感情論のすすめ――学問とはアナルセックスである。
2008/11/06/Thu
シニフィアンに対するイメージの優位性という要件は、思想界でもところどころに見られる。中沢新一あたりは宗教畑らしくそれが顕著だ。
ラカンにしろ、対象aや欲望のグラフにおいて、想像的な回路を土台に置いている。そもそも彼は非常にイメージを重視しているように思う。イメージを定型的な元型などといったものに押し込むユングなどより。河合隼雄などもしきりにイメージの重要性を説くが、特に箱庭療法におけるそれは象徴界から振り返った時のイメージにすぎない。イメージのフリをしたシニフィアンである。「象徴界/想像界」を短絡的に「左脳的機能/右脳的機能」と喩えるならば(あくまで喩えである)、それらのイメージは既に左脳で象徴化処理されている。隠喩連鎖するシニフィアン群の中の一つである。対象aの正面しか見ていない。化粧した顔しか。
ある自閉症者が、知り合いからこう言われたらしい。
「いつも落ち着いてて、結構しっかり者だよね」
緊張し氷のように凝り固まった表情からは、イメージもシンボルも入り乱れた戦国時代のごとき内面は見えないようだ。
ラカン論がシンボル主義で、ユング論がイメージ主義だなどと言っている輩は、論の見かけしか理解できていないか、片方の論だけしか知らないバカだと考えてよい。
対象aとは、部分対象であるが、同時に統合された対象でもある。戦乱の世をのし上がった有力武将たちである。
確かに対象aという想像的なものは、現実界と通底する領域である。ユング論のイメージでもラカン論の対象aでも、重要なのは現実界と、普遍的無意識と接している点である。
現実界に触れる道具としてパトスを用いるのは、理に適っている。わたしの実体験から、このことは真である。
しかし、シニフィアン化されたイメージは、別物である。それはシニフィアンである。
イメージもパトスも想像的なるものである。
ただ、正常人たちの主観世界においては、イメージは常にシニフィアン化されがちなので、話がややこしくなる。
ややこしくもなんともない。
シンボルかイメージかなどという議論はまやかしであり、現実界に接しているかどうかを、彼らは議論したがっている。だから、わたしは「どっちだっていいじゃん」と言ってみたりする。シンボル化されたイメージであり、パトスに塗れたシニフィアンであるだけの話である。「全てのエクリチュールは汚らしい」という現実である。
ややこしくなる原因は、「定型発達という精神障害」にこそある。
お前たち正常人の、精神疾患が、問題なのである。
このことを机上に置かない限り、「自分は正常だ」という思い込みがある限り、自分を見つめる孤独な毎日を経ない限り、擬似ロボットたちの議論は空回りし続ける。
哲学領域における「イメージの優位性」の議論ほどアホらしいものはない。
スナックのババアが疲れたサラリーマンの仕事に関わる講釈をおもしろがらないのと同じである。
「ここはそんな話するとこじゃないんだけど」
どんな話ならばいいのだろう。
簡単である。
講釈にパトスを塗れさせればよいのだ。
つまり、愚痴なら。
「愚痴ならいいのよ。代金込みだから」
スナックのババアから見て、アホらしく思えるのが、議論として正しいのである。
哲学がイメージを語るには、アホらしくなければならない。
シニフィアンの檻の中を生きる囚人たちは、擬似ロボットたちは、そうでなくちゃならない。
スナックのババアのにやにや笑いは、中島みゆきのオールナイトニッポンでのバカ笑いに似ている。擬似のクセにロボットになりたがる「正常という狂気」をせせら笑っている。
愚痴を、即ち感情論を禁じられた檻の中からの、社会からの駆け込み寺が、スナックだったり、深夜ラジオだったりしただけ。
現代は、もぐら叩きゲームのように、あちこちに駆け込み寺が整備されている。オタク文化などが代表的だ。
もぐらの穴にもぐった中を、わたしが見せてあげている。
お前の血をもって。
お前の糞に塗れて。
頚動脈をロゴスで切断して。肛門に手を突っ込んで。
尻子玉など握り潰してあげる。便通をよくしてあげる。
お前が甘えているスナックのママは、人殺しである。
人殺しと自覚しているから、ばれないように愛想を振り撒いているにすぎない。
ある時ママがふいと背中を見せる。
その後頭部に何か見えやしないか?
人殺しの素顔が見えていないか?
お前はそれを通報できるのか?
後頭部の魔物を退治できるのか?
落ち着いてなどいない自閉症者の本性に耐えられるのか?
だから昔のキリスト教司祭は、信者に背を向けて説法したのである。
司祭というただの肩書きが持つ意味は、「魔物を圧殺できた者」である。
一方、『赤目四十八瀧心中未遂』のヒロインの背中には、刺青がある。
股間に顔を埋める司祭へ、バイタがにやにやしながら言い放つ。
「あなたはわたしを救えるの?
わたしを殺せるの?
こんなに殺してと言っているのに殺さないの?
こんなに殺してやると言っているのに殺さないの?」
お前がきらきらした目で妄想する「本当の愛」など、尻子玉である。
アナルセックスのやりすぎで死んでしまえ。
その方がまだ愛の本性に近づけている。
裂傷し広がった肛門の中には、宇宙が広がっている。
物体としての人間が。機械としての人体が。
お前たちイカロスが飛びたがっている空の向こうが。
AV女優を人工肛門にさせた鬼畜である。
お前ら学者の本性とは、そういうものである。
それがお前の鏡像だと、何故気づけない?
ドゥルーズ=ガタリもフーコーも、キチガイたちの肛門を裂傷させている。スナックのママをレイプしている。
議論に疲れた学者たちは、夜な夜なバイタの肛門を広げている。
学問とは、アナルセックスである。
学者が従う掟とは、その本性は、肛門欲動である。
カエルの肛門にストローを刺し、膨らませ破裂させる子供と同じである。
男にシャンプー浣腸をするキチガイと同じである。
まあフーコーは仕方ないやね、っていうかふんふんって思うけど。ギリシャ哲学とかも。
ここがわかればアルトーのテクストもはんなり伝わってくるかもよー。
すみれいこさんの『だってヤンママ』を購入。
いや、おもしろくなったの最近(つってもここ二、三年とかだけど)だよなー、それ以前はそんなにおもしろいって思ってなかったよなー、とふと疑問に思ったので確認のため。
うん、初期はやっぱりイマイチ。なんていうか、かしこまっている感っていうか。今はぶっちゃけてる感がある。まあ谷山浩子なら『夢半球』が彼女の素だ、なんて思っちゃうような人のセンスだけど。
まるでこのブログみたいだな(笑)、という話でした。
ラカンにしろ、対象aや欲望のグラフにおいて、想像的な回路を土台に置いている。そもそも彼は非常にイメージを重視しているように思う。イメージを定型的な元型などといったものに押し込むユングなどより。河合隼雄などもしきりにイメージの重要性を説くが、特に箱庭療法におけるそれは象徴界から振り返った時のイメージにすぎない。イメージのフリをしたシニフィアンである。「象徴界/想像界」を短絡的に「左脳的機能/右脳的機能」と喩えるならば(あくまで喩えである)、それらのイメージは既に左脳で象徴化処理されている。隠喩連鎖するシニフィアン群の中の一つである。対象aの正面しか見ていない。化粧した顔しか。
ある自閉症者が、知り合いからこう言われたらしい。
「いつも落ち着いてて、結構しっかり者だよね」
緊張し氷のように凝り固まった表情からは、イメージもシンボルも入り乱れた戦国時代のごとき内面は見えないようだ。
ラカン論がシンボル主義で、ユング論がイメージ主義だなどと言っている輩は、論の見かけしか理解できていないか、片方の論だけしか知らないバカだと考えてよい。
対象aとは、部分対象であるが、同時に統合された対象でもある。戦乱の世をのし上がった有力武将たちである。
確かに対象aという想像的なものは、現実界と通底する領域である。ユング論のイメージでもラカン論の対象aでも、重要なのは現実界と、普遍的無意識と接している点である。
現実界に触れる道具としてパトスを用いるのは、理に適っている。わたしの実体験から、このことは真である。
しかし、シニフィアン化されたイメージは、別物である。それはシニフィアンである。
イメージもパトスも想像的なるものである。
ただ、正常人たちの主観世界においては、イメージは常にシニフィアン化されがちなので、話がややこしくなる。
ややこしくもなんともない。
シンボルかイメージかなどという議論はまやかしであり、現実界に接しているかどうかを、彼らは議論したがっている。だから、わたしは「どっちだっていいじゃん」と言ってみたりする。シンボル化されたイメージであり、パトスに塗れたシニフィアンであるだけの話である。「全てのエクリチュールは汚らしい」という現実である。
ややこしくなる原因は、「定型発達という精神障害」にこそある。
お前たち正常人の、精神疾患が、問題なのである。
このことを机上に置かない限り、「自分は正常だ」という思い込みがある限り、自分を見つめる孤独な毎日を経ない限り、擬似ロボットたちの議論は空回りし続ける。
哲学領域における「イメージの優位性」の議論ほどアホらしいものはない。
スナックのババアが疲れたサラリーマンの仕事に関わる講釈をおもしろがらないのと同じである。
「ここはそんな話するとこじゃないんだけど」
どんな話ならばいいのだろう。
簡単である。
講釈にパトスを塗れさせればよいのだ。
つまり、愚痴なら。
「愚痴ならいいのよ。代金込みだから」
スナックのババアから見て、アホらしく思えるのが、議論として正しいのである。
哲学がイメージを語るには、アホらしくなければならない。
シニフィアンの檻の中を生きる囚人たちは、擬似ロボットたちは、そうでなくちゃならない。
スナックのババアのにやにや笑いは、中島みゆきのオールナイトニッポンでのバカ笑いに似ている。擬似のクセにロボットになりたがる「正常という狂気」をせせら笑っている。
愚痴を、即ち感情論を禁じられた檻の中からの、社会からの駆け込み寺が、スナックだったり、深夜ラジオだったりしただけ。
現代は、もぐら叩きゲームのように、あちこちに駆け込み寺が整備されている。オタク文化などが代表的だ。
もぐらの穴にもぐった中を、わたしが見せてあげている。
お前の血をもって。
お前の糞に塗れて。
頚動脈をロゴスで切断して。肛門に手を突っ込んで。
尻子玉など握り潰してあげる。便通をよくしてあげる。
お前が甘えているスナックのママは、人殺しである。
人殺しと自覚しているから、ばれないように愛想を振り撒いているにすぎない。
ある時ママがふいと背中を見せる。
その後頭部に何か見えやしないか?
人殺しの素顔が見えていないか?
お前はそれを通報できるのか?
後頭部の魔物を退治できるのか?
落ち着いてなどいない自閉症者の本性に耐えられるのか?
だから昔のキリスト教司祭は、信者に背を向けて説法したのである。
司祭というただの肩書きが持つ意味は、「魔物を圧殺できた者」である。
一方、『赤目四十八瀧心中未遂』のヒロインの背中には、刺青がある。
股間に顔を埋める司祭へ、バイタがにやにやしながら言い放つ。
「あなたはわたしを救えるの?
わたしを殺せるの?
こんなに殺してと言っているのに殺さないの?
こんなに殺してやると言っているのに殺さないの?」
お前がきらきらした目で妄想する「本当の愛」など、尻子玉である。
アナルセックスのやりすぎで死んでしまえ。
その方がまだ愛の本性に近づけている。
裂傷し広がった肛門の中には、宇宙が広がっている。
物体としての人間が。機械としての人体が。
お前たちイカロスが飛びたがっている空の向こうが。
AV女優を人工肛門にさせた鬼畜である。
お前ら学者の本性とは、そういうものである。
それがお前の鏡像だと、何故気づけない?
ドゥルーズ=ガタリもフーコーも、キチガイたちの肛門を裂傷させている。スナックのママをレイプしている。
議論に疲れた学者たちは、夜な夜なバイタの肛門を広げている。
学問とは、アナルセックスである。
学者が従う掟とは、その本性は、肛門欲動である。
カエルの肛門にストローを刺し、膨らませ破裂させる子供と同じである。
男にシャンプー浣腸をするキチガイと同じである。
まあフーコーは仕方ないやね、っていうかふんふんって思うけど。ギリシャ哲学とかも。
ここがわかればアルトーのテクストもはんなり伝わってくるかもよー。
すみれいこさんの『だってヤンママ』を購入。
いや、おもしろくなったの最近(つってもここ二、三年とかだけど)だよなー、それ以前はそんなにおもしろいって思ってなかったよなー、とふと疑問に思ったので確認のため。
うん、初期はやっぱりイマイチ。なんていうか、かしこまっている感っていうか。今はぶっちゃけてる感がある。まあ谷山浩子なら『夢半球』が彼女の素だ、なんて思っちゃうような人のセンスだけど。
まるでこのブログみたいだな(笑)、という話でした。