「お前の議論は議論ではなく、相手をナイフで刺すようなものだ」
2008/09/29/Mon
たとえば、会社で上司のアイデアを批判したい時、もってまわった言い方をする。めんどうだけど、自分が評価できる点を述べ、そこと矛盾する点として、批判したいところをあげつらう。文脈を読んでよ、と正直思う。一々よい点を挙げてはいるが、わたしはお前のアイデアなど小指の先ほども評価してないんだぞ、とはっきり言いたくなる。
議論が白熱すると、はっきりとは言わないが、もってまわった言い方を放棄することがある。その時のテクニックとしては、質問攻めなどがある。
「何故あなたはそうしたいと思ったのですか?」「何故そうしたら客先に評価してもらえると考えたのですか?」「それでは客先のためではなくあなたがそうしたいからそうしたということになりませんか?」
わたしはこれを自分勝手に「ガキのナゼナゼ攻撃」と呼んでいた。何も知らない子供になりきって、わからないところは全て素の顔で質問していくのだ。子供を演じるのはわたしのもっとも得意とするところである。
そうすると、不思議なことに、大概相手はボロを出す。ロジックに綻びが生じる。勝手に自滅してくれる。たとえば客先の利益を考えてという名目のアイデアだったとしても、その上司自身が持っているなんらかの思想に基づいてのものだったりすることが判明する。なにがしかの、論旨のすりかえが露になる。
かといってこれをやっても結論が逆転するなんてことはないけどね。むしろそれを主張する側に周りの人間は同情するらしい。ロジックが破綻したとしても、たとえば「それが普通だろ、私は彼の気持ちがわかる」みたいになって、理屈で勝っても感情的にわたしは少数派となり、議論に負ける。まあ、わたしの自分勝手な最後の反撃としてしか使えないテクニックではあった。「ガキのナゼナゼ攻撃」ってなね。
『自閉症の謎を解き明かす』で、自閉症という症状の比喩として、ELIZAという人工知能の話が紹介された。精神療法のパロディとしてプログラムされたELIZAであるが、実際の精神療法のごとき様相を呈している。もちろん、ELIZAと会話する主体が、それをただのプログラムだと知らずに、ある程度「相談できるあるいは自分を治療してくれる人間である」という思い込みがあること、即ち転移が成り立っていることが要件となろうが。精神分析において最初のステップである転移関係の構築を論じないと、ELIZAの会話が精神分析療法と同じものだとは短絡できまい。
とはいえ、である。
わたしは、ここで紹介されたELIZAのやり取りに、わたしの「ガキのナゼナゼ攻撃」に似ているものを感じた。
会社員時代は、演劇人時代にフロイトをちょこっと齧ったぐらいで精神分析など全く知らないわけで、以下の論は後付けのものとなるが、「ガキのナゼナゼ攻撃」で重要なポイントは、相手あるいは周りの人間が共有している固定的な文脈の破壊にあると思える。この固定的な文脈とは、「こういう仕事をしているならみんな同じ風に考えるだろう」というようなものである。これをもっと広く考えるなら、「同じ人間だからみんな同じ風に考えるだろう」というものである。わたしはこれを「「人であること」という固定観念」と呼び、これこそが自閉症者に欠けていると言われる「心の理論」であると考える。
子供とは、大人が考える人間としては、未熟である。従って「「人であること」という固定観念」は比較的弱いと考えられる。もちろんただのプログラムであるELIZAにも「心の理論」などあるわけがない。
「「人であること」という固定観念」にがちがちに縛られた大人たちにとって、もっとも避けたいことは、この「「人であること」という固定観念」を破壊されることである。それは、表層的には、「「人であること」という固定観念」に依拠した文脈を破壊されることとなったりするだろう。表層の文脈の破壊が、主体の「心の理論」の破壊に通底している、というわけだ。
だから、わたしは、ある上司にこんなことを言われたのだ。
「お前の議論は議論ではなく、相手をナイフで刺すようなものだ」
しかもジェスチャー入りで。ナイフを持ってわたしを刺すような動作をしながら、この京大卒でやっぱりインテリってのは身勝手だよねなどと部下から評価されていた上司は、わたしに説教した。客先には我慢してたのに。とか今だから言える言い訳。
確かに「ガキのナゼナゼ攻撃」は議論とは言えない。議論で用いても、ほぼ負けてしまうテクニックだからだ。「ガキのナゼナゼ攻撃」などというナイフでわたしが刺していたのは、相手の「「人であること」という固定観念」なのだ。だから、「人であること」に偏執する周りの大人たちは、刺された人間に同情するのだ。
なるほどな。と今さら思った。
自分の扱いにくさがよくわかった。
まあ、そんな話。
議論が白熱すると、はっきりとは言わないが、もってまわった言い方を放棄することがある。その時のテクニックとしては、質問攻めなどがある。
「何故あなたはそうしたいと思ったのですか?」「何故そうしたら客先に評価してもらえると考えたのですか?」「それでは客先のためではなくあなたがそうしたいからそうしたということになりませんか?」
わたしはこれを自分勝手に「ガキのナゼナゼ攻撃」と呼んでいた。何も知らない子供になりきって、わからないところは全て素の顔で質問していくのだ。子供を演じるのはわたしのもっとも得意とするところである。
そうすると、不思議なことに、大概相手はボロを出す。ロジックに綻びが生じる。勝手に自滅してくれる。たとえば客先の利益を考えてという名目のアイデアだったとしても、その上司自身が持っているなんらかの思想に基づいてのものだったりすることが判明する。なにがしかの、論旨のすりかえが露になる。
かといってこれをやっても結論が逆転するなんてことはないけどね。むしろそれを主張する側に周りの人間は同情するらしい。ロジックが破綻したとしても、たとえば「それが普通だろ、私は彼の気持ちがわかる」みたいになって、理屈で勝っても感情的にわたしは少数派となり、議論に負ける。まあ、わたしの自分勝手な最後の反撃としてしか使えないテクニックではあった。「ガキのナゼナゼ攻撃」ってなね。
『自閉症の謎を解き明かす』で、自閉症という症状の比喩として、ELIZAという人工知能の話が紹介された。精神療法のパロディとしてプログラムされたELIZAであるが、実際の精神療法のごとき様相を呈している。もちろん、ELIZAと会話する主体が、それをただのプログラムだと知らずに、ある程度「相談できるあるいは自分を治療してくれる人間である」という思い込みがあること、即ち転移が成り立っていることが要件となろうが。精神分析において最初のステップである転移関係の構築を論じないと、ELIZAの会話が精神分析療法と同じものだとは短絡できまい。
とはいえ、である。
わたしは、ここで紹介されたELIZAのやり取りに、わたしの「ガキのナゼナゼ攻撃」に似ているものを感じた。
会社員時代は、演劇人時代にフロイトをちょこっと齧ったぐらいで精神分析など全く知らないわけで、以下の論は後付けのものとなるが、「ガキのナゼナゼ攻撃」で重要なポイントは、相手あるいは周りの人間が共有している固定的な文脈の破壊にあると思える。この固定的な文脈とは、「こういう仕事をしているならみんな同じ風に考えるだろう」というようなものである。これをもっと広く考えるなら、「同じ人間だからみんな同じ風に考えるだろう」というものである。わたしはこれを「「人であること」という固定観念」と呼び、これこそが自閉症者に欠けていると言われる「心の理論」であると考える。
子供とは、大人が考える人間としては、未熟である。従って「「人であること」という固定観念」は比較的弱いと考えられる。もちろんただのプログラムであるELIZAにも「心の理論」などあるわけがない。
「「人であること」という固定観念」にがちがちに縛られた大人たちにとって、もっとも避けたいことは、この「「人であること」という固定観念」を破壊されることである。それは、表層的には、「「人であること」という固定観念」に依拠した文脈を破壊されることとなったりするだろう。表層の文脈の破壊が、主体の「心の理論」の破壊に通底している、というわけだ。
だから、わたしは、ある上司にこんなことを言われたのだ。
「お前の議論は議論ではなく、相手をナイフで刺すようなものだ」
しかもジェスチャー入りで。ナイフを持ってわたしを刺すような動作をしながら、この京大卒でやっぱりインテリってのは身勝手だよねなどと部下から評価されていた上司は、わたしに説教した。客先には我慢してたのに。とか今だから言える言い訳。
確かに「ガキのナゼナゼ攻撃」は議論とは言えない。議論で用いても、ほぼ負けてしまうテクニックだからだ。「ガキのナゼナゼ攻撃」などというナイフでわたしが刺していたのは、相手の「「人であること」という固定観念」なのだ。だから、「人であること」に偏執する周りの大人たちは、刺された人間に同情するのだ。
なるほどな。と今さら思った。
自分の扱いにくさがよくわかった。
まあ、そんな話。