人生是エチュード
2008/09/25/Thu
わたしは、中学高校と、クラスの中で浮いていた。
いじめられていたわけではないが、客観的に考えると、それが村八分という一種のいじめかもしれないと気づいたのは、大学生になってからだった。
しかし、孤立していたわけではない。そこそこ仲のよいグループもいた。今思えば、浮いている者同士が、たとえば夏休みの宿題などを写しあったりするという利害関係を主目的として、集まったグループだったように思う。クラス関係なかったし。クラスで浮いた者のフキダマリ、だな。まあその中でも浮いてたけどね。むしろ個々人が浮いていた。
それはどっちかと言うと、世間で言う不良的なグループだった。酒も煙草も普通にやるような。とはいえ所詮進学校、世で話題になるような暴走族やらチーマーみたいな、大仰な素行不良はなかった。隠れてこそこそやるだけ。
なんと言うか、すっとぼけたような感じがあった。当時よく大人が若者に対して言っていた「無気力」(今思えばひきこもりのハシリだよな)という言葉が当てはまらなくもないが、無気力ではない。各々が各々の好きなことをやっていた。それに興味を持ったら付き合うぐらいで。
わたしは他のグループともちょこっと付き合ったりしたことがあるのだが、周りのグループでは、たとえばグループ内のある二人が仲よく遊んでいたりすると、「抜けがけ」みたいに言われる。笑って話しているけれど、「抜けがけして遊んじゃダメよ」みたいなルールがあったように思う。体育会系みたいな感じだとわたしなんかは思うが、そんなようなところが他のグループにはあった。そういうのが、ほとんどない、というか、わざとなくしているというわけではなく、ただ単にそういう感情論に無頓着な奴らだった。
それが心地よかったからそのグループにいたんだろうな。どっちかと言うと感覚的には今で言う腐女子に近い。周りの一般的な人付き合いに無頓着なところが。アニメやマンガという要素が抜け落ちた腐女子。わたしはアニメもマンガも好きだったけど。大学生になって、哲学科なのにSF狂の女オタク(腐女子とは言い難い)と知り合ったが、彼女には同じ臭いがした。わたしは、SFにはまるくらいならマジモンの科学やれば? という考えだったので、話は合わなかった。今思うともっと話しときゃよかった。哲学を齧る前だったしなー。
浮いている者同士が集うわけだから、やはりいろいろな噂が流れる。酒好きの子の付き合いでスナックなんかに行ったりしたのだが、それだけで売春しているみたいな噂が流れた。進学校らしいリアクションだ。しかしそういうトピックは実際にあったし、その影響もあっただろう。援助交際のハシリだな。そういうこともあってか、わたしは援助交際なる実体は、都会ではなく地方都市が発祥ではないかと思っている。田舎の方が性に関してはゆるいし。
そんな噂もどこ吹く風、だった。そもそもが、クラスから浮いてしまって妥協的に付き合っている集団なわけだから、今さら周りの噂を気にしても、というところがあった。
多分、浮いていない他の子は、この余計な噂をされるのがイヤで、やたらと周りと協調したがるのではないだろうか。浮くことに恐怖すら感じていたのではないだろうか。わたしはそこがイマイチよくわからない。
わたしは、気になってはいた。グループ内の他の子と比べると、周りの視線を気にする方だったと思う。ただ、何故そういう感情論が形成されるのがよくわからなかった。だから評論めいたものを書いたりしたのだろう。
なんかこれだけの文章だと自堕落な学生だったと思われそうなので断っておくが、自堕落だったのは大学生になってからである。わたしは大学デビューだった。
これらの素行不良は、まあそういうこともあったよね、ぐらいで、原則まじめな学生だったのだ。このぐらいは東大生でも普通だと思う。なんだかんだ言って成績優秀者だけが入れる特別進学クラスに三年間居座れたのだし。欠席日数は多かったけど。
だけど、まじめでもなかった。
幼稚園の頃から一緒のクラスになることが多かったがそれほど深く付き合ったこともない、友だちとも呼べない、Mさんなる子がいたのだが、彼女なんかをまじめと言うのだと思う。二年生になってやっと特進クラスに入ってくるぐらいで、成績はわたしの方がよかったのだが、なんというか、彼女は清く正しいのだ。美しいとは言っていないところになんともわたしの本音が表れているとふと思った。
まあ、いわゆる(教師とかがよく言う語用においての)努力型だった。
高校卒業してから、フキダマリグループとは一度会ったきりだ。大学生の頃、帰省したらたまたまお祭りがあって、わたしが召集をかけたのだった。
まー盛り上がらなかったこと。
後になって考えてみれば、そもそも集団から浮いてしまう者同士なわけだから当然だとも思った。集団性に無頓着だからこそ、一度解散してしまえば、その集団に興味を持たない。当時の学校生活に有用な情報を共有するために仮に集団としてやっていただけであり、卒業してしまえばわざわざ集まる必要もない。当然のことだ。
その時の自分も含めたみんなのぎくしゃく感がとても不快で、わたしにとっては忘れたい思い出の一つだ。
今では彼女たちの連絡先すら知らない。
クラスの同窓会には、二回ほど出た。
周りには「変わったねえ」と言われた。嬉しかった。多分、お祭りの時のみんなもそう感じていたと思う。浮くのが普通だったわたしがホステスなんかやるぐらいだから。それを感じ取ってぎくしゃくしていたのだろうか。わたしも彼女たちも。役者ってほんとに恐ろしい(わかってはいると思うが冗談な)。
だけど、Mさんだけは、「変わってないねえ」と言った。
幼稚園の頃からそのままだそうだ。
まるでドラマの中の母親キャラのごとく、そう言った。
わたしは彼女と仲よかったつもりはないのだが、同窓会の時、何故かMさんの母親と電話で話して、そういえば家族ぐるみの付き合いがあったんだよな、と思い出した。幼稚園から、小学校で四年間、中学で三年間、高校で二年間同じクラスなんだから、当然と言えば当然なのかもしれない。大学も彼女は東京の女子大に来て、同じ東京にいたにも関わらず、わたしは何の連絡も取ろうとしなかった。記憶からすっぽり抜け落ちていた。劇団のチケット捌きでいろんなところに連絡していたにも関わらず。
――わたしは監視されていた。
被害妄想的だと自覚しながら、わたしはそう思ってしまった。
何故なら、わたしにとって「変わってしまった」わたしとは、子供に戻ったわたしだからだ。正確に言うならば、素の子供であることをさらに演技しているわたしだった。
わたしは、むしろ変わっていない。むしろ高校時代が変わっていた。自分でうすうすそう感じていたから、彼女の言葉がわたしの真実を指摘したかのように聞こえたのだろう。
だから、監視されていた、などという被害妄想が惹起されたのだろう。
わたしの演技は見破られていた。
Mさんがわたしに偏執しているなどとは言わない。言わないが、もちろん病的な偏執などとは思っていないが、わたしの子供の頃を覚えているのは、偏執と言ってもよいのではないか。わたしの方は全く彼女の子供の頃は思い出せないのだから。せいぜい高校時代の、カタブツ的なイメージしか残っていない。
わたしに限る話ではない。わたしを含めた「人なるもの」への偏執。
多分、わたしにとって、それが未知の恐怖を呼び起こしている。
確かにわたしは精神分析を学んでいる。しかしそれは、人間を「人なるもの」として見るための道具である。「人なるもの」を解体するための道具である。
恐怖とか言いながらへらへらしていたんだけどね。表面上は。まさにエチュード。
見た目ではわからんよ。特に女は。
そういう話?
いじめられていたわけではないが、客観的に考えると、それが村八分という一種のいじめかもしれないと気づいたのは、大学生になってからだった。
しかし、孤立していたわけではない。そこそこ仲のよいグループもいた。今思えば、浮いている者同士が、たとえば夏休みの宿題などを写しあったりするという利害関係を主目的として、集まったグループだったように思う。クラス関係なかったし。クラスで浮いた者のフキダマリ、だな。まあその中でも浮いてたけどね。むしろ個々人が浮いていた。
それはどっちかと言うと、世間で言う不良的なグループだった。酒も煙草も普通にやるような。とはいえ所詮進学校、世で話題になるような暴走族やらチーマーみたいな、大仰な素行不良はなかった。隠れてこそこそやるだけ。
なんと言うか、すっとぼけたような感じがあった。当時よく大人が若者に対して言っていた「無気力」(今思えばひきこもりのハシリだよな)という言葉が当てはまらなくもないが、無気力ではない。各々が各々の好きなことをやっていた。それに興味を持ったら付き合うぐらいで。
わたしは他のグループともちょこっと付き合ったりしたことがあるのだが、周りのグループでは、たとえばグループ内のある二人が仲よく遊んでいたりすると、「抜けがけ」みたいに言われる。笑って話しているけれど、「抜けがけして遊んじゃダメよ」みたいなルールがあったように思う。体育会系みたいな感じだとわたしなんかは思うが、そんなようなところが他のグループにはあった。そういうのが、ほとんどない、というか、わざとなくしているというわけではなく、ただ単にそういう感情論に無頓着な奴らだった。
それが心地よかったからそのグループにいたんだろうな。どっちかと言うと感覚的には今で言う腐女子に近い。周りの一般的な人付き合いに無頓着なところが。アニメやマンガという要素が抜け落ちた腐女子。わたしはアニメもマンガも好きだったけど。大学生になって、哲学科なのにSF狂の女オタク(腐女子とは言い難い)と知り合ったが、彼女には同じ臭いがした。わたしは、SFにはまるくらいならマジモンの科学やれば? という考えだったので、話は合わなかった。今思うともっと話しときゃよかった。哲学を齧る前だったしなー。
浮いている者同士が集うわけだから、やはりいろいろな噂が流れる。酒好きの子の付き合いでスナックなんかに行ったりしたのだが、それだけで売春しているみたいな噂が流れた。進学校らしいリアクションだ。しかしそういうトピックは実際にあったし、その影響もあっただろう。援助交際のハシリだな。そういうこともあってか、わたしは援助交際なる実体は、都会ではなく地方都市が発祥ではないかと思っている。田舎の方が性に関してはゆるいし。
そんな噂もどこ吹く風、だった。そもそもが、クラスから浮いてしまって妥協的に付き合っている集団なわけだから、今さら周りの噂を気にしても、というところがあった。
多分、浮いていない他の子は、この余計な噂をされるのがイヤで、やたらと周りと協調したがるのではないだろうか。浮くことに恐怖すら感じていたのではないだろうか。わたしはそこがイマイチよくわからない。
わたしは、気になってはいた。グループ内の他の子と比べると、周りの視線を気にする方だったと思う。ただ、何故そういう感情論が形成されるのがよくわからなかった。だから評論めいたものを書いたりしたのだろう。
なんかこれだけの文章だと自堕落な学生だったと思われそうなので断っておくが、自堕落だったのは大学生になってからである。わたしは大学デビューだった。
これらの素行不良は、まあそういうこともあったよね、ぐらいで、原則まじめな学生だったのだ。このぐらいは東大生でも普通だと思う。なんだかんだ言って成績優秀者だけが入れる特別進学クラスに三年間居座れたのだし。欠席日数は多かったけど。
だけど、まじめでもなかった。
幼稚園の頃から一緒のクラスになることが多かったがそれほど深く付き合ったこともない、友だちとも呼べない、Mさんなる子がいたのだが、彼女なんかをまじめと言うのだと思う。二年生になってやっと特進クラスに入ってくるぐらいで、成績はわたしの方がよかったのだが、なんというか、彼女は清く正しいのだ。美しいとは言っていないところになんともわたしの本音が表れているとふと思った。
まあ、いわゆる(教師とかがよく言う語用においての)努力型だった。
高校卒業してから、フキダマリグループとは一度会ったきりだ。大学生の頃、帰省したらたまたまお祭りがあって、わたしが召集をかけたのだった。
まー盛り上がらなかったこと。
後になって考えてみれば、そもそも集団から浮いてしまう者同士なわけだから当然だとも思った。集団性に無頓着だからこそ、一度解散してしまえば、その集団に興味を持たない。当時の学校生活に有用な情報を共有するために仮に集団としてやっていただけであり、卒業してしまえばわざわざ集まる必要もない。当然のことだ。
その時の自分も含めたみんなのぎくしゃく感がとても不快で、わたしにとっては忘れたい思い出の一つだ。
今では彼女たちの連絡先すら知らない。
クラスの同窓会には、二回ほど出た。
周りには「変わったねえ」と言われた。嬉しかった。多分、お祭りの時のみんなもそう感じていたと思う。浮くのが普通だったわたしがホステスなんかやるぐらいだから。それを感じ取ってぎくしゃくしていたのだろうか。わたしも彼女たちも。役者ってほんとに恐ろしい(わかってはいると思うが冗談な)。
だけど、Mさんだけは、「変わってないねえ」と言った。
幼稚園の頃からそのままだそうだ。
まるでドラマの中の母親キャラのごとく、そう言った。
わたしは彼女と仲よかったつもりはないのだが、同窓会の時、何故かMさんの母親と電話で話して、そういえば家族ぐるみの付き合いがあったんだよな、と思い出した。幼稚園から、小学校で四年間、中学で三年間、高校で二年間同じクラスなんだから、当然と言えば当然なのかもしれない。大学も彼女は東京の女子大に来て、同じ東京にいたにも関わらず、わたしは何の連絡も取ろうとしなかった。記憶からすっぽり抜け落ちていた。劇団のチケット捌きでいろんなところに連絡していたにも関わらず。
――わたしは監視されていた。
被害妄想的だと自覚しながら、わたしはそう思ってしまった。
何故なら、わたしにとって「変わってしまった」わたしとは、子供に戻ったわたしだからだ。正確に言うならば、素の子供であることをさらに演技しているわたしだった。
わたしは、むしろ変わっていない。むしろ高校時代が変わっていた。自分でうすうすそう感じていたから、彼女の言葉がわたしの真実を指摘したかのように聞こえたのだろう。
だから、監視されていた、などという被害妄想が惹起されたのだろう。
わたしの演技は見破られていた。
Mさんがわたしに偏執しているなどとは言わない。言わないが、もちろん病的な偏執などとは思っていないが、わたしの子供の頃を覚えているのは、偏執と言ってもよいのではないか。わたしの方は全く彼女の子供の頃は思い出せないのだから。せいぜい高校時代の、カタブツ的なイメージしか残っていない。
わたしに限る話ではない。わたしを含めた「人なるもの」への偏執。
多分、わたしにとって、それが未知の恐怖を呼び起こしている。
確かにわたしは精神分析を学んでいる。しかしそれは、人間を「人なるもの」として見るための道具である。「人なるもの」を解体するための道具である。
恐怖とか言いながらへらへらしていたんだけどね。表面上は。まさにエチュード。
見た目ではわからんよ。特に女は。
そういう話?