縛って縛られて
2008/10/05/Sun
演劇やってた頃の記憶が甦っている。
当時、やりたかったのは舞台美術だったのだが、いろいろなアイデアを却下された。
その一つに、舞台ツラに有刺鉄線を張り巡らせる、というのがあった。客席と演者の間に、おみくじを結んだ細い枝のような有刺鉄線を、客は向こう側の演技が見える程度に、張り巡らせる。棘に色つけるとかして。
しかし、演劇オタクな主宰から言わせると、結構よくあるアイデアらしく、却下された。客席と舞台の間になにがしかの遮蔽物を置くのは。
主宰はパーソナリティとして抑鬱的だった、とはここでも書いたが、わたしもわたしでカラフルな舞台は好きじゃなく(大道具としてもめんどくさいしペンキ代かさむし、というのもあった。制作と美術は兼任したらダメよね)、モノトーン系の美術案が多かったのだが、そういうところは合ってたのかもしれないね。演者や照明を引き立たせるための舞台、みたいな自分ルールがあったし。
でも、わたしは、彼の台本や演出に、なんというか、さまざまな束縛を感じていた。その束縛を彼自身自覚しているように思えた。
そういった意味で、有刺鉄線のアイデアを提案したのかもしれない。
うん、彼の作品として一つの芝居だと考えると、それは痛みを伴う有刺鉄線で束縛されたような感覚があった、というかな。SMチックな、有刺鉄線で固縛された身体。わ、なんかキリストチック(笑)。
こういう説得すれば彼もこのアイデアを採用してくれたのかもしれない、となんとなく思った。でも今冷静に考えると大仁田厚チックでダメだよなやっぱ。
それだけの話。
未去勢者は、去勢されたいとは思っている。未去勢な部分をたまたま多く持つ主体だからこそ、去勢の重要さを感覚的に認知できている。
未去勢者にとっては、自分と周りの人間の間に、さまざまな遮蔽物がある。遮蔽物があるのが現実だ。そんな現実を幻想で乗り越えているのが、去勢済みな主体だ。
未去勢者にとって、舞台ツラにある有刺鉄線は、現実的なものなのである。
そういう意味で、未去勢者たちはむしろ縛られたいのだ、という言説もありなんだろうな、とぼんやり思った。
ぼやけてるな。頭が。
当時、やりたかったのは舞台美術だったのだが、いろいろなアイデアを却下された。
その一つに、舞台ツラに有刺鉄線を張り巡らせる、というのがあった。客席と演者の間に、おみくじを結んだ細い枝のような有刺鉄線を、客は向こう側の演技が見える程度に、張り巡らせる。棘に色つけるとかして。
しかし、演劇オタクな主宰から言わせると、結構よくあるアイデアらしく、却下された。客席と舞台の間になにがしかの遮蔽物を置くのは。
主宰はパーソナリティとして抑鬱的だった、とはここでも書いたが、わたしもわたしでカラフルな舞台は好きじゃなく(大道具としてもめんどくさいしペンキ代かさむし、というのもあった。制作と美術は兼任したらダメよね)、モノトーン系の美術案が多かったのだが、そういうところは合ってたのかもしれないね。演者や照明を引き立たせるための舞台、みたいな自分ルールがあったし。
でも、わたしは、彼の台本や演出に、なんというか、さまざまな束縛を感じていた。その束縛を彼自身自覚しているように思えた。
そういった意味で、有刺鉄線のアイデアを提案したのかもしれない。
うん、彼の作品として一つの芝居だと考えると、それは痛みを伴う有刺鉄線で束縛されたような感覚があった、というかな。SMチックな、有刺鉄線で固縛された身体。わ、なんかキリストチック(笑)。
こういう説得すれば彼もこのアイデアを採用してくれたのかもしれない、となんとなく思った。でも今冷静に考えると大仁田厚チックでダメだよなやっぱ。
それだけの話。
未去勢者は、去勢されたいとは思っている。未去勢な部分をたまたま多く持つ主体だからこそ、去勢の重要さを感覚的に認知できている。
未去勢者にとっては、自分と周りの人間の間に、さまざまな遮蔽物がある。遮蔽物があるのが現実だ。そんな現実を幻想で乗り越えているのが、去勢済みな主体だ。
未去勢者にとって、舞台ツラにある有刺鉄線は、現実的なものなのである。
そういう意味で、未去勢者たちはむしろ縛られたいのだ、という言説もありなんだろうな、とぼんやり思った。
ぼやけてるな。頭が。