「わたしの苦しみをわかって」
2008/11/12/Wed
「わたしの苦しみをわかって」
って言葉が
「わたしの苦しみを癒して」
ってなるのが正常人なんだな。
論理が飛躍している。
「苦しみをわかる」ってことは、現実的に可能かどうかは脇に置いて考えれば、「同じ苦しみを感じる」ってことじゃん。
つまり、
「あなたも苦しんで」
ってことなわけで、むしろ、
「わたしはあなたを苦しめたい」
という意味になるのだよな。論理的に。
それを勝手に脳内で
「癒してもらいたがってる」
って変換できるのかがよくわからない。
思考なんてある意味あみだくじのようなものだから、そういう結論に達するのは一つの可能性として否定しないけど、ほとんどの人が同じところに行きついてしまうのが。
癒されたがっているのは、癒される方がいいに決まってるって考えは、そいつの固定観念にすぎないのに、それがコミュニケーションの基本ルールとなっているのが。
論理を飛躍させるブラックボックスがここにある。オーパーツのような整流器が組み込まれている。
確かに癒してもらいたい部分はあるけど、それは別にお前とか特定の誰かに向けたものではない。確かに手紙は書いてるけど、勝手に自分の宛名を書き込まないでくれ。あみだにバイパスを付け足さないでくれ。
「心の理論」って傲慢だよなー、ほんと。
快楽原則がわかっている奴にしか、宛先が書かれた手紙にしか、心はないって言っているようなもんだ。人間の資格はないと言っているようなもんだ。
正常人の考える「正常」なんてちょっと種明かしすればこの程度だよ。
人殺しをする司祭。素直に生贄殺してりゃよかったのに。
こんなん殺していいと思うんだけどね。死刑に値すると本気で思う。倫理的に。
だから、キチガイは正常人を殺してよいのです。
法律でも許されているのです。
とはいえルールの根拠と運用は別物なので、実際には「お前はキチガイじゃないので罰するよ」ってなるかもしれないけど、そんなんただの運用方法の問題にすぎない。別にその方法を取ることについてここで議論するつもりはないけど、方法論はあくまでも方法論だ。もちろん方法論の構築だって大切なことだと思ってる。頭では。だけど方法論なのは事実じゃん、と言ってるだけ。素の顔で。だから別にわたしが思うキチガイ(わたし含む)がキチガイと認められず正常人として罰せられても構わない。ふうん、ぐらい。
正常人たちのレイプにゃ半ば慣れちゃったからな。女子高生コンクリ詰め殺人みたいに監禁され輪姦され続けてるのが常態なわけで、瀕死で朦朧としているところにぶち込まれても抵抗できるわきゃないさそりゃ。いっそ殺して。氏賀Y太はよくわかってる。
自分が人殺しだと理解できない司祭は殺していいよ。自分が人殺しだと認めない人の方がまだマシ。認めないってのはそうかもしれないって思っているわけだから。
宗教って、キリスト教の「原罪」とか仏教の「悪人正機」とか、正常人たちが常に既に持ってしまう悪を机上に載せるためのシステムだったんじゃないの? 原罪や悪人を浄化するのが正常人ではなく、原罪から逃れられない悪人が正常人なんじゃないの? 時間が経つにつれ大多数の正常人に都合のよい解釈になってっただけで。歴史っていう物語のせいで。ただの劣化の過程にすぎないんだがな。わたしから見れば歴史なんて。
まあ宗教にしろオナニーにしか見えない人の言うことだからどうでもいいんだけど。
ほんと、教会で跪く人たちとか乱交パーティしてるようにしか見えないのだよな。
あ、単なるキチガイによる印象だからどうでもいいですよ。ごめんね、キチガイで。ただ感じたことを言ってるだけだから。
んで、キリストや仏っていう虎の威を借りて次はどこに顔射するのかね? キミタチは。
処女をレイプし孕ませた神にでもなった顔をしながらせっせと種を撒く信者たち。
こんなババアでよければどうぞ。
むしろ吸い尽くしてあげるわ。
お前たちが突っ込んでる穴はコンクリの詰まったドラム缶だ。
腐敗した女子高生がお前のペニスを擦っている。
気がつけばお前も腐っている。
お前の体に蛆が湧く。
蛆とは米である。
豊穣豊穣。
「あら、最近のちんちんちっちゃくなったなと思ったらおっきなクリトリスだったのね」
生物学的女性もわたしの世界では等しくレイパーですが、何か?
男女平等。
それどころか神さまだってレイパーなんだから、気にしないで。キチガイの妄言。
人神平等。
神だろうが男だろうが女だろうががんがん射精しちゃってください。
「いっそ殺して」
これは、呪詛。
愛してくれないなら
わたしを殺さないで
彼女を思いながら
わたしを殺さないで
愛して
谷山浩子もわかっている。
愛してくれないならわたしを殺して、ではない。逆だ。
愛してくれないから、現実を生きてしまう。
現実を生きているから、愛してもらえない。
最後の「愛して」には、瀕死の女子高生が言う「いっそ殺して」と等しい意味がある。
物自体の生がうめく、意味のない意味。意味自体である意味。
たとえば、アルトーの生によるそのテクスト。
「わたしはあなたを苦しめたい」
とは、
「あなたも現実を生きて」
という意味である。
「現実という苦痛に、享楽に、溺れましょう」
というバイタの手招きである。
下卑な陰口を叩かれる
「わたしの苦しみをわかって」
とは、そういう祈りである。
祈りに宛名なんてない。
余談を述べたい。
先に挙げた谷山作品『わたしを殺さないで』歌詞中の、
「わたしはわたしじゃない」
という言葉には、その文脈や曲調を考慮すると、斎藤環がドナ・ウィリアムスのテクストについて指摘した「主体化への恐れ」が詰まっているように思えるのは、わたしだけだろうか。
正常人という人殺したちが、一番最初に殺した相手は、去勢以前の自分自身である。
ドナが怖れているのは、自分を殺そうとする「正常という主体」である。
未去勢者とは、わたしの言うキチガイたちとは、未だ殺されても殺してもいない者たちである。
お前たちは、うすうすこの事実に感づいている。
この事実を完全に捨て去った人間は、(精神病としての)パラノイアである。
「人格とはパラノイア」であり、正常人とはパラノイアックなBPDと等しいものであるが、正常人と(精神病としての)パラノイアの間には、「父の名の排除」という断絶がある。
わたしはラカンのこの論を採用する。お前たちはうすうす感づいていると、わたしは考える。
そうでなければ、祈ったりなどしない。
って言葉が
「わたしの苦しみを癒して」
ってなるのが正常人なんだな。
論理が飛躍している。
「苦しみをわかる」ってことは、現実的に可能かどうかは脇に置いて考えれば、「同じ苦しみを感じる」ってことじゃん。
つまり、
「あなたも苦しんで」
ってことなわけで、むしろ、
「わたしはあなたを苦しめたい」
という意味になるのだよな。論理的に。
それを勝手に脳内で
「癒してもらいたがってる」
って変換できるのかがよくわからない。
思考なんてある意味あみだくじのようなものだから、そういう結論に達するのは一つの可能性として否定しないけど、ほとんどの人が同じところに行きついてしまうのが。
癒されたがっているのは、癒される方がいいに決まってるって考えは、そいつの固定観念にすぎないのに、それがコミュニケーションの基本ルールとなっているのが。
論理を飛躍させるブラックボックスがここにある。オーパーツのような整流器が組み込まれている。
確かに癒してもらいたい部分はあるけど、それは別にお前とか特定の誰かに向けたものではない。確かに手紙は書いてるけど、勝手に自分の宛名を書き込まないでくれ。あみだにバイパスを付け足さないでくれ。
「心の理論」って傲慢だよなー、ほんと。
快楽原則がわかっている奴にしか、宛先が書かれた手紙にしか、心はないって言っているようなもんだ。人間の資格はないと言っているようなもんだ。
正常人の考える「正常」なんてちょっと種明かしすればこの程度だよ。
人殺しをする司祭。素直に生贄殺してりゃよかったのに。
こんなん殺していいと思うんだけどね。死刑に値すると本気で思う。倫理的に。
だから、キチガイは正常人を殺してよいのです。
法律でも許されているのです。
とはいえルールの根拠と運用は別物なので、実際には「お前はキチガイじゃないので罰するよ」ってなるかもしれないけど、そんなんただの運用方法の問題にすぎない。別にその方法を取ることについてここで議論するつもりはないけど、方法論はあくまでも方法論だ。もちろん方法論の構築だって大切なことだと思ってる。頭では。だけど方法論なのは事実じゃん、と言ってるだけ。素の顔で。だから別にわたしが思うキチガイ(わたし含む)がキチガイと認められず正常人として罰せられても構わない。ふうん、ぐらい。
正常人たちのレイプにゃ半ば慣れちゃったからな。女子高生コンクリ詰め殺人みたいに監禁され輪姦され続けてるのが常態なわけで、瀕死で朦朧としているところにぶち込まれても抵抗できるわきゃないさそりゃ。いっそ殺して。氏賀Y太はよくわかってる。
自分が人殺しだと理解できない司祭は殺していいよ。自分が人殺しだと認めない人の方がまだマシ。認めないってのはそうかもしれないって思っているわけだから。
宗教って、キリスト教の「原罪」とか仏教の「悪人正機」とか、正常人たちが常に既に持ってしまう悪を机上に載せるためのシステムだったんじゃないの? 原罪や悪人を浄化するのが正常人ではなく、原罪から逃れられない悪人が正常人なんじゃないの? 時間が経つにつれ大多数の正常人に都合のよい解釈になってっただけで。歴史っていう物語のせいで。ただの劣化の過程にすぎないんだがな。わたしから見れば歴史なんて。
まあ宗教にしろオナニーにしか見えない人の言うことだからどうでもいいんだけど。
ほんと、教会で跪く人たちとか乱交パーティしてるようにしか見えないのだよな。
あ、単なるキチガイによる印象だからどうでもいいですよ。ごめんね、キチガイで。ただ感じたことを言ってるだけだから。
んで、キリストや仏っていう虎の威を借りて次はどこに顔射するのかね? キミタチは。
処女をレイプし孕ませた神にでもなった顔をしながらせっせと種を撒く信者たち。
こんなババアでよければどうぞ。
むしろ吸い尽くしてあげるわ。
お前たちが突っ込んでる穴はコンクリの詰まったドラム缶だ。
腐敗した女子高生がお前のペニスを擦っている。
気がつけばお前も腐っている。
お前の体に蛆が湧く。
蛆とは米である。
豊穣豊穣。
「あら、最近のちんちんちっちゃくなったなと思ったらおっきなクリトリスだったのね」
生物学的女性もわたしの世界では等しくレイパーですが、何か?
男女平等。
それどころか神さまだってレイパーなんだから、気にしないで。キチガイの妄言。
人神平等。
神だろうが男だろうが女だろうががんがん射精しちゃってください。
「いっそ殺して」
これは、呪詛。
愛してくれないなら
わたしを殺さないで
彼女を思いながら
わたしを殺さないで
愛して
谷山浩子もわかっている。
愛してくれないならわたしを殺して、ではない。逆だ。
愛してくれないから、現実を生きてしまう。
現実を生きているから、愛してもらえない。
最後の「愛して」には、瀕死の女子高生が言う「いっそ殺して」と等しい意味がある。
物自体の生がうめく、意味のない意味。意味自体である意味。
たとえば、アルトーの生によるそのテクスト。
「わたしはあなたを苦しめたい」
とは、
「あなたも現実を生きて」
という意味である。
「現実という苦痛に、享楽に、溺れましょう」
というバイタの手招きである。
下卑な陰口を叩かれる
「わたしの苦しみをわかって」
とは、そういう祈りである。
祈りに宛名なんてない。
余談を述べたい。
先に挙げた谷山作品『わたしを殺さないで』歌詞中の、
「わたしはわたしじゃない」
という言葉には、その文脈や曲調を考慮すると、斎藤環がドナ・ウィリアムスのテクストについて指摘した「主体化への恐れ」が詰まっているように思えるのは、わたしだけだろうか。
正常人という人殺したちが、一番最初に殺した相手は、去勢以前の自分自身である。
ドナが怖れているのは、自分を殺そうとする「正常という主体」である。
未去勢者とは、わたしの言うキチガイたちとは、未だ殺されても殺してもいない者たちである。
お前たちは、うすうすこの事実に感づいている。
この事実を完全に捨て去った人間は、(精神病としての)パラノイアである。
「人格とはパラノイア」であり、正常人とはパラノイアックなBPDと等しいものであるが、正常人と(精神病としての)パラノイアの間には、「父の名の排除」という断絶がある。
わたしはラカンのこの論を採用する。お前たちはうすうす感づいていると、わたしは考える。
そうでなければ、祈ったりなどしない。