『涼宮ハルヒの憂鬱』谷川流――涼宮ハルヒを精神分析してみる。ネタで。
2006/12/15/Fri
はっきり言って、ライトノベルキャラというアニメキャラを原型とした人物造形に精神分析を施そうなんて、阿呆のやることだ。シニフィアンとシニフィアンの連鎖を分析することが精神分析なら、小説の登場人物の分析はイコールその小説全体から立ち上る「作家性」の精神分析となる。ここでいう作家性は、行間などから立ち上がる作家性であり、実際の作者とは何ら関係がない。デリダの「作者の死」を持ち出すまでもないだろう。なので最近ネットでちょこちょこ見られる「アニメやマンガやラノベのキャラを無自覚に精神分析用語を使って分析風に語っているファン」がいたら「阿呆」と言ってやってよい。まあそれを手がかりに自我を客観視しようとしているのかもしれないが。自問自答の変形か。それなら「阿呆」は可哀想か。まあどうでもいいことだ。とはいえ、ある精神分析的人格モデルを比喩的に説明する時なんか意外とアニメキャラが役に立ったりするのも事実だが。
しかし、だ。オタク文化に限って話をするならば、商業主義の徹底により受取手=消費者と表現者の境界が非常に緊密であり、二次創作でわかるように境界が曖昧化していると言える。受取手から表現者へのフィードバック性が高いということだ。勘違いしないで欲しいのは、これは前の記事で書いたような「演者と観客の境界の曖昧化・主観と客観の曖昧化」とは全く違う。そのフィードバックで流通するのは、視聴率や売上げやアンケート集計やマーケティングデータなどといった「サイン的な記号」でしかない。ソクラテスの問答法がロゴス中心主義という意味で近いかもしれないが、言葉のサイン化、相互性の希薄さによって、それよりも希薄な「対話」でしか過ぎない。シンボル性、曖昧さのない「オン/オフ」に還元される情報通信でしかないのだ。
何が言いたいかというと、オタク文化におけるアニメやマンガやラノベのキャラは、オタクたち自身を映す鏡であるということだ。小説一般を精神分析的に読むことは作者の投影としての作家性の分析にしかならないが(「にしか」といいつつ評論的には意味があると私は思っている)、オタク文化のキャラを分析することは、オタク文化そのものの傾向の一面として、その文化を主体的に担っている層の精神分析的傾向分析となりうる。
というわけで、まあ今日の記事はカウンタ回し目的のウケ狙いの記事ぐらいに思って読んでください。
ということで、阿呆(というよりデンパか)である私が涼宮ハルヒというキャラを精神分析風に読み解いてみよう。断っておくが私は小説一巻とアニメを見たぐらいだ。
クレッチマーの三気質を発展させた安永浩氏らによる「同調性気質」「内閉性気質」「中心気質」という分類と、スキゾイド(分裂病質)をベンチマークに考えていこう。
クレッチマーでは「内閉性気質」は「分裂気質」である。彼は精神病へのグラデーションとして「分裂気質→分裂病質→分裂病(統合失調症)」と考えていた(もちろん左ほど正常)。現在ではスキゾイドは統合失調症の素因ではないことがわかっているので、これは病理的なものではないと断っておく。以下このグラデーションは症状として表出する印象の度合いとしてのみ用いることにする。
第一印象の私見。少し幼い。第二次反抗期特有の言動が多く見られる。だが現代社会では健全な人格形成の途上と言えるだろう。
これで終了したらつまらないので。
友人が少ない。社交性が高いとはいえない。クラスでは他者に対し冷たい印象。
空想・オカルト好き。これは自然に換喩できるので、スキゾイド的に見えるが、神秘性が希薄になった科学的現代社会ではその希求は一般化しており、根拠としては薄くなるだろう。
頭脳は明晰である。
これだけだとスキゾイドっぽく見えるが、果たしてそうであろうか。
想像的他者との距離。人による。SOS団部室と教室では二面性といってもよい表出。ハルヒが美形なら、SOS団にもっと参加志望者がいてもおかしくないがそうではない。社交性の低さを表しているが、これは能動的に他人と距離をとっているからではないだろうか。しかしSOS団内部では他人との距離は非常に近い。このことは、自分の居場所では自己中心的な、他人を振り回す中心気質化するという内閉性気質の特徴的印象を思わせる。また、特定の身近な他者(SOS団)に対しては同一化的な一体感を持っていることも、内閉性気質の特徴である。
次に、中学時代(ぎりぎり第二次反抗期と考えてよいか)の突飛な行動について、自己中心的というより反発心さえ感じる。社会への反発心だ。このことはバニー姿でちらしを配るなど高校生になっても散見される。教師に注意されたときの印象では怒られることは薄々気付いていたような感じだ(中学までの奇行で学ばない方がおかしい)。これは大文字の他者への反発である。
この大文字の他者への反発は、第二次反抗期的ともいえ、自我は強い印象である。中心気質的な自己中心的という大まかな印象からも明らかだろう。自分の意見も曲げない。他者との接し方も受動的というより、距離を自分で決定するという意味で能動的であると言える。また自己愛的言動が多く見られる。
スキゾイドの突飛な行動は他人からの反応を考慮にいれない感じがあるが、バニー姿でチラシを配ろうと思いつくこと自体に、他者の反応を考慮に入れていたことが見て取れる。つまり他者への仲間意識が表出していると言える。
それに彼女は自分の正当性を主張する多弁さが見られる。これは正義感と言えるだろう。
他者への同一化(仲間意識)と他者との差異化(正義感)という点では、一般的な人格成長の葛藤として受け取れる。ラカン論では「人格はパラノイア」であるので、パラノイア的人格であると言える。これなら第二次反抗期的な自我の強さも納得できる。
内閉性気質と分裂病質の関係について、私の考えを述べておく。クレッチマーの症状グラデーションを見ればわかるように、「内閉性気質⊃分裂病質」である。ならば内閉性気質であり非分裂病質であるということもありうる。
ここで私の「パラノ/スキゾ二項対比」を用いる。その人格の内的動力が「象徴界<想像界」だと「パラノ」で、「象徴界>想像界」だと「スキゾ」と定義し、精神医学用語を暗喩的に用いた対比としての二項である。人口的にはパラノ>>スキゾでパラノが圧倒しており、非スキゾ≒パラノ≒正常な一般人、だと思って欲しい。
スキゾイドは引きこもりの素因である。しかしそういった本来のスキゾ的引きこもりでない引きこもりも最近では増えている。それを分類するのに衣笠隆幸氏は「自己愛型引きこもり」という言葉を提唱した。これは印象としてはパラノ的である。彼らは能動的に他者との接触を断っているのだ。パラノが本来スキゾ的である「引きこもり」という仮面を被ったものと私は考えている。
「パラノ/スキゾ」を簡単に説明するならば、「能動的/受動的」と言い換えた方がわかりやすいだろう。
女性は男性より受動的で、表面的にはスキゾ的、内閉性気質の傾向がある。しかし引きこもりは圧倒的に男性が多い(斎藤環氏による)。元々女性は男性と比べ内的動力が「象徴界<想像界」だからだと私は考える。表面はスキゾ的で内面はパラノ的。女性性は複雑なのだ。スキゾ的女性に話を戻すと、表面的には女性的だが内面的には非女性的女性であるとも言えるだろう。しかしスキゾなので能動的であるとは言えない。象徴界が強いため文学少女的な一面もあり、想像界が弱いため小文字の他者との繋がりへの希求は希薄なので「箱入り娘」「深窓の令嬢」的でもある。
ハルヒはどうであろう。
その能動主体の性格や、スキゾイドの人格モデルを考慮すれば、分裂病質とは言えないだろう。しかし他者との距離は一般的に遠く社交性が低い点や、自分の居場所では中心気質となるといった点などから、内閉性気質と言える。
つまり内閉性気質ではあるが分裂病質ではない、ということだ。しかし、一部強めの中心気質も感じ取れる。内閉性気質が自分の居場所で中心気質となるのは、自己愛的な引きこもりが自宅では自己中心的に振舞うことを想像すればわかりやすいだろう。
ここで中心気質を説明しておく。他者と同調でも遮断でもなく、むしろ自己から発散するタイプの気質だという。特徴としては、自己中心的でムードメーカーで世界・自然との距離感が近くて欲動に素直で社交的だけど「同調性気質」のように他者と適度な距離感を持った付き合い方ではなく「他人の心に土足で上がるような」密接な距離を好み、「みんな私を愛してネ」的に周りを巻き込むタイプ、だそうだ。同じハルヒで説明するなら『桜蘭高校ホスト部』のハニー先輩や殿が近いだろうか。私はアニメとしてはホスト部の方が好きだ。完全な余談だが。
「何だ子供じゃん」と思ったあなたは正解だ。山根一郎氏は人格形成の段階として「中心気質→内閉性気質→同調性気質」と表現できるのではないかとしている。イメージとしては去勢を恐れる前の、第一次反抗期前・第二次反抗期前が中心気質となるか。去勢を恐れるようになる反抗期やエディプスコンプレックスが内閉性気質で、去勢された大人が同調性気質というイメージになる。
もう一つ具体例を上げるならば、精神科医の斎藤環氏は石原慎太郎氏のことを中心気質と診断している(斎藤氏著「文学の徴候」)。
さて、ここでようやく私のハルヒに対する第一印象が説明できる。
分裂病質ではなく、非スキゾという意味でパラノ≒正常な一般人であるが、他人との距離を遠く取る内閉性気質である。また自分の居場所における中心気質的表出が顕著であることから、自己愛型内閉性気質とも言えるだろう。健全な人格形成の途上であるとはいえ、大文字の他者への反発やパラノイア的同一化と差異化の葛藤が目立つことから、第二次反抗期的な幼さが見える。こんな感じになるだろうか。幼さといっても母性過多な現代の学校教育ではファルスが増長してしまうので、このぐらいは普通かな、とも思う。
ところが、だ。
アニメでの学園祭の話(第12話)を思い出そう。この時ハルヒはSOS団じゃないバンドメンバーと親しく話している。けが人の代役を引き受けるというその態度や、「お礼はユキにいって」というような言動は同調性気質的と言えよう。これはどういうことか。
人格成長的にみるならば、中学時代に中心気質的に自己中心的な奇行を繰り返した彼女は、成長して内閉性気質となった。象徴界への参入が始まったのだ。彼女は大文字の他者により去勢されてしまった。彼女は自己愛型引きこもり的にSOS団に閉じこもる。しかし学園祭で、彼女は身近な他者以外の他者に、適切な距離感を持って接している。同調性気質的な一面が垣間見えたのだ。同調性気質の関心は「他者」へと向く。彼女は初めて(暗喩ですよ)身近な他者以外の他者に関心を持ったのだ。内閉性気質だった彼女は、SOS団という狭い部屋から抜け出すことで他者との適切な距離感を学び、部屋の中での中心気質がたくさんの他者との関係性へと拡散するように、「去勢された」同調性気質へと成長したのだ。そんな風にも取れる。
これが、アニメ第12話「ライブアライブ」がオタクたちの間で話題になった理由ではないだろうか。
もちろんオタクたちはそのことを意識してないだろう。しかし、彼らは無意識的に(暗喩的に)、自己愛型引きこもりやパラノ的オタに対する「書を捨てよ町へ出よう」的なメッセージを感じとったのではないだろうか。
「暗喩的」というのがミソだ。これが男性オタクがベースとして感情移入するキョンが成長する話だったら、敏いオタクたちに見破られてしまっただろう。「ベタだ、説教臭い」などと。萌え対称であるハルヒという女性キャラだったからよかったのだ。オタクたちは男性主人公ほどではないが萌えキャラにも自己を投影しているということを証明した作品と言えるかもしれない。
何故男性オタクが女性の萌えキャラに自己を投影できたのか。
セカイ系について書いた前の二つの記事を思い出して欲しい。
1.母性的環境(学校など)から父性的環境(社会)へ参入する時のギャップが、現代では大きくなっているため、セカイ系では「第二の去勢」とも言うべき「象徴界(父性的社会)との関係性」をテーマにしている。
2.セカイ系における女性主人公は「戦闘美少女」であり、呪術的力と現実的力二つを兼ね備えたジャンヌダルク的なキャラクターである。
1.については今述べたように、男性主人公ではなく萌えキャラである女性主人公に象徴界への参入を暗喩的にさせたということになる。
2.について、ハルヒは戦闘美少女だろうか。定義が呪術的能力と現実的(戦闘的)能力二つを持つということであるならそうだと言えるだろう。ハルヒの能力は作品中の現実的世界に、キョンのいる世界に影響を及ぼすからだ。シャーマンは神話的に言うと本来「曖昧な世界」との仲介役に過ぎない。
ということは、ハルヒにもファルス(=現実的世界に影響する強い力)があると言える。それまでのセカイ系の文脈で、感情移入のベースは男性主人公だが、ファルスだけは女性主人公に投影しているという交錯的感情移入のスタイルを、オタクたちは前提としていたのだろう。
このファルスが入り口となって、オタクたちは男性であってもハルヒにいくばくかの(意識的にしろ無意識的にしろ)感情移入をすることが可能になったと言えるのではないか。
また、この交錯のスタイルを理解できない人には、ハルヒの象徴界への参入の暗喩がイマイチ響かなかったという一面もあるかもしれない。
ここまで書けば、私が先に述べた「オタク文化の表現作品はオタクたちの鏡でもある」ということを理解してもらえるだろうか。
もっと書いてみよう。ハルヒはスキゾ的人格の仮面を被る非スキゾ≒一般的正常人≒パラノ的人格と言える。付け加えるなら、演技性人格障害のヒステリー的言動が、「ハルヒの特権的能力が世界を破滅に導く」といった暗喩になっていると個人的には感じ取れる。この人格障害については、青年期ではよく見られる傾向であり、「本当の自我(ラカン論ではそんなものないが)」を求める際の意識が、(内向的な人ならハムレット的自問自答になるところを)外見や行動に偏ってしまった人格だと私は考える。余談だがこれもパラノイア的同一化と差異化の葛藤のオーバーシュートであろう。注目を浴びたがる・性的挑発が顕著等→同一化であり、派手な行動・ファッション等→差異化だ。まあこれについてはこのぐらいにしておこう。
問題は非分裂病質で内閉性気質であることだ。私が「オタク二分論」で書いた「パラノ的オタ」がこれに当てはまり、引きこもりなら「自己愛型引きこもり」がこれに当てはまるだろう。また私はそれらについて、違う記事で本来社交的であるパラノが「オタク」というスキゾ的な仮面を被ることが問題だと書いた。非分裂病質で内閉性気質であるということは、スキゾ的仮面を被るパラノ的人格とほぼ同義ではないだろうか。ハルヒの大ヒット(特に第12話が話題になったこと)は、現代のオタク文化はパラノ的オタが多数を占めているという証左にもなる。
私はオタク二分論でスキゾ的オタを「ヘビーオタ」、パラノ的オタを「ライトオタ」と表現した。このヘビーオタがハルヒの成長に共感しにくかったのではないかと推測できる。よってハルヒという作品においては、傾向的にライトオタとヘビーオタが対立するような賛否両論が生まれたのであろう。
まあ、自己愛型引きこもりに近いライフスタイルを送っているパラノ的オタが自己嫌悪的にハルヒを嫌ってしまうこともあるだろうが。
余談だが、オタク文化や引きこもりに限らず、ポストモダン全体の傾向として「スキゾ的仮面を被るパラノ的人格」は増えているように思う。例えば宮台真司氏の著作「サイファ覚醒せよ!」で書かれている「動物化しきれないヘタレ」が「スキゾ的仮面を被るパラノ的人格」に呼応するだろう。
ポストモダンは情報化社会で、人々は動物化(東浩紀氏による)している。情報化社会=記号が溢れる社会、動物化=世界・社会・表現に対し受動的、であると考えれば、ポストモダンはスキゾ的人格が適応しやすい時代だと言える。なのでパラノのスキゾ化ともいうべきこの傾向は仕方ないところがあるだろう。しかし、仮面を被ることによる本来の人格の抑圧はストレスにもなりうる。簡単にスキゾ化や動物化を勧めるのはいかがなものか、と私は思う。
この「スキゾ的仮面」と、大塚英志氏が「物語消滅論」で書いた「キャラ化する自我」と、ハルヒの「演技性人格障害」。これらが何故か私には不気味にだけど静かに共鳴しているように思える。
また、ハルヒに人格的な幼さが見えると書いたが、これはハルヒに限らない。ほとんどの萌え女性キャラは(設定年齢が高かろうと)人格的に幼いという印象が私にはある。字数も多くなったので詳しくは述べないが、人格的に幼い女性は、その幼さ故自我の差異化、つまり反抗的態度を「現実では」取りがちになる。しかしそういった反抗的態度や裏切りが萌えキャラには希薄だ。「ベタ」とも言える。例えばツンデレなどはツンは反抗的だがデレを必ず必要とされる。デレは必ず男性オタクが感情移入するであろう男性主人公に向けられていなければならない。ツンデレの人格ベースこそ第二次反抗期の少女だという印象が私にはある。こういった「ロリコン」的キャラは、ツンデレのデレのように、最終的には男性主人公を肯定する。これはオタク文化表現では必須といってよいだろう。この必ず肯定してもらえるという感覚は、「母性」への希求である。
ラカンの鏡像段階論を思い出して欲しい。求めるだけ与えられる胎内から生れ落ちた赤子は、鏡に映る自分の体(暗喩ですよ)を手に入れる代わりに、「求めるだけ与えられる」という全能感に傷をつけられる。母と差異化してしまったがために母乳を与えられない場合が生ずるのだ。ここで赤子は「良い乳房と悪い乳房」を覚える。この「母性」がロリコン的萌えキャラに暗喩されているのだ。だから、オタク文化における「ロリコン」は現実的な性倒錯ではなく、「マザコン」の暗喩(裏返し)であり、よってオタクは幼稚なマザコンと言える、というよくある分析結果が生まれるわけだ。断っておくがこれは私の論ではなく、そこらでよく言われている分析である。とは言っても「マザコン」も現実的な性倒錯ではない。何故なら幼児にとって初めて受容してもらえる他者は「母親」であるが、初めて裏切られるのも「母親」だからだ。ではなぜ「少女」なのか。これは去勢を恐れる=象徴界からの逃避そのものが反抗期的である故、彼らの擬似恋愛対象は反抗期的な「少女」でならなくてはならない、ということだ。これは反抗期を戯画的に表現したツンデレキャラの浸透にも見て取れる傾向である。
つまり彼らは高い強度の「母性」(反抗しない・裏切らない=「ベタ」)を架空の「少女」に求めているわけだ。という結論はオタク文化を表層的にしか見れなかった場合の結論だろうなあ、とも思う。オタク文化のこの傾向は病的なものではなく、もっと一般的でもっと根が深いのではないだろうか。
例えば、個人的な感覚で言わせてもらえば、オタクではない30代以上の男性も「マザコン」的に分析できる人格が多い。これは資本主義社会というロゴス中心主義的な父性的社会の中で生きる男性たちにとって、共通の仕方のない心理傾向なのかもしれない、と私は思っている。
まあ、一面的な服従という人格しかない「メイド」的キャラだけではなく二面性を持つ「ツンデレ」的キャラが生まれたことは、逆にオタクたちが多面的で複雑な現実的世界を(無意識的にでもよい)希求している表出ともとれるとは思う。あんまりちゃんと考えた論理ではないが。
さて、最後に作品についての評価を。
私はどっかでも書いたがこの作品は「オタク文化のお約束を肯定的にナンセンス化したコメディ」だと思っている。見かけ上肯定しているが、全体で考えるとナンセンス化されているという、二重性のある高度なアイロニーというか。
アニメについては何も考えずに見れる佳作だと思った。作画も非常に良好で、アニメ界がこれに影響され今後作画重視傾向に向かってくれればなあ、と思わせる作品だった。しかし私はホスト部の方が好きだが。
ついでに作者の谷川氏に言及すると、彼は典型的パラノ型人格、つまり健全な一般的人格と言えると思う。スキゾ的な人間を書いているがスキゾ的になりきれない。ハルヒじゃなくても本来の意味でスキゾ的な長門など(いくら人間ではないといっても)象徴的小道具などで表現できる余裕はあると思う。人格として限りなくロボットに近い「人格のないキャラ」になっている。キョンについては多分彼の作家性が(意識的であれ無意識的であれ)最も憑依するキャラだと思われるが、彼からもスキゾという感じは受けなかった。同調性気質である彼は健全な、だけど普通すぎる大人と言えよう。こういったことから谷川氏の人格を推測してみた。まああまり意味はないが。
作品全体から立ち上る作家性については、アイロニカルな立ち位置で楽しく遊んでいるような感じだ。2ちゃんの祭りを想像してもらえればわかりやすいか。2ちゃんの祭りの参加者的なのだ。宮台氏はこういった2ちゃんねらーたちを「強迫的なアイロニズム」と評した。強迫的までとは言わないが、先に述べたナンセンス化の仕方については多少神経質なところも感じる。これ以上は二巻以降を読まないとなんとも言えないが……。
ともかく、ライトノベルとしては非常にうまいカウンターを入れることができた作品だろう。但し軽いパンチで相手(ラノベファン)にはほとんど効かなかった、という印象。
うーん、ウケ狙いといいつつ途中からマジ入っちゃったよ……。
しかし、だ。オタク文化に限って話をするならば、商業主義の徹底により受取手=消費者と表現者の境界が非常に緊密であり、二次創作でわかるように境界が曖昧化していると言える。受取手から表現者へのフィードバック性が高いということだ。勘違いしないで欲しいのは、これは前の記事で書いたような「演者と観客の境界の曖昧化・主観と客観の曖昧化」とは全く違う。そのフィードバックで流通するのは、視聴率や売上げやアンケート集計やマーケティングデータなどといった「サイン的な記号」でしかない。ソクラテスの問答法がロゴス中心主義という意味で近いかもしれないが、言葉のサイン化、相互性の希薄さによって、それよりも希薄な「対話」でしか過ぎない。シンボル性、曖昧さのない「オン/オフ」に還元される情報通信でしかないのだ。
何が言いたいかというと、オタク文化におけるアニメやマンガやラノベのキャラは、オタクたち自身を映す鏡であるということだ。小説一般を精神分析的に読むことは作者の投影としての作家性の分析にしかならないが(「にしか」といいつつ評論的には意味があると私は思っている)、オタク文化のキャラを分析することは、オタク文化そのものの傾向の一面として、その文化を主体的に担っている層の精神分析的傾向分析となりうる。
というわけで、まあ今日の記事はカウンタ回し目的のウケ狙いの記事ぐらいに思って読んでください。
ということで、阿呆(というよりデンパか)である私が涼宮ハルヒというキャラを精神分析風に読み解いてみよう。断っておくが私は小説一巻とアニメを見たぐらいだ。
クレッチマーの三気質を発展させた安永浩氏らによる「同調性気質」「内閉性気質」「中心気質」という分類と、スキゾイド(分裂病質)をベンチマークに考えていこう。
クレッチマーでは「内閉性気質」は「分裂気質」である。彼は精神病へのグラデーションとして「分裂気質→分裂病質→分裂病(統合失調症)」と考えていた(もちろん左ほど正常)。現在ではスキゾイドは統合失調症の素因ではないことがわかっているので、これは病理的なものではないと断っておく。以下このグラデーションは症状として表出する印象の度合いとしてのみ用いることにする。
第一印象の私見。少し幼い。第二次反抗期特有の言動が多く見られる。だが現代社会では健全な人格形成の途上と言えるだろう。
これで終了したらつまらないので。
友人が少ない。社交性が高いとはいえない。クラスでは他者に対し冷たい印象。
空想・オカルト好き。これは自然に換喩できるので、スキゾイド的に見えるが、神秘性が希薄になった科学的現代社会ではその希求は一般化しており、根拠としては薄くなるだろう。
頭脳は明晰である。
これだけだとスキゾイドっぽく見えるが、果たしてそうであろうか。
想像的他者との距離。人による。SOS団部室と教室では二面性といってもよい表出。ハルヒが美形なら、SOS団にもっと参加志望者がいてもおかしくないがそうではない。社交性の低さを表しているが、これは能動的に他人と距離をとっているからではないだろうか。しかしSOS団内部では他人との距離は非常に近い。このことは、自分の居場所では自己中心的な、他人を振り回す中心気質化するという内閉性気質の特徴的印象を思わせる。また、特定の身近な他者(SOS団)に対しては同一化的な一体感を持っていることも、内閉性気質の特徴である。
次に、中学時代(ぎりぎり第二次反抗期と考えてよいか)の突飛な行動について、自己中心的というより反発心さえ感じる。社会への反発心だ。このことはバニー姿でちらしを配るなど高校生になっても散見される。教師に注意されたときの印象では怒られることは薄々気付いていたような感じだ(中学までの奇行で学ばない方がおかしい)。これは大文字の他者への反発である。
この大文字の他者への反発は、第二次反抗期的ともいえ、自我は強い印象である。中心気質的な自己中心的という大まかな印象からも明らかだろう。自分の意見も曲げない。他者との接し方も受動的というより、距離を自分で決定するという意味で能動的であると言える。また自己愛的言動が多く見られる。
スキゾイドの突飛な行動は他人からの反応を考慮にいれない感じがあるが、バニー姿でチラシを配ろうと思いつくこと自体に、他者の反応を考慮に入れていたことが見て取れる。つまり他者への仲間意識が表出していると言える。
それに彼女は自分の正当性を主張する多弁さが見られる。これは正義感と言えるだろう。
他者への同一化(仲間意識)と他者との差異化(正義感)という点では、一般的な人格成長の葛藤として受け取れる。ラカン論では「人格はパラノイア」であるので、パラノイア的人格であると言える。これなら第二次反抗期的な自我の強さも納得できる。
内閉性気質と分裂病質の関係について、私の考えを述べておく。クレッチマーの症状グラデーションを見ればわかるように、「内閉性気質⊃分裂病質」である。ならば内閉性気質であり非分裂病質であるということもありうる。
ここで私の「パラノ/スキゾ二項対比」を用いる。その人格の内的動力が「象徴界<想像界」だと「パラノ」で、「象徴界>想像界」だと「スキゾ」と定義し、精神医学用語を暗喩的に用いた対比としての二項である。人口的にはパラノ>>スキゾでパラノが圧倒しており、非スキゾ≒パラノ≒正常な一般人、だと思って欲しい。
スキゾイドは引きこもりの素因である。しかしそういった本来のスキゾ的引きこもりでない引きこもりも最近では増えている。それを分類するのに衣笠隆幸氏は「自己愛型引きこもり」という言葉を提唱した。これは印象としてはパラノ的である。彼らは能動的に他者との接触を断っているのだ。パラノが本来スキゾ的である「引きこもり」という仮面を被ったものと私は考えている。
「パラノ/スキゾ」を簡単に説明するならば、「能動的/受動的」と言い換えた方がわかりやすいだろう。
女性は男性より受動的で、表面的にはスキゾ的、内閉性気質の傾向がある。しかし引きこもりは圧倒的に男性が多い(斎藤環氏による)。元々女性は男性と比べ内的動力が「象徴界<想像界」だからだと私は考える。表面はスキゾ的で内面はパラノ的。女性性は複雑なのだ。スキゾ的女性に話を戻すと、表面的には女性的だが内面的には非女性的女性であるとも言えるだろう。しかしスキゾなので能動的であるとは言えない。象徴界が強いため文学少女的な一面もあり、想像界が弱いため小文字の他者との繋がりへの希求は希薄なので「箱入り娘」「深窓の令嬢」的でもある。
ハルヒはどうであろう。
その能動主体の性格や、スキゾイドの人格モデルを考慮すれば、分裂病質とは言えないだろう。しかし他者との距離は一般的に遠く社交性が低い点や、自分の居場所では中心気質となるといった点などから、内閉性気質と言える。
つまり内閉性気質ではあるが分裂病質ではない、ということだ。しかし、一部強めの中心気質も感じ取れる。内閉性気質が自分の居場所で中心気質となるのは、自己愛的な引きこもりが自宅では自己中心的に振舞うことを想像すればわかりやすいだろう。
ここで中心気質を説明しておく。他者と同調でも遮断でもなく、むしろ自己から発散するタイプの気質だという。特徴としては、自己中心的でムードメーカーで世界・自然との距離感が近くて欲動に素直で社交的だけど「同調性気質」のように他者と適度な距離感を持った付き合い方ではなく「他人の心に土足で上がるような」密接な距離を好み、「みんな私を愛してネ」的に周りを巻き込むタイプ、だそうだ。同じハルヒで説明するなら『桜蘭高校ホスト部』のハニー先輩や殿が近いだろうか。私はアニメとしてはホスト部の方が好きだ。完全な余談だが。
「何だ子供じゃん」と思ったあなたは正解だ。山根一郎氏は人格形成の段階として「中心気質→内閉性気質→同調性気質」と表現できるのではないかとしている。イメージとしては去勢を恐れる前の、第一次反抗期前・第二次反抗期前が中心気質となるか。去勢を恐れるようになる反抗期やエディプスコンプレックスが内閉性気質で、去勢された大人が同調性気質というイメージになる。
もう一つ具体例を上げるならば、精神科医の斎藤環氏は石原慎太郎氏のことを中心気質と診断している(斎藤氏著「文学の徴候」)。
さて、ここでようやく私のハルヒに対する第一印象が説明できる。
分裂病質ではなく、非スキゾという意味でパラノ≒正常な一般人であるが、他人との距離を遠く取る内閉性気質である。また自分の居場所における中心気質的表出が顕著であることから、自己愛型内閉性気質とも言えるだろう。健全な人格形成の途上であるとはいえ、大文字の他者への反発やパラノイア的同一化と差異化の葛藤が目立つことから、第二次反抗期的な幼さが見える。こんな感じになるだろうか。幼さといっても母性過多な現代の学校教育ではファルスが増長してしまうので、このぐらいは普通かな、とも思う。
ところが、だ。
アニメでの学園祭の話(第12話)を思い出そう。この時ハルヒはSOS団じゃないバンドメンバーと親しく話している。けが人の代役を引き受けるというその態度や、「お礼はユキにいって」というような言動は同調性気質的と言えよう。これはどういうことか。
人格成長的にみるならば、中学時代に中心気質的に自己中心的な奇行を繰り返した彼女は、成長して内閉性気質となった。象徴界への参入が始まったのだ。彼女は大文字の他者により去勢されてしまった。彼女は自己愛型引きこもり的にSOS団に閉じこもる。しかし学園祭で、彼女は身近な他者以外の他者に、適切な距離感を持って接している。同調性気質的な一面が垣間見えたのだ。同調性気質の関心は「他者」へと向く。彼女は初めて(暗喩ですよ)身近な他者以外の他者に関心を持ったのだ。内閉性気質だった彼女は、SOS団という狭い部屋から抜け出すことで他者との適切な距離感を学び、部屋の中での中心気質がたくさんの他者との関係性へと拡散するように、「去勢された」同調性気質へと成長したのだ。そんな風にも取れる。
これが、アニメ第12話「ライブアライブ」がオタクたちの間で話題になった理由ではないだろうか。
もちろんオタクたちはそのことを意識してないだろう。しかし、彼らは無意識的に(暗喩的に)、自己愛型引きこもりやパラノ的オタに対する「書を捨てよ町へ出よう」的なメッセージを感じとったのではないだろうか。
「暗喩的」というのがミソだ。これが男性オタクがベースとして感情移入するキョンが成長する話だったら、敏いオタクたちに見破られてしまっただろう。「ベタだ、説教臭い」などと。萌え対称であるハルヒという女性キャラだったからよかったのだ。オタクたちは男性主人公ほどではないが萌えキャラにも自己を投影しているということを証明した作品と言えるかもしれない。
何故男性オタクが女性の萌えキャラに自己を投影できたのか。
セカイ系について書いた前の二つの記事を思い出して欲しい。
1.母性的環境(学校など)から父性的環境(社会)へ参入する時のギャップが、現代では大きくなっているため、セカイ系では「第二の去勢」とも言うべき「象徴界(父性的社会)との関係性」をテーマにしている。
2.セカイ系における女性主人公は「戦闘美少女」であり、呪術的力と現実的力二つを兼ね備えたジャンヌダルク的なキャラクターである。
1.については今述べたように、男性主人公ではなく萌えキャラである女性主人公に象徴界への参入を暗喩的にさせたということになる。
2.について、ハルヒは戦闘美少女だろうか。定義が呪術的能力と現実的(戦闘的)能力二つを持つということであるならそうだと言えるだろう。ハルヒの能力は作品中の現実的世界に、キョンのいる世界に影響を及ぼすからだ。シャーマンは神話的に言うと本来「曖昧な世界」との仲介役に過ぎない。
ということは、ハルヒにもファルス(=現実的世界に影響する強い力)があると言える。それまでのセカイ系の文脈で、感情移入のベースは男性主人公だが、ファルスだけは女性主人公に投影しているという交錯的感情移入のスタイルを、オタクたちは前提としていたのだろう。
このファルスが入り口となって、オタクたちは男性であってもハルヒにいくばくかの(意識的にしろ無意識的にしろ)感情移入をすることが可能になったと言えるのではないか。
また、この交錯のスタイルを理解できない人には、ハルヒの象徴界への参入の暗喩がイマイチ響かなかったという一面もあるかもしれない。
ここまで書けば、私が先に述べた「オタク文化の表現作品はオタクたちの鏡でもある」ということを理解してもらえるだろうか。
もっと書いてみよう。ハルヒはスキゾ的人格の仮面を被る非スキゾ≒一般的正常人≒パラノ的人格と言える。付け加えるなら、演技性人格障害のヒステリー的言動が、「ハルヒの特権的能力が世界を破滅に導く」といった暗喩になっていると個人的には感じ取れる。この人格障害については、青年期ではよく見られる傾向であり、「本当の自我(ラカン論ではそんなものないが)」を求める際の意識が、(内向的な人ならハムレット的自問自答になるところを)外見や行動に偏ってしまった人格だと私は考える。余談だがこれもパラノイア的同一化と差異化の葛藤のオーバーシュートであろう。注目を浴びたがる・性的挑発が顕著等→同一化であり、派手な行動・ファッション等→差異化だ。まあこれについてはこのぐらいにしておこう。
問題は非分裂病質で内閉性気質であることだ。私が「オタク二分論」で書いた「パラノ的オタ」がこれに当てはまり、引きこもりなら「自己愛型引きこもり」がこれに当てはまるだろう。また私はそれらについて、違う記事で本来社交的であるパラノが「オタク」というスキゾ的な仮面を被ることが問題だと書いた。非分裂病質で内閉性気質であるということは、スキゾ的仮面を被るパラノ的人格とほぼ同義ではないだろうか。ハルヒの大ヒット(特に第12話が話題になったこと)は、現代のオタク文化はパラノ的オタが多数を占めているという証左にもなる。
私はオタク二分論でスキゾ的オタを「ヘビーオタ」、パラノ的オタを「ライトオタ」と表現した。このヘビーオタがハルヒの成長に共感しにくかったのではないかと推測できる。よってハルヒという作品においては、傾向的にライトオタとヘビーオタが対立するような賛否両論が生まれたのであろう。
まあ、自己愛型引きこもりに近いライフスタイルを送っているパラノ的オタが自己嫌悪的にハルヒを嫌ってしまうこともあるだろうが。
余談だが、オタク文化や引きこもりに限らず、ポストモダン全体の傾向として「スキゾ的仮面を被るパラノ的人格」は増えているように思う。例えば宮台真司氏の著作「サイファ覚醒せよ!」で書かれている「動物化しきれないヘタレ」が「スキゾ的仮面を被るパラノ的人格」に呼応するだろう。
ポストモダンは情報化社会で、人々は動物化(東浩紀氏による)している。情報化社会=記号が溢れる社会、動物化=世界・社会・表現に対し受動的、であると考えれば、ポストモダンはスキゾ的人格が適応しやすい時代だと言える。なのでパラノのスキゾ化ともいうべきこの傾向は仕方ないところがあるだろう。しかし、仮面を被ることによる本来の人格の抑圧はストレスにもなりうる。簡単にスキゾ化や動物化を勧めるのはいかがなものか、と私は思う。
この「スキゾ的仮面」と、大塚英志氏が「物語消滅論」で書いた「キャラ化する自我」と、ハルヒの「演技性人格障害」。これらが何故か私には不気味にだけど静かに共鳴しているように思える。
また、ハルヒに人格的な幼さが見えると書いたが、これはハルヒに限らない。ほとんどの萌え女性キャラは(設定年齢が高かろうと)人格的に幼いという印象が私にはある。字数も多くなったので詳しくは述べないが、人格的に幼い女性は、その幼さ故自我の差異化、つまり反抗的態度を「現実では」取りがちになる。しかしそういった反抗的態度や裏切りが萌えキャラには希薄だ。「ベタ」とも言える。例えばツンデレなどはツンは反抗的だがデレを必ず必要とされる。デレは必ず男性オタクが感情移入するであろう男性主人公に向けられていなければならない。ツンデレの人格ベースこそ第二次反抗期の少女だという印象が私にはある。こういった「ロリコン」的キャラは、ツンデレのデレのように、最終的には男性主人公を肯定する。これはオタク文化表現では必須といってよいだろう。この必ず肯定してもらえるという感覚は、「母性」への希求である。
ラカンの鏡像段階論を思い出して欲しい。求めるだけ与えられる胎内から生れ落ちた赤子は、鏡に映る自分の体(暗喩ですよ)を手に入れる代わりに、「求めるだけ与えられる」という全能感に傷をつけられる。母と差異化してしまったがために母乳を与えられない場合が生ずるのだ。ここで赤子は「良い乳房と悪い乳房」を覚える。この「母性」がロリコン的萌えキャラに暗喩されているのだ。だから、オタク文化における「ロリコン」は現実的な性倒錯ではなく、「マザコン」の暗喩(裏返し)であり、よってオタクは幼稚なマザコンと言える、というよくある分析結果が生まれるわけだ。断っておくがこれは私の論ではなく、そこらでよく言われている分析である。とは言っても「マザコン」も現実的な性倒錯ではない。何故なら幼児にとって初めて受容してもらえる他者は「母親」であるが、初めて裏切られるのも「母親」だからだ。ではなぜ「少女」なのか。これは去勢を恐れる=象徴界からの逃避そのものが反抗期的である故、彼らの擬似恋愛対象は反抗期的な「少女」でならなくてはならない、ということだ。これは反抗期を戯画的に表現したツンデレキャラの浸透にも見て取れる傾向である。
つまり彼らは高い強度の「母性」(反抗しない・裏切らない=「ベタ」)を架空の「少女」に求めているわけだ。という結論はオタク文化を表層的にしか見れなかった場合の結論だろうなあ、とも思う。オタク文化のこの傾向は病的なものではなく、もっと一般的でもっと根が深いのではないだろうか。
例えば、個人的な感覚で言わせてもらえば、オタクではない30代以上の男性も「マザコン」的に分析できる人格が多い。これは資本主義社会というロゴス中心主義的な父性的社会の中で生きる男性たちにとって、共通の仕方のない心理傾向なのかもしれない、と私は思っている。
まあ、一面的な服従という人格しかない「メイド」的キャラだけではなく二面性を持つ「ツンデレ」的キャラが生まれたことは、逆にオタクたちが多面的で複雑な現実的世界を(無意識的にでもよい)希求している表出ともとれるとは思う。あんまりちゃんと考えた論理ではないが。
さて、最後に作品についての評価を。
私はどっかでも書いたがこの作品は「オタク文化のお約束を肯定的にナンセンス化したコメディ」だと思っている。見かけ上肯定しているが、全体で考えるとナンセンス化されているという、二重性のある高度なアイロニーというか。
アニメについては何も考えずに見れる佳作だと思った。作画も非常に良好で、アニメ界がこれに影響され今後作画重視傾向に向かってくれればなあ、と思わせる作品だった。しかし私はホスト部の方が好きだが。
ついでに作者の谷川氏に言及すると、彼は典型的パラノ型人格、つまり健全な一般的人格と言えると思う。スキゾ的な人間を書いているがスキゾ的になりきれない。ハルヒじゃなくても本来の意味でスキゾ的な長門など(いくら人間ではないといっても)象徴的小道具などで表現できる余裕はあると思う。人格として限りなくロボットに近い「人格のないキャラ」になっている。キョンについては多分彼の作家性が(意識的であれ無意識的であれ)最も憑依するキャラだと思われるが、彼からもスキゾという感じは受けなかった。同調性気質である彼は健全な、だけど普通すぎる大人と言えよう。こういったことから谷川氏の人格を推測してみた。まああまり意味はないが。
作品全体から立ち上る作家性については、アイロニカルな立ち位置で楽しく遊んでいるような感じだ。2ちゃんの祭りを想像してもらえればわかりやすいか。2ちゃんの祭りの参加者的なのだ。宮台氏はこういった2ちゃんねらーたちを「強迫的なアイロニズム」と評した。強迫的までとは言わないが、先に述べたナンセンス化の仕方については多少神経質なところも感じる。これ以上は二巻以降を読まないとなんとも言えないが……。
ともかく、ライトノベルとしては非常にうまいカウンターを入れることができた作品だろう。但し軽いパンチで相手(ラノベファン)にはほとんど効かなかった、という印象。
うーん、ウケ狙いといいつつ途中からマジ入っちゃったよ……。