を聞いてもらえていて話しやすかった」
という言葉をもらったとき愕然としました。
その時なんとなく思った仮定が
「人間関係は誤解の上で成り立っているのではないか?」
ということでした。
その疑問は漠然とした形であったのですが、アスペルガー関連の一連のブログ(ドードーとらさんのコントの話を含む)を読んで何となくそれはそうではないか、という気がします。
更に言うならば
「人間関係は私の感じていることは相手に伝わっている、理解してくれる、という共有幻想の元に成り立っている」
であるならば、幻想を打ち砕くアスペルガーは問題でしょう。
では、アスペルガーに幻想はないのか?
ある意味で正であり、ある意味で否ではないかと思います。
SAMがないが故に
「自分自身もまた幻想の産物である」
という点になかなか気がつきにくいのではないでしょうか。
完全にその幻想がなくなった場合はいい意味でも悪い意味でも思い込みがなくなる、できなくなる、それは抑制がぶっ壊れている状態であるのではないかと思います。
ある程度社会生活が出来ているということは多少まだその幻想が共有できる機能があるということだと思います。
しかし、お互い誤解を共有できているということが心地よいと感じられるのが定型であるならば、アスペルガーは自分自身もまた誤解されるものであるにもかかわらず相手の誤解ははっきり見えそれを打ち砕いてしまうのは、自分もまた誤解されるものでありそのことはお互い様である、という客観性=SAM機能がないためではないでしょうか。
そんな風に考えました。
2008-09-25 木 03:45:32 /URL /
さかい /
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追記
もしくは、共有幻想である、ということは理解できて誤解されるする、ということが本来であるならば快感であるということが出来ないのが、こうもり氏やとら氏の生き方になったのではないでしょうか。
2008-09-25 木 04:17:17 /URL /
さかい /
編集
どうも、わたしが小難しくだらだらとくっちゃべっていることを、簡潔にまとめられている文章のように読めてしまいます。従って、補足するところがないというか、同意するようなお答えしかできないように思います。
議論としては歯応えのないレスになるかもしれませんが、一応答えておきます。
>「人間関係は誤解の上で成り立っているのではないか?」
デリダの「テクスト読解とは全て誤読である」みたいな言葉を思い出しました。
ポストモダン思想においては、その考え方は決して異常なものではありません。
>では、アスペルガーに幻想はないのか?
>ある意味で正であり、ある意味で否ではないかと思います。
>ある程度社会生活が出来ているということは多少まだその幻想が共有できる機能があるということだと思います。
仰る通りです。
たとえば、幻想が全くない人間を仮に想定するならば、それはドゥルーズ=ガタリの言う「器官なき身体」となるでしょう。一方、全てが幻想である人間は、ジジェクの著作タイトル「身体なき器官」となるでしょう。
これらは、思想の手続きとして、(ドゥルーズ=ガタリなら分裂症者という)実存在を純化させた机上の空論的な(少なくとも臨床的ではない)概念だと考えるべきです。
従ってわたしは、(純化されたものとしての)「器官なき身体」や「身体なき器官」は存在しない、人間という実存在は、それらを両方含むものであり、たとえば分裂症者は「器官なき身体」の影響が強く表れている状態だと考えるべきである、と述べています。わかりやすく言うならば、特にカナー型ではないアスペルガー症候群をイメージすると明らかですが、彼らは、個人により差はあれど、ささやかながらも定型発達的な部分を持っている、ということです。もちろん定型発達者も、ささやかながら自閉症的な部分を持っている、ということになりますが。となるとそれらの度合いの問題となり、これが自閉症スペクトラムが示していることだと、わたしは考えています。
>自分もまた誤解されるものでありそのことはお互い様である、という客観性=SAM機能がないためではないでしょうか。
これも仰る通り。
しかし問題なのは、「コミュニケーションとは原則誤解で成り立っている」という事実を(無意識的に)認められない定型発達者たちの精神構造であり、それが圧倒的多数を成していることだと考えています。
従ってわたしは、「定型発達という精神障害」という言葉を好んで用いています。精神分析では結構当たり前の考え方なんですけどね。自我や超自我そのものが精神障害的なものであるという考え方は。
正常か異常か、という区別になるとややこしくなりますが、どちらが本質により近いか、と考えるならば、自閉症や統合失調症などと呼ばれている主体の方が、「人間という物体」の本質により近い存在であり、正常人の方が、本質から離れた主観世界を生きている、ということです。
とはいえ、もちろん自閉症者も統合失調症者も苦痛を感じているからこそ、それが精神疾患として認知されている、という事実を忘れてはならないと考えています。
そう考えるならば、「コミュニケーションとは原則誤解で成り立っている」事実を認識しながら、誤解の世界を生きることは、SAMというより、山岸氏の述べる「擬似的なSAM」による作用と考えるべきだと思います。
それを誤解だと気づけないパラノイアックな障害を含んでいるのが、定型発達者が持っているSAMなのです。
これは、SAMをファルスと置き換えれば、ラカン論にすっぽり当てはまる理屈です。
パラノイアックな障害を持っているからこそ、彼らは相対的に苦痛を感じなくて済むのです。
>快感であるということが出来ないのが、こうもり氏やとら氏の生き方になったのではないでしょうか。
はい。そうだと思います。
しかし、先ほど言ったように、大多数の定型発達者は、それを誤解だと思わなくて済みます。誤解だと自覚したとしても、定型発達者同士ならば、「空気を読んで」その誤解を誤解でなくそうとします。
誤解が誤解であることは、定型発達的な部分からしてみれば、不快なものです。自閉症者はささやかながらも定型発達的な部分を持っているからこそ、誤解に苦しむのです。
それ以前に、誤解は誤解でいいじゃない、となると、それはコミュニケーションが不可能であること、コミュニケーションの必要性を否定することになりますから、必然的に社会生活も不可能となるでしょう。実際問題として、(社会の中で)生きていけなくなるのです。
最後に。
これらの理屈は、誤解を誤解でないように思い込むことが不快の回避となることを説明できていますが、それが(定型発達者にとって)快楽になることは説明できていません。
ラカン論ならば、あっさりファルス的享楽の回帰としての快楽、などと言っちゃえるのですが、ここは説明が難しいです。わたしも、理屈として知ってはいるものの、実はよくわかっていません。なので例示などが上手くできないのです。
以上です。
2008-09-25 木 06:13:51 /
URL /脂 /
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2008-09-25 木 14:20:50 / / /
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記事を興味深く読みましたが、コメントがさらに私の興味を惹きつけました。
それだけ言いたかったので。
2008-09-27 土 05:10:15 /URL /ミリ /
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