指や唇やまなざしとか
2008/10/23/Thu
前記事を読み返して、ニキ氏の症状の分析について話が通らないかもなあ、と思えたので、山岸氏に送信したメールをうpしておく。
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脂と申します。コメント欄に書こうと思ったのですが、長すぎたらしく、メールで述べさていただきます。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/risco002/view/20081020
の記事について、思ったことがあります。
>最初は低く、やがて周囲が驚いて振り向くほどの大声になったかと思うと、リンコさん、いきなり自分の左頬をゲンコツでぶち始めたのだ。
>「いまのは悪い言葉! 悪い言葉! 私は悪い子! 悪い子だ! 悪い子だあっ!」
こ、これは……。というのが最初の所感です(このテクストを呼んだのは初めてです)。
山岸さんが彼女をBPDと呼ぶ理由がわかった気がします。
このレポートが真実だとしたならば、彼女のこの行動は「誰かに見てもらうことを目的として(あるいは意図して)」のもののように思えます。あなたの言葉ならSAMに基づいた行為、となるでしょうね。
確かに自閉症の症状にも自傷行為(あるいは実際に行動を起こさない自傷「的」行為)がままありますが、彼らの自傷行為には、この「誰かからの視線」という要素が欠落しています。いわば、とっても自分勝手な行為なのです。
従って、バスの車中のような、衆人の視線がある場所では、擬似SAMにより抑制し(我慢し)人目のつかないところでやるか、しても目立たないように(結果として目立ったとしても、本人の内面では目立つという目的はない)やると思うのです。
これは、SAMに不具合があり、(あなたの仰る)擬似的なSAMとはSAMと別物だから、そうなるわけです。他人の視線という要素を、他人事として(擬似的なものとして)思考しているから、「人目があるからやらない」となるのに対し、彼女の行為にはそれが感じられません。むしろ「人目があるからやっている」ように思えます。
わたしは自閉症ではありませんが、自分の精神疾患症状について知ろうと、精神分析やら精神医学を学んでいます。わたしは自分はBPDだと思っていました。従って、それらの症例を多数知っているのですが、どうも彼女のこの行為は、BPDのそれのように思えるのです。
一方、自閉症については最近学び始めたにすぎないのですが、その症状としての自傷行為とBPDの自傷行為は、彼らが何故そういった行為を要請するのか、その根本的なところでの違いを感じます。
その一つとして、客観的な説明としてわたしがよく用いるのが、上記の「BPDの自傷行為は他人の視線を根拠にしているものであり、自閉症のそれはそうではない」という要件です。
この要件を採用するならば、彼女のこの行為を、自閉症の自傷行為と同じものとして考えると、大きな誤りを見逃すことになるように思います。
先ほども述べたように、わたしは自閉症については最近学び始めたばかりなので、ニキリンコのことについてはよく知りません。わたしが学んでいる精神分析(またそれをテクスト読解に応用したテクスト分析)によれば、彼女のテクストには自閉症的な「語る主体」が感じられない、とは思っていましたが、彼女自身が自閉症であるかどうかは言及したことがないです。わたしの中で確信がないからです。従って、(この記事によって「彼女は自閉症ではない」という確信が多少補強できたものの)「彼女のテクストからは自閉症的な症状が感じられない」という言い方しかできません。
とはいえ、山岸さんがどこかの記事で「彼女は境界性人格障害だ」と述べていることについて、感覚的に理解できました。
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補足しておくと、「じわじわ」と「劇的」という印象の差異が、自閉症の自傷と心因の自傷を区別する、というわけではない。
自閉症の自傷が劇的であってもよいのだ。器質因あるいは内因であれば、「じわじわ」もありだし「劇的」もありだ、という話である。しかし、「劇的」という印象には、なんらかの心の交流の前提が存在する。そこには「誰かからの視線」が存在している。
要するに、それに劇的な印象を持ってしまうのは、観察するわれわれの主観の問題である、ということだ。各々の主観は現実的に一致しない。一致しないのに、ある一定のルールに従わせて、幻想的に一致したように思わせるのが「心の理論」である。
であるならば、「心の理論」の根拠とは「まなざし」である、となる。バロン=コーエン論によれば、「心の理論」の根拠はSAMである、となる。SAMは自分についての意識と解釈されている。この「自分についての意識」を文芸的に「まなざし」と述べたのがラカン論である。ラカン論とバロン=コーエン論がここでリンクする。
この「誰かからの視線」、即ちラカン論における「まなざし」、即ちバロン=コーエン論におけるSAMこそが、それが心因による症状即ち神経症かどうかを判断する、一つの論理的根拠なのである。
劇的な印象が強ければ、そこには「まなざし」の強い影響があると推測するのは、理屈的に整合する。これが、その症状を心因と判断する一つの要件となる、という話であり、「劇的な印象」そのものが要件ではない、ということだ。
余談になるが、アルトーの残酷演劇という、一種自傷的とも言える理念は、人を神経症化させる(即ちその精神を正常に維持する)この「まなざし」を、本来の部分対象的な、物自体的なものへと退行させることを目的としていると、わたしは考える。
パトスやロゴスに塗れた「まなざし」ではなく、単なるまなざし。そこにあるだけのものとしての、存在しているだけのまなざし。原パラノイアではない、部分対象としてのまなざし。征服者などではない、ライナスの毛布や、阿部定が切断したペニスや、二階堂奥歯にとってのぬいぐるみや、戸川純作詞『12階の一番奥』の「嘘を見抜くのが下手」な「指や唇とか」や、『アンチ・オイディプス』が固執する「機械」の部品や、自閉症者が日がな一日くるくる回す歯車などと、平等な存在としてのまなざし。
赤ん坊が生きるためにすがりつくまなざし。
この時の赤ん坊が感知するまなざしは、大人のそれと比較すれば、パトスやロゴスに塗れていないことが理解できよう。
ニキ氏の「まなざし」は、パトスやロゴスに塗れている。正常人が感知する「まなざし」である、と解釈できる。彼女の自傷行為は、超自我が強すぎる故の行為である、と。
指や唇とかは 嘘を見抜くのが下手
パトスやロゴスに塗れた正常人のまなざしは、嘘をつくのが上手い。
部分対象としてのまなざしは、嘘をつけない。見抜けない。
それは、自然選択的に淘汰されるまなざしである。
正常人の、殺戮者のまなざしを持ったことのあるわたしだから、わかる。
それは、アブジェクトを棄却するまなざしである。
ケガレを浄化したり排除したりするまなざしである。
真実を映し出さないまなざしである。
嘘のまなざしである。
あなたは油絵の甘すぎる匂いをさせながら
売れっ子画家みたいに
きれいな肖像画のような嘘ばかり描く人だから信じない
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脂と申します。コメント欄に書こうと思ったのですが、長すぎたらしく、メールで述べさていただきます。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/risco002/view/20081020
の記事について、思ったことがあります。
>最初は低く、やがて周囲が驚いて振り向くほどの大声になったかと思うと、リンコさん、いきなり自分の左頬をゲンコツでぶち始めたのだ。
>「いまのは悪い言葉! 悪い言葉! 私は悪い子! 悪い子だ! 悪い子だあっ!」
こ、これは……。というのが最初の所感です(このテクストを呼んだのは初めてです)。
山岸さんが彼女をBPDと呼ぶ理由がわかった気がします。
このレポートが真実だとしたならば、彼女のこの行動は「誰かに見てもらうことを目的として(あるいは意図して)」のもののように思えます。あなたの言葉ならSAMに基づいた行為、となるでしょうね。
確かに自閉症の症状にも自傷行為(あるいは実際に行動を起こさない自傷「的」行為)がままありますが、彼らの自傷行為には、この「誰かからの視線」という要素が欠落しています。いわば、とっても自分勝手な行為なのです。
従って、バスの車中のような、衆人の視線がある場所では、擬似SAMにより抑制し(我慢し)人目のつかないところでやるか、しても目立たないように(結果として目立ったとしても、本人の内面では目立つという目的はない)やると思うのです。
これは、SAMに不具合があり、(あなたの仰る)擬似的なSAMとはSAMと別物だから、そうなるわけです。他人の視線という要素を、他人事として(擬似的なものとして)思考しているから、「人目があるからやらない」となるのに対し、彼女の行為にはそれが感じられません。むしろ「人目があるからやっている」ように思えます。
わたしは自閉症ではありませんが、自分の精神疾患症状について知ろうと、精神分析やら精神医学を学んでいます。わたしは自分はBPDだと思っていました。従って、それらの症例を多数知っているのですが、どうも彼女のこの行為は、BPDのそれのように思えるのです。
一方、自閉症については最近学び始めたにすぎないのですが、その症状としての自傷行為とBPDの自傷行為は、彼らが何故そういった行為を要請するのか、その根本的なところでの違いを感じます。
その一つとして、客観的な説明としてわたしがよく用いるのが、上記の「BPDの自傷行為は他人の視線を根拠にしているものであり、自閉症のそれはそうではない」という要件です。
この要件を採用するならば、彼女のこの行為を、自閉症の自傷行為と同じものとして考えると、大きな誤りを見逃すことになるように思います。
先ほども述べたように、わたしは自閉症については最近学び始めたばかりなので、ニキリンコのことについてはよく知りません。わたしが学んでいる精神分析(またそれをテクスト読解に応用したテクスト分析)によれば、彼女のテクストには自閉症的な「語る主体」が感じられない、とは思っていましたが、彼女自身が自閉症であるかどうかは言及したことがないです。わたしの中で確信がないからです。従って、(この記事によって「彼女は自閉症ではない」という確信が多少補強できたものの)「彼女のテクストからは自閉症的な症状が感じられない」という言い方しかできません。
とはいえ、山岸さんがどこかの記事で「彼女は境界性人格障害だ」と述べていることについて、感覚的に理解できました。
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補足しておくと、「じわじわ」と「劇的」という印象の差異が、自閉症の自傷と心因の自傷を区別する、というわけではない。
自閉症の自傷が劇的であってもよいのだ。器質因あるいは内因であれば、「じわじわ」もありだし「劇的」もありだ、という話である。しかし、「劇的」という印象には、なんらかの心の交流の前提が存在する。そこには「誰かからの視線」が存在している。
要するに、それに劇的な印象を持ってしまうのは、観察するわれわれの主観の問題である、ということだ。各々の主観は現実的に一致しない。一致しないのに、ある一定のルールに従わせて、幻想的に一致したように思わせるのが「心の理論」である。
であるならば、「心の理論」の根拠とは「まなざし」である、となる。バロン=コーエン論によれば、「心の理論」の根拠はSAMである、となる。SAMは自分についての意識と解釈されている。この「自分についての意識」を文芸的に「まなざし」と述べたのがラカン論である。ラカン論とバロン=コーエン論がここでリンクする。
この「誰かからの視線」、即ちラカン論における「まなざし」、即ちバロン=コーエン論におけるSAMこそが、それが心因による症状即ち神経症かどうかを判断する、一つの論理的根拠なのである。
劇的な印象が強ければ、そこには「まなざし」の強い影響があると推測するのは、理屈的に整合する。これが、その症状を心因と判断する一つの要件となる、という話であり、「劇的な印象」そのものが要件ではない、ということだ。
余談になるが、アルトーの残酷演劇という、一種自傷的とも言える理念は、人を神経症化させる(即ちその精神を正常に維持する)この「まなざし」を、本来の部分対象的な、物自体的なものへと退行させることを目的としていると、わたしは考える。
パトスやロゴスに塗れた「まなざし」ではなく、単なるまなざし。そこにあるだけのものとしての、存在しているだけのまなざし。原パラノイアではない、部分対象としてのまなざし。征服者などではない、ライナスの毛布や、阿部定が切断したペニスや、二階堂奥歯にとってのぬいぐるみや、戸川純作詞『12階の一番奥』の「嘘を見抜くのが下手」な「指や唇とか」や、『アンチ・オイディプス』が固執する「機械」の部品や、自閉症者が日がな一日くるくる回す歯車などと、平等な存在としてのまなざし。
赤ん坊が生きるためにすがりつくまなざし。
この時の赤ん坊が感知するまなざしは、大人のそれと比較すれば、パトスやロゴスに塗れていないことが理解できよう。
ニキ氏の「まなざし」は、パトスやロゴスに塗れている。正常人が感知する「まなざし」である、と解釈できる。彼女の自傷行為は、超自我が強すぎる故の行為である、と。
指や唇とかは 嘘を見抜くのが下手
パトスやロゴスに塗れた正常人のまなざしは、嘘をつくのが上手い。
部分対象としてのまなざしは、嘘をつけない。見抜けない。
それは、自然選択的に淘汰されるまなざしである。
正常人の、殺戮者のまなざしを持ったことのあるわたしだから、わかる。
それは、アブジェクトを棄却するまなざしである。
ケガレを浄化したり排除したりするまなざしである。
真実を映し出さないまなざしである。
嘘のまなざしである。
あなたは油絵の甘すぎる匂いをさせながら
売れっ子画家みたいに
きれいな肖像画のような嘘ばかり描く人だから信じない