わたしの彼女の背中。背中しかない世界。
2008/10/10/Fri
わたしの知っている彼女は、彼女が知っている彼女と、全く同じというわけではない。
わたしは彼女の知らない彼女を知っている。彼女はそれを知らないのだから、それを否定するだろう。彼女本人が否定したわけだから、わたしが知っていて彼女が知らない彼女は、間違った彼女となる。
だけど、間違った彼女は、偽者なのだろうか。わたしの幻想ではあろう。だけどこの幻想だって彼女という実存在を根拠にしたものではあるので、偽者と言い切るのも引っかかってしまう。
別にわたしはわたしの知っている彼女に固執しているわけではない。何故ならわたしは彼女そのものにそれほど興味を持っていないからだ。
とはいえ、なんらかのきっかけがあれば、それに関連するものとして、彼女そのものに興味を持つことがある。たとえば、三年前彼女は会社を辞めた。精神的に不調をきたしていたらしい。見た目には普通だったのに。会社を辞める直前、傷病休暇で休みがちな彼女に、わたしは強い興味を覚えた。だけど三年たった今の彼女には、それほど興味がない。
わたしが知っていて彼女も知っている彼女、つまりわたしと彼女の間で合意が取れている彼女もある。それについては、なんというか、臭い物にする蓋のようなものだとわたしは思っている。従って、彼女と交わす彼女について会話は、ほとんどこの合意が取れている彼女に基づいたものとなる。それはそれで別にいい。合意が取れている彼女をわたしは否定するつもりはない。そもそも、わたしはそれを否定していないから、彼女と合意が取れているのだ。
ここで問題にしたいのは、繰り返しになるが、わたしが知っていて彼女が知らない彼女についてなのだ。
念のため断っておくが、わたしが知っていて彼女も知っている彼女以外のわたしや彼女(わたしが知っていて彼女も知っているわたし即ち合意が取れているわたし、わたしは知らないけど彼女は知っている彼女、彼女が知っていてわたしが知らないわたし、わたしも彼女も知らないわたしや彼女)についても、ここでは否定しないし、言及しない。
それらのさまざまなわたしと彼女においての一部分の彼女について、わたしは興味を覚えている、という話だ。
この、わたしが知っていて彼女が知らない彼女とは、比喩的に彼女の背中だと言ってもいいだろう。わたしは見ることができて彼女は見ることができない背中。背中の彼女。背中だけの存在。
つまり、わたしは彼女の背中を見ている、ということになる。
この比喩を採用すると、先ほどのさまざまなわたしと彼女についても、わかりやすく説明できる。面と向き合った時のわたしと彼女、どちらかが背中を向けている時のわたしあるいは彼女、背中同士を向けているわたしや彼女、などという風に。
……ここでわたしはようやく気づく。
わたしが興味を覚えているのは、わたしが知っていて彼女が知らない彼女などではなく、わたしも彼女も知らないわたしや彼女なのだ。
それは、背中同士を向け合ったわたしや彼女である。わたしはそれを知りたいのだ。だからわたしは振り返る。鏡に映った自分の背中を見るがごとく、素早く振り返る。何度も何度も振り返る。
わたしが知りたいのは、わたしも彼女も知らないわたしや彼女、いや、ここではわたしより彼女に重心が傾いているので、彼女である、と言ってもいいだろう。
しかし、合わせ鏡でない限り、鏡に映った自分の背中は見ることができない。それと同じで、わたしが見ているものは、わたしも彼女も知らない彼女ではなく、わたしが知っていて彼女が知らない彼女となってしまう。
……それは仕方のないことなのだろう。
わたしは、わたしが知っていて彼女が知らない彼女をヒントに、わたしも彼女も知らない彼女を推理する。思いを馳せている。それは見えた途端、わたしが知っていて彼女が知らない彼女に変化する、はかない彼女だ。瞬間的な彼女だ。
瞬間的である故に、時間という幻想に生きているわたしは、彼女に興味を覚えなくなるのだ。背中を向けなければ鏡に背中は映らないということは知識として知っている。背中同士の彼女を知りたいのだから、わたしは彼女に背を向ける。
こういった態度は、小学生が好きな子にイタズラをするのと似ているかもしれない。鏡に映った自分の背中を見ようと、素早く何度も振り返る子供。いや子供ですらそんなことはしない。頭のおかしい人だ。
そう、おかしいのだ。何故なら、鏡に映っているのはわたしだからだ。わたしは彼女の背中をわたしの背中だと思っている。わたしも彼女も知らない彼女は、彼女でありながら、わたしだと思っている。
背中しかない世界。そこでの背中は、わたしでもあり彼女でもあると思っている。
……やっぱり、頭がおかしいのだ。わたしはどうかしている。
――ゴミ文書フォルダの中にあったものから抜粋。
この記事読んで連想した。記事の彼がこういった心境だとは言わない。ただわたしが勝手に連想しただけの話である。
なんかそれだけ。
わたしは彼女の知らない彼女を知っている。彼女はそれを知らないのだから、それを否定するだろう。彼女本人が否定したわけだから、わたしが知っていて彼女が知らない彼女は、間違った彼女となる。
だけど、間違った彼女は、偽者なのだろうか。わたしの幻想ではあろう。だけどこの幻想だって彼女という実存在を根拠にしたものではあるので、偽者と言い切るのも引っかかってしまう。
別にわたしはわたしの知っている彼女に固執しているわけではない。何故ならわたしは彼女そのものにそれほど興味を持っていないからだ。
とはいえ、なんらかのきっかけがあれば、それに関連するものとして、彼女そのものに興味を持つことがある。たとえば、三年前彼女は会社を辞めた。精神的に不調をきたしていたらしい。見た目には普通だったのに。会社を辞める直前、傷病休暇で休みがちな彼女に、わたしは強い興味を覚えた。だけど三年たった今の彼女には、それほど興味がない。
わたしが知っていて彼女も知っている彼女、つまりわたしと彼女の間で合意が取れている彼女もある。それについては、なんというか、臭い物にする蓋のようなものだとわたしは思っている。従って、彼女と交わす彼女について会話は、ほとんどこの合意が取れている彼女に基づいたものとなる。それはそれで別にいい。合意が取れている彼女をわたしは否定するつもりはない。そもそも、わたしはそれを否定していないから、彼女と合意が取れているのだ。
ここで問題にしたいのは、繰り返しになるが、わたしが知っていて彼女が知らない彼女についてなのだ。
念のため断っておくが、わたしが知っていて彼女も知っている彼女以外のわたしや彼女(わたしが知っていて彼女も知っているわたし即ち合意が取れているわたし、わたしは知らないけど彼女は知っている彼女、彼女が知っていてわたしが知らないわたし、わたしも彼女も知らないわたしや彼女)についても、ここでは否定しないし、言及しない。
それらのさまざまなわたしと彼女においての一部分の彼女について、わたしは興味を覚えている、という話だ。
この、わたしが知っていて彼女が知らない彼女とは、比喩的に彼女の背中だと言ってもいいだろう。わたしは見ることができて彼女は見ることができない背中。背中の彼女。背中だけの存在。
つまり、わたしは彼女の背中を見ている、ということになる。
この比喩を採用すると、先ほどのさまざまなわたしと彼女についても、わかりやすく説明できる。面と向き合った時のわたしと彼女、どちらかが背中を向けている時のわたしあるいは彼女、背中同士を向けているわたしや彼女、などという風に。
……ここでわたしはようやく気づく。
わたしが興味を覚えているのは、わたしが知っていて彼女が知らない彼女などではなく、わたしも彼女も知らないわたしや彼女なのだ。
それは、背中同士を向け合ったわたしや彼女である。わたしはそれを知りたいのだ。だからわたしは振り返る。鏡に映った自分の背中を見るがごとく、素早く振り返る。何度も何度も振り返る。
わたしが知りたいのは、わたしも彼女も知らないわたしや彼女、いや、ここではわたしより彼女に重心が傾いているので、彼女である、と言ってもいいだろう。
しかし、合わせ鏡でない限り、鏡に映った自分の背中は見ることができない。それと同じで、わたしが見ているものは、わたしも彼女も知らない彼女ではなく、わたしが知っていて彼女が知らない彼女となってしまう。
……それは仕方のないことなのだろう。
わたしは、わたしが知っていて彼女が知らない彼女をヒントに、わたしも彼女も知らない彼女を推理する。思いを馳せている。それは見えた途端、わたしが知っていて彼女が知らない彼女に変化する、はかない彼女だ。瞬間的な彼女だ。
瞬間的である故に、時間という幻想に生きているわたしは、彼女に興味を覚えなくなるのだ。背中を向けなければ鏡に背中は映らないということは知識として知っている。背中同士の彼女を知りたいのだから、わたしは彼女に背を向ける。
こういった態度は、小学生が好きな子にイタズラをするのと似ているかもしれない。鏡に映った自分の背中を見ようと、素早く何度も振り返る子供。いや子供ですらそんなことはしない。頭のおかしい人だ。
そう、おかしいのだ。何故なら、鏡に映っているのはわたしだからだ。わたしは彼女の背中をわたしの背中だと思っている。わたしも彼女も知らない彼女は、彼女でありながら、わたしだと思っている。
背中しかない世界。そこでの背中は、わたしでもあり彼女でもあると思っている。
……やっぱり、頭がおかしいのだ。わたしはどうかしている。
――ゴミ文書フォルダの中にあったものから抜粋。
この記事読んで連想した。記事の彼がこういった心境だとは言わない。ただわたしが勝手に連想しただけの話である。
なんかそれだけ。