権利は正常人にある。
2008/11/08/Sat
自閉症者のサイトを見て回っているが、いくら社会性が決定的に欠けている彼らとはいえ、社会に対し何かしらを訴えているような発言をしている時がある。
たとえば、それこそ自閉症者の権利なるものを主張するような文章。
ここで『自閉症の謎を解き明かす』を紐解いてみる。そこでは、自閉症そのものを語る前に、導入として、世界中で発見される野生児について述べられている。それらの野生児症例を迂回することで自閉症の本質が見える、という構造である。
結論としては、いくら子供の頃森の中に捨てられ野生児になったとしても、自閉症を思わせる症状を醸し出したりする場合(ヴィクトール症例)もあればそうでない場合(カスパー症例)もある、となっている。
著者ウタ・フリスが、この差異を示す概念として述べているのが「権利」である。彼女は、カスパーが自閉症ではなかったという推測の根拠の一つとして、それを挙げている。引用する。
=====
(カスパーは)また自分の所有や権利をやかましく主張したとされますが、どちらもたいていは自閉症の人の理解を超える、社会的に熟した概念です。
以上のことはすべて、アヴェロンの野生児(ヴィクトール)の場合とあざやかな対照をなし、重要なポイントとなっています。
(()内筆者による)
=====
では、実際の自閉症者たちは、特に「語れる自閉症」たるアスペルガー症候群者たちは、権利を主張しないのか。権利を主張しないことが自閉症診断のポイントとなるのか。
答えは否である。
わたし個人の考えになるが、実際のアスペルガー症候群者たちも、自分の所有や権利を主張する。しかしそれは正常人が思い浮かべる権利より、はるかに現実的でささやかなものである。彼らにも、現実的でささやかなものではあるが、権利欲や所有欲はある。
そうは思っているが、確証はない。そう確信しているわけではない。結論として言えば、正常人と比較すれば、権利欲や所有欲は確かに弱いとは言えるだろうが、全くないとは言えないし、全くない可能性もある、という曖昧なものになる。
要するに、「自閉症者に権利欲や所有欲はあるかどうか」という問いに対しては、「臨床的に弱いと言えはするが、あるかないかならば、厳密にはわからない」という答えになる。
これについてはここでエポケーする。つまり、わからないという解答を採用しておく。
わたしは、自閉症者の内面の(心的)事実を論じたいのではなく、そういった印象を持ってしまうわれわれ観察者の主観的な問題を机上に載せたいのである。
観察者は、精神科医であろうが肉親であろうがただの知人であろうが問題にしない。彼・彼女がなんらかの精神疾患の診断を受けているか正常であるかも、自閉症当事者であるかないかも。
ただ、自閉症者と観察者のコミュニケーションにおいて、よく見かける意思の齟齬を述べてみたいのである。この場合の観察者とは、一般的なものの見方あるいは一般論のような考え方を意味する。だから先のようなことを述べたのだ。
この記事のコメント欄を参照されたい。一番目のmao氏のコメント。mao氏は後にもコメントを残していたが削除されたようだ。
削除されたコメントには、たとえそれが自閉症者を取り巻く環境に悪影響を与えるものだとしても、ニキ氏という個人が自閉症であるかないかなどを論証するより、自閉症者が効率よく社会を生きていく処方を議論する方がよいのではないか、みたいなことが書かれていた。
彼の論旨は間違っていない。かと言って、ニキ氏の症状は自閉症の実際と合致しないと主張する山岸氏の論も間違っていない(ニキ氏のテクストについての分析はこちらなどを参照されたし)。
彼らの主張の対立に、正否を下すつもりはわたしにはない。mao氏がそうしたいならそうすればよいし、山岸氏はそうしたいからそうしているだけであろう。彼らの論旨は理屈的に対立していないし、それに基づいた行為もお互いを害するものにはならないだろう。両立可能なものである。なのでどちらが正しいか正しくないかなど論じられない。わたしは当事者ではないので、他人事の視点でそう思える。
しかし、山岸氏の(この記事に限らない)ニキ氏に纏わるテクストを受け、mao氏がこう発言したことについて、なんらかの引っかかりをわたしは覚えている。どちらが正しいか正しくないかという引っかかりではなく。従って、山岸氏とmao氏の会話について、クリステヴァ的テクスト分析をしてしまう。言い訳になるかもしれないが、誰のためでもなく、自動的にそうしてしまうのであり、しいて言えばわたしが好きでやっていることと思ってもらって構わない。わたし自身が引っかかったから、その引っかかりのために論ずるのである。
mao氏の最初のコメントだけでも、彼は、ニキ氏や山岸氏のテクストが、社会に対しどんな影響を与えるかを論の根拠にしていることがわかる。ちなみにニキ氏のテクストにもそれが感じられる。つまり、自分のテクストが社会にどう影響するかを意識して、彼女はテクストを書いている。
mao氏は公平に、ニキ氏のテクストが社会に与える影響について「悪影響」という言葉を用いて言及し、その上で、削除されたコメントで、山岸氏のテクストが社会に与える影響について触れている。
一般的に言えば、mao氏のテクストの方が、権利欲なるものは感じられない、となるだろう。ニキ氏と山岸氏両者の立場を考慮した上で、自分の論を述べているからだ。
しかし、この立場の考慮が曲者なのである。
mao氏が自分の論の組み立てに用いた「ニキ氏と山岸氏双方の立場の考慮」は、「心の理論」に則ったものである。つまり、ニキ氏も山岸氏も自分の立場を守るために論じている、即ち権利欲に基づいたテクストである、と彼は思い込んでいる。
極端に言えば、mao氏は「人間には誰しも権利欲がある」という固定観念の中でしか、テクストを読めていない。
一方、後の笛氏のコメントにあるように、少なくとも山岸氏は、ニキ氏が自分の症状を自閉症として語っていることが、自分の存在を侵害していると思っている。わたしにはそう思える。
mao氏は、この「存在の侵害」を「権利の侵害」と読み替えている。恐らく彼自身無意識のうちに。
笛氏はこの侵害を「アイデンティティ」の侵害と読み替えているが、こういう言い方だと、mao氏と山岸氏の間の齟齬は、観察者と自閉症者のコミュニケーションの齟齬は、無限に膨張するだけだとわたしは予測する。
アイデンティティという概念を心理学的な見地に基づいて述べるのであれば、こう説明できる。アイデンティティを(思春期などは不安定になることもあるが)原則確立できているのが正常人であり、アイデンティティの発生機制(バロン=コーエン論のSAMの発生やラカン論の鏡像段階)自体に不具合があると考えられるのが自閉症という症状なのである。従って、アイデンティティが原則的に確立されている正常人から見れば、「アイデンティティの侵害」という言葉は「確立されたアイデンティティの侵害」という意味になってしまう。この論の対立構造はそういうものではない。笛氏のコメントに補足するならば、「(山岸氏などといった)自閉症という先天的にアイデンティティに不具合がある存在に対し、確立されたアイデンティティが侵害している」という状況である。
ここで言う「存在」と「権利」の差異を述べなければならないだろう。簡単に言えば、心身二元論における身体も含む実存在が「存在」であり、精神的な「自分は存在している」と思い込む心理が「権利」である。要するに、「存在」とは現実的なものであり、「権利」とは幻想的なものであるのだ。従って、「権利」を根拠に構築された(少なくとも)現代の社会は、精神的な要件に偏重した幻想のシステムであると言える。「権利」を根拠にできる正常人たちが(「心の理論」に基づいて)合議し作り上げた共同幻想が(少なくとも)現代の社会である。権利とは存在のごっこ遊びであり、社会とはごっこ遊びの延長線上にある幻想の総体なのだ。たかがごっこ遊び、されどごっこ遊び。前掲書でフリスが指摘している通りである。
一方、そもそも権利や社会やアイデンティティなどという幻想を構築するのに不具合があるのが自閉症である。自閉症者は幼児期にごっこ遊びをしないことが多い。
笛氏の言う「アイデンティティ」も、心理学的な理屈を無視して、実存在的な存在も含む概念であると意味を拡大すれば、mao氏の論との対立点あるいは齟齬が見えてくるだろう。笛氏の言う(自閉症者が考える)「アイデンティティ」と、正常人の言う(一般的に考えられている)「アイデンティティ」にはずれがあるのだ。
とはいえ、身体を含む実存在を切り捨て精神的なものを偏重するルールの中で言えば、心理学的な理屈によるアイデンティティを論拠にしたならば、mao氏の論は正しいと言える。そこは留意したい。正常人たちが合議して作り上げたルールの中で、ごっこ遊びの延長線上にあるアインデンティティを生かすのに、効率的だと思えるやり方をmao氏は提案している。ニキ氏のテクストは、山岸氏にとって精神的な即ち幻想的な侵害でしかないのだから、精神的で幻想的なシステムの中で違うやり方をやったらどうだ、と提案しているのである。幻想的なシステムを理解できるわたしから言えば、彼の提案は間違っていないのだ。自分の論を幻想的に受け入れさせることだけを目的としたならば。自我心理学や認知心理学などの理屈に則れば。
一方、山岸氏にとってニキ氏のテクストは、実存在的な存在を侵害するものである。「彼は幻想的な権利を侵害されたと思っている」のではなく、厳密には「彼は身体的な存在を脅かされたと感じている」と表現されなければならない。
権利なる幻想的概念に基づいた現代社会のルールは、自閉症者を想定して作られていない。mao氏が自閉症者であるかどうかはわからないが、少なくとも彼は幻想的な社会ルールを偏重している。幻想的な権利を根拠にしてテクストを解釈している。
もう一度フリスの言葉を思い出してもらいたい。
=====
(カスパーは)また自分の所有や権利をやかましく主張したとされますが、どちらもたいていは自閉症の人の理解を超える、社会的に熟した概念です。
=====
この言葉を借りるならば、mao氏の論は「社会的に熟した」概念群を理解できた上のものである、と言える。
もし仮にmao氏が自閉症と診断されていたとするならば、この論の対立は文芸的にこう表現できるだろう。「カスパーとヴィクトールの論争である」と。
要するに、mao氏のこのテクストだけを解釈するならば、少なくともフリスの自閉症論における要件と相反する、ということである。
これらのことから、自閉症当事者の論として考えるならば、山岸氏の方が正しい、と言える。
(少なくとも)現代の社会は幻想的である。ラカン論で言うならば、象徴界と想像界に偏重して作り上げられている。実存在的な存在を、シンボルとイメージが幾重にも折り重なった幻想でデコレートしたのが権利なる概念である。そういった意味では「存在」も「権利」もそれらが示す本質は同じであると言える。しかし、デコレーションがあるかないかという差異があることも事実である。
正常人が考える「わたし」とは、このデコレーションそのものであるということは、ラカン論によって明らかにされている。従って、正常人が考える「存在」と「権利」には、デコレーションという差異が生じない。「わたし」である時点でデコレーションが付加されているからだ。
デコレーションを主体にした幻想なる権利、あるいは社会。
権利であれば、奪われているなら奪回すればよいのである。権利は奪回できるものである。所有されるものである。幻想であるから所有できるのだ。幻想的な権利なるものを所有しあう幻想的なシステムが社会である。
mao氏のテクストは、幻想的である故所有可能な権利あるいは(心理学理論における)アイデンティティあるいはそれらで構築された社会を論拠にしている。最初のコメントで社会に対する「悪影響」について論じようしている態度からもそれは明らかである。結果、彼の論は権利の奪回を目的として構築されることとなる。
一方、現実は所有できない。
山岸氏や笛氏は、現実的である故所有不可能な存在あるいは(広義な)アイデンティティを論拠にしている。従って、彼らは、ニキ氏に侵害された自閉症者の権利を奪回するために論を講じているのではない、となる。
山岸氏は、侵害されている事実を明らかにしようとしているだけである。それによって自閉症者の権利が奪回できるかどうかは結果論にすぎない。もし、権利の奪回を目的としたならば、mao氏の論の方が戦略的に正しい、となる。わかりやすく言うならば、mao氏は、山岸氏の論を権利の奪回を目的としていると勘違いして、おせっかいのごときアドバイスを述べたのである。
しかし、自閉症者は、「社会的に熟した」複雑で高度な概念構造を理解することが困難である。ただのデコレーションにすぎないものを理解できないのである。そういう物体なのである。
mao氏は「社会的に熟した」複雑で高度な言語ゲームのルールに則って、戦略的なアドバイスをしているが、山岸氏の目的はそこにはない。彼は自分の論が一般に認められることを、権力を持つことを別に望んでいない。望んでいないという言葉すら当てはまらない。彼は一般的な社会の権力構造というただのデコレーションが、ただの幻想がうまく理解できないのだ。むしろ彼はこのデコレーションあるいは幻想に対し、非常に怯えているように見える。それを「ニキリンコ本人あるいは彼女を支持する者たち」というシニフィアンで示差して。
余談になるが、彼のこの示差には、『アンチ・オイディプス』がしつこく指摘している「分裂症者の言葉は隠喩ではない」という要件も当てはまるだろう。彼は隠喩として述べているのではない。このことは、フリス論における「自閉症者は文脈理解能力が劣っている」という臨床事実とも繋がってくる。文脈が読めないわけだから、複雑で高度な隠喩構造を用いることができない、とすっきり理屈に合う(とはいえ統合失調症と自閉症を同じ症状だなどとは言わないが。ここでその違いについて触れている)。
ともかく、山岸氏の論は幻想に基づいていない、と言える。彼は、「自分を含めた自閉症者たちの存在がニキ氏によって脅かされている」という彼にとっての事実を述べているだけである。そこには駆け引きなどない。戦略などない。それは、権利の奪回というより事実の告発である。当然、告発によって権利が奪回されることもあろう。当局が調査を始めることもあろう。社会が変わることもあろう。彼が革命者として歴史に名を残す可能性もあろう。しかし、それらはあくまで結果にすぎない。権利が奪回されるという社会的な結果を特別に目的としていないだけである。むしろそれは、物理の作用に対する反作用のようなものを根拠にしている。むしろそれは、穴の中に「王様の耳はロバの耳」と叫ぶがごとき告発である。
はたして窮鼠は猫を打ち負かそうとして噛んでいるのか? そういう話である。
こういった事実の告発を常に権利の奪回のような結果論に結びつけてしまうのが、「心の理論」のなせる業である。それは無意識的にそうなってしまうのである。無意識的に、即ち固定観念的にそうなってしまうのが、正常人である、定型発達者である証しなのである。
この「心の理論」という固定観念こそが、わたしが全ての学問の机上に載せたい「われわれ観察者の主観的な問題」である。われわれはこの問題に対する答えを持っていない。持てないし持たない。ただ、そういった観察者の色眼鏡とも表現される問題が常に既にある事実を、わたしは告発しているだけである。
そしてこの告発は、観察者だけではなく、観察される対象にも関わる事柄である。正常人だけではなく、自閉症者などといった非正常人をも巻き込んでしまう。
誰のためにもならない告発である。
しいて言えば、自分のためにやっている告発である。
わたしは自閉症ではないので、山岸氏と違い、「社会的に熟した」複雑で高度な概念構造を理解できる。デコレーションが理解できる。わたしだって化粧ぐらいする。ただ、それに同意しないだけである。わたしは駆け引きも戦略もありで告発する。元演劇人という経歴を生かして。駆け引きや戦略が根拠になってしまえば、無意識的にできるようになれば、わたしはめでたく正常人の仲間入りである。彼らに祝福してもらえる。ニキ氏のごとく。『エヴァンゲリオン』のラストシーンのごとく。
『ラカンで読む寺山修司の世界』で言えば、わたしはアルトーではなく寺山のやり方を目指している、となるだろう。
……いや、わたしが望んでいるのは祝福などではない。観客たちの嘆息やうめき声だ。わたしの苦痛や狂気を伝染させるのが目的だ。これによって生じる幻想は祝福に満ちたものではない。呪詛に満ちたおどろおどろしい世界である。妖怪が住まう森である。墓場での運動会である。わかり合えないという現実とわかり合おうとしないことは全く別物だ。
こんな最悪で最低なわたしの志向をわかってくれている、述べられていると思える文章は、未だかつてお目にかかったことはない。アルトーによる残酷演劇という言葉以外には。
アルトーは残酷演劇を実現できなかった。
だからと言って、寺山の演劇が残酷演劇として成功していたかどうかは、また別の議論だが。
先日、ある高機能自閉症者のテクストを読んで、mao氏のような勘違いが生じそうだと思った。彼という人物を知らずにそのテクストだけを読んだならば、わたしもmao氏のような勘違いをしたかもしれない。しかし、ある程度の期間を観察していたこともあり、もし彼が権利の奪回を目的としてそういう文章を書いたのだとしたら、たとえ権利を奪回しても、定型発達者の社会即ち権力構造の中では生きるのに困難を生じるだろうな、と思えた。
なのに彼はそう書いた。だけど彼はそう言わなくてはならなかった。
このことが、刺激になったのかもしれない。
わたしは、観察者と観察されるものの間にある齟齬に引っかかっている。いや、齟齬があるのが正しいのだ。しかしその齟齬を幻想で隠蔽しようとする政治家のごとき力に引っかかっている。権力者的な思い込みの押しつけがまかり通っている。日常でも。科学でも。学問でも。小説でも。芸術でも。権力問題は社会だけの問題ではない。
それらがいちいちわたしに引っかかってくる。引っかかり続けている。
わたしのトラウマは常に触発されている。
……何か違う。
このトラウマには、神経症者のごとき確定的な根拠がない。不確定性トラウマだ。塵埃が積もり積もったようなトラウマだ。理屈的にはトラウマとは言えない。わたしにトラウマはない。
いや、あるのかもしれない。
あればわたしは神経症者、即ち正常人の仲間入りだ。
わたしはトラウマを確定されたい。相手はヒトだろうがモノだろうが関係ない。
確定された時、わたしは晴れて阿部定になる。
わたしはいぶきなどではない。いぶきになれていない。
わたしは未だ死んだことがない。一度も。
化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど
今夜死んでもいいからきれいになりたい
こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと
最後の最後にあんたに思われたい
これより、やっぱり『赤目四十八瀧心中未遂』のヒロインだ。最後の最後で死なない。南の女。
先述の高機能自閉症者のテクストは、チェチェンの首切り動画について触れていた。
ちょんぱー。
たとえば、それこそ自閉症者の権利なるものを主張するような文章。
ここで『自閉症の謎を解き明かす』を紐解いてみる。そこでは、自閉症そのものを語る前に、導入として、世界中で発見される野生児について述べられている。それらの野生児症例を迂回することで自閉症の本質が見える、という構造である。
結論としては、いくら子供の頃森の中に捨てられ野生児になったとしても、自閉症を思わせる症状を醸し出したりする場合(ヴィクトール症例)もあればそうでない場合(カスパー症例)もある、となっている。
著者ウタ・フリスが、この差異を示す概念として述べているのが「権利」である。彼女は、カスパーが自閉症ではなかったという推測の根拠の一つとして、それを挙げている。引用する。
=====
(カスパーは)また自分の所有や権利をやかましく主張したとされますが、どちらもたいていは自閉症の人の理解を超える、社会的に熟した概念です。
以上のことはすべて、アヴェロンの野生児(ヴィクトール)の場合とあざやかな対照をなし、重要なポイントとなっています。
(()内筆者による)
=====
では、実際の自閉症者たちは、特に「語れる自閉症」たるアスペルガー症候群者たちは、権利を主張しないのか。権利を主張しないことが自閉症診断のポイントとなるのか。
答えは否である。
わたし個人の考えになるが、実際のアスペルガー症候群者たちも、自分の所有や権利を主張する。しかしそれは正常人が思い浮かべる権利より、はるかに現実的でささやかなものである。彼らにも、現実的でささやかなものではあるが、権利欲や所有欲はある。
そうは思っているが、確証はない。そう確信しているわけではない。結論として言えば、正常人と比較すれば、権利欲や所有欲は確かに弱いとは言えるだろうが、全くないとは言えないし、全くない可能性もある、という曖昧なものになる。
要するに、「自閉症者に権利欲や所有欲はあるかどうか」という問いに対しては、「臨床的に弱いと言えはするが、あるかないかならば、厳密にはわからない」という答えになる。
これについてはここでエポケーする。つまり、わからないという解答を採用しておく。
わたしは、自閉症者の内面の(心的)事実を論じたいのではなく、そういった印象を持ってしまうわれわれ観察者の主観的な問題を机上に載せたいのである。
観察者は、精神科医であろうが肉親であろうがただの知人であろうが問題にしない。彼・彼女がなんらかの精神疾患の診断を受けているか正常であるかも、自閉症当事者であるかないかも。
ただ、自閉症者と観察者のコミュニケーションにおいて、よく見かける意思の齟齬を述べてみたいのである。この場合の観察者とは、一般的なものの見方あるいは一般論のような考え方を意味する。だから先のようなことを述べたのだ。
この記事のコメント欄を参照されたい。一番目のmao氏のコメント。mao氏は後にもコメントを残していたが削除されたようだ。
削除されたコメントには、たとえそれが自閉症者を取り巻く環境に悪影響を与えるものだとしても、ニキ氏という個人が自閉症であるかないかなどを論証するより、自閉症者が効率よく社会を生きていく処方を議論する方がよいのではないか、みたいなことが書かれていた。
彼の論旨は間違っていない。かと言って、ニキ氏の症状は自閉症の実際と合致しないと主張する山岸氏の論も間違っていない(ニキ氏のテクストについての分析はこちらなどを参照されたし)。
彼らの主張の対立に、正否を下すつもりはわたしにはない。mao氏がそうしたいならそうすればよいし、山岸氏はそうしたいからそうしているだけであろう。彼らの論旨は理屈的に対立していないし、それに基づいた行為もお互いを害するものにはならないだろう。両立可能なものである。なのでどちらが正しいか正しくないかなど論じられない。わたしは当事者ではないので、他人事の視点でそう思える。
しかし、山岸氏の(この記事に限らない)ニキ氏に纏わるテクストを受け、mao氏がこう発言したことについて、なんらかの引っかかりをわたしは覚えている。どちらが正しいか正しくないかという引っかかりではなく。従って、山岸氏とmao氏の会話について、クリステヴァ的テクスト分析をしてしまう。言い訳になるかもしれないが、誰のためでもなく、自動的にそうしてしまうのであり、しいて言えばわたしが好きでやっていることと思ってもらって構わない。わたし自身が引っかかったから、その引っかかりのために論ずるのである。
mao氏の最初のコメントだけでも、彼は、ニキ氏や山岸氏のテクストが、社会に対しどんな影響を与えるかを論の根拠にしていることがわかる。ちなみにニキ氏のテクストにもそれが感じられる。つまり、自分のテクストが社会にどう影響するかを意識して、彼女はテクストを書いている。
mao氏は公平に、ニキ氏のテクストが社会に与える影響について「悪影響」という言葉を用いて言及し、その上で、削除されたコメントで、山岸氏のテクストが社会に与える影響について触れている。
一般的に言えば、mao氏のテクストの方が、権利欲なるものは感じられない、となるだろう。ニキ氏と山岸氏両者の立場を考慮した上で、自分の論を述べているからだ。
しかし、この立場の考慮が曲者なのである。
mao氏が自分の論の組み立てに用いた「ニキ氏と山岸氏双方の立場の考慮」は、「心の理論」に則ったものである。つまり、ニキ氏も山岸氏も自分の立場を守るために論じている、即ち権利欲に基づいたテクストである、と彼は思い込んでいる。
極端に言えば、mao氏は「人間には誰しも権利欲がある」という固定観念の中でしか、テクストを読めていない。
一方、後の笛氏のコメントにあるように、少なくとも山岸氏は、ニキ氏が自分の症状を自閉症として語っていることが、自分の存在を侵害していると思っている。わたしにはそう思える。
mao氏は、この「存在の侵害」を「権利の侵害」と読み替えている。恐らく彼自身無意識のうちに。
笛氏はこの侵害を「アイデンティティ」の侵害と読み替えているが、こういう言い方だと、mao氏と山岸氏の間の齟齬は、観察者と自閉症者のコミュニケーションの齟齬は、無限に膨張するだけだとわたしは予測する。
アイデンティティという概念を心理学的な見地に基づいて述べるのであれば、こう説明できる。アイデンティティを(思春期などは不安定になることもあるが)原則確立できているのが正常人であり、アイデンティティの発生機制(バロン=コーエン論のSAMの発生やラカン論の鏡像段階)自体に不具合があると考えられるのが自閉症という症状なのである。従って、アイデンティティが原則的に確立されている正常人から見れば、「アイデンティティの侵害」という言葉は「確立されたアイデンティティの侵害」という意味になってしまう。この論の対立構造はそういうものではない。笛氏のコメントに補足するならば、「(山岸氏などといった)自閉症という先天的にアイデンティティに不具合がある存在に対し、確立されたアイデンティティが侵害している」という状況である。
ここで言う「存在」と「権利」の差異を述べなければならないだろう。簡単に言えば、心身二元論における身体も含む実存在が「存在」であり、精神的な「自分は存在している」と思い込む心理が「権利」である。要するに、「存在」とは現実的なものであり、「権利」とは幻想的なものであるのだ。従って、「権利」を根拠に構築された(少なくとも)現代の社会は、精神的な要件に偏重した幻想のシステムであると言える。「権利」を根拠にできる正常人たちが(「心の理論」に基づいて)合議し作り上げた共同幻想が(少なくとも)現代の社会である。権利とは存在のごっこ遊びであり、社会とはごっこ遊びの延長線上にある幻想の総体なのだ。たかがごっこ遊び、されどごっこ遊び。前掲書でフリスが指摘している通りである。
一方、そもそも権利や社会やアイデンティティなどという幻想を構築するのに不具合があるのが自閉症である。自閉症者は幼児期にごっこ遊びをしないことが多い。
笛氏の言う「アイデンティティ」も、心理学的な理屈を無視して、実存在的な存在も含む概念であると意味を拡大すれば、mao氏の論との対立点あるいは齟齬が見えてくるだろう。笛氏の言う(自閉症者が考える)「アイデンティティ」と、正常人の言う(一般的に考えられている)「アイデンティティ」にはずれがあるのだ。
とはいえ、身体を含む実存在を切り捨て精神的なものを偏重するルールの中で言えば、心理学的な理屈によるアイデンティティを論拠にしたならば、mao氏の論は正しいと言える。そこは留意したい。正常人たちが合議して作り上げたルールの中で、ごっこ遊びの延長線上にあるアインデンティティを生かすのに、効率的だと思えるやり方をmao氏は提案している。ニキ氏のテクストは、山岸氏にとって精神的な即ち幻想的な侵害でしかないのだから、精神的で幻想的なシステムの中で違うやり方をやったらどうだ、と提案しているのである。幻想的なシステムを理解できるわたしから言えば、彼の提案は間違っていないのだ。自分の論を幻想的に受け入れさせることだけを目的としたならば。自我心理学や認知心理学などの理屈に則れば。
一方、山岸氏にとってニキ氏のテクストは、実存在的な存在を侵害するものである。「彼は幻想的な権利を侵害されたと思っている」のではなく、厳密には「彼は身体的な存在を脅かされたと感じている」と表現されなければならない。
権利なる幻想的概念に基づいた現代社会のルールは、自閉症者を想定して作られていない。mao氏が自閉症者であるかどうかはわからないが、少なくとも彼は幻想的な社会ルールを偏重している。幻想的な権利を根拠にしてテクストを解釈している。
もう一度フリスの言葉を思い出してもらいたい。
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(カスパーは)また自分の所有や権利をやかましく主張したとされますが、どちらもたいていは自閉症の人の理解を超える、社会的に熟した概念です。
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この言葉を借りるならば、mao氏の論は「社会的に熟した」概念群を理解できた上のものである、と言える。
もし仮にmao氏が自閉症と診断されていたとするならば、この論の対立は文芸的にこう表現できるだろう。「カスパーとヴィクトールの論争である」と。
要するに、mao氏のこのテクストだけを解釈するならば、少なくともフリスの自閉症論における要件と相反する、ということである。
これらのことから、自閉症当事者の論として考えるならば、山岸氏の方が正しい、と言える。
(少なくとも)現代の社会は幻想的である。ラカン論で言うならば、象徴界と想像界に偏重して作り上げられている。実存在的な存在を、シンボルとイメージが幾重にも折り重なった幻想でデコレートしたのが権利なる概念である。そういった意味では「存在」も「権利」もそれらが示す本質は同じであると言える。しかし、デコレーションがあるかないかという差異があることも事実である。
正常人が考える「わたし」とは、このデコレーションそのものであるということは、ラカン論によって明らかにされている。従って、正常人が考える「存在」と「権利」には、デコレーションという差異が生じない。「わたし」である時点でデコレーションが付加されているからだ。
デコレーションを主体にした幻想なる権利、あるいは社会。
権利であれば、奪われているなら奪回すればよいのである。権利は奪回できるものである。所有されるものである。幻想であるから所有できるのだ。幻想的な権利なるものを所有しあう幻想的なシステムが社会である。
mao氏のテクストは、幻想的である故所有可能な権利あるいは(心理学理論における)アイデンティティあるいはそれらで構築された社会を論拠にしている。最初のコメントで社会に対する「悪影響」について論じようしている態度からもそれは明らかである。結果、彼の論は権利の奪回を目的として構築されることとなる。
一方、現実は所有できない。
山岸氏や笛氏は、現実的である故所有不可能な存在あるいは(広義な)アイデンティティを論拠にしている。従って、彼らは、ニキ氏に侵害された自閉症者の権利を奪回するために論を講じているのではない、となる。
山岸氏は、侵害されている事実を明らかにしようとしているだけである。それによって自閉症者の権利が奪回できるかどうかは結果論にすぎない。もし、権利の奪回を目的としたならば、mao氏の論の方が戦略的に正しい、となる。わかりやすく言うならば、mao氏は、山岸氏の論を権利の奪回を目的としていると勘違いして、おせっかいのごときアドバイスを述べたのである。
しかし、自閉症者は、「社会的に熟した」複雑で高度な概念構造を理解することが困難である。ただのデコレーションにすぎないものを理解できないのである。そういう物体なのである。
mao氏は「社会的に熟した」複雑で高度な言語ゲームのルールに則って、戦略的なアドバイスをしているが、山岸氏の目的はそこにはない。彼は自分の論が一般に認められることを、権力を持つことを別に望んでいない。望んでいないという言葉すら当てはまらない。彼は一般的な社会の権力構造というただのデコレーションが、ただの幻想がうまく理解できないのだ。むしろ彼はこのデコレーションあるいは幻想に対し、非常に怯えているように見える。それを「ニキリンコ本人あるいは彼女を支持する者たち」というシニフィアンで示差して。
余談になるが、彼のこの示差には、『アンチ・オイディプス』がしつこく指摘している「分裂症者の言葉は隠喩ではない」という要件も当てはまるだろう。彼は隠喩として述べているのではない。このことは、フリス論における「自閉症者は文脈理解能力が劣っている」という臨床事実とも繋がってくる。文脈が読めないわけだから、複雑で高度な隠喩構造を用いることができない、とすっきり理屈に合う(とはいえ統合失調症と自閉症を同じ症状だなどとは言わないが。ここでその違いについて触れている)。
ともかく、山岸氏の論は幻想に基づいていない、と言える。彼は、「自分を含めた自閉症者たちの存在がニキ氏によって脅かされている」という彼にとっての事実を述べているだけである。そこには駆け引きなどない。戦略などない。それは、権利の奪回というより事実の告発である。当然、告発によって権利が奪回されることもあろう。当局が調査を始めることもあろう。社会が変わることもあろう。彼が革命者として歴史に名を残す可能性もあろう。しかし、それらはあくまで結果にすぎない。権利が奪回されるという社会的な結果を特別に目的としていないだけである。むしろそれは、物理の作用に対する反作用のようなものを根拠にしている。むしろそれは、穴の中に「王様の耳はロバの耳」と叫ぶがごとき告発である。
はたして窮鼠は猫を打ち負かそうとして噛んでいるのか? そういう話である。
こういった事実の告発を常に権利の奪回のような結果論に結びつけてしまうのが、「心の理論」のなせる業である。それは無意識的にそうなってしまうのである。無意識的に、即ち固定観念的にそうなってしまうのが、正常人である、定型発達者である証しなのである。
この「心の理論」という固定観念こそが、わたしが全ての学問の机上に載せたい「われわれ観察者の主観的な問題」である。われわれはこの問題に対する答えを持っていない。持てないし持たない。ただ、そういった観察者の色眼鏡とも表現される問題が常に既にある事実を、わたしは告発しているだけである。
そしてこの告発は、観察者だけではなく、観察される対象にも関わる事柄である。正常人だけではなく、自閉症者などといった非正常人をも巻き込んでしまう。
誰のためにもならない告発である。
しいて言えば、自分のためにやっている告発である。
わたしは自閉症ではないので、山岸氏と違い、「社会的に熟した」複雑で高度な概念構造を理解できる。デコレーションが理解できる。わたしだって化粧ぐらいする。ただ、それに同意しないだけである。わたしは駆け引きも戦略もありで告発する。元演劇人という経歴を生かして。駆け引きや戦略が根拠になってしまえば、無意識的にできるようになれば、わたしはめでたく正常人の仲間入りである。彼らに祝福してもらえる。ニキ氏のごとく。『エヴァンゲリオン』のラストシーンのごとく。
『ラカンで読む寺山修司の世界』で言えば、わたしはアルトーではなく寺山のやり方を目指している、となるだろう。
……いや、わたしが望んでいるのは祝福などではない。観客たちの嘆息やうめき声だ。わたしの苦痛や狂気を伝染させるのが目的だ。これによって生じる幻想は祝福に満ちたものではない。呪詛に満ちたおどろおどろしい世界である。妖怪が住まう森である。墓場での運動会である。わかり合えないという現実とわかり合おうとしないことは全く別物だ。
こんな最悪で最低なわたしの志向をわかってくれている、述べられていると思える文章は、未だかつてお目にかかったことはない。アルトーによる残酷演劇という言葉以外には。
アルトーは残酷演劇を実現できなかった。
だからと言って、寺山の演劇が残酷演劇として成功していたかどうかは、また別の議論だが。
先日、ある高機能自閉症者のテクストを読んで、mao氏のような勘違いが生じそうだと思った。彼という人物を知らずにそのテクストだけを読んだならば、わたしもmao氏のような勘違いをしたかもしれない。しかし、ある程度の期間を観察していたこともあり、もし彼が権利の奪回を目的としてそういう文章を書いたのだとしたら、たとえ権利を奪回しても、定型発達者の社会即ち権力構造の中では生きるのに困難を生じるだろうな、と思えた。
なのに彼はそう書いた。だけど彼はそう言わなくてはならなかった。
このことが、刺激になったのかもしれない。
わたしは、観察者と観察されるものの間にある齟齬に引っかかっている。いや、齟齬があるのが正しいのだ。しかしその齟齬を幻想で隠蔽しようとする政治家のごとき力に引っかかっている。権力者的な思い込みの押しつけがまかり通っている。日常でも。科学でも。学問でも。小説でも。芸術でも。権力問題は社会だけの問題ではない。
それらがいちいちわたしに引っかかってくる。引っかかり続けている。
わたしのトラウマは常に触発されている。
……何か違う。
このトラウマには、神経症者のごとき確定的な根拠がない。不確定性トラウマだ。塵埃が積もり積もったようなトラウマだ。理屈的にはトラウマとは言えない。わたしにトラウマはない。
いや、あるのかもしれない。
あればわたしは神経症者、即ち正常人の仲間入りだ。
わたしはトラウマを確定されたい。相手はヒトだろうがモノだろうが関係ない。
確定された時、わたしは晴れて阿部定になる。
わたしはいぶきなどではない。いぶきになれていない。
わたしは未だ死んだことがない。一度も。
化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど
今夜死んでもいいからきれいになりたい
こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと
最後の最後にあんたに思われたい
これより、やっぱり『赤目四十八瀧心中未遂』のヒロインだ。最後の最後で死なない。南の女。
先述の高機能自閉症者のテクストは、チェチェンの首切り動画について触れていた。
ちょんぱー。