精神分析は不快に向かうべきものである。
2008/10/21/Tue
ここでわたしは、「精神分析家はバキュームカーだ」と書いた。
この言葉が示している(わたしの心的)事実は、理屈的にはここで述べている対象aたる「チンパンジーのミイラ」や仏性たる「乾いた糞」に通じている。分析家のディスクールにおいて能動者の立場にあるのは対象aである。ラカン論にも合致する。
しかし、バキュームカーでなくてはならないことが、忘れられつつある。
チンパンジーのミイラや乾いた糞でなければならないことが、棄却されつつある。
確かに言語的にそれらは述べられていることである。
しかし、バキュームカーは、いくら表面を金属で覆っていても、臭う。
いくらミイラとなったり乾いたりしても、それらの本質は、腐肉や糞である。
今の精神分析論は、バキュームカーでなくなっている。臭わない。
バキュームカーであるかもしれないが、未だその内部に一度も糞を溜め込んだことのない、産業展示会で展示されるようなバキュームカーである。
乾いた何かである。
ジジェクが論じている精神分析やガタリがダシにしている分裂症は、展示会で示された実物やそのスペックにすぎない。
仕事柄、産業展示会にはよく足を運んだ。ビッグサイトとかでやっている奴。
そこに示された製品群は、当然のことであるが、その会社の色眼鏡によって説明されている。
その製品を判断する際は、コンピューターソフトにおけるバグ出しのような思考をもって接しなければならない。実際にその製品を使用する時に可能性として生じるさまざまな否定的要因を想定しなければならない。脳内イジワルテストである。
ジジェクの精神分析論には、これが欠けている。
哲学者は設計者であるため、現場に疎くなってしまうのは、なんとなく理解できるが。
実際の設計者はむりやり現場に行かされるんだけどなー。ドカタのオヤジどもに何度怒鳴られたことか。
現場を知っているからこそ、複雑な脳内イジワルテストができるのだ。
いや、まあ気持ちはわかるんだけどね。哲学者=設計者と考えたら、現場のがやがやした文句に対し「うっせーお前らは黙ってオレの言う通り作ってればいいんだよ」って思うのも。
わたしもそんなところはあった(笑)。
だけど設計部署より現場の方に人気があった不思議。
現場のオヤジに「ここは○○(わたしの本名)の設計なんだから、お前がきっちり指示しろ」とかハッパかけられたこともある。
設計だろうが現場だろうが、パーソナリティとしてがやがや言ってしまうわたしは、設計では普通に疎んじられ、現場ではそのがやがやが評価された、とすら思える。
だから気分的にいっつも現場よりになってたのは事実だしなー。むー。
とか言いながら設計にも現場にも徹底的にわたしを嫌っている奴はいたけどね。単なる学歴コンプ故の嫌悪だ、と自分に言い聞かせてむりやりスルーしてたけど。
=====
心身二元論における精神にとっては、物自体とは常に既に負的な側面を伴うものなのだ。負的な側面が排除された物自体など、既に精神によって汚染された妄想でしかない。
むしろ、物自体から負的な側面を棄却したものが、人間の精神性なるものである、とさえ言える。
(この記事より)
=====
人間の精神においては、憎悪などといった、不快な感情が、現場である。
十川幸司氏の主張、「精神分析は不快に向かうべきものである」というのは、もちろん理屈的にはもっと他に見るべきところがあっての結論ではあろうが、こういう現場と設計の対立のような要素が絡んでいるのではないだろうか。彼自身の精神において。現場を忘れているような精神分析の現状への憤りが、こんな表現を使わせたのではないだろうか。
こんな表現すると「短絡化だ」とか言われそうだけど、そういった補助線があれば、わたしがその論を理解しやすいので、そう思っておく。
こちらのテクストより。
=====
十川氏によれば、精神分析が真に生産的足りうるのは、あくまでも臨床場面において不可能なものの抵抗に出会い、そこにおいて経験的次元と超越論的次元の「絡み合い」が生ずることによる。単なる思弁は、それが決して抵抗に出会わず、それゆえ単に超越論的なものでしかありえないがゆえに、無効なものとみなされる。そして、後期ラカンの思考の少なくとも一部は、このような意味で、過度に超越論的なものとして生彩を欠くことになったのである。
=====
後期ラカン論の一つとしてサントームという概念がある。サントームは、ジョイスの症例を元に説明されているが、現場との繋がりが理解されていないところも多い。なんせ後期の論だし。
こういったことから、わたしは山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」を、サントームと関連づけて考えている。
わたしは、正常人が普通に持っているSAMこそ擬似的ではないファルスであると考えている。従って、サントームとは、ファルスに不具合がある人間だけが感知できる、擬似的なファルスと言えるのではないだろうか。最近はそんな風にすら思える。事実、会社でばりばり働いていた頃のわたしは、ファリックマザーのごとき男性的な女性、即ちファロセントリストだと思われていたであろう。しかし、わたしは、別に男性社会に組しているわけではない、と常々思っていた。
わたしの症状は、ファルスによるものではない。ファルスからの防衛柵である、と。
そういうメモ書き。
この言葉が示している(わたしの心的)事実は、理屈的にはここで述べている対象aたる「チンパンジーのミイラ」や仏性たる「乾いた糞」に通じている。分析家のディスクールにおいて能動者の立場にあるのは対象aである。ラカン論にも合致する。
しかし、バキュームカーでなくてはならないことが、忘れられつつある。
チンパンジーのミイラや乾いた糞でなければならないことが、棄却されつつある。
確かに言語的にそれらは述べられていることである。
しかし、バキュームカーは、いくら表面を金属で覆っていても、臭う。
いくらミイラとなったり乾いたりしても、それらの本質は、腐肉や糞である。
今の精神分析論は、バキュームカーでなくなっている。臭わない。
バキュームカーであるかもしれないが、未だその内部に一度も糞を溜め込んだことのない、産業展示会で展示されるようなバキュームカーである。
乾いた何かである。
ジジェクが論じている精神分析やガタリがダシにしている分裂症は、展示会で示された実物やそのスペックにすぎない。
仕事柄、産業展示会にはよく足を運んだ。ビッグサイトとかでやっている奴。
そこに示された製品群は、当然のことであるが、その会社の色眼鏡によって説明されている。
その製品を判断する際は、コンピューターソフトにおけるバグ出しのような思考をもって接しなければならない。実際にその製品を使用する時に可能性として生じるさまざまな否定的要因を想定しなければならない。脳内イジワルテストである。
ジジェクの精神分析論には、これが欠けている。
哲学者は設計者であるため、現場に疎くなってしまうのは、なんとなく理解できるが。
実際の設計者はむりやり現場に行かされるんだけどなー。ドカタのオヤジどもに何度怒鳴られたことか。
現場を知っているからこそ、複雑な脳内イジワルテストができるのだ。
いや、まあ気持ちはわかるんだけどね。哲学者=設計者と考えたら、現場のがやがやした文句に対し「うっせーお前らは黙ってオレの言う通り作ってればいいんだよ」って思うのも。
わたしもそんなところはあった(笑)。
だけど設計部署より現場の方に人気があった不思議。
現場のオヤジに「ここは○○(わたしの本名)の設計なんだから、お前がきっちり指示しろ」とかハッパかけられたこともある。
設計だろうが現場だろうが、パーソナリティとしてがやがや言ってしまうわたしは、設計では普通に疎んじられ、現場ではそのがやがやが評価された、とすら思える。
だから気分的にいっつも現場よりになってたのは事実だしなー。むー。
とか言いながら設計にも現場にも徹底的にわたしを嫌っている奴はいたけどね。単なる学歴コンプ故の嫌悪だ、と自分に言い聞かせてむりやりスルーしてたけど。
=====
心身二元論における精神にとっては、物自体とは常に既に負的な側面を伴うものなのだ。負的な側面が排除された物自体など、既に精神によって汚染された妄想でしかない。
むしろ、物自体から負的な側面を棄却したものが、人間の精神性なるものである、とさえ言える。
(この記事より)
=====
人間の精神においては、憎悪などといった、不快な感情が、現場である。
十川幸司氏の主張、「精神分析は不快に向かうべきものである」というのは、もちろん理屈的にはもっと他に見るべきところがあっての結論ではあろうが、こういう現場と設計の対立のような要素が絡んでいるのではないだろうか。彼自身の精神において。現場を忘れているような精神分析の現状への憤りが、こんな表現を使わせたのではないだろうか。
こんな表現すると「短絡化だ」とか言われそうだけど、そういった補助線があれば、わたしがその論を理解しやすいので、そう思っておく。
こちらのテクストより。
=====
十川氏によれば、精神分析が真に生産的足りうるのは、あくまでも臨床場面において不可能なものの抵抗に出会い、そこにおいて経験的次元と超越論的次元の「絡み合い」が生ずることによる。単なる思弁は、それが決して抵抗に出会わず、それゆえ単に超越論的なものでしかありえないがゆえに、無効なものとみなされる。そして、後期ラカンの思考の少なくとも一部は、このような意味で、過度に超越論的なものとして生彩を欠くことになったのである。
=====
後期ラカン論の一つとしてサントームという概念がある。サントームは、ジョイスの症例を元に説明されているが、現場との繋がりが理解されていないところも多い。なんせ後期の論だし。
こういったことから、わたしは山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」を、サントームと関連づけて考えている。
わたしは、正常人が普通に持っているSAMこそ擬似的ではないファルスであると考えている。従って、サントームとは、ファルスに不具合がある人間だけが感知できる、擬似的なファルスと言えるのではないだろうか。最近はそんな風にすら思える。事実、会社でばりばり働いていた頃のわたしは、ファリックマザーのごとき男性的な女性、即ちファロセントリストだと思われていたであろう。しかし、わたしは、別に男性社会に組しているわけではない、と常々思っていた。
わたしの症状は、ファルスによるものではない。ファルスからの防衛柵である、と。
そういうメモ書き。