一緒に溺れましょう?
2008/10/03/Fri
お昼ごはんの話なんかしたくない
おサイフを見せないで
恋がどこに隠れてるか知らないの?
昨夜見た夢の中よ
わたしのことが知りたければ質問をしないで
今夜わたしと同じ夢を見たいと言ってよ
影ふみしましょう
ネコの影 キツネの影
影ふみしましょう
あなたの影だけが好きよ
ええ、ええ、谷山浩子です。『影ふみ』って曲。歌詞サイトねえな。
いやな、「わたしと同じ夢を見たいと言ってよ」って言葉は、精神分析的理屈で考えると、とてもじゃないけどメルヘンチックなパステルカラーチックな癒されるような状態を述べている言葉じゃないっていうのはこの記事でちらっと述べたけれど、「あなたの影だけが好きよ」って言葉もそういう理屈体系で考えると怖い言葉だよな、という話でもしよっかな、と。
「影」っていうのを一つのセミオティックなシンボル(この言葉自体が論理的に矛盾している)と考えれば、ユングの元型という概念が便利だろう。
ということで、わたしユンギニアンじゃないので、いろいろめんどい説明は故河合隼雄先生の『影の現象学』でも読んでください。「影」っていう元型を論のテーマにしているが、ユング論の概論としても読める優れた著作である。
このブログでは河合はファロセントリックだ、なんて批判してたりもしているが、ごめんね実は河合さんの影響結構ありますわたし。ユンギニアンだとは言えないけれど。
ユング論は芸術とか、物語のあるそれ、たとえば演劇とか映画とか小説とかとすごく親和性高いのは知っているけど、演劇やってた頃のわたしは、ユング論は芸術論なんかじゃねえ、って立場だったな。実際やってる芝居はコメディとか大衆向け、いわゆるエンタメ志向だったにも関わらず、ユング論は芸術を大衆化するだけで、芸術の本質を隠蔽するものだ、みたいな感じに思っていた。この記事から引用。
=====
演劇人として言うなら、演劇をアイドル化させるマスコミのようなもの、と大学生の頃は言っていたように思う。
(中略)
マスコミというか、心理学者というか、ともかくわたしたちのやっていることを、大衆化やアイドル化やわかりやすい理屈化といったような形で、劣化させていく人たちに対して、どうしようもない嫌悪感を覚え続けていた。
彼らには、狂人や演劇人という、人間の心の本性と常に対峙しているあるいは対峙しようとする人間たちに、ゴマスリしているようなイメージがある。
それでその本性を理解してくれるならまだいいのだ。
ゴマスリしてきて、結果出てくる言葉が、わたしたちのやっていることや生きている世界と、まるで逆方向のものを示唆するものになる。
必ずと言っていいほど。
=====
河合さんのテクストは面白いけど、わたしが嫌悪してしまう多数派だな、とは常に思っていた。それは今でも変わらない。
そうじゃない演劇論ってなかなかないんだよね。もちろんアンチ・エンタメ的な派閥、たとえばそれこそ前衛的なものとか、小劇場では平田オリザなんか有名だが、わたしはそれも違うよな、と思っていた。アンチ・エンタメっていうのは一つの手段ではあるが、それは目隠しになってしまうと思っていた。
要するに、エンタメとかアンチ・エンタメとか関係ないじゃん、それとは全く違うところにある何かをわたしは求めてるのよ、ってこと。エンタメもアンチ・エンタメもごっちゃにする方がむしろそこに近づける。まさに脱構築思考。
そういった言葉にならない感覚論を根拠に、一つの本質に近いところを述べていると思えたのが、アルトーのテクストだったわけやね。さっき前衛的なものも違う、って書いたけど、アルトー論に近いのは暗黒舞踏だとは思うよ。その中でもエンタメ系な伊藤キムとかに走ったけど。わたしは。田中泯さんや大駱駝艦系のも見て、もちろんすげえと思ったのだが、彼らの舞台は「場」を考えていないように思えた。空気なんて読むな、なんてこのブログでは主張しているけど、空気なんて関係ない世界は、空気を読むことだってありなわけで、要するになんでもありの世界なのだ。だから、定型発達的な「空気を読むこと」が決定的に欠如しているそれらの舞台は、なんかピンとこなかった。要するにアンチ・エンタメ的な志向が強く感じられて、エンタメとアンチ・エンタメの脱構築とはなっていないと思えたのだな。もちろんこれはわたしの主観による判断にすぎないが。大道芸的に、街中でああいうのがあれば、なんらかの「場」が生じるとは思うが、舞台という密閉された空間になると、何か透明なガラスで隔てられているように思える。プロセニアムアーチあるなしあるいは対面型舞台であるか否か関係なく。一方、キムさんの舞台は、普通に舞台と客席が対面型だったのだが、ちゃんとエンタメ的な部分もあり、なんでもありだったように思える。
こういった論は、構造がとっても笙野頼子のアヴァン・ポップ論と類似している、と自分勝手に思っている。笙野のバヤイ、この論で言うところの「アンチ・エンタメ/エンタメ」っていうのが「(これまでの)純文学/ポップなテクスト」ってことになっているけど。要するにそれらをごっちゃにするってことだとわたしは勝手に解釈している。
なんでもありの世界。ここでの世界とは独我論的な意味での世界であり、即ち意味の世界だ。ということは、なんでもありな意味の世界、となる。わたしはわたしの実体験をもってこれを「意味がサーカスをしている」世界などと述べたりする。それは理屈的には無意味と等値ではあるが、「意味のなさ」に一種のノスタルジーをおっかぶせている巷の「無意味を主題にした(いわゆるナンセンス系の)芸術作品」が示す「無意味」とは一線を画すものだ。無意味ではあるが、意味が存在しないという意味ではなく、それぞれの意味が(文脈のごとく)溶け合わず、独立して、火花のように飛び交っている世界である。
なんでもありな意味の世界では、わたしはなんでもないものとなる。いや、世界もなんでもないのだ。「なんでもあり」と「なんでもない」は等値なのだ。
まさにそれは、「存在しない」極点なのだ。この極点を、わたしは「タンジェント関数のπ/2のところ」と述べたりする。yの値が無限大とマイナス無限大となる領域。それが、「なんでもあり」で「なんでもない」世界であり、意味がサーカスをしている世界だ。
この世界に、精神分析(深層心理学)論という理屈体系の中で、もっとも親近しているのが、「影」という元型であり、トラウマが露骨に再帰する「夢」だと、わたしは思うのだ。
そしてそれは、決して快楽的なものではなく、ラカン論的な意味での享楽的なものだと思っている。即ち、もっともおぞましいものである故もっとも魅惑的なものである領域。
それは、こうも言い換えられよう。正常人が狂気に触れる領域。
「影」も「夢」も、その領域の隠喩なのだ。
わたしは、正常人と狂人の断絶を守る、と主張している。それは、それが断絶でなければ、享楽とならないからである。もっともおぞましくもっとも魅惑的なものとはなりえないからである。サインやコサインのように連続してしまっては、「なんでもあり」かつ「なんでもない」世界には辿り着けない。意味はサーカスをしてくれない。わたしは享楽主義者として、サーカスに解離症状的に没頭する子供のごとく、この断絶を守る。
この断絶が、精神分析論においては、元型としての「影」とクライアントが見る「夢」とに深く関連していることが、理屈と臨床によって示されている、という話である。
さて、ここで谷山のテクストに戻ろう。
「影」や「夢」が、狂気の世界を隠喩していると仮定してみよう。そうすると、前掲の歌詞には、恐ろしいことが描かれているのがわかる。
「わたしと同じ夢を見たいと言って」とは、「わたしの狂気に溺れたいと言って」という意味になり、「あなたの影だけが好き」とは、「あなたの狂気だけが好き」という意味になる。
この理屈の敷衍はおかしいだろうか? しかし、こう考えるならば、「わたしのことが知りたければ質問をしないで」という言葉は、「夢」という現実界に親近する領域を根拠にして、「質問」という象徴界的(言葉によるコミュニケーション)かつ想像界的(転移的な感情移入)なものを拒否している意味だと解釈でき、ラカン論においてもすっきりと辻褄が合う(「現実界とは命のしかめっ面である」)。すっきりしすぎていてつまらねえ解釈になっていると自分で思う。
もちろんこんな屁理屈的な解釈に反発を覚える谷山ファンもいるだろう。しかし、谷山ファンなら知っていることだろうが、谷山の歌は、そのメルヘンチックな曲調と、それに反発するかのようなキチガイチックな歌詞が併存しているのが魅力である。この『影ふみ』という曲も、曲調はポップな、アイドル歌手が歌っていても違和感がないものである。その割に、この歌詞には、谷山の暗黒面とも呼べる世界が、言葉の中にないように思われるかもしれない。実際彼女の作品には、暗黒面を見せていないものも多い。しかし、ある理屈を採用することにより、その意味で構成された世界は、暗黒世界に一変する、ということを述べたかったのだ。自分勝手に。
この歌詞をむりやり要約するならば、
「一緒に享楽しましょう、即ち、狂気に溺れましょう」
というものである、という話。最近のアルバムでは『夢のスープ』とかこのテーマが明確な歌だと思うよ。
そういえば谷山も「サーカス」って言葉好きだよな。これについてはあんまりこの論と関係ないけれど。
「あなたの影だけが好きよ」
この言葉を、たとえば、ユング論の影響が色濃い村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に登場する「影」と関連づけて考えてみると、この言葉の恐ろしさの一端がわかってもらえるかもしれない。
「影が好き」ではなく、「影【だけ】が好き」ということに留意して。
村上のはなんていうか、理屈臭が濃いけどね。それは歌詞と(長編)小説というスタイルの違いにもよるところでもあり、別に批判している意味で言っているわけではない。
まあ、そんな話。
あ、一応言っとくと、なんだかんだ言って「三大ネクラ女性歌手(中島みゆき、谷山浩子、山崎ハコ)」と呼ばれていた時代の、初期のニューミュージック的な方が好きだな。谷山は。いや今の世界も好きだけど。アルバムは『夢半球』とか好き。なんか混乱しているような感じが。すげえ素な感じがする。
わたしはラカニアンじゃなくてクリステヴァ論者だ、ってことあるごとに言っている。とはいえ「ラカニエンヌ」って言葉は、なんか響き的ににちゃにちゃしていて嫌いじゃない。
だからラカニエンヌって呼ばれるならいいや、と思った。それだけ。
おサイフを見せないで
恋がどこに隠れてるか知らないの?
昨夜見た夢の中よ
わたしのことが知りたければ質問をしないで
今夜わたしと同じ夢を見たいと言ってよ
影ふみしましょう
ネコの影 キツネの影
影ふみしましょう
あなたの影だけが好きよ
ええ、ええ、谷山浩子です。『影ふみ』って曲。歌詞サイトねえな。
いやな、「わたしと同じ夢を見たいと言ってよ」って言葉は、精神分析的理屈で考えると、とてもじゃないけどメルヘンチックなパステルカラーチックな癒されるような状態を述べている言葉じゃないっていうのはこの記事でちらっと述べたけれど、「あなたの影だけが好きよ」って言葉もそういう理屈体系で考えると怖い言葉だよな、という話でもしよっかな、と。
「影」っていうのを一つのセミオティックなシンボル(この言葉自体が論理的に矛盾している)と考えれば、ユングの元型という概念が便利だろう。
ということで、わたしユンギニアンじゃないので、いろいろめんどい説明は故河合隼雄先生の『影の現象学』でも読んでください。「影」っていう元型を論のテーマにしているが、ユング論の概論としても読める優れた著作である。
このブログでは河合はファロセントリックだ、なんて批判してたりもしているが、ごめんね実は河合さんの影響結構ありますわたし。ユンギニアンだとは言えないけれど。
ユング論は芸術とか、物語のあるそれ、たとえば演劇とか映画とか小説とかとすごく親和性高いのは知っているけど、演劇やってた頃のわたしは、ユング論は芸術論なんかじゃねえ、って立場だったな。実際やってる芝居はコメディとか大衆向け、いわゆるエンタメ志向だったにも関わらず、ユング論は芸術を大衆化するだけで、芸術の本質を隠蔽するものだ、みたいな感じに思っていた。この記事から引用。
=====
演劇人として言うなら、演劇をアイドル化させるマスコミのようなもの、と大学生の頃は言っていたように思う。
(中略)
マスコミというか、心理学者というか、ともかくわたしたちのやっていることを、大衆化やアイドル化やわかりやすい理屈化といったような形で、劣化させていく人たちに対して、どうしようもない嫌悪感を覚え続けていた。
彼らには、狂人や演劇人という、人間の心の本性と常に対峙しているあるいは対峙しようとする人間たちに、ゴマスリしているようなイメージがある。
それでその本性を理解してくれるならまだいいのだ。
ゴマスリしてきて、結果出てくる言葉が、わたしたちのやっていることや生きている世界と、まるで逆方向のものを示唆するものになる。
必ずと言っていいほど。
=====
河合さんのテクストは面白いけど、わたしが嫌悪してしまう多数派だな、とは常に思っていた。それは今でも変わらない。
そうじゃない演劇論ってなかなかないんだよね。もちろんアンチ・エンタメ的な派閥、たとえばそれこそ前衛的なものとか、小劇場では平田オリザなんか有名だが、わたしはそれも違うよな、と思っていた。アンチ・エンタメっていうのは一つの手段ではあるが、それは目隠しになってしまうと思っていた。
要するに、エンタメとかアンチ・エンタメとか関係ないじゃん、それとは全く違うところにある何かをわたしは求めてるのよ、ってこと。エンタメもアンチ・エンタメもごっちゃにする方がむしろそこに近づける。まさに脱構築思考。
そういった言葉にならない感覚論を根拠に、一つの本質に近いところを述べていると思えたのが、アルトーのテクストだったわけやね。さっき前衛的なものも違う、って書いたけど、アルトー論に近いのは暗黒舞踏だとは思うよ。その中でもエンタメ系な伊藤キムとかに走ったけど。わたしは。田中泯さんや大駱駝艦系のも見て、もちろんすげえと思ったのだが、彼らの舞台は「場」を考えていないように思えた。空気なんて読むな、なんてこのブログでは主張しているけど、空気なんて関係ない世界は、空気を読むことだってありなわけで、要するになんでもありの世界なのだ。だから、定型発達的な「空気を読むこと」が決定的に欠如しているそれらの舞台は、なんかピンとこなかった。要するにアンチ・エンタメ的な志向が強く感じられて、エンタメとアンチ・エンタメの脱構築とはなっていないと思えたのだな。もちろんこれはわたしの主観による判断にすぎないが。大道芸的に、街中でああいうのがあれば、なんらかの「場」が生じるとは思うが、舞台という密閉された空間になると、何か透明なガラスで隔てられているように思える。プロセニアムアーチあるなしあるいは対面型舞台であるか否か関係なく。一方、キムさんの舞台は、普通に舞台と客席が対面型だったのだが、ちゃんとエンタメ的な部分もあり、なんでもありだったように思える。
こういった論は、構造がとっても笙野頼子のアヴァン・ポップ論と類似している、と自分勝手に思っている。笙野のバヤイ、この論で言うところの「アンチ・エンタメ/エンタメ」っていうのが「(これまでの)純文学/ポップなテクスト」ってことになっているけど。要するにそれらをごっちゃにするってことだとわたしは勝手に解釈している。
なんでもありの世界。ここでの世界とは独我論的な意味での世界であり、即ち意味の世界だ。ということは、なんでもありな意味の世界、となる。わたしはわたしの実体験をもってこれを「意味がサーカスをしている」世界などと述べたりする。それは理屈的には無意味と等値ではあるが、「意味のなさ」に一種のノスタルジーをおっかぶせている巷の「無意味を主題にした(いわゆるナンセンス系の)芸術作品」が示す「無意味」とは一線を画すものだ。無意味ではあるが、意味が存在しないという意味ではなく、それぞれの意味が(文脈のごとく)溶け合わず、独立して、火花のように飛び交っている世界である。
なんでもありな意味の世界では、わたしはなんでもないものとなる。いや、世界もなんでもないのだ。「なんでもあり」と「なんでもない」は等値なのだ。
まさにそれは、「存在しない」極点なのだ。この極点を、わたしは「タンジェント関数のπ/2のところ」と述べたりする。yの値が無限大とマイナス無限大となる領域。それが、「なんでもあり」で「なんでもない」世界であり、意味がサーカスをしている世界だ。
この世界に、精神分析(深層心理学)論という理屈体系の中で、もっとも親近しているのが、「影」という元型であり、トラウマが露骨に再帰する「夢」だと、わたしは思うのだ。
そしてそれは、決して快楽的なものではなく、ラカン論的な意味での享楽的なものだと思っている。即ち、もっともおぞましいものである故もっとも魅惑的なものである領域。
それは、こうも言い換えられよう。正常人が狂気に触れる領域。
「影」も「夢」も、その領域の隠喩なのだ。
わたしは、正常人と狂人の断絶を守る、と主張している。それは、それが断絶でなければ、享楽とならないからである。もっともおぞましくもっとも魅惑的なものとはなりえないからである。サインやコサインのように連続してしまっては、「なんでもあり」かつ「なんでもない」世界には辿り着けない。意味はサーカスをしてくれない。わたしは享楽主義者として、サーカスに解離症状的に没頭する子供のごとく、この断絶を守る。
この断絶が、精神分析論においては、元型としての「影」とクライアントが見る「夢」とに深く関連していることが、理屈と臨床によって示されている、という話である。
さて、ここで谷山のテクストに戻ろう。
「影」や「夢」が、狂気の世界を隠喩していると仮定してみよう。そうすると、前掲の歌詞には、恐ろしいことが描かれているのがわかる。
「わたしと同じ夢を見たいと言って」とは、「わたしの狂気に溺れたいと言って」という意味になり、「あなたの影だけが好き」とは、「あなたの狂気だけが好き」という意味になる。
この理屈の敷衍はおかしいだろうか? しかし、こう考えるならば、「わたしのことが知りたければ質問をしないで」という言葉は、「夢」という現実界に親近する領域を根拠にして、「質問」という象徴界的(言葉によるコミュニケーション)かつ想像界的(転移的な感情移入)なものを拒否している意味だと解釈でき、ラカン論においてもすっきりと辻褄が合う(「現実界とは命のしかめっ面である」)。すっきりしすぎていてつまらねえ解釈になっていると自分で思う。
もちろんこんな屁理屈的な解釈に反発を覚える谷山ファンもいるだろう。しかし、谷山ファンなら知っていることだろうが、谷山の歌は、そのメルヘンチックな曲調と、それに反発するかのようなキチガイチックな歌詞が併存しているのが魅力である。この『影ふみ』という曲も、曲調はポップな、アイドル歌手が歌っていても違和感がないものである。その割に、この歌詞には、谷山の暗黒面とも呼べる世界が、言葉の中にないように思われるかもしれない。実際彼女の作品には、暗黒面を見せていないものも多い。しかし、ある理屈を採用することにより、その意味で構成された世界は、暗黒世界に一変する、ということを述べたかったのだ。自分勝手に。
この歌詞をむりやり要約するならば、
「一緒に享楽しましょう、即ち、狂気に溺れましょう」
というものである、という話。最近のアルバムでは『夢のスープ』とかこのテーマが明確な歌だと思うよ。
そういえば谷山も「サーカス」って言葉好きだよな。これについてはあんまりこの論と関係ないけれど。
「あなたの影だけが好きよ」
この言葉を、たとえば、ユング論の影響が色濃い村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に登場する「影」と関連づけて考えてみると、この言葉の恐ろしさの一端がわかってもらえるかもしれない。
「影が好き」ではなく、「影【だけ】が好き」ということに留意して。
村上のはなんていうか、理屈臭が濃いけどね。それは歌詞と(長編)小説というスタイルの違いにもよるところでもあり、別に批判している意味で言っているわけではない。
まあ、そんな話。
あ、一応言っとくと、なんだかんだ言って「三大ネクラ女性歌手(中島みゆき、谷山浩子、山崎ハコ)」と呼ばれていた時代の、初期のニューミュージック的な方が好きだな。谷山は。いや今の世界も好きだけど。アルバムは『夢半球』とか好き。なんか混乱しているような感じが。すげえ素な感じがする。
わたしはラカニアンじゃなくてクリステヴァ論者だ、ってことあるごとに言っている。とはいえ「ラカニエンヌ」って言葉は、なんか響き的ににちゃにちゃしていて嫌いじゃない。
だからラカニエンヌって呼ばれるならいいや、と思った。それだけ。