自閉症者を取り巻く現実
2008/10/09/Thu
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無断リンクですええすみません。
omekoさんのテクストについて、なかなか「定型発達という精神障害」を心得ているように思え、実は感心すらしている。定型発達者の本音をちゃんと言えている。うん。いいテクストだ。
よくわかってるよなー。ファルスという狂気を。この子のバヤイファルスの想像的側面(-φたる想像的ファルスとは別物)がすげえ強いけどね。精液のべとべと感を見事に表現できている。ちなみに話の発端となった「お姉さん」にもこのべとべと感はきつい。わたしならA型仮面で対応しちゃうタイプだなー。
ん、これこれ。わたしがいつも言っている「正常という狂気」って。とっても好例なので記録しとく。
このomekoさんっていうのも異常だ、って言うなら、まあパラノイアックなBPDになろうな。演技性人格障害の臭いはするけどよくわからない。
お前ら正常人もこいつと同類だよ。
正常人とは即ちパラノイアックな境界例なんだから。
「人格とはパラノイアである」
この言葉が示す現実は、重い。
ちなみに、笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』において、いぶきを天国に帰天させた作者即ち「語る主体」も、このomekoさんと同じ精神構造をしていると言える。当然細部は異なるであろうが、いぶきを天国に連れて行くことは、いぶきにとっては精液なのである。もちろんこれはわたしが感情移入(即ち転移)した幻想としてのいぶきの話であるが。
アスペルガー症候群関係者は、是非この三部作を読んでみて欲しい。第二部主人公のいぶきがいかに(自閉症だとは言い切れないが)発達障害チックであることが、理屈ではなく感覚的によくわかるだろう。余談ではあるが、未去勢者をリアルに迫って描けていると思える作品は、わたしの知るところではもう一つある。『氷の海のガレオン』という作品。この作品の主人公といぶきを比較すれば、その精神構造の類似に気づけるのではないだろうか。また、文庫に同時収録されている『オルタ』という作品を読めば、明らかに発達障害児についての作品であることがわかる。
そう考えるならば、自閉症スペクトラムで考えれば限りなく自閉症に近い精神構造をしていると思われるいぶきに、その歴史を語らせようとし、天国という幻想を生きさせることは、自閉症者を定型発達化させることだということがわかる。
この、自閉症関係者の思考回路によく見られがちな、「かわいそうな自閉症者を救ってあげよう」みたいな、その態度こそが、まずもって問題なのである。このきらきらした目の関係者たちがやっていることこそが、精液なのである。ファルスなのである。限りなく脱領土化された自閉症者のささやかな領土さえ略奪しようとする征服者の精神構造なのである。
いぶきに歴史を語らせ天国を生きさせようとすることも、自閉症者を定型発達化させようとすることも、このomekoさんのコメントと等しく、パラノイアックな精神障害による暴力なのである。
征服者の精神構造という意味で、このomekoさんのテクストに表れている「語る主体」と、『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』の「語る主体」は、同類である、という話。
いや、作品としてはすっげえおもしろいよ。『だいにっほんシリーズ』は。うん、マジオススメ。
それに、笙野は気づいているようにすら、わたしには思える。いぶきに歴史を語らせ天国を生きさせようとする作者の強権は、自分の飼い猫に施した去勢手術という暴力と、同じ臭いがすることに。
わたしは、自閉症者や統合失調症者は、ファルスに不具合がある未去勢な主体だと考えている。
笙野にとっての飼い猫とはファルスである。一般の母親にとっての子供がそうであるように。念のため断っておくが、笙野にとっての飼い猫は子供である、なんていうのは短絡化であり、そうとは言い切れないとも思っている。
……けなげ(笑)だな、わたし。
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無断リンクですええすみません。
omekoさんのテクストについて、なかなか「定型発達という精神障害」を心得ているように思え、実は感心すらしている。定型発達者の本音をちゃんと言えている。うん。いいテクストだ。
よくわかってるよなー。ファルスという狂気を。この子のバヤイファルスの想像的側面(-φたる想像的ファルスとは別物)がすげえ強いけどね。精液のべとべと感を見事に表現できている。ちなみに話の発端となった「お姉さん」にもこのべとべと感はきつい。わたしならA型仮面で対応しちゃうタイプだなー。
ん、これこれ。わたしがいつも言っている「正常という狂気」って。とっても好例なので記録しとく。
このomekoさんっていうのも異常だ、って言うなら、まあパラノイアックなBPDになろうな。演技性人格障害の臭いはするけどよくわからない。
お前ら正常人もこいつと同類だよ。
正常人とは即ちパラノイアックな境界例なんだから。
「人格とはパラノイアである」
この言葉が示す現実は、重い。
ちなみに、笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』において、いぶきを天国に帰天させた作者即ち「語る主体」も、このomekoさんと同じ精神構造をしていると言える。当然細部は異なるであろうが、いぶきを天国に連れて行くことは、いぶきにとっては精液なのである。もちろんこれはわたしが感情移入(即ち転移)した幻想としてのいぶきの話であるが。
アスペルガー症候群関係者は、是非この三部作を読んでみて欲しい。第二部主人公のいぶきがいかに(自閉症だとは言い切れないが)発達障害チックであることが、理屈ではなく感覚的によくわかるだろう。余談ではあるが、未去勢者をリアルに迫って描けていると思える作品は、わたしの知るところではもう一つある。『氷の海のガレオン』という作品。この作品の主人公といぶきを比較すれば、その精神構造の類似に気づけるのではないだろうか。また、文庫に同時収録されている『オルタ』という作品を読めば、明らかに発達障害児についての作品であることがわかる。
そう考えるならば、自閉症スペクトラムで考えれば限りなく自閉症に近い精神構造をしていると思われるいぶきに、その歴史を語らせようとし、天国という幻想を生きさせることは、自閉症者を定型発達化させることだということがわかる。
この、自閉症関係者の思考回路によく見られがちな、「かわいそうな自閉症者を救ってあげよう」みたいな、その態度こそが、まずもって問題なのである。このきらきらした目の関係者たちがやっていることこそが、精液なのである。ファルスなのである。限りなく脱領土化された自閉症者のささやかな領土さえ略奪しようとする征服者の精神構造なのである。
いぶきに歴史を語らせ天国を生きさせようとすることも、自閉症者を定型発達化させようとすることも、このomekoさんのコメントと等しく、パラノイアックな精神障害による暴力なのである。
征服者の精神構造という意味で、このomekoさんのテクストに表れている「語る主体」と、『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』の「語る主体」は、同類である、という話。
いや、作品としてはすっげえおもしろいよ。『だいにっほんシリーズ』は。うん、マジオススメ。
それに、笙野は気づいているようにすら、わたしには思える。いぶきに歴史を語らせ天国を生きさせようとする作者の強権は、自分の飼い猫に施した去勢手術という暴力と、同じ臭いがすることに。
わたしは、自閉症者や統合失調症者は、ファルスに不具合がある未去勢な主体だと考えている。
笙野にとっての飼い猫とはファルスである。一般の母親にとっての子供がそうであるように。念のため断っておくが、笙野にとっての飼い猫は子供である、なんていうのは短絡化であり、そうとは言い切れないとも思っている。
……けなげ(笑)だな、わたし。