他人事
2008/10/15/Wed
わたしなるものが、わたしにとって他人事だ。
それまでのわたしなるものの記憶が、さっきまでしていた歩き方の記憶が、他人事だ。
ならば、それを他人事と思っているわたしはなんなのだ?
街中で糞尿を漏らしているようなわたしなのか?
何故お前らはそんな平気な顔で他人事を語れるのだ?
何故他人事という視点が恐ろしく思えないのだ?
何故過去のわたしなるものが自分だと思い込めるのだ?
理屈で己を切り刻め。
まったくお前らは切り刻み足りていない。
己を切り刻めていないから、そんな平気な顔で他人事を語れるのだ。
理屈を他人だけではなく己にも適用すれば、正常人の方が精神障害者であることがよくわかる。
禁忌の領域が、平等に理屈が適用されない聖域となっているのが、お前ら定型発達という精神障害者である。
この聖域が、対象aだ。
キチガイにとってそれはまったく到達不可能なものではない。わたしにとってそれはケガレを吸い込むバキュームカーだ。
それのおかげで糞尿という実体は見えなくなっているけど、臭いものは臭い。
精神分析家とはバキュームカーでなければならない。
ケガレであるわたしを吸い込まなければならない。
わたしは精神分析家に喰われて、彼らの内部から悪臭を放たなければならない。
わたしと精神分析家は、そうでなければ、社会に存在できない。
わたしは精神分析家とセットでなければ、正常人が生きる世界を生きられない。
お前自身を殺せ。
正常という狂気を知りたければ、鏡像段階という実体を他人事にしたければ、誰でも臨床できる。
実験動物はそこに既にある。
自分を切り刻めない、自分を実験動物にできないヘタレだから、鏡像段階という実体が理解できないだけである。
死ねよ。
マジデ。
他人事で語れていると思い込めているバカどもは。
お前らの他人事はまったく他人事ではない。
わたしのような未去勢者を殺戮するための言い訳が、お前ら正常人にとっての「他人事」だ。
征服者がケガレた未開文明を浄化する時の言い訳が、精液に塗れた「他人事」だ。
わたしという糞尿は精液に塗れたいわけではない。バキュームカーのごとく、金属的に縛られたいのである。
ほんとに死ねよ。
まず永井均が死ね。
お前みたいなエセスキゾイドぶるパラノイアが、まったくもって問題だ。自分の精液臭さにお願いだから気づいてよ。永井ファンどもも。
まだ柄谷の方が百倍マシだ。
柄谷の方が、キモイだろ。
永井は定型的にキモくない。
だからわたしは永井の方が、生理的にキモイ。
だからまず永井が死ね。
蓮實はもうじき死ぬからほっとけ。
笙野頼子はある一線を飛び越えられなかったから、別の誰かがやれ。
日本のヘタレフェミニストには無理だろうな。アナーキズムと親近するフェミニズムを理解できないバカばっかりだ。日本では、フェミニズムすら去勢されている。粘っこい去勢の強制。オタク文化に顕著な粘度。日本のフェミニズムは特にファロセントリックだ。多分上野千鶴子辺りが原因の一つなんだろうな。その肥大したクリトリスでも手淫してろ。
笙野すら手淫作家になってしまいそうな絶望的な現代……。
pikarrrさんはいいや。モンハンに熱中する姿を想像すると2ちゃんの煽り的にかわいく思えるから。
ということで我こそはと思うキチガイども(ry。
人間の悪性の本質は、正常という狂気にあるのだ。
正義の極点は、正義の根拠は、未去勢なわたしにある。
正常を正義だと言い張るならば、糞便のごとく不定形な悪性の存在を、どこかで許容しなければならない。
絶対善は、正常人には存在しない。父の名を排除しない限り、善は常にどこかがケガレている。
死ぬべきは、お前ら正常人なのだ。
ツレションのションベンの中でしか生きられないキチガイが、お前ら定型発達者だ。
バキュームカーの内外が逆転しているのが、お前らパラノイアックな境界例、即ち正常人だ。
永井や蓮實や中沢新一や木村敏や河合隼雄や吉本隆明は、糞尿に塗れたバキュームカーだ。
正常人が正常である限り不可避的に接触してしまう悪性との、付き合い方が間違っている。
絶対善を他人事として見れるわたしから見れば、彼らは倫理的に間違っている。
主観形成の最終段階である物語的自己感は、主体に退行を促す。
絶対善は中核自己感から間主観的自己感が形成される時に生ずる。
物語的自己感は、絶対善というベクトルと逆向きである。
従って、物語的自己感は、絶対悪となる。理屈的に。
正常な主体にとってケガレは回避不可能であることを、自分の主観世界に絶対善や究極の美は存在しないことを許容するための自己感。
自分と他者を隔てる金属の承認が間主観的自己感(の形成)であり、自分と他者を繋ぐ金属が言語であることの承認が言語的自己感(の形成)であり、金属を腐食するケガレの承認が物語的自己感(の形成)である。
正常人が正常人となっていく過程において、悪性が生じる。ケガレが絶対善を生み、絶対善が劣化していく(即ち主体が成長していく)過程で、ケガレと通底する悪性が生じる。「善の欠如が悪である」とはこういうことである。
こう考えれば、絶対善の生成即ち間主観的自己感の形成以前の、人間の本質たるケガレ(クライン論ならば妄想分裂態勢や抑鬱態勢となる)が善悪を内包するコーラであることがわかるだろう。グノーシス主義である。
悪性とケガレを分離したならば、グノーシスは顕教化する。アウグスティヌスとなる。キリストはケガレではあるが悪ではない、と。
それは、単なる理屈上の示差にすぎない。
未去勢なわたしはケガレと悪性は同じだと思っている。わたしはアウグスティヌスになれない。わたしにとって宗教とは思想の一領域にすぎない。キリストもニーチェもアルトーもただのキチガイである。……あれ? ブッダやムハンマドはキチガイっぽくねえな。龍樹や達磨や明恵はキチガイだと思えるけど。精神分析が好きなシュレーバーもキチガイだと思えないんだよなあ。ブッダもムハンマドもシュレーバーも後天的な症状に思える。心因的な思想に思える。実際の本人なんて会えるわけねえから当然想像上のそいつらについての印象論だがな。
キリストは非心因的なキチガイである。キチガイだと説明しなければ、正常人たちはケガレを理解できない。グノーシスも顕教も等しくケガレを根拠にしていると気づけない。悪性からじゃないとケガレを直視できない。去勢というケガレの棄却(アブジェクシオン)を経た人間には、そうしないと伝わらない。正常人という劣化した人間がケガレを劣化する故、絶対善も劣化するのである。
アルトーが自分を糞だと言い、自分をキリストに喩えているのは、こういうことである。アルトーはアウグスティヌスではなく、キリストなのだ。
正常人たちは、キリストは悪ではないからと言って、そのケガレたる本質を棄却してしまう。劣化した人間が、キリストというケガレを美化している。劣化させている。キリストをレイプしている。正常というパラノイアックな精神障害のとってもよい症例である。
ケガレたるわたしに正常人が触れられるのは、悪性の機制である物語的自己感によらなければならない。
だからわたしはツンデレやヤンデレなどとキャラクター化される。そうしないと付き合えないらしい。
よくわかんねえな、正常人って。
別にいいんだけどさ。物語を語る場ならそれで。
ただし、たとえば二階堂奥歯を殺したのは、お前ら物語的自己感を生きる正常人であるということを、忘れないでね。
……でも中沢は許せるんだよな。pikarrrさんと似たような感じで。
すみませんショタ魂がこんなところで(笑)。
前記事のコメント欄から。
=====
なにか脂さんに甘えていろいろと失礼な発言をしてしまったようで大変申し訳なく思っております。
=====
ああん、こんなこと言われると糞尿で包み込んであげたくなっちゃうじゃーん(笑)。
健全な少年は健全な少年のままでいてよ。
わたしを包み込むのはバキュームカーでいい。
金属の匂い。
鼻のずっと奥の方。
鼻血。
わたしは男に殴られている。
男に、ではなく、ファルスが振るう暴力に、吸い込まれそうになる。
ケガレた阿部定にとっては、男から切り取ったペニスが、絶対善であり究極の美だったのだ。
わたしはキリストではないが、阿部定だから、わかる。
それまでのわたしなるものの記憶が、さっきまでしていた歩き方の記憶が、他人事だ。
ならば、それを他人事と思っているわたしはなんなのだ?
街中で糞尿を漏らしているようなわたしなのか?
何故お前らはそんな平気な顔で他人事を語れるのだ?
何故他人事という視点が恐ろしく思えないのだ?
何故過去のわたしなるものが自分だと思い込めるのだ?
理屈で己を切り刻め。
まったくお前らは切り刻み足りていない。
己を切り刻めていないから、そんな平気な顔で他人事を語れるのだ。
理屈を他人だけではなく己にも適用すれば、正常人の方が精神障害者であることがよくわかる。
禁忌の領域が、平等に理屈が適用されない聖域となっているのが、お前ら定型発達という精神障害者である。
この聖域が、対象aだ。
キチガイにとってそれはまったく到達不可能なものではない。わたしにとってそれはケガレを吸い込むバキュームカーだ。
それのおかげで糞尿という実体は見えなくなっているけど、臭いものは臭い。
精神分析家とはバキュームカーでなければならない。
ケガレであるわたしを吸い込まなければならない。
わたしは精神分析家に喰われて、彼らの内部から悪臭を放たなければならない。
わたしと精神分析家は、そうでなければ、社会に存在できない。
わたしは精神分析家とセットでなければ、正常人が生きる世界を生きられない。
お前自身を殺せ。
正常という狂気を知りたければ、鏡像段階という実体を他人事にしたければ、誰でも臨床できる。
実験動物はそこに既にある。
自分を切り刻めない、自分を実験動物にできないヘタレだから、鏡像段階という実体が理解できないだけである。
死ねよ。
マジデ。
他人事で語れていると思い込めているバカどもは。
お前らの他人事はまったく他人事ではない。
わたしのような未去勢者を殺戮するための言い訳が、お前ら正常人にとっての「他人事」だ。
征服者がケガレた未開文明を浄化する時の言い訳が、精液に塗れた「他人事」だ。
わたしという糞尿は精液に塗れたいわけではない。バキュームカーのごとく、金属的に縛られたいのである。
ほんとに死ねよ。
まず永井均が死ね。
お前みたいなエセスキゾイドぶるパラノイアが、まったくもって問題だ。自分の精液臭さにお願いだから気づいてよ。永井ファンどもも。
まだ柄谷の方が百倍マシだ。
柄谷の方が、キモイだろ。
永井は定型的にキモくない。
だからわたしは永井の方が、生理的にキモイ。
だからまず永井が死ね。
蓮實はもうじき死ぬからほっとけ。
笙野頼子はある一線を飛び越えられなかったから、別の誰かがやれ。
日本のヘタレフェミニストには無理だろうな。アナーキズムと親近するフェミニズムを理解できないバカばっかりだ。日本では、フェミニズムすら去勢されている。粘っこい去勢の強制。オタク文化に顕著な粘度。日本のフェミニズムは特にファロセントリックだ。多分上野千鶴子辺りが原因の一つなんだろうな。その肥大したクリトリスでも手淫してろ。
笙野すら手淫作家になってしまいそうな絶望的な現代……。
pikarrrさんはいいや。モンハンに熱中する姿を想像すると2ちゃんの煽り的にかわいく思えるから。
ということで我こそはと思うキチガイども(ry。
人間の悪性の本質は、正常という狂気にあるのだ。
正義の極点は、正義の根拠は、未去勢なわたしにある。
正常を正義だと言い張るならば、糞便のごとく不定形な悪性の存在を、どこかで許容しなければならない。
絶対善は、正常人には存在しない。父の名を排除しない限り、善は常にどこかがケガレている。
死ぬべきは、お前ら正常人なのだ。
ツレションのションベンの中でしか生きられないキチガイが、お前ら定型発達者だ。
バキュームカーの内外が逆転しているのが、お前らパラノイアックな境界例、即ち正常人だ。
永井や蓮實や中沢新一や木村敏や河合隼雄や吉本隆明は、糞尿に塗れたバキュームカーだ。
正常人が正常である限り不可避的に接触してしまう悪性との、付き合い方が間違っている。
絶対善を他人事として見れるわたしから見れば、彼らは倫理的に間違っている。
主観形成の最終段階である物語的自己感は、主体に退行を促す。
絶対善は中核自己感から間主観的自己感が形成される時に生ずる。
物語的自己感は、絶対善というベクトルと逆向きである。
従って、物語的自己感は、絶対悪となる。理屈的に。
正常な主体にとってケガレは回避不可能であることを、自分の主観世界に絶対善や究極の美は存在しないことを許容するための自己感。
自分と他者を隔てる金属の承認が間主観的自己感(の形成)であり、自分と他者を繋ぐ金属が言語であることの承認が言語的自己感(の形成)であり、金属を腐食するケガレの承認が物語的自己感(の形成)である。
正常人が正常人となっていく過程において、悪性が生じる。ケガレが絶対善を生み、絶対善が劣化していく(即ち主体が成長していく)過程で、ケガレと通底する悪性が生じる。「善の欠如が悪である」とはこういうことである。
こう考えれば、絶対善の生成即ち間主観的自己感の形成以前の、人間の本質たるケガレ(クライン論ならば妄想分裂態勢や抑鬱態勢となる)が善悪を内包するコーラであることがわかるだろう。グノーシス主義である。
悪性とケガレを分離したならば、グノーシスは顕教化する。アウグスティヌスとなる。キリストはケガレではあるが悪ではない、と。
それは、単なる理屈上の示差にすぎない。
未去勢なわたしはケガレと悪性は同じだと思っている。わたしはアウグスティヌスになれない。わたしにとって宗教とは思想の一領域にすぎない。キリストもニーチェもアルトーもただのキチガイである。……あれ? ブッダやムハンマドはキチガイっぽくねえな。龍樹や達磨や明恵はキチガイだと思えるけど。精神分析が好きなシュレーバーもキチガイだと思えないんだよなあ。ブッダもムハンマドもシュレーバーも後天的な症状に思える。心因的な思想に思える。実際の本人なんて会えるわけねえから当然想像上のそいつらについての印象論だがな。
キリストは非心因的なキチガイである。キチガイだと説明しなければ、正常人たちはケガレを理解できない。グノーシスも顕教も等しくケガレを根拠にしていると気づけない。悪性からじゃないとケガレを直視できない。去勢というケガレの棄却(アブジェクシオン)を経た人間には、そうしないと伝わらない。正常人という劣化した人間がケガレを劣化する故、絶対善も劣化するのである。
アルトーが自分を糞だと言い、自分をキリストに喩えているのは、こういうことである。アルトーはアウグスティヌスではなく、キリストなのだ。
正常人たちは、キリストは悪ではないからと言って、そのケガレたる本質を棄却してしまう。劣化した人間が、キリストというケガレを美化している。劣化させている。キリストをレイプしている。正常というパラノイアックな精神障害のとってもよい症例である。
ケガレたるわたしに正常人が触れられるのは、悪性の機制である物語的自己感によらなければならない。
だからわたしはツンデレやヤンデレなどとキャラクター化される。そうしないと付き合えないらしい。
よくわかんねえな、正常人って。
別にいいんだけどさ。物語を語る場ならそれで。
ただし、たとえば二階堂奥歯を殺したのは、お前ら物語的自己感を生きる正常人であるということを、忘れないでね。
……でも中沢は許せるんだよな。pikarrrさんと似たような感じで。
すみませんショタ魂がこんなところで(笑)。
前記事のコメント欄から。
=====
なにか脂さんに甘えていろいろと失礼な発言をしてしまったようで大変申し訳なく思っております。
=====
ああん、こんなこと言われると糞尿で包み込んであげたくなっちゃうじゃーん(笑)。
健全な少年は健全な少年のままでいてよ。
わたしを包み込むのはバキュームカーでいい。
金属の匂い。
鼻のずっと奥の方。
鼻血。
わたしは男に殴られている。
男に、ではなく、ファルスが振るう暴力に、吸い込まれそうになる。
ケガレた阿部定にとっては、男から切り取ったペニスが、絶対善であり究極の美だったのだ。
わたしはキリストではないが、阿部定だから、わかる。