物自体の反乱
2008/10/20/Mon
あーそっか。
前記事の続き。
龍樹も達磨も明恵も、孤立しているんだな。イメージ的に。龍樹なんかは大乗だけど、あくまでイメージ的なものとして。反目している僧に「私が長生きするのはうれしくないだろう」と聞いたらあっさり「うん」って言われてしまうような。それで実際に死んじゃったりするとことか、とってもわたしが思うキチガイらしい。龍樹はこの僧によって殺された。めでたく去勢された。龍樹は二階堂奥歯である。未去勢な彼・彼女は、去勢されている正常人たちによって、殺された。享楽たる去勢の領域に踏み込めた。
孤立というより、正常人、神経症者、定型発達者、大人な感じがしない。龍樹も達磨も明恵も、幼児的とは言わないが、未去勢的だ。キチガイだ。彼らが嫌っている(あるいは反目してしまう)のが大人な感じのする人ばかりだから、余計そう思える。
達磨の思想など(達磨自身がそうだというわけではない)は、どう見ても自閉症である。「壁観」とは自分自身が物自体となることを意味すると考えれば、自分の内面をエクセルに喩えたりする自閉症の症状と、まったく符号する。精神分析家は対象aという能動者でなければならない、という論を持つラカンが、自分の思想と禅思想との関連に言及したのは、こういうことが背景にあったのではないか。わたしは、現存する多くの精神分析家たちは、対象aたる分析家として、自閉症者より格下だと、本気で思っている。
仏教では、煩悩を敵対視しているが、未去勢な人間から見ると、去勢済みな人間が煩悩そのものなのだ。精神分析的な視点を取れば、正常であるためには、煩悩を持ってなくてはならない、となる。
未去勢者は去勢者(正常人)を怖れている。おぞましく思っている。去勢者是即ち煩悩となれば、そういった点で思想が合致することもあるだろう。いくら創始者のブッダが去勢済みっぽい人間だと思ったとしても、その思想に組することもあるだろう。わたしにとってのラカン論だ。ラカンはわたしはばりばり去勢済みな主体だと思っている。
煩悩と、龍樹や達磨や明恵の孤立しているようなイメージは、通底しているものと考えられる。物語的自己感において、去勢済みな主体にケガレが回帰したものが、煩悩である。であるならば、未去勢者たる彼らこそが煩悩の本質であるケガレだ、ということになる。ケガレだから彼らは孤立してしまう。集団から棄却されてしまう。
狂気も煩悩も、本質はともにケガレである。故に、彼らは、自分を棄却しようとする仏教という思想に、マゾヒスティックに組しているように思える。「女は存在しない」とするラカン論を学んでいるわたしのように。明恵などの、周りの顕教的な宗派に反論しまくっているところからも、それは読み取れる。明恵は自閉症とは言えないが、少なくともマゾヒストでありスキゾイドだと言えよう。明恵は煩悩を知らない未去勢な主体だったからこそ、(ケガレではあるけれども)清僧でいられたのだ。事実彼に纏わるテクストからは、煩悩を必死に取り下げようとする強迫症的なところは感じない。彼という自然体を模索し、それを生きようとしたら、たまたま結果的に清僧と呼ばれる生き方となっただけである。それは人と去勢済みなやり方で交わらない生き方である。情動交換を否認するスキゾイドの自然体である。
一方、一遍などは、大人な人たちとうまく付き合えているように思える。ブッダもムハンマドもシュレーバーもそう。彼らは去勢されているように、わたしには思える。好き嫌いの話じゃなくてね。
うん。ガタリ論になるけれど、狂気の領域においての二極点、「スキゾフレニー/パラノイア」は、「分子的/モル的」と表現される。
龍樹や達磨や明恵は、分子的だ。一方、一遍やブッダやムハンマドやシュレーバーは、モル的だ。集団的なのだ。表現として語弊を招くことを承知して言うなら、ツレションしたがるメス犬たち(ここのコメント欄参照)と同じ原理を生きているように、わたしには思える。ツレション犬たちへのような嫌悪感は覚えないけれど。そもそもわたしにとって彼らは遠すぎる。だからツレション臭さは感じない。
なんかそんな違い。
単なるわたしの主観論、印象論だ。精神分析するならもっとちゃんとやるよ。
おしゃべりレベルのだらしない論。
光の中で見えないものが
闇の中に浮かんで見える
まっくら森は心の迷路
はやいはおそい
まっくらくらいくらい
一遍と明恵なら、明恵の方が谷山浩子っぽくない? マイナーなところがそうなだけかもしれんが。
まあラカン論の「聖人とは屑である」なんてのも、「捨て聖」ってのに合致するし、どっちでもいいんだけどね。対象aな人って意味では。新宮一成も似たような論ぶっているな。だけど「屑」だとケガレ度が弱いとわたしなんかは思うのだよなー。少なくとも、正常から棄却され続けてきたわたしなるものを説明するには、「屑」なんて言葉は生温い。わたしなるものは「人間の屑」以上に疎まれている。わたし自身が疎んじている。
禅において仏性とは「乾いた糞」であるが、わたしという糞便は、乾いてなどいない。乾いてなどやるものか。「乾いた糞」など「聖人たる屑」でしかない。キチガイを殺してきた正常人たちが、キチガイという本性と妥協しようとして、糞を乾かせたのである。「乾いた糞」という言葉には、粘ついた糞であるキチガイを殺そうとする正常人の謀略が潜んでいる。
少なくとも、アルトーという糞は、乾いてなどいない。
=====
糞が臭うところには
存在が臭う。
人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ、
肛門の袋を開かぬこともできた、
しかし彼は糞することを選んだ
死んだまま生きることには同意せず
生きることを選んだからであろう
つまり糞をしないためには、
存在しないことに
同意しなければならなかっただろう、
けれど彼は存在を
失ってもいいとは思わなかった、
つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ。
存在の中には
人間を
特にひきつけるものがあるのだが
それはまさに
≪糞≫なのである。
(ここで絶叫。)
=====
イトウさんテクスト起こしありがとう。
谷山もじめじめしてるもんな。本質的に。じめじめしているアルトーを乾燥させようとしているのがドゥルーズ=ガタリである、ということになるだろう。彼らはアルトーあるいは分裂症者という生々しい糞を、「乾いた糞」即ち「屑としての聖人」に仕立て上げようとしているのだ。わたしが彼らに殺意を覚えるのはまさにこの点においてである。
対象aとは糞便でもある。仏教は、煩悩を敵対視していることから、欲望を否定する思想だと思われがちであるが、精神分析の視点では、仏性を「乾いた糞」と表現する仏教者たちは、仏性を欲望している、ということになる。仏教者は、欲望について妥協していないのであり、欲望を妥協してしまうのが正常人(神経症者)なのだ。妥協の言い訳として仏教思想が利用された結果が、仏教は欲望を否定している、という劣化だ。ここには仏教思想だけではなく欲望なる実体の改竄がある。仏教思想も欲望も劣化している。傲慢な劣化。
ほんと、正常人って生きてていいことしないよな。去勢済み即ち「死んだまま生きて」いるわけだから仕方ないことかもしれんが。
悪人正機の悪人とは、正常人のことである。
大人になること、正常になること、去勢済みな主観世界を生きることとは、「真なるもの」から遠ざかることなのだ。一方、未去勢者は、正常になりたくて、去勢されたくて、「真なるもの」に近づこうとする。去勢の瞬間こそが、「真なるもの」であり、享楽であり、死の瞬間なのだ。
とはいえわたしから見れば、糞を乾かしていることが既に妥協である、となるが。禅もえらそうなことを言いながら、ケガレの劣化コピーたる煩悩から逃れられていない。真なる自然を前に尻込みしている。粘ついた糞便という仏性を直視できないヘタレである。
わたしにしてみれば、禅僧たちも去勢されている。正常人である。即ち、「死んだまま生き」ている。即ち、死に値する。アルトーの方がはるかに「生きている」。
=====
人間は糞を失うのが怖かった
あるいはむしろ糞をほしがった
そしてそのため血を代償にしたのである。
====
アルトーは血便だった。
われわれは乾いてはならない。
====
神は久しい前から彼らを十字架に釘付けしたものと信じていたが、
彼らは反乱し、
鉄、
血、
炎と骨で武装し、
<不可視のもの>を罵倒しながら進んでいく
≪神の裁き≫を終えるためである。
=====
「聖人たる屑」を蹴散らして、キチガイたるキリストが甦る。対象aなどではない、ましてや煩悩などでもない、血便たるケガレが、生々しい現実が蜂起する。
血に塗れたわたしという糞便が、お前たちに纏わりつく。お前たちを糞尿地獄に引きずり込む。
あえて言わないとわかってもらえそうにないので言うが、わたしの正常人に対する殺意は、無茶苦茶本気だよ?
むしろ、世の血便どもが、なんでもっと正常人たちを殺して回らないのかが理解できない。日常的現実としての殺害だろうが言葉による殺害だろうが問わず。十字架に釘付けにされようとしている、釘付けされたがっている自分を、何故気づけないのだろう?
二階堂や龍樹は、自ら命を絶つことで、正常という幻想をいくばくかは殺せているように思えるけれど。
キリストは、十字架に釘付けされた時、血便を垂れ流した。それがアルトーであり、二階堂であり、龍樹であり、わたしであり、世の血便どもだ。ホルバインが描いたリアルなキリストの死骸の絵を裏打ちする粘着物だ。
だから、反乱を起こしてしまう。乾いた絵の表面に滲み出てしまう。
それは、物自体の反乱である。
自然の摂理である。
=====
自然にとって人間が何であるかということは、人間がチンパンジーの中に何を見るかということと同じである、即ちそれは子供のチンパンジーのミイラである。あのミイラは、対象aであったのだ。
(新宮一成著『ラカンの精神分析』より)
=====
ここで言う「人間」には、わたしは含まれていない。何故ならラカン論においては「女は存在しない」のであり(ファルスを持った即ち鏡像段階を経た「女」(ここのコメント欄参照)、即ち肥大したクリトリスを手淫する上野千鶴子のような女性ならば存在する)、ファルスを持たない未去勢な主体は存在しないからである。わたしは既に対象aの立場など放棄している。
「人間」ではない「自然」に近い存在であるわたしから見れば、お前ら正常人は乾いている。ミイラである。自分たちがミイラを欲望しているから、わたしという糞便を乾燥させたがる。自分たちが「死んだまま生き」ているから、アルトーや二階堂や龍樹やわたしの生を殺したがる。自分たちが「真なるもの」から遠ざかってしまう劣化した人間だから、未去勢者を劣化させたがる。ファロセントリストたる上野千鶴子は、残酷演劇的な自傷系アートにより本当の生を表現しようとする松井冬子をミイラにしたがっている。
アルトーが「ゴッホは精神科医に殺された」と告発するがごとく、わたしはそう告発する。
わたしをミイラにしてくれる精神分析家が、未だどこにも存在しないから、わたしは自然の摂理に従っているだけである。
殺せ。正常人たちを殺せ。ファロセントリストたちを殺せ。
これは、自然の摂理に裏打ちされた、正統な反乱である。
わたしを殺してくれる精神分析家が現れるまで、わたしはお前らを殺し続ける。
お前らの仲間だった時期もあるから、殺人テクニックはよく知っている。
「あなたも幸せになりなさい」
上野にこう説教された時、松井は(彼女が本当に自傷系アーティストならば)殺意を覚えただろう。
それは、自然の摂理に裏打ちされた、もっとも正統な殺意である。
故に、ファルス信仰者たる精神分析家は、わたしを殺すべきなのだ。
わたしというミイラが、お前たちを呪縛するために。血便たる自然から、ファロセントリストたちを保護するために。
松井が、さらなる本当の生を描きたいのならば、上野をはじめとするファロセントリストを殺せばよい。
上野は、未去勢者を幸せにしたいなら、松井をはじめとする自傷系アーティストを殺せばよい。
単純な真理である。自然の摂理に裏打ちされた構造にすぎない。
劣化した正常人たちの心理を解体して、ミイラの乾いた皮膚を剥いで、「真なるもの」を曝け出しているだけである。
アルトーが残酷演劇によって表現しようとした、「真なるもの」を。
……なんていうか、一遍と明恵の違いっていうか、顕教と密教の違いと言ってもよさそうだけど、己を捨てるか、最初から己がないか、の違いかなー、などと思った。明恵とか明らかにスキゾイドだから、主体が最初からなかったっぽく思える。龍樹は伝説化されすぎててよーわからん。
一遍とか、わたしの生きている世界を生きているとは思えないけど、無意識に主体がばりばりある(ファルスを持っている)奴が「主体はある」とか言い張るのよか(ここのツレション大好きなババアみたいに)、よっぽどわかってもらえそうな気はする、という話かな?
殺すならわたしの気づかないうちにやって。呪殺でも可。
「あ、殺されるな」と予測できたら享楽度は下がるから。
あなたの享楽度も、ね。
キモチワルイ言葉を平気な顔で垂れ流すババア。いくらアスペルガー症候群だとかいう診断名を下されてようが、違う。お前は正常人だ。少なくともわたしが考える「キチガイ」には当てはまらない。お前は自閉症ではなく、「聞き分けのよい知恵遅れ」である。他人との間に絶対善なる金属的なものが存在している「聞き分けのよい学習障害者」である。
他人と自分を隔て連結する(離接する)絶対善なる金属的なものが弱いわたしだから、それがわかる。
お前は、自分の子供を殺してしまいそうな自分を殺している。それはわたしを殺すことと等しい。何故ならわたしには絶対善という隔壁がないからだ。
お前は、子供を持ってしまったから、子供を殺そうとしてしまう自分をわたしを殺してしまわなければならない。
わたしはそれを知っていたから、子供を持たないだけである。
お前、「子供は自分の意図と関係なくやってくるもの」とか言いながら、非公開コメントでわたしに「あなたも子供を持てばわかると思いますよ」的なこと言っただろ? 他人の言説を引用してまで。
バカか。
わたしの方が動物的に「子供を殺してしまいそうな自分」を実体として感知しているから、わたしは子供を持たない生き方を選んだのだ。意図的に、子供を持たせようとする「人間という病」に逆らっているのだ。
お前ごときの去勢済みな知恵遅れに上から目線で説教される筋合いは、ない。説教ではないというなら、何故「わたしはあなたがどうであれこういった道を選んだだけである」と思えないのだ? 何故子供を持つ生き方をわたしに押しつけようとしたのだ?
知恵遅れだろうが学習障害だろうが、わたしから見ればお前はわたしより大人である。人間である。
大人になれないまま、知恵を振り回すのがわたしという獣である。キチガイに刃物である。
それが、生物の正しい姿である。
血便である。
死ぬべきは、自分を殺そうとしている、お前だ。わたしや子供や本当の自閉症者を殺そうとしている、お前だ。
お前が求めているのは、死である。
だから、わたしはこう言う。
お前など死ねばいいのだ、と。
お前みたいな人間に自閉症という診断名が下されるから、未去勢なキチガイたちはますます存在しなくなる。
キリストや明恵などといったキチガイが、聖人になる。美化される。乾いていく。ミイラになる。
お前は、上野千鶴子のごとく、わたしにミイラになれと言っているのである。
クリステヴァのごとき、「女は子供を産む機械である」という思想に基づいて。
クリステヴァの論旨をきちんと理解していれば、「女は子供を産む機械である」という言葉はコンスタティブなものだとわかる。女が子供を産む物体であることは現実である。現実を否認するのはパラノイアの妄想である。「人格とはパラノイアである」ため、この言葉を否認する人間には人格がある、となる。つまり、彼ら彼女らは正常人である、となる。
一方わたしは、女という物体の物自体的なところを示している言葉だと思える。パラノイアたる人格が希薄なのが、ファルスが脆弱なのが女性である、という言葉だと理解してしまう。ファルスに不具合を起こしているらしいわたしは、「女は子供を産む機械である」という言葉に感情的になる心理が理解できない。女という物体はそういうものだとわたし自身が思っているから。わたしは柳沢某などという人間に思い入れはないので、むしろこの言葉にヒステリックに反応する肥大したクリトリス(正常な女性)たちの方に、わたしの心的外傷は反応する。
わたしにツレションルールを強制してきたおぞましいクリトリスたち。「女は子供を産む機械である」という言葉を、知恵遅れがするように受け取るフェミニストたち。聞き分けよく、パフォーマティブに短絡化できる(『自閉症の謎を解き明かす』(p282)に示された「定型発達という精神障害」の仮想症例たる)ルーシーども。コントで満足できてしまう知恵遅れ。残酷演劇という本当のパフォーマンスを理解できないメス犬ども。上野の松井に対する言葉に感動して射精してしまうちっちゃなちんちんたち。
わたしから見れば、彼ら彼女らはおぞましいだけの物体だ。殺意が湧くほどに。
ここで、クリトリスを手淫するがごとき「愛の再発明」(笑)なるものをタイトルにしてされたわたしへの反論は、ルーシーが妹のジェニファーに対して感じる嫌悪感と同じものを根拠にしているように、わたしには思える。「本当の愛」なるものは未去勢な人間にとっては未知なるものである。そんなものに基づいて反論できる彼女のクリトリスは肥大している。っていうかこんなレベルのテクストが評論として認められるんだ。ふうん。笙野頼子の言う「おんたこ」評論にしか見えないけどな。わたしには。他のテクスト知らないから彼女自身がおんたこかどうかなんてわからんし、後半グロ好きっぽいことに触れているのはなんか臭うけど。要するにお前がわたしの思う「キチガイ」かどうかまだ判断してないってこと。哲学青年に対するように反論するなら、「んで、そのテクストでお前は「本当の愛」やら「BLにはまる女性の真なる実体」に触れられたの?」ってなる。「触れられた」なり「近づけた」なり思ってるなら、それでいいじゃない。そんな感じで触手(食指ではない)すら動かない。ごめん、わたしはつまらない(笑)。精液マシンガンとは言えないしね。精液臭くはあるが。
わたしは愛なるものに疑問を覚えている故、自分の主観世界に基づいたそれらしきものについて、「本当の愛」なんて単語は当てはめないが、たとえばそれをアガペーだと解釈するならば、アガペーこそが、物自体的な人間を、パラノイアックな境界例という正常人に、征服者に仕立て上げる種だと思っている。わたしはアガペーという原パラノイアに、それを根拠にした「正しい愛」に殺され続けてきた。
お前らは、ツレションしたがるメス犬だ。わたしにしてみればお前らの方が、「人間という獣」だ。
獣のフリをする人間ほど、倫理的に間違っているものはない。獣であってしまうわたしを殺している。
だから、わたしはお前らツレション人間を殺すのである。
男に殴られた。
二人が出会った思い出のスナック(笑)で、バーカウンターに、わたしの顔を打ちつけた。
わたしは鼻血を流した。
ママが警察を呼んでくれた。
男は逃げた。
わたしも逃げたかった。
わたしを介抱するママが、おぞましかった。恥ずかしくて死にそうなのに、何故ほっておいてくれないのだろう? わたしは泣いた。ママの優しさを拒否するために泣いた。「だから言ったじゃない」などという説教を否定するために泣いた。
べとべとする床に、肉塊が落ちていた。肉塊は、ヘドロに塗れていた。
それは、わたしの子供だった。
わたしは男の子供が欲しかった。
わたしの子供であれば、それを殺そうが、罪にならない。わたしの倫理では。自分の髪の毛や爪をライターで焼くようなものである。
気を取り戻したわたしは、床に転がる肉塊を踏みにじった。
しかし、日が経てば、肉塊も干からびる。
わたしは干し肉を、大事に持ち歩く。
そんなわたしをテレビカメラが追う。
テレビカメラという魔法で、わたしのやっていることを干からびさせている。
カメラの向こうの視聴者に、わたしはこう言い訳する。
「わたしがやっていることは単なる学習である。お前たちが考えているような、感動的な心理に基づいてやっているのではない。パソコンがアプリケーションという知恵をインストールするがごとく、こうしているだけである」
その証拠に、わたしは干し肉を投げ捨てる。
カメラのレンズに向けて。
お前らには、干し肉が似合っている。
……まあ人間って同じようなこと考えるわね、と思った。いやわたしが。これ。
ダシに使うのはうまそうだ。
前記事の続き。
龍樹も達磨も明恵も、孤立しているんだな。イメージ的に。龍樹なんかは大乗だけど、あくまでイメージ的なものとして。反目している僧に「私が長生きするのはうれしくないだろう」と聞いたらあっさり「うん」って言われてしまうような。それで実際に死んじゃったりするとことか、とってもわたしが思うキチガイらしい。龍樹はこの僧によって殺された。めでたく去勢された。龍樹は二階堂奥歯である。未去勢な彼・彼女は、去勢されている正常人たちによって、殺された。享楽たる去勢の領域に踏み込めた。
孤立というより、正常人、神経症者、定型発達者、大人な感じがしない。龍樹も達磨も明恵も、幼児的とは言わないが、未去勢的だ。キチガイだ。彼らが嫌っている(あるいは反目してしまう)のが大人な感じのする人ばかりだから、余計そう思える。
達磨の思想など(達磨自身がそうだというわけではない)は、どう見ても自閉症である。「壁観」とは自分自身が物自体となることを意味すると考えれば、自分の内面をエクセルに喩えたりする自閉症の症状と、まったく符号する。精神分析家は対象aという能動者でなければならない、という論を持つラカンが、自分の思想と禅思想との関連に言及したのは、こういうことが背景にあったのではないか。わたしは、現存する多くの精神分析家たちは、対象aたる分析家として、自閉症者より格下だと、本気で思っている。
仏教では、煩悩を敵対視しているが、未去勢な人間から見ると、去勢済みな人間が煩悩そのものなのだ。精神分析的な視点を取れば、正常であるためには、煩悩を持ってなくてはならない、となる。
未去勢者は去勢者(正常人)を怖れている。おぞましく思っている。去勢者是即ち煩悩となれば、そういった点で思想が合致することもあるだろう。いくら創始者のブッダが去勢済みっぽい人間だと思ったとしても、その思想に組することもあるだろう。わたしにとってのラカン論だ。ラカンはわたしはばりばり去勢済みな主体だと思っている。
煩悩と、龍樹や達磨や明恵の孤立しているようなイメージは、通底しているものと考えられる。物語的自己感において、去勢済みな主体にケガレが回帰したものが、煩悩である。であるならば、未去勢者たる彼らこそが煩悩の本質であるケガレだ、ということになる。ケガレだから彼らは孤立してしまう。集団から棄却されてしまう。
狂気も煩悩も、本質はともにケガレである。故に、彼らは、自分を棄却しようとする仏教という思想に、マゾヒスティックに組しているように思える。「女は存在しない」とするラカン論を学んでいるわたしのように。明恵などの、周りの顕教的な宗派に反論しまくっているところからも、それは読み取れる。明恵は自閉症とは言えないが、少なくともマゾヒストでありスキゾイドだと言えよう。明恵は煩悩を知らない未去勢な主体だったからこそ、(ケガレではあるけれども)清僧でいられたのだ。事実彼に纏わるテクストからは、煩悩を必死に取り下げようとする強迫症的なところは感じない。彼という自然体を模索し、それを生きようとしたら、たまたま結果的に清僧と呼ばれる生き方となっただけである。それは人と去勢済みなやり方で交わらない生き方である。情動交換を否認するスキゾイドの自然体である。
一方、一遍などは、大人な人たちとうまく付き合えているように思える。ブッダもムハンマドもシュレーバーもそう。彼らは去勢されているように、わたしには思える。好き嫌いの話じゃなくてね。
うん。ガタリ論になるけれど、狂気の領域においての二極点、「スキゾフレニー/パラノイア」は、「分子的/モル的」と表現される。
龍樹や達磨や明恵は、分子的だ。一方、一遍やブッダやムハンマドやシュレーバーは、モル的だ。集団的なのだ。表現として語弊を招くことを承知して言うなら、ツレションしたがるメス犬たち(ここのコメント欄参照)と同じ原理を生きているように、わたしには思える。ツレション犬たちへのような嫌悪感は覚えないけれど。そもそもわたしにとって彼らは遠すぎる。だからツレション臭さは感じない。
なんかそんな違い。
単なるわたしの主観論、印象論だ。精神分析するならもっとちゃんとやるよ。
おしゃべりレベルのだらしない論。
光の中で見えないものが
闇の中に浮かんで見える
まっくら森は心の迷路
はやいはおそい
まっくらくらいくらい
一遍と明恵なら、明恵の方が谷山浩子っぽくない? マイナーなところがそうなだけかもしれんが。
まあラカン論の「聖人とは屑である」なんてのも、「捨て聖」ってのに合致するし、どっちでもいいんだけどね。対象aな人って意味では。新宮一成も似たような論ぶっているな。だけど「屑」だとケガレ度が弱いとわたしなんかは思うのだよなー。少なくとも、正常から棄却され続けてきたわたしなるものを説明するには、「屑」なんて言葉は生温い。わたしなるものは「人間の屑」以上に疎まれている。わたし自身が疎んじている。
禅において仏性とは「乾いた糞」であるが、わたしという糞便は、乾いてなどいない。乾いてなどやるものか。「乾いた糞」など「聖人たる屑」でしかない。キチガイを殺してきた正常人たちが、キチガイという本性と妥協しようとして、糞を乾かせたのである。「乾いた糞」という言葉には、粘ついた糞であるキチガイを殺そうとする正常人の謀略が潜んでいる。
少なくとも、アルトーという糞は、乾いてなどいない。
=====
糞が臭うところには
存在が臭う。
人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ、
肛門の袋を開かぬこともできた、
しかし彼は糞することを選んだ
死んだまま生きることには同意せず
生きることを選んだからであろう
つまり糞をしないためには、
存在しないことに
同意しなければならなかっただろう、
けれど彼は存在を
失ってもいいとは思わなかった、
つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ。
存在の中には
人間を
特にひきつけるものがあるのだが
それはまさに
≪糞≫なのである。
(ここで絶叫。)
=====
イトウさんテクスト起こしありがとう。
谷山もじめじめしてるもんな。本質的に。じめじめしているアルトーを乾燥させようとしているのがドゥルーズ=ガタリである、ということになるだろう。彼らはアルトーあるいは分裂症者という生々しい糞を、「乾いた糞」即ち「屑としての聖人」に仕立て上げようとしているのだ。わたしが彼らに殺意を覚えるのはまさにこの点においてである。
対象aとは糞便でもある。仏教は、煩悩を敵対視していることから、欲望を否定する思想だと思われがちであるが、精神分析の視点では、仏性を「乾いた糞」と表現する仏教者たちは、仏性を欲望している、ということになる。仏教者は、欲望について妥協していないのであり、欲望を妥協してしまうのが正常人(神経症者)なのだ。妥協の言い訳として仏教思想が利用された結果が、仏教は欲望を否定している、という劣化だ。ここには仏教思想だけではなく欲望なる実体の改竄がある。仏教思想も欲望も劣化している。傲慢な劣化。
ほんと、正常人って生きてていいことしないよな。去勢済み即ち「死んだまま生きて」いるわけだから仕方ないことかもしれんが。
悪人正機の悪人とは、正常人のことである。
大人になること、正常になること、去勢済みな主観世界を生きることとは、「真なるもの」から遠ざかることなのだ。一方、未去勢者は、正常になりたくて、去勢されたくて、「真なるもの」に近づこうとする。去勢の瞬間こそが、「真なるもの」であり、享楽であり、死の瞬間なのだ。
とはいえわたしから見れば、糞を乾かしていることが既に妥協である、となるが。禅もえらそうなことを言いながら、ケガレの劣化コピーたる煩悩から逃れられていない。真なる自然を前に尻込みしている。粘ついた糞便という仏性を直視できないヘタレである。
わたしにしてみれば、禅僧たちも去勢されている。正常人である。即ち、「死んだまま生き」ている。即ち、死に値する。アルトーの方がはるかに「生きている」。
=====
人間は糞を失うのが怖かった
あるいはむしろ糞をほしがった
そしてそのため血を代償にしたのである。
====
アルトーは血便だった。
われわれは乾いてはならない。
====
神は久しい前から彼らを十字架に釘付けしたものと信じていたが、
彼らは反乱し、
鉄、
血、
炎と骨で武装し、
<不可視のもの>を罵倒しながら進んでいく
≪神の裁き≫を終えるためである。
=====
「聖人たる屑」を蹴散らして、キチガイたるキリストが甦る。対象aなどではない、ましてや煩悩などでもない、血便たるケガレが、生々しい現実が蜂起する。
血に塗れたわたしという糞便が、お前たちに纏わりつく。お前たちを糞尿地獄に引きずり込む。
あえて言わないとわかってもらえそうにないので言うが、わたしの正常人に対する殺意は、無茶苦茶本気だよ?
むしろ、世の血便どもが、なんでもっと正常人たちを殺して回らないのかが理解できない。日常的現実としての殺害だろうが言葉による殺害だろうが問わず。十字架に釘付けにされようとしている、釘付けされたがっている自分を、何故気づけないのだろう?
二階堂や龍樹は、自ら命を絶つことで、正常という幻想をいくばくかは殺せているように思えるけれど。
キリストは、十字架に釘付けされた時、血便を垂れ流した。それがアルトーであり、二階堂であり、龍樹であり、わたしであり、世の血便どもだ。ホルバインが描いたリアルなキリストの死骸の絵を裏打ちする粘着物だ。
だから、反乱を起こしてしまう。乾いた絵の表面に滲み出てしまう。
それは、物自体の反乱である。
自然の摂理である。
=====
自然にとって人間が何であるかということは、人間がチンパンジーの中に何を見るかということと同じである、即ちそれは子供のチンパンジーのミイラである。あのミイラは、対象aであったのだ。
(新宮一成著『ラカンの精神分析』より)
=====
ここで言う「人間」には、わたしは含まれていない。何故ならラカン論においては「女は存在しない」のであり(ファルスを持った即ち鏡像段階を経た「女」(ここのコメント欄参照)、即ち肥大したクリトリスを手淫する上野千鶴子のような女性ならば存在する)、ファルスを持たない未去勢な主体は存在しないからである。わたしは既に対象aの立場など放棄している。
「人間」ではない「自然」に近い存在であるわたしから見れば、お前ら正常人は乾いている。ミイラである。自分たちがミイラを欲望しているから、わたしという糞便を乾燥させたがる。自分たちが「死んだまま生き」ているから、アルトーや二階堂や龍樹やわたしの生を殺したがる。自分たちが「真なるもの」から遠ざかってしまう劣化した人間だから、未去勢者を劣化させたがる。ファロセントリストたる上野千鶴子は、残酷演劇的な自傷系アートにより本当の生を表現しようとする松井冬子をミイラにしたがっている。
アルトーが「ゴッホは精神科医に殺された」と告発するがごとく、わたしはそう告発する。
わたしをミイラにしてくれる精神分析家が、未だどこにも存在しないから、わたしは自然の摂理に従っているだけである。
殺せ。正常人たちを殺せ。ファロセントリストたちを殺せ。
これは、自然の摂理に裏打ちされた、正統な反乱である。
わたしを殺してくれる精神分析家が現れるまで、わたしはお前らを殺し続ける。
お前らの仲間だった時期もあるから、殺人テクニックはよく知っている。
「あなたも幸せになりなさい」
上野にこう説教された時、松井は(彼女が本当に自傷系アーティストならば)殺意を覚えただろう。
それは、自然の摂理に裏打ちされた、もっとも正統な殺意である。
故に、ファルス信仰者たる精神分析家は、わたしを殺すべきなのだ。
わたしというミイラが、お前たちを呪縛するために。血便たる自然から、ファロセントリストたちを保護するために。
松井が、さらなる本当の生を描きたいのならば、上野をはじめとするファロセントリストを殺せばよい。
上野は、未去勢者を幸せにしたいなら、松井をはじめとする自傷系アーティストを殺せばよい。
単純な真理である。自然の摂理に裏打ちされた構造にすぎない。
劣化した正常人たちの心理を解体して、ミイラの乾いた皮膚を剥いで、「真なるもの」を曝け出しているだけである。
アルトーが残酷演劇によって表現しようとした、「真なるもの」を。
……なんていうか、一遍と明恵の違いっていうか、顕教と密教の違いと言ってもよさそうだけど、己を捨てるか、最初から己がないか、の違いかなー、などと思った。明恵とか明らかにスキゾイドだから、主体が最初からなかったっぽく思える。龍樹は伝説化されすぎててよーわからん。
一遍とか、わたしの生きている世界を生きているとは思えないけど、無意識に主体がばりばりある(ファルスを持っている)奴が「主体はある」とか言い張るのよか(ここのツレション大好きなババアみたいに)、よっぽどわかってもらえそうな気はする、という話かな?
殺すならわたしの気づかないうちにやって。呪殺でも可。
「あ、殺されるな」と予測できたら享楽度は下がるから。
あなたの享楽度も、ね。
キモチワルイ言葉を平気な顔で垂れ流すババア。いくらアスペルガー症候群だとかいう診断名を下されてようが、違う。お前は正常人だ。少なくともわたしが考える「キチガイ」には当てはまらない。お前は自閉症ではなく、「聞き分けのよい知恵遅れ」である。他人との間に絶対善なる金属的なものが存在している「聞き分けのよい学習障害者」である。
他人と自分を隔て連結する(離接する)絶対善なる金属的なものが弱いわたしだから、それがわかる。
お前は、自分の子供を殺してしまいそうな自分を殺している。それはわたしを殺すことと等しい。何故ならわたしには絶対善という隔壁がないからだ。
お前は、子供を持ってしまったから、子供を殺そうとしてしまう自分をわたしを殺してしまわなければならない。
わたしはそれを知っていたから、子供を持たないだけである。
お前、「子供は自分の意図と関係なくやってくるもの」とか言いながら、非公開コメントでわたしに「あなたも子供を持てばわかると思いますよ」的なこと言っただろ? 他人の言説を引用してまで。
バカか。
わたしの方が動物的に「子供を殺してしまいそうな自分」を実体として感知しているから、わたしは子供を持たない生き方を選んだのだ。意図的に、子供を持たせようとする「人間という病」に逆らっているのだ。
お前ごときの去勢済みな知恵遅れに上から目線で説教される筋合いは、ない。説教ではないというなら、何故「わたしはあなたがどうであれこういった道を選んだだけである」と思えないのだ? 何故子供を持つ生き方をわたしに押しつけようとしたのだ?
知恵遅れだろうが学習障害だろうが、わたしから見ればお前はわたしより大人である。人間である。
大人になれないまま、知恵を振り回すのがわたしという獣である。キチガイに刃物である。
それが、生物の正しい姿である。
血便である。
死ぬべきは、自分を殺そうとしている、お前だ。わたしや子供や本当の自閉症者を殺そうとしている、お前だ。
お前が求めているのは、死である。
だから、わたしはこう言う。
お前など死ねばいいのだ、と。
お前みたいな人間に自閉症という診断名が下されるから、未去勢なキチガイたちはますます存在しなくなる。
キリストや明恵などといったキチガイが、聖人になる。美化される。乾いていく。ミイラになる。
お前は、上野千鶴子のごとく、わたしにミイラになれと言っているのである。
クリステヴァのごとき、「女は子供を産む機械である」という思想に基づいて。
クリステヴァの論旨をきちんと理解していれば、「女は子供を産む機械である」という言葉はコンスタティブなものだとわかる。女が子供を産む物体であることは現実である。現実を否認するのはパラノイアの妄想である。「人格とはパラノイアである」ため、この言葉を否認する人間には人格がある、となる。つまり、彼ら彼女らは正常人である、となる。
一方わたしは、女という物体の物自体的なところを示している言葉だと思える。パラノイアたる人格が希薄なのが、ファルスが脆弱なのが女性である、という言葉だと理解してしまう。ファルスに不具合を起こしているらしいわたしは、「女は子供を産む機械である」という言葉に感情的になる心理が理解できない。女という物体はそういうものだとわたし自身が思っているから。わたしは柳沢某などという人間に思い入れはないので、むしろこの言葉にヒステリックに反応する肥大したクリトリス(正常な女性)たちの方に、わたしの心的外傷は反応する。
わたしにツレションルールを強制してきたおぞましいクリトリスたち。「女は子供を産む機械である」という言葉を、知恵遅れがするように受け取るフェミニストたち。聞き分けよく、パフォーマティブに短絡化できる(『自閉症の謎を解き明かす』(p282)に示された「定型発達という精神障害」の仮想症例たる)ルーシーども。コントで満足できてしまう知恵遅れ。残酷演劇という本当のパフォーマンスを理解できないメス犬ども。上野の松井に対する言葉に感動して射精してしまうちっちゃなちんちんたち。
わたしから見れば、彼ら彼女らはおぞましいだけの物体だ。殺意が湧くほどに。
ここで、クリトリスを手淫するがごとき「愛の再発明」(笑)なるものをタイトルにしてされたわたしへの反論は、ルーシーが妹のジェニファーに対して感じる嫌悪感と同じものを根拠にしているように、わたしには思える。「本当の愛」なるものは未去勢な人間にとっては未知なるものである。そんなものに基づいて反論できる彼女のクリトリスは肥大している。っていうかこんなレベルのテクストが評論として認められるんだ。ふうん。笙野頼子の言う「おんたこ」評論にしか見えないけどな。わたしには。他のテクスト知らないから彼女自身がおんたこかどうかなんてわからんし、後半グロ好きっぽいことに触れているのはなんか臭うけど。要するにお前がわたしの思う「キチガイ」かどうかまだ判断してないってこと。哲学青年に対するように反論するなら、「んで、そのテクストでお前は「本当の愛」やら「BLにはまる女性の真なる実体」に触れられたの?」ってなる。「触れられた」なり「近づけた」なり思ってるなら、それでいいじゃない。そんな感じで触手(食指ではない)すら動かない。ごめん、わたしはつまらない(笑)。精液マシンガンとは言えないしね。精液臭くはあるが。
わたしは愛なるものに疑問を覚えている故、自分の主観世界に基づいたそれらしきものについて、「本当の愛」なんて単語は当てはめないが、たとえばそれをアガペーだと解釈するならば、アガペーこそが、物自体的な人間を、パラノイアックな境界例という正常人に、征服者に仕立て上げる種だと思っている。わたしはアガペーという原パラノイアに、それを根拠にした「正しい愛」に殺され続けてきた。
お前らは、ツレションしたがるメス犬だ。わたしにしてみればお前らの方が、「人間という獣」だ。
獣のフリをする人間ほど、倫理的に間違っているものはない。獣であってしまうわたしを殺している。
だから、わたしはお前らツレション人間を殺すのである。
男に殴られた。
二人が出会った思い出のスナック(笑)で、バーカウンターに、わたしの顔を打ちつけた。
わたしは鼻血を流した。
ママが警察を呼んでくれた。
男は逃げた。
わたしも逃げたかった。
わたしを介抱するママが、おぞましかった。恥ずかしくて死にそうなのに、何故ほっておいてくれないのだろう? わたしは泣いた。ママの優しさを拒否するために泣いた。「だから言ったじゃない」などという説教を否定するために泣いた。
べとべとする床に、肉塊が落ちていた。肉塊は、ヘドロに塗れていた。
それは、わたしの子供だった。
わたしは男の子供が欲しかった。
わたしの子供であれば、それを殺そうが、罪にならない。わたしの倫理では。自分の髪の毛や爪をライターで焼くようなものである。
気を取り戻したわたしは、床に転がる肉塊を踏みにじった。
しかし、日が経てば、肉塊も干からびる。
わたしは干し肉を、大事に持ち歩く。
そんなわたしをテレビカメラが追う。
テレビカメラという魔法で、わたしのやっていることを干からびさせている。
カメラの向こうの視聴者に、わたしはこう言い訳する。
「わたしがやっていることは単なる学習である。お前たちが考えているような、感動的な心理に基づいてやっているのではない。パソコンがアプリケーションという知恵をインストールするがごとく、こうしているだけである」
その証拠に、わたしは干し肉を投げ捨てる。
カメラのレンズに向けて。
お前らには、干し肉が似合っている。
……まあ人間って同じようなこと考えるわね、と思った。いやわたしが。これ。
ダシに使うのはうまそうだ。