氷山の上の冷蔵庫
2006/12/16/Sat
おもしろい記事を発見したので。
こちらのブログ。ラカン理論がこんなところまで影響しているのは意外だった。そんなことはどうでもよい。
問題はその下の東浩紀氏の「動物化するポストモダン」の引用である。
彼は言う。
=====
これって「大きな物語=世界観」の位置に「キャラ」を代入してもいいんじゃないかみたいなことを思いついた。「世界観」も「キャラ」も一つのテクストから遊離可能、つまり複数のテクストで同一性を維持しつつ共有可能なわけで。キャラ萌えする人は複数のテクストを通してキャラを消費していると。
=====
結論に対しては異論はない。私なら「オタク文化特有の文脈・コンテクスト」などと表現するだろうが。
問題は「萌えキャラ」(ここでは「キャラ」としてしか書かれていないが、他のブログ記事の引用からそう判断する)の超越性を「大きな物語」と表現していることだ。彼が引用している大塚氏なら、「大きな物語」はイデオロギーに暗喩されていた。東氏ならば「歴史の終焉」などという言葉から「歴史」が暗喩されるだろうか。
「萌えキャラ」ないしは「オタク文化のアニメ的マンガ的キャラ」はいつから「歴史」や「イデオロギー」などと同じような超越性を備えたのだろう。
これに対し東氏ははっきりと答えを出している。「大きな物語」だったものは、ポストモダンにおいて集合的な、匿名的な、データベース的な「大きな非物語」にとって変わられたと。つまり、「萌えキャラ」の超越的な同一性(彼の言葉ならテクストから遊離しても保つ同一性か)は「大きな非物語」の一データに過ぎない、という話だ。
わかりやすく一般的に言おう。「自我同一性の拡散」の記事でも話したが、現代社会では社会が流動化、多様化しているので、それにコミットする自我も拡散してしまう。若者はどれを選択してよいのかわからないのだ。こういった心理から若者はモラトリアム人間になり、そのまま社会に出たとしても退却神経症的な症状が現れる、という話だ。これはオタク文化というよりは少し時代が前の「若者」の姿だろう。
少し前の時代においても、「社会が流動化、多様化」していると若者は感じていた。流動化、多様化とはどういうことか。これこそデータベース的な集合的な「大きな非物語」なのである。
「大きな物語」を考えよう。肝心なのはその内部が「大きな非物語」のようにデータベース化されていないということだ。一本化、画一化されているとということではない。その内部は曖昧なカオスなのだ。「大きな物語」自体が、「純粋なシニフィアン」に近い「シニフィエが曖昧なシニフィアン」だといえよう。イデオロギーだの歴史だのというとカオスではない、言葉の集積というイメージがあるが、象徴界といえばわかりやすいか。「大きな物語」を象徴界と考えるなら、そのデータは「一つの単語」で、言葉のシンボル性(曖昧さ)により様々な複雑系的な意味がそこに立ち上がる。フォルダのように意味をまとめられないわけだ。だからこそ柔軟性がある。神話哲学的な(自分、人間を含めた)「世界の意味」と言ってもよい。
「大きな非物語」は、複雑系の結果立ち現れる状態を、定性的に細分化し、それをフォルダ的にまとめたものだ。だから集合的、データベース的に見えるわけだ。そのフォルダを郵便的に行き来したりするから「流動的」で「多様的」と受け取るのだ。流動的にしろ多様的にしろ、何かと何かがそこに複数ないとそう表現できない。内部が複雑系的な曖昧のものである「大きな物語」は、そう表現できないのだ。
さて、彼の「大きな物語」という言葉の誤読を責めるつもりはない。
しかし精神分析では「錯誤行為」というのが重要な分析の道標となる。ここを少し読み解いてみよう。
彼はこう言うかもしれない。「大きな非物語」の一フォルダをここでは「大きな物語」と表現した。と。なるほど、オタク文化内部からだけの視点なら、「萌えキャラ」の超越性はそう映るかもしれない。彼はたまたま「オタク文化内からの視点」に無意識的に囚われているだけかもしれない。
しかし、ここで彼がぽろっと口にだした「対象a」という言葉が思い出される。
ラカン論では、空虚なエス(主体)が他者という鏡に映った姿が「対象a」であり、「自我」である。ここで「対象a」という言葉を彼が理解しているかどうかわからないが、無意識的に、彼は「オタク文化と現実的な社会・世界・自然を混同している」と分析することも可能である。これは「セカイ系における象徴界の消失」にも暗喩的に繋がる心理傾向である。もちろん、アニメにしろマンガにしろそれは「他者」である。アニメやマンガという鏡に映った対象も自我といえるだろう。但しそれは一部にしか過ぎない。
もっと簡単に言うならば、「空想世界と現実世界の区別がついていない」という一昔前の私自身全く的外れだと思ったオタク文化批判の論に近いだろうか。しかし私はそうは思わない。彼の場合は、無意識的にそういう徴候、傾向が見て取れると私なら分析するだろう。私の表現なら、神話学的な「大きな物語」という氷山の上にある冷蔵庫(=オタク文化)の中に閉じこもってしまっているので、冷蔵庫内の氷しか見れていない状態、しかしその冷蔵庫が世界そのものであるというところまでは行っていない、という感じだろうか。
何だかひどいようなことを言ってしまっているが、私はそれ自体を批判するつもりはない。オタク文化にコミットする個人を批判してもきりないし、私自身オタク文化内部の人間だと思っているからだ。しかし、傾向分析として、オタク文化にパラノイア的同一化している自己への懐疑というのがうっすらと今のオタク文化には立ち現れていると思う。彼などはまさにそうだと思う。このことは人格形成に重要な意味を持つ。
オタク文化はまだ若い。自我同一性の拡散ように拡散しつづける今のオタク文化にとって必要なのは、まさにオタク文化に所属するひとりひとりが「オタク文化にはまる自分」というのを懐疑したり自問自答したりすることで、客観視することではないだろうか。そうすることで、オタク文化を取り巻くマクロな現実社会=象徴界に参入できるのである。
こちらのブログ。ラカン理論がこんなところまで影響しているのは意外だった。そんなことはどうでもよい。
問題はその下の東浩紀氏の「動物化するポストモダン」の引用である。
彼は言う。
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これって「大きな物語=世界観」の位置に「キャラ」を代入してもいいんじゃないかみたいなことを思いついた。「世界観」も「キャラ」も一つのテクストから遊離可能、つまり複数のテクストで同一性を維持しつつ共有可能なわけで。キャラ萌えする人は複数のテクストを通してキャラを消費していると。
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結論に対しては異論はない。私なら「オタク文化特有の文脈・コンテクスト」などと表現するだろうが。
問題は「萌えキャラ」(ここでは「キャラ」としてしか書かれていないが、他のブログ記事の引用からそう判断する)の超越性を「大きな物語」と表現していることだ。彼が引用している大塚氏なら、「大きな物語」はイデオロギーに暗喩されていた。東氏ならば「歴史の終焉」などという言葉から「歴史」が暗喩されるだろうか。
「萌えキャラ」ないしは「オタク文化のアニメ的マンガ的キャラ」はいつから「歴史」や「イデオロギー」などと同じような超越性を備えたのだろう。
これに対し東氏ははっきりと答えを出している。「大きな物語」だったものは、ポストモダンにおいて集合的な、匿名的な、データベース的な「大きな非物語」にとって変わられたと。つまり、「萌えキャラ」の超越的な同一性(彼の言葉ならテクストから遊離しても保つ同一性か)は「大きな非物語」の一データに過ぎない、という話だ。
わかりやすく一般的に言おう。「自我同一性の拡散」の記事でも話したが、現代社会では社会が流動化、多様化しているので、それにコミットする自我も拡散してしまう。若者はどれを選択してよいのかわからないのだ。こういった心理から若者はモラトリアム人間になり、そのまま社会に出たとしても退却神経症的な症状が現れる、という話だ。これはオタク文化というよりは少し時代が前の「若者」の姿だろう。
少し前の時代においても、「社会が流動化、多様化」していると若者は感じていた。流動化、多様化とはどういうことか。これこそデータベース的な集合的な「大きな非物語」なのである。
「大きな物語」を考えよう。肝心なのはその内部が「大きな非物語」のようにデータベース化されていないということだ。一本化、画一化されているとということではない。その内部は曖昧なカオスなのだ。「大きな物語」自体が、「純粋なシニフィアン」に近い「シニフィエが曖昧なシニフィアン」だといえよう。イデオロギーだの歴史だのというとカオスではない、言葉の集積というイメージがあるが、象徴界といえばわかりやすいか。「大きな物語」を象徴界と考えるなら、そのデータは「一つの単語」で、言葉のシンボル性(曖昧さ)により様々な複雑系的な意味がそこに立ち上がる。フォルダのように意味をまとめられないわけだ。だからこそ柔軟性がある。神話哲学的な(自分、人間を含めた)「世界の意味」と言ってもよい。
「大きな非物語」は、複雑系の結果立ち現れる状態を、定性的に細分化し、それをフォルダ的にまとめたものだ。だから集合的、データベース的に見えるわけだ。そのフォルダを郵便的に行き来したりするから「流動的」で「多様的」と受け取るのだ。流動的にしろ多様的にしろ、何かと何かがそこに複数ないとそう表現できない。内部が複雑系的な曖昧のものである「大きな物語」は、そう表現できないのだ。
さて、彼の「大きな物語」という言葉の誤読を責めるつもりはない。
しかし精神分析では「錯誤行為」というのが重要な分析の道標となる。ここを少し読み解いてみよう。
彼はこう言うかもしれない。「大きな非物語」の一フォルダをここでは「大きな物語」と表現した。と。なるほど、オタク文化内部からだけの視点なら、「萌えキャラ」の超越性はそう映るかもしれない。彼はたまたま「オタク文化内からの視点」に無意識的に囚われているだけかもしれない。
しかし、ここで彼がぽろっと口にだした「対象a」という言葉が思い出される。
ラカン論では、空虚なエス(主体)が他者という鏡に映った姿が「対象a」であり、「自我」である。ここで「対象a」という言葉を彼が理解しているかどうかわからないが、無意識的に、彼は「オタク文化と現実的な社会・世界・自然を混同している」と分析することも可能である。これは「セカイ系における象徴界の消失」にも暗喩的に繋がる心理傾向である。もちろん、アニメにしろマンガにしろそれは「他者」である。アニメやマンガという鏡に映った対象も自我といえるだろう。但しそれは一部にしか過ぎない。
もっと簡単に言うならば、「空想世界と現実世界の区別がついていない」という一昔前の私自身全く的外れだと思ったオタク文化批判の論に近いだろうか。しかし私はそうは思わない。彼の場合は、無意識的にそういう徴候、傾向が見て取れると私なら分析するだろう。私の表現なら、神話学的な「大きな物語」という氷山の上にある冷蔵庫(=オタク文化)の中に閉じこもってしまっているので、冷蔵庫内の氷しか見れていない状態、しかしその冷蔵庫が世界そのものであるというところまでは行っていない、という感じだろうか。
何だかひどいようなことを言ってしまっているが、私はそれ自体を批判するつもりはない。オタク文化にコミットする個人を批判してもきりないし、私自身オタク文化内部の人間だと思っているからだ。しかし、傾向分析として、オタク文化にパラノイア的同一化している自己への懐疑というのがうっすらと今のオタク文化には立ち現れていると思う。彼などはまさにそうだと思う。このことは人格形成に重要な意味を持つ。
オタク文化はまだ若い。自我同一性の拡散ように拡散しつづける今のオタク文化にとって必要なのは、まさにオタク文化に所属するひとりひとりが「オタク文化にはまる自分」というのを懐疑したり自問自答したりすることで、客観視することではないだろうか。そうすることで、オタク文化を取り巻くマクロな現実社会=象徴界に参入できるのである。