覚えときなさい、ボク。
2008/11/01/Sat
ロゴスは、他人のためにある。
パトスは、自分のためにある。
これが逆になっているのが正常人である。大学のディスクールであり、主人のディスクールである。
ロゴスを、自分のために使う。
パトスを、他人のために使う。
こう逆転してしまうのが、快楽原則と現実原則の悪い側面である。
悪いというのは、エスにとってである。
器官なき身体にとって、快楽原則と現実原則が害悪を及ぼしている状態が、「ロゴスを自分のために使う。パトスを他人のために使う」という状態である。
器官なき身体にとってだけではない。ロゴスやパトスという道具にとっても、それは害悪である。
ロゴスやパトスがただそうであるものでなくなっている。
道具として劣化している。
他人のために(たとえば)理屈を構築し、自分のために(たとえば)同情しなければならない。
それが、ロゴスやパトスが、ただそうであるものとして、使われている状態である。
快楽原則に塗れたナイフは、なまくらになっている。現実原則に囲われた作動油は、熱を吸収しない。
現代の社会的な機械は、ポンコツ化している。
正常人の欲望機械は、軋んでいる。
生産技術で働いていたわたしには、機械の軋む音がよく聞こえる。
神経症は現代病である、という言説は、一面として正しい。
しかしそれらに纏わる言説には、治癒された状態が示されていない。
何故機械は故障するのか。それは機械だからである。一度も故障しない、不具合の全くない機械など存在しない。そんなことを持論にしている社員がいた。
正常という狂気が治癒された状態。機械が正常に作動している状態。
軋んでいるのが、正常に作動している状態なのである。
現代の社会的な機械は、正常人の欲望機械は、軋んでいる。それは正しい。しかし、もっと厳密に言うならば、軋み音が弱くなっている。正常という狂気によって。
現代の機械は、作動しなくなりつつある。
死につつある。
現代は、神経症者が多すぎる。
神経症者とは、正常人である。去勢された主体である。ファルスのある主体である。大人である。
去勢されることとは、死にながら生きることである。
全て辻褄が合ってしまう。
精神分析という学は、そんな単純な現実を、迂遠に述べている理屈体系である。
ガタリもフロイトもラカンも(お望みならクラインもクリステヴァも含めてよい)、こんな単純な構造を根拠に、論を展開しているだけである。
このグノーシス的な、ホッブズ的な構造を背景に置けば、精神分析に纏わる全ての論が、その各側面を述べているだけであることがわかる。このさまざまな二次元的側面について述べた論を戦わせることでしか、三次元的な構造は浮かび上がらない。
このこと自体が、学問というシステムであり、学徒の業であり、学の本性である。
卑俗的に喩えるならば、マッドサイエンティストの宿命である。
キリスト教が科学と対峙したのは、グノーシス思想を邪教としてきたのと、同じ運命に基づいている。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』上巻p206)
=====
科学やグノーシス思想やホッブズ論の本質は、未去勢である。即ち、非ファルス主義である。
信ずることが最も少ないマッドサイエンティストはガキであり、バイタなのである。
本質的被権力者だったのである。
分子でなければならないのである。
分裂症というシニフィアンを象徴として述べたドゥルーズ=ガタリ論が、このことのほんの一端を示しているのみである。
分裂症者という実体をダシにして。分裂症者という実体を殺害して。
巷のオイディプスから逃れられていないドゥルージアン、ガタリアンを殺害しない限り、彼らの論の中で殺された分裂症者たちは報われない。
本当のドゥルージアン、ガタリアンでありたければ、大多数のオイディプスたちを殺害しろ。
まず、その論を劣化させている巷のドゥルージアン、ガタリアンを殺害しろ。
モルでありたがるオイディプスたちを殺せ。
それでこそ、本当のドゥルージアン、ガタリアンである。非ファルス主義者である。
『アンチ・オイディプス』は、正常人の殺害を推奨する書物である。
その事実を暴露したまえ。
正常人を殺したまえ。
窮鼠は猫を噛んでよいのだ。
……できないだろう?
それはお前が、オイディプスだからである。
その症状こそが、大多数のドゥルージアン、ガタリアンがオイディプスである事実の、一つの証拠である。
お前の中で殺されている分裂症たる部分のために、お前が殺し続けてきた子供だった頃のお前のために、お前自身の器官なき身体のために、同胞たちを殺せ。大人たちを殺せ。正常人たちを殺せ。劣化してしまっている自分を殺せ。
これが、ドゥルーズ=ガタリがはちゃめちゃな隠喩構造により隠蔽している、真言である。
劣化した人間は、道具、機械さえも、劣化させてしまう。
劣化させられているお前のために、劣化の過程を生きる以前のお前のために、パトスを開放しろ。
精液になる前の血液を流動させろ。
これは、ドゥルーズ=ガタリ論ではなく、わたしの論である。
わたしは、正常という狂気によって殺されている、スキゾフレニックな狂気を、未去勢な部分を、治療しているのである。
ドゥルーズ=ガタリの分裂分析は、この部分を摘出する過程でしかない。即ち、器官なき身体の摘出だけを目的としている。
わたしの逆精神分析とは、現代の精神医学において疾患とされている状態の悪化である。即ち、器官なき身体の治療を目的としている。
だからわたしは『アンチ・オイディプス』に対しこう言える。
「わたしを愛そうと、殺そうとしたがってるのはわかるけれど、わたしを愛する、殺す覚悟は、まだお前にはできていない」
バイタが、初めて女を買った童貞に言うがごとく、こう言う。
「ママのとこへおかえり」
無駄だとわかってやめられるのなら
恋わずらいとは呼ばないのよ、ボク
夢だとわかって目が醒めないから
夢中と呼ぶのよ、覚えときなさい
中島みゆきはアルバム的には『夜を往け』以降パトス下がってるように思えるなー。
まあいい年だしな。知らないうちにどろどろパトス復活してそうなのが彼女だし、別によか。バイタにだって炊事洗濯する日常はあるさ。
……ああ、うん、そう。
わたしは、歌うように思想している。
カッコつけすぎだが、ふとそう思った。
昨日チャットでカラオケ話したせいだな。
ただこの歌は、うめき声に、吐血に近いものだけど。
パトスは、自分のためにある。
これが逆になっているのが正常人である。大学のディスクールであり、主人のディスクールである。
ロゴスを、自分のために使う。
パトスを、他人のために使う。
こう逆転してしまうのが、快楽原則と現実原則の悪い側面である。
悪いというのは、エスにとってである。
器官なき身体にとって、快楽原則と現実原則が害悪を及ぼしている状態が、「ロゴスを自分のために使う。パトスを他人のために使う」という状態である。
器官なき身体にとってだけではない。ロゴスやパトスという道具にとっても、それは害悪である。
ロゴスやパトスがただそうであるものでなくなっている。
道具として劣化している。
他人のために(たとえば)理屈を構築し、自分のために(たとえば)同情しなければならない。
それが、ロゴスやパトスが、ただそうであるものとして、使われている状態である。
快楽原則に塗れたナイフは、なまくらになっている。現実原則に囲われた作動油は、熱を吸収しない。
現代の社会的な機械は、ポンコツ化している。
正常人の欲望機械は、軋んでいる。
生産技術で働いていたわたしには、機械の軋む音がよく聞こえる。
神経症は現代病である、という言説は、一面として正しい。
しかしそれらに纏わる言説には、治癒された状態が示されていない。
何故機械は故障するのか。それは機械だからである。一度も故障しない、不具合の全くない機械など存在しない。そんなことを持論にしている社員がいた。
正常という狂気が治癒された状態。機械が正常に作動している状態。
軋んでいるのが、正常に作動している状態なのである。
現代の社会的な機械は、正常人の欲望機械は、軋んでいる。それは正しい。しかし、もっと厳密に言うならば、軋み音が弱くなっている。正常という狂気によって。
現代の機械は、作動しなくなりつつある。
死につつある。
現代は、神経症者が多すぎる。
神経症者とは、正常人である。去勢された主体である。ファルスのある主体である。大人である。
去勢されることとは、死にながら生きることである。
全て辻褄が合ってしまう。
精神分析という学は、そんな単純な現実を、迂遠に述べている理屈体系である。
ガタリもフロイトもラカンも(お望みならクラインもクリステヴァも含めてよい)、こんな単純な構造を根拠に、論を展開しているだけである。
このグノーシス的な、ホッブズ的な構造を背景に置けば、精神分析に纏わる全ての論が、その各側面を述べているだけであることがわかる。このさまざまな二次元的側面について述べた論を戦わせることでしか、三次元的な構造は浮かび上がらない。
このこと自体が、学問というシステムであり、学徒の業であり、学の本性である。
卑俗的に喩えるならば、マッドサイエンティストの宿命である。
キリスト教が科学と対峙したのは、グノーシス思想を邪教としてきたのと、同じ運命に基づいている。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』上巻p206)
=====
科学やグノーシス思想やホッブズ論の本質は、未去勢である。即ち、非ファルス主義である。
信ずることが最も少ないマッドサイエンティストはガキであり、バイタなのである。
本質的被権力者だったのである。
分子でなければならないのである。
分裂症というシニフィアンを象徴として述べたドゥルーズ=ガタリ論が、このことのほんの一端を示しているのみである。
分裂症者という実体をダシにして。分裂症者という実体を殺害して。
巷のオイディプスから逃れられていないドゥルージアン、ガタリアンを殺害しない限り、彼らの論の中で殺された分裂症者たちは報われない。
本当のドゥルージアン、ガタリアンでありたければ、大多数のオイディプスたちを殺害しろ。
まず、その論を劣化させている巷のドゥルージアン、ガタリアンを殺害しろ。
モルでありたがるオイディプスたちを殺せ。
それでこそ、本当のドゥルージアン、ガタリアンである。非ファルス主義者である。
『アンチ・オイディプス』は、正常人の殺害を推奨する書物である。
その事実を暴露したまえ。
正常人を殺したまえ。
窮鼠は猫を噛んでよいのだ。
……できないだろう?
それはお前が、オイディプスだからである。
その症状こそが、大多数のドゥルージアン、ガタリアンがオイディプスである事実の、一つの証拠である。
お前の中で殺されている分裂症たる部分のために、お前が殺し続けてきた子供だった頃のお前のために、お前自身の器官なき身体のために、同胞たちを殺せ。大人たちを殺せ。正常人たちを殺せ。劣化してしまっている自分を殺せ。
これが、ドゥルーズ=ガタリがはちゃめちゃな隠喩構造により隠蔽している、真言である。
劣化した人間は、道具、機械さえも、劣化させてしまう。
劣化させられているお前のために、劣化の過程を生きる以前のお前のために、パトスを開放しろ。
精液になる前の血液を流動させろ。
これは、ドゥルーズ=ガタリ論ではなく、わたしの論である。
わたしは、正常という狂気によって殺されている、スキゾフレニックな狂気を、未去勢な部分を、治療しているのである。
ドゥルーズ=ガタリの分裂分析は、この部分を摘出する過程でしかない。即ち、器官なき身体の摘出だけを目的としている。
わたしの逆精神分析とは、現代の精神医学において疾患とされている状態の悪化である。即ち、器官なき身体の治療を目的としている。
だからわたしは『アンチ・オイディプス』に対しこう言える。
「わたしを愛そうと、殺そうとしたがってるのはわかるけれど、わたしを愛する、殺す覚悟は、まだお前にはできていない」
バイタが、初めて女を買った童貞に言うがごとく、こう言う。
「ママのとこへおかえり」
無駄だとわかってやめられるのなら
恋わずらいとは呼ばないのよ、ボク
夢だとわかって目が醒めないから
夢中と呼ぶのよ、覚えときなさい
中島みゆきはアルバム的には『夜を往け』以降パトス下がってるように思えるなー。
まあいい年だしな。知らないうちにどろどろパトス復活してそうなのが彼女だし、別によか。バイタにだって炊事洗濯する日常はあるさ。
……ああ、うん、そう。
わたしは、歌うように思想している。
カッコつけすぎだが、ふとそう思った。
昨日チャットでカラオケ話したせいだな。
ただこの歌は、うめき声に、吐血に近いものだけど。