わたし自身が「地雷」だから
2008/10/14/Tue
まだやってたり。
こいつもだめだったか。
ま、仕方ないやね。ファルスを持てている人間が大多数な事実は変わらない。
マジデ定型発達者って八割ぐらい死んでくれないかな。
我こそはと思うキチガイの方々、いやなんでもない。
わたしはずるいから言葉でヤる。
まーこういう「正常人/キチガイ」の「/」という断絶を実感できない孫悟空たちが、自閉症者に精液をぶっかけちゃうのだろうな。
自分勝手にその構図に納得した。
みんなオラに狂気を分けてくれ!
嘘。やだよ狂気なんて。死ぬほどヤダ。
狂気とはケガレだ。
なんでこんな簡単なことを、いや感じているのだろうが、感じているくせに、隠蔽してしまうのだろう。定型発達という精神障害者たちは。
彼らには、キチガイたちの、正常になろうとする膨大な努力が、閉じているだかなんだか知らないが「正常という狂気」に縛られたがっているという機械的欲動が、一生理解できないのだろう。
閉じてあるいは縛られて生きられている自分の幸福を理解できないのだろう。
カゴの中の青い鳥に気づかないのだろう。
キチガイの世界からは逃げてしまった青い鳥に。
あーなんか、ラカン論もおもちゃになっていくわけだ。即ちジジェクが流行るわけだ。と納得できた。
大人のおもちゃだけどね。
追記。
よっしゃ、とりあえず言いたいことは言えたかな。
まあpikarrrさんに私信するなら、よっぽど身体知という概念が地雷だったのでしょうねえ。身体知に限らないと自分では思っているけど、やっぱり演劇やってたからかな。こんなにムキになっちゃうのって。
ああこれこれ。
=====
演劇人として言うなら、演劇をアイドル化させるマスコミのようなもの、と大学生の頃は言っていたように思う。
(中略)
マスコミというか、心理学者というか、ともかくわたしたちのやっていることを、大衆化やアイドル化やわかりやすい理屈化といったような形で、劣化させていく人たちに対して、どうしようもない嫌悪感を覚え続けていた。
彼らには、狂人や演劇人という、人間の心の本性と常に対峙しているあるいは対峙しようとする人間たちに、ゴマスリしているようなイメージがある。
それでその本性を理解してくれるならまだいいのだ。
ゴマスリしてきて、結果出てくる言葉が、わたしたちのやっていることや生きている世界と、まるで逆方向のものを示唆するものになる。
必ずと言っていいほど。
=====
こういった、明確なそれじゃないけど、不確定的なトラウマがあったのかもしれないね。
身体知や象徴界的知に限らない、「想像界や象徴界/現実界」の「/」に執着しているんだ、って自分では思うけど。
まさにクリステヴァ論あるいはクライン論。
ガタリ論はだめね。やっぱ男の子の方がファルスは強い。女性にもファルスはあるけれど、「女」という言葉が、ファルスの増長のストッパーとして働いているのかな。
まーそんなカンジー。
お、一応予言はしてるんだな。
「わたし自身が「地雷」だから」とか。
すげーわたし。
追記2。
大体「考えがまとまっていない」のはお前だろうが。
お前の論が、精神分析用語を使っているくせにその語にぶら下がるシニフィアン群を否定したり、あっちゃいったりこっちゃいったりしているんだよ。それがなんらかの実体を指摘するためのもの(たとえば「手紙は宛先に届かない」という実体を指摘するための脱構築など)ならいいけど、基本机上の空論じゃん。お前の論って。自分で「臨床には詳しくない」って言っているほどに。大体「臨床に詳しくない」と自認したその口で「精神分析は神経症/分裂病の二項対立に囚われている」なんてよく恥ずかしげもなく言えるものだわ。ここに自分の机上の空論さが如実に表れていると何故気づけないかね?
そんな臨床なり実体なりという根っこがないだらしないお前の論について、いちいち食いついているわたしの論が、あっちゃいったりこっちゃいったりしているように見えるだけじゃん。
わたしの論なんてそれこそシニフィアンに回収できないものだから、「まとまっていないことがまとまっている」ってことになるんだがな。
そもそもわたしに「まとめるべき考え」なんてありません。っていうかそもそも何故「考えをまとめるべき」となるのかが理解できない。
この程度かあ。やっぱり哲学畑のラカニアンってだめだなあ……。哲学だって臨床していると思ってるんだけどな。『魔女ランダ考』とかわかりやすい。永井均くんとかも、ひっじょーに幼稚な(即ちむき出しの)ファルスを曝け出していて精神分析的な臨床とは言えないと思うけれど、まあ臨床しようとしている気持ちは理解できる。
この子も嗅覚は悪くないと思うんだけど、またラカン論の哲学的分野への応用はわたしよりはるかに優れていると思えるけど、まあ底が見えたからいいや。
あ、優れていると思えるところは普通にパクると思うので、今後ともよろちく。
ちなみにわたしはラカン論を道具として主に利用しているけど、「手紙は宛先に届かないことがある」と思っているよ。
そもそも「手紙に宛先って必要なの? 宛先のないたとえば海に流す瓶詰め手紙とか手紙じゃないの?」みたいな立場。ある自閉症者の言葉を「宛先のない手紙」と表現しているようにね。こういう風に実体を指摘するためなら、わたしは精神分析用語にぶら下がる言葉を否定することもあるよ、って話。
っていうかわたし自身の手紙が届かない(まとめるべき考えがない)わけだから、「手紙は宛先に必ず届く」なんて言い分は否定するに決まってるじゃん。
とか言いながら鏡像段階を無難に経た神経症者たちだけが生きている世界、即ち言語ゲームという幻想の中でだけなら、「手紙は宛先に必ず届く」とは思っているけど。
この記事も、pikarrrさんという宛先がある部分はあるけど、実は宛先のない手紙だったりするんだな。そっちのウエイトが大きいのでこっちに書いてみますた。
わたしだってわたしなりの空気は読んでいるのですぅ! 他人と共有できない空気ではあるけどさ。
そーゆーことー。
追記3。
彼のコメントにおける、雪道を歩くという事例。
実はこれはわたしはよくわかる。
わたしが歩き方を忘れてしまい、ひき肉の地面を歩いているようになっている時の、身体反応とすこぶる近いと思えるからだ。ひき肉の地面を歩いているわけじゃないのに、雪道を歩いている時のわたしの身体反応は、それとよく似ていると思える。
他人事の頭で考えれば、その時のわたしの身体反応はこう表現できる。
わたしの主観世界の中で、ひき肉が地面になっている時、わたしは元の(それまで自分がしていた)歩き方を必死に保持しようとしている。人間らしい歩き方に近い歩き方を必死に思い出そうとしている。でもうまく思い出せない。わたしは動揺する。雪道でも当然ひき肉でもないアスファルトの地面を歩いているだけなのに、歩き方が変になってしまう自分が、まるで糞尿を漏らしているかのごとく、恥ずかしい。泣きそうになるほど、どうしようもない。実際泣いてしまっている。
そうやって、わたしはパニック障害と診断されたわけだ。
雪道を歩く人たちも、それを恥ずかしいと思っていないだけで、同じような身体反応が起こっているのではないだろうか。雪道の地面を歩いている時、つるつる滑って見苦しい歩き方になってしまいそうなのを、必死で普通の歩き方を維持しようとしているのではないか。できるだけ普通の歩き方に近い歩き方をしようとしているのではないか。
この、わたしや彼らが必死で維持しようとしている「普通の歩き方」こそが、鏡像段階で得た、それまで固定観念的な暗黙知として存在していた「人間の歩き方」である。
だからわたしはそのコメントの反論で、「雪道における歩き方は、鏡像段階による身体知が土台となって、それを応用した歩き方にすぎない」と書いたのだ。正しく言うなら、その事例は、鏡像段階による身体知を維持しようとする知を示している、ということである。
「そうじゃない、最初から雪道しかない、雪国の人たちの、独特な歩き方について述べているのだ」などという反論もありえようが、それこそ雪国に住む周りの人たちの歩き方を真似して、即ち鏡像的に模倣して、そんな歩き方を覚えた、ってことになる。それならその歩き方を恥ずかしいとか思わないよな。
そういう補足、だす。
そもそも雪道(深雪のところだろうが凍った地面だろうが)を移動するだけを目的とするなら、ころころ転がって移動したり、「歩くこと」に拘る必要ないじゃん。何故二足歩行に彼らは拘ってしまうのか? そういう話さ。四つん這いの方が速く移動できる野生児とかの存在を考えれば、そこが不思議に思えてこないかい?
余談になるけれど、鏡像段階ってのは脳科学的にはミラーニューロンと関係していると思うよ。だから鏡像段階とは言い切れないがそれらしき発達過程を持つ人間ではない動物もいるだろう、とわたしは思っている。猿とかにはあるんだよな確か。ミラーニューロンって。
このミラーニューロンが大きく関与する発達過程が心的外傷となっているかなっていないかの違いが、さまざまな宗教が模索してきた「人間と獣の違い」だ。心的外傷となっているのが去勢済みなお前ら神経症者で、なんらかの不具合により心的外傷となりえなかったのが自閉症者だ。鏡像段階とは、心的外傷となって初めて鏡像段階足りえるのである。
……雪道ならまだいいさ。そこが雪道だとわかるから。これから自分は雪道を歩くのだ、と予測できるから。
予測できるなら、その「雪道を歩く知」は、常に既に象徴化あるいは想像化されている、ということになる。
わたしのひき肉の地面は、いつ出現するかわからない。まさしく予測不可能な、到達不可能な現実界から湧き上がるものだ。
そう、やっぱり、わたし自身が「地雷」なのだ。そんな自分が死ぬほど恥ずかしいのだ。わたしという「地雷」をもっとも嫌悪しているのはわたし自身なのだ。狂気の本当のおぞましさを、しかめっ面をしている現実界をもっとも感知できているのは狂人自身なのだ。
死ぬほど恥ずかしいのに、こんな風な説明をしないと、お前ら去勢済みな正常人たちは「しかめっ面をした現実界」をわかってくれそうにない。だからわたしはお前らに殺意を覚えてしまうのだ。
それが鏡像段階によらない身体知だとか、ちゃんちゃらおかしいわ。鏡像段階によらない知の実体は、わたしの方がよくわかっている。さっきまでしていた歩き方を忘れてしまって思い出せない時の身体反応。それをどうにかしようとするわたしの、身体的か象徴界的かなんてどうでもいい、ただの知。しかめっ面をしている現実界についての知。絶対的未知に対する知。
お前の論、ライトノベルみたいだよ。「ひょっとしてそれはギャグで言ってるのか?」レベル。神経症者らしく幻想の中でしか生きられていないから、鏡像段階による身体知という実体に気づけないだけ。モンハンの♀キャラでオナニーでもしてなさい。
めんどくせえ説明させんなよなー。ここの反論についてだけはまとめてあげたよってことだ。宛先つきで。
ほんと、哲学畑のラカニアンってだめだめだなあ。
去勢とは、しばしば「死」によって象徴される。
であるならば、去勢済みな正常人(神経症者)たちは死にながら生きているということになる。
だから、わたしはこう言っている。
正常人たちは、死ねばいいのだ、と。
理屈的に、まったく正統な論である。
別にこれは「すごいこと」を言っているわけではない。このブログでは普通に述べている論である。
わたしの論、どこかおかしいだろうか?
ごめんねpikarrrさん、こないだの議論の時は思いっきり猫かぶってました。ほら、なんせ元舞台女優だし(笑)。
常連の読者さんたちはとっくに知っていると思うけど、これが素のわたし。わたしの本性。「地雷」という本質。
うん、大丈夫。あなたがだめなのはわかったから、もう安心して。
わたしと享楽できる、即ち心中できるラカニアンは、この世にはおらんのかー。
わたしと心中してくれるラカニアンとは言わないから精神分析家募集。
どう? そこあなた、わたしという地雷を味わってみない?
追記4。
つっかあれね。意外とpikarrrさんとこから飛んできてないのね。
哲学板にいるようなちっちゃなちんちんたちに群がられてしまうのかとちょっと身構えてたけど、よかった。
一安心。
こいつもだめだったか。
ま、仕方ないやね。ファルスを持てている人間が大多数な事実は変わらない。
マジデ定型発達者って八割ぐらい死んでくれないかな。
我こそはと思うキチガイの方々、いやなんでもない。
わたしはずるいから言葉でヤる。
まーこういう「正常人/キチガイ」の「/」という断絶を実感できない孫悟空たちが、自閉症者に精液をぶっかけちゃうのだろうな。
自分勝手にその構図に納得した。
みんなオラに狂気を分けてくれ!
嘘。やだよ狂気なんて。死ぬほどヤダ。
狂気とはケガレだ。
なんでこんな簡単なことを、いや感じているのだろうが、感じているくせに、隠蔽してしまうのだろう。定型発達という精神障害者たちは。
彼らには、キチガイたちの、正常になろうとする膨大な努力が、閉じているだかなんだか知らないが「正常という狂気」に縛られたがっているという機械的欲動が、一生理解できないのだろう。
閉じてあるいは縛られて生きられている自分の幸福を理解できないのだろう。
カゴの中の青い鳥に気づかないのだろう。
キチガイの世界からは逃げてしまった青い鳥に。
あーなんか、ラカン論もおもちゃになっていくわけだ。即ちジジェクが流行るわけだ。と納得できた。
大人のおもちゃだけどね。
追記。
よっしゃ、とりあえず言いたいことは言えたかな。
まあpikarrrさんに私信するなら、よっぽど身体知という概念が地雷だったのでしょうねえ。身体知に限らないと自分では思っているけど、やっぱり演劇やってたからかな。こんなにムキになっちゃうのって。
ああこれこれ。
=====
演劇人として言うなら、演劇をアイドル化させるマスコミのようなもの、と大学生の頃は言っていたように思う。
(中略)
マスコミというか、心理学者というか、ともかくわたしたちのやっていることを、大衆化やアイドル化やわかりやすい理屈化といったような形で、劣化させていく人たちに対して、どうしようもない嫌悪感を覚え続けていた。
彼らには、狂人や演劇人という、人間の心の本性と常に対峙しているあるいは対峙しようとする人間たちに、ゴマスリしているようなイメージがある。
それでその本性を理解してくれるならまだいいのだ。
ゴマスリしてきて、結果出てくる言葉が、わたしたちのやっていることや生きている世界と、まるで逆方向のものを示唆するものになる。
必ずと言っていいほど。
=====
こういった、明確なそれじゃないけど、不確定的なトラウマがあったのかもしれないね。
身体知や象徴界的知に限らない、「想像界や象徴界/現実界」の「/」に執着しているんだ、って自分では思うけど。
まさにクリステヴァ論あるいはクライン論。
ガタリ論はだめね。やっぱ男の子の方がファルスは強い。女性にもファルスはあるけれど、「女」という言葉が、ファルスの増長のストッパーとして働いているのかな。
まーそんなカンジー。
お、一応予言はしてるんだな。
「わたし自身が「地雷」だから」とか。
すげーわたし。
追記2。
大体「考えがまとまっていない」のはお前だろうが。
お前の論が、精神分析用語を使っているくせにその語にぶら下がるシニフィアン群を否定したり、あっちゃいったりこっちゃいったりしているんだよ。それがなんらかの実体を指摘するためのもの(たとえば「手紙は宛先に届かない」という実体を指摘するための脱構築など)ならいいけど、基本机上の空論じゃん。お前の論って。自分で「臨床には詳しくない」って言っているほどに。大体「臨床に詳しくない」と自認したその口で「精神分析は神経症/分裂病の二項対立に囚われている」なんてよく恥ずかしげもなく言えるものだわ。ここに自分の机上の空論さが如実に表れていると何故気づけないかね?
そんな臨床なり実体なりという根っこがないだらしないお前の論について、いちいち食いついているわたしの論が、あっちゃいったりこっちゃいったりしているように見えるだけじゃん。
わたしの論なんてそれこそシニフィアンに回収できないものだから、「まとまっていないことがまとまっている」ってことになるんだがな。
そもそもわたしに「まとめるべき考え」なんてありません。っていうかそもそも何故「考えをまとめるべき」となるのかが理解できない。
この程度かあ。やっぱり哲学畑のラカニアンってだめだなあ……。哲学だって臨床していると思ってるんだけどな。『魔女ランダ考』とかわかりやすい。永井均くんとかも、ひっじょーに幼稚な(即ちむき出しの)ファルスを曝け出していて精神分析的な臨床とは言えないと思うけれど、まあ臨床しようとしている気持ちは理解できる。
この子も嗅覚は悪くないと思うんだけど、またラカン論の哲学的分野への応用はわたしよりはるかに優れていると思えるけど、まあ底が見えたからいいや。
あ、優れていると思えるところは普通にパクると思うので、今後ともよろちく。
ちなみにわたしはラカン論を道具として主に利用しているけど、「手紙は宛先に届かないことがある」と思っているよ。
そもそも「手紙に宛先って必要なの? 宛先のないたとえば海に流す瓶詰め手紙とか手紙じゃないの?」みたいな立場。ある自閉症者の言葉を「宛先のない手紙」と表現しているようにね。こういう風に実体を指摘するためなら、わたしは精神分析用語にぶら下がる言葉を否定することもあるよ、って話。
っていうかわたし自身の手紙が届かない(まとめるべき考えがない)わけだから、「手紙は宛先に必ず届く」なんて言い分は否定するに決まってるじゃん。
とか言いながら鏡像段階を無難に経た神経症者たちだけが生きている世界、即ち言語ゲームという幻想の中でだけなら、「手紙は宛先に必ず届く」とは思っているけど。
この記事も、pikarrrさんという宛先がある部分はあるけど、実は宛先のない手紙だったりするんだな。そっちのウエイトが大きいのでこっちに書いてみますた。
わたしだってわたしなりの空気は読んでいるのですぅ! 他人と共有できない空気ではあるけどさ。
そーゆーことー。
追記3。
彼のコメントにおける、雪道を歩くという事例。
実はこれはわたしはよくわかる。
わたしが歩き方を忘れてしまい、ひき肉の地面を歩いているようになっている時の、身体反応とすこぶる近いと思えるからだ。ひき肉の地面を歩いているわけじゃないのに、雪道を歩いている時のわたしの身体反応は、それとよく似ていると思える。
他人事の頭で考えれば、その時のわたしの身体反応はこう表現できる。
わたしの主観世界の中で、ひき肉が地面になっている時、わたしは元の(それまで自分がしていた)歩き方を必死に保持しようとしている。人間らしい歩き方に近い歩き方を必死に思い出そうとしている。でもうまく思い出せない。わたしは動揺する。雪道でも当然ひき肉でもないアスファルトの地面を歩いているだけなのに、歩き方が変になってしまう自分が、まるで糞尿を漏らしているかのごとく、恥ずかしい。泣きそうになるほど、どうしようもない。実際泣いてしまっている。
そうやって、わたしはパニック障害と診断されたわけだ。
雪道を歩く人たちも、それを恥ずかしいと思っていないだけで、同じような身体反応が起こっているのではないだろうか。雪道の地面を歩いている時、つるつる滑って見苦しい歩き方になってしまいそうなのを、必死で普通の歩き方を維持しようとしているのではないか。できるだけ普通の歩き方に近い歩き方をしようとしているのではないか。
この、わたしや彼らが必死で維持しようとしている「普通の歩き方」こそが、鏡像段階で得た、それまで固定観念的な暗黙知として存在していた「人間の歩き方」である。
だからわたしはそのコメントの反論で、「雪道における歩き方は、鏡像段階による身体知が土台となって、それを応用した歩き方にすぎない」と書いたのだ。正しく言うなら、その事例は、鏡像段階による身体知を維持しようとする知を示している、ということである。
「そうじゃない、最初から雪道しかない、雪国の人たちの、独特な歩き方について述べているのだ」などという反論もありえようが、それこそ雪国に住む周りの人たちの歩き方を真似して、即ち鏡像的に模倣して、そんな歩き方を覚えた、ってことになる。それならその歩き方を恥ずかしいとか思わないよな。
そういう補足、だす。
そもそも雪道(深雪のところだろうが凍った地面だろうが)を移動するだけを目的とするなら、ころころ転がって移動したり、「歩くこと」に拘る必要ないじゃん。何故二足歩行に彼らは拘ってしまうのか? そういう話さ。四つん這いの方が速く移動できる野生児とかの存在を考えれば、そこが不思議に思えてこないかい?
余談になるけれど、鏡像段階ってのは脳科学的にはミラーニューロンと関係していると思うよ。だから鏡像段階とは言い切れないがそれらしき発達過程を持つ人間ではない動物もいるだろう、とわたしは思っている。猿とかにはあるんだよな確か。ミラーニューロンって。
このミラーニューロンが大きく関与する発達過程が心的外傷となっているかなっていないかの違いが、さまざまな宗教が模索してきた「人間と獣の違い」だ。心的外傷となっているのが去勢済みなお前ら神経症者で、なんらかの不具合により心的外傷となりえなかったのが自閉症者だ。鏡像段階とは、心的外傷となって初めて鏡像段階足りえるのである。
……雪道ならまだいいさ。そこが雪道だとわかるから。これから自分は雪道を歩くのだ、と予測できるから。
予測できるなら、その「雪道を歩く知」は、常に既に象徴化あるいは想像化されている、ということになる。
わたしのひき肉の地面は、いつ出現するかわからない。まさしく予測不可能な、到達不可能な現実界から湧き上がるものだ。
そう、やっぱり、わたし自身が「地雷」なのだ。そんな自分が死ぬほど恥ずかしいのだ。わたしという「地雷」をもっとも嫌悪しているのはわたし自身なのだ。狂気の本当のおぞましさを、しかめっ面をしている現実界をもっとも感知できているのは狂人自身なのだ。
死ぬほど恥ずかしいのに、こんな風な説明をしないと、お前ら去勢済みな正常人たちは「しかめっ面をした現実界」をわかってくれそうにない。だからわたしはお前らに殺意を覚えてしまうのだ。
それが鏡像段階によらない身体知だとか、ちゃんちゃらおかしいわ。鏡像段階によらない知の実体は、わたしの方がよくわかっている。さっきまでしていた歩き方を忘れてしまって思い出せない時の身体反応。それをどうにかしようとするわたしの、身体的か象徴界的かなんてどうでもいい、ただの知。しかめっ面をしている現実界についての知。絶対的未知に対する知。
お前の論、ライトノベルみたいだよ。「ひょっとしてそれはギャグで言ってるのか?」レベル。神経症者らしく幻想の中でしか生きられていないから、鏡像段階による身体知という実体に気づけないだけ。モンハンの♀キャラでオナニーでもしてなさい。
めんどくせえ説明させんなよなー。ここの反論についてだけはまとめてあげたよってことだ。宛先つきで。
ほんと、哲学畑のラカニアンってだめだめだなあ。
去勢とは、しばしば「死」によって象徴される。
であるならば、去勢済みな正常人(神経症者)たちは死にながら生きているということになる。
だから、わたしはこう言っている。
正常人たちは、死ねばいいのだ、と。
理屈的に、まったく正統な論である。
別にこれは「すごいこと」を言っているわけではない。このブログでは普通に述べている論である。
わたしの論、どこかおかしいだろうか?
ごめんねpikarrrさん、こないだの議論の時は思いっきり猫かぶってました。ほら、なんせ元舞台女優だし(笑)。
常連の読者さんたちはとっくに知っていると思うけど、これが素のわたし。わたしの本性。「地雷」という本質。
うん、大丈夫。あなたがだめなのはわかったから、もう安心して。
わたしと享楽できる、即ち心中できるラカニアンは、この世にはおらんのかー。
わたしと心中してくれるラカニアンとは言わないから精神分析家募集。
どう? そこあなた、わたしという地雷を味わってみない?
追記4。
つっかあれね。意外とpikarrrさんとこから飛んできてないのね。
哲学板にいるようなちっちゃなちんちんたちに群がられてしまうのかとちょっと身構えてたけど、よかった。
一安心。