pikarrr氏との議論
2008/10/13/Mon
この記事のコメント欄の続き。
我慢するとか書いてるけど、ああん、我慢できないー(ギャグですよ)。
なんかブログに書けって言われたのでこっちにうp。
>身体知は脂さんの地雷のようですね。
その通り!
言い訳として、私事を垂れ流させていただきます。
わたしはそちらのコメントで、歩き方を忘れてしまう、と書きました。他の読者の方などは「んなアホな」と思われるかもしれません。でもそれは事実なのです。
ブログでも書いていることですが、わたしは昔、癲癇を疑われていました。親からも医師からも具体的な診断名を聞いていないので(未だに親は口を割らない)、疑われていた、と表現しています。診断名は聞いていないのですが、毎日結構な量の薬を飲まされていた記憶はあるので、なんらかの診断はくだされていたのだと思います。
わたしの他の人間と違うところとして、もう一例挙げておくと(同じくブログに書きました)、わたしは中高ぐらいまで、夢と現実が微妙に混同してしまっているようなところがありました。
歩き方を忘れてしまうこと、夢と現実が混同してしまうこと、これらの症状の説明を、わたしはヒステリー(解離性障害)に求めました。今でもそう思っています。
しかし、精神分析あるいは精神医学を学ぶにつれ、それは統合失調症やあるいは分裂病型人格障害に近いものであることを、他人事として理解できるようになりました。
また、癲癇が難治だった場合、発作症状が治まったとしても、後年統合失調症的な症状が表れることがある、ということも知識として知りました。
自分のそれが難治だったかどうかなどわかりません。しかし、こういった知識の羅列が、わたしを追いやっています。
わたしは、恐ろしいのです。
他人をモノとして見て「しまう」自分が。
わたしは、「現実界とはしかめっ面である」事実を知っている。自分の、ひきつけを起こしたり夢と現実を混同したりしてしまう、まるで何かの機械のような自分の身体が、恐ろしいものだと知っている。物自体的な身体の、現実界のおぞましさを知っている。
もちろん、この恐怖に抗うために様々な工夫を積み重ねております。ブログでも書いていますが、舞台役者の演技を学んだことは、この工夫の大きなウエイトを占めています。舞台役者の演技メソッドこそ、あなたの仰る身体知の、シニフィアン的ではない分析解体体系ではないでしょうか、とすら思えます。
あなたの仰る、鏡像段階的なもの以外のものを含めた環境による身体知、という概念は、重要だと考えています。他人事の頭では。
しかし、このコメントに対して、わたしはこう反論しなければなりません。鏡像段階を経た後に構築される環境(即ち主観世界)と、それ以外の物自体的な環境は、決して融合できるものではない、と。これはわたしの心的事実により断言できます。物自体的な環境から遠く離れた世界を生きているあなたのような神経症者には感知が難しいことではありましょうが。
何故なら、鏡像段階により形成される人格が、物自体的な環境を怖れるからです。
鏡像段階により、それこそ人間なるものを中心にして見るようになった主観世界と、自閉症者や統合失調症者が生きる世界に親近する、未去勢的な主観世界は、反発するものなのです。これは人間という物体の原理とさえ言えるように、わたしは思います。
>精神分析では(他者でない)環境は語れない、ということです。
仰る通りです。
この言葉はこう言い換えられるでしょう。精神分析は、鏡像段階を経た主体=ファルスを持っている主体=神経症者=定型発達者の主観世界しか語れない。事実わたしは、鏡像段階に不具合がある自閉症については、精神分析は語りえない、と書いています。
何故精神分析は、他者でない環境を語れないのか。あるいは語らないのか。
それは、その環境を生きる主観世界が、精神病者と呼ばれる人間が生きる世界だと知っているからではないでしょうか。
そしてそれは、ファルスにとって大いなる脅威(まさにプレコックス感!)であることも。
この脅威、苦痛、恐怖を抜きして、他者ではない環境を語っているテクストなど、わたしにとってはライトノベルレベルのちゃんちゃらおかしいものに感じられます。エンターテイメントならばありでしょう。要するにギャグとして語っているならば。
ギャグじゃなくてそれをマジメな顔で語るだけならば、「ぷwww わかってーねーなー」ぐらいで済みますが、自分のファルスを慰めるのを目的として、未去勢な主観世界をダシにして語っているガタリのテクストには、わたしは殺意すら覚えます。わたしは『アンチ・オイディプス』はとても(ファルスの自慰なだけに)精液臭く感じてしまいます。だからわたしはガタリは中二病だ、と言ったわけです。
あなたのような去勢済みな主体にとって、他者ではない環境を語ることは、一つの禁忌のようなものとして、ご理解ください。
語るな、などとは申しません。語れば、わたしのようなキチガイが湧いてきて、あなたを精神的に不安定にせしめてしまうという自然の摂理を、わたしは述べているのです。
キチガイじゃない正常な人って、なんでキチガイな世界に憧れるのだろう? まさにこれこそがわたしが感じる「正常という狂気」だ。
こっちの世界は、お前らが思っているような呑気な世界じゃねえんだよ。
そういう話ですよ。
「現実界はしかめっ面をしている」ことがわかっていない人間が、物自体的な現実界的な世界を、自分にとって、ファルスを持つ神経症者にとって、都合よく語っていることほど、殺意を催すものはありません。
あなたがそんな精液臭い「語る主体」にならないことを、あなたがガタリやジジェクのごとく物自体的な現実界的な主観世界をシニフィアンに回収してしまわないことを祈って、こういうテクストを書いておきます。
哲学畑とはいえ精神分析を学んでいるあなたならわかってくれるのではないか、というほのかな期待をもって。
……いや簡単にわかられてもちげえよって言うけどな。
追記。
この際個人的な感情をぶっちゃけます。
あなたは「臨界を超える」って言葉好きですよね。この議論において連鎖する臨界とは、言語ゲームの臨界になると思います。
あなたは言語ゲームを超えたがっている。それが象徴界的なものであれ想像界的なものであれ、別にどうでもいいことです。わたしにとっては。哲学畑では、象徴界的なものに回収してしまう傾向が確かにあるのでしょう。それに対するあなたの反発も理解できないことはないです(この記事でも軽く触れました)。
しかし、わたしにとっては、「臨界を超える」などと、肯定的な意味は持ち合わせていません。わたしはわたしの心的事実をもってこう言い換えられます。「人間なるものという臨界から排除されてしまうこと」「言語ゲームからこぼれ落ちてしまうこと」などと。それはまったくいいものではありません。他人に(象徴的であれ想像的であれ)理解されない主観世界を生きていくことです。
精神分析は、このことを知っているように思います。だから象徴界的であれ想像界的であれ、その循環からあえて脱しないのだと。他者ではない環境を語らないのだと。キチガイと常に対峙(臨床)してきた学問だからこそ、それが(ファルスという人間なるものにとって)禁忌だと知っている。そうわたしには思えます。
臨界を超えることは、言語ゲームからこぼれ落ちることは、素晴らしいことでもなんでもありません。キチガイと呼ばれる主観世界を生きることです。
あなたにその覚悟はあるのですか?
あるいは、あなたは自分がキチガイになれると思っているのですか?
去勢済みな神経症者という大多数の人間が生きている主観世界と自分自身の中で反発する「他者ではない」主観世界を生きる苦痛を、あなたはわかってそんな論を述べているのですか?
わたしはそう問うているのです。
シニフィアンには回収されえない、感情論として、ね。
追記2。
>自分のブログで考えを整理してトラックバックを送ってもらった方がいいと思いますよ。
考えを整理すること=シニフィアンに回収することじゃねえか。
精神分析がさまざまな主観世界をシニフィアンに回収することを批判しときながら、シニフィアンに回収されえないキチガイの現実感に基づいたわたしのコメントに対して、シニフィアンに回収してから話せ、と言っている。
片腹痛いわ。
あなたは何故「考えを整理して」もらいたいと思ったのか?
あなたのファルスが脅かされているから、それを防衛しているのですよ。
ここのコメント欄でションベン臭いメス犬がわたしをキ●ガイと評したごとくね。
それでいいのです。あなたは禁忌の領域の臭いを感じて尻込みしている。精神分析がそうであったように。
わたしにとって、わたしの本性とは禁忌である。
わたしは禁忌を内包してしまっている。
これを絶対的に理解できないのが去勢済みな神経症者たちである。
何故なら去勢によってその禁忌を棄却できているのが「正常という狂気」「人間という病」だからだ。
構造的にはとっても単純。
こっちから見れば。
我慢するとか書いてるけど、ああん、我慢できないー(ギャグですよ)。
なんかブログに書けって言われたのでこっちにうp。
>身体知は脂さんの地雷のようですね。
その通り!
言い訳として、私事を垂れ流させていただきます。
わたしはそちらのコメントで、歩き方を忘れてしまう、と書きました。他の読者の方などは「んなアホな」と思われるかもしれません。でもそれは事実なのです。
ブログでも書いていることですが、わたしは昔、癲癇を疑われていました。親からも医師からも具体的な診断名を聞いていないので(未だに親は口を割らない)、疑われていた、と表現しています。診断名は聞いていないのですが、毎日結構な量の薬を飲まされていた記憶はあるので、なんらかの診断はくだされていたのだと思います。
わたしの他の人間と違うところとして、もう一例挙げておくと(同じくブログに書きました)、わたしは中高ぐらいまで、夢と現実が微妙に混同してしまっているようなところがありました。
歩き方を忘れてしまうこと、夢と現実が混同してしまうこと、これらの症状の説明を、わたしはヒステリー(解離性障害)に求めました。今でもそう思っています。
しかし、精神分析あるいは精神医学を学ぶにつれ、それは統合失調症やあるいは分裂病型人格障害に近いものであることを、他人事として理解できるようになりました。
また、癲癇が難治だった場合、発作症状が治まったとしても、後年統合失調症的な症状が表れることがある、ということも知識として知りました。
自分のそれが難治だったかどうかなどわかりません。しかし、こういった知識の羅列が、わたしを追いやっています。
わたしは、恐ろしいのです。
他人をモノとして見て「しまう」自分が。
わたしは、「現実界とはしかめっ面である」事実を知っている。自分の、ひきつけを起こしたり夢と現実を混同したりしてしまう、まるで何かの機械のような自分の身体が、恐ろしいものだと知っている。物自体的な身体の、現実界のおぞましさを知っている。
もちろん、この恐怖に抗うために様々な工夫を積み重ねております。ブログでも書いていますが、舞台役者の演技を学んだことは、この工夫の大きなウエイトを占めています。舞台役者の演技メソッドこそ、あなたの仰る身体知の、シニフィアン的ではない分析解体体系ではないでしょうか、とすら思えます。
あなたの仰る、鏡像段階的なもの以外のものを含めた環境による身体知、という概念は、重要だと考えています。他人事の頭では。
しかし、このコメントに対して、わたしはこう反論しなければなりません。鏡像段階を経た後に構築される環境(即ち主観世界)と、それ以外の物自体的な環境は、決して融合できるものではない、と。これはわたしの心的事実により断言できます。物自体的な環境から遠く離れた世界を生きているあなたのような神経症者には感知が難しいことではありましょうが。
何故なら、鏡像段階により形成される人格が、物自体的な環境を怖れるからです。
鏡像段階により、それこそ人間なるものを中心にして見るようになった主観世界と、自閉症者や統合失調症者が生きる世界に親近する、未去勢的な主観世界は、反発するものなのです。これは人間という物体の原理とさえ言えるように、わたしは思います。
>精神分析では(他者でない)環境は語れない、ということです。
仰る通りです。
この言葉はこう言い換えられるでしょう。精神分析は、鏡像段階を経た主体=ファルスを持っている主体=神経症者=定型発達者の主観世界しか語れない。事実わたしは、鏡像段階に不具合がある自閉症については、精神分析は語りえない、と書いています。
何故精神分析は、他者でない環境を語れないのか。あるいは語らないのか。
それは、その環境を生きる主観世界が、精神病者と呼ばれる人間が生きる世界だと知っているからではないでしょうか。
そしてそれは、ファルスにとって大いなる脅威(まさにプレコックス感!)であることも。
この脅威、苦痛、恐怖を抜きして、他者ではない環境を語っているテクストなど、わたしにとってはライトノベルレベルのちゃんちゃらおかしいものに感じられます。エンターテイメントならばありでしょう。要するにギャグとして語っているならば。
ギャグじゃなくてそれをマジメな顔で語るだけならば、「ぷwww わかってーねーなー」ぐらいで済みますが、自分のファルスを慰めるのを目的として、未去勢な主観世界をダシにして語っているガタリのテクストには、わたしは殺意すら覚えます。わたしは『アンチ・オイディプス』はとても(ファルスの自慰なだけに)精液臭く感じてしまいます。だからわたしはガタリは中二病だ、と言ったわけです。
あなたのような去勢済みな主体にとって、他者ではない環境を語ることは、一つの禁忌のようなものとして、ご理解ください。
語るな、などとは申しません。語れば、わたしのようなキチガイが湧いてきて、あなたを精神的に不安定にせしめてしまうという自然の摂理を、わたしは述べているのです。
キチガイじゃない正常な人って、なんでキチガイな世界に憧れるのだろう? まさにこれこそがわたしが感じる「正常という狂気」だ。
こっちの世界は、お前らが思っているような呑気な世界じゃねえんだよ。
そういう話ですよ。
「現実界はしかめっ面をしている」ことがわかっていない人間が、物自体的な現実界的な世界を、自分にとって、ファルスを持つ神経症者にとって、都合よく語っていることほど、殺意を催すものはありません。
あなたがそんな精液臭い「語る主体」にならないことを、あなたがガタリやジジェクのごとく物自体的な現実界的な主観世界をシニフィアンに回収してしまわないことを祈って、こういうテクストを書いておきます。
哲学畑とはいえ精神分析を学んでいるあなたならわかってくれるのではないか、というほのかな期待をもって。
……いや簡単にわかられてもちげえよって言うけどな。
追記。
この際個人的な感情をぶっちゃけます。
あなたは「臨界を超える」って言葉好きですよね。この議論において連鎖する臨界とは、言語ゲームの臨界になると思います。
あなたは言語ゲームを超えたがっている。それが象徴界的なものであれ想像界的なものであれ、別にどうでもいいことです。わたしにとっては。哲学畑では、象徴界的なものに回収してしまう傾向が確かにあるのでしょう。それに対するあなたの反発も理解できないことはないです(この記事でも軽く触れました)。
しかし、わたしにとっては、「臨界を超える」などと、肯定的な意味は持ち合わせていません。わたしはわたしの心的事実をもってこう言い換えられます。「人間なるものという臨界から排除されてしまうこと」「言語ゲームからこぼれ落ちてしまうこと」などと。それはまったくいいものではありません。他人に(象徴的であれ想像的であれ)理解されない主観世界を生きていくことです。
精神分析は、このことを知っているように思います。だから象徴界的であれ想像界的であれ、その循環からあえて脱しないのだと。他者ではない環境を語らないのだと。キチガイと常に対峙(臨床)してきた学問だからこそ、それが(ファルスという人間なるものにとって)禁忌だと知っている。そうわたしには思えます。
臨界を超えることは、言語ゲームからこぼれ落ちることは、素晴らしいことでもなんでもありません。キチガイと呼ばれる主観世界を生きることです。
あなたにその覚悟はあるのですか?
あるいは、あなたは自分がキチガイになれると思っているのですか?
去勢済みな神経症者という大多数の人間が生きている主観世界と自分自身の中で反発する「他者ではない」主観世界を生きる苦痛を、あなたはわかってそんな論を述べているのですか?
わたしはそう問うているのです。
シニフィアンには回収されえない、感情論として、ね。
追記2。
>自分のブログで考えを整理してトラックバックを送ってもらった方がいいと思いますよ。
考えを整理すること=シニフィアンに回収することじゃねえか。
精神分析がさまざまな主観世界をシニフィアンに回収することを批判しときながら、シニフィアンに回収されえないキチガイの現実感に基づいたわたしのコメントに対して、シニフィアンに回収してから話せ、と言っている。
片腹痛いわ。
あなたは何故「考えを整理して」もらいたいと思ったのか?
あなたのファルスが脅かされているから、それを防衛しているのですよ。
ここのコメント欄でションベン臭いメス犬がわたしをキ●ガイと評したごとくね。
それでいいのです。あなたは禁忌の領域の臭いを感じて尻込みしている。精神分析がそうであったように。
わたしにとって、わたしの本性とは禁忌である。
わたしは禁忌を内包してしまっている。
これを絶対的に理解できないのが去勢済みな神経症者たちである。
何故なら去勢によってその禁忌を棄却できているのが「正常という狂気」「人間という病」だからだ。
構造的にはとっても単純。
こっちから見れば。