鏡の中のadministrator
2008/11/16/Sun
ヴぁああああ。
結局欲望と欲動の違いって、身体反応と関連しているかどうかなんだろうな。心身二元論で言うところの精神的なものと肉体的なもの。でもこれも正しくない。精神的なものと肉体的なものには相関性があるからだ。従って、精神的なものの影響が強いのが欲望であり、肉体的なものの影響が強いのが欲動である、となる。
とは言っても脳の働きも所詮身体反応で、精神的な活動と肉体的な反応ってどう違うのよ、って話になる。そもそも相関性があるわけだから区別できない、なんて返答は学徒失格である。ロゴスの放棄である。従って言い訳を考える。
考えた。
たとえば脳とそれ以外の部位の区別。それなら相関性もあるし一応の区別はつく。しかしこれもおかしい。わたしは心身二元論で言うところの精神的な活動と肉体的な反応は相反する傾向が強い、心身の間には乗り越えがたい断絶がある、と考えている。器官なき身体と身体なき器官のケンカである。となると脳とそれ以外の部位がケンカしている、ってことになるがそんなのはヒステリー(心的苦痛の想像的身体への転換)である。従って、この考えはわたしは採用しない。
そうじゃなくて、脳の一部の機能と、脳含めたそれ以外の機能との区別を考える方が現実的なのだ。それなら肉体的な反応に脳的な活動が含まれるため、そことそこ以外がケンカするのは納得できる。
ではこの一部の機能とはなんなのか。なんかとってもスペシャルな感じじゃない。調子のんなよ。
要するにスペシャルなそれがラカン論におけるファルスでありスターン論における間主観的自己感でありバロン=コーエン論におけるSAMである。
もちろんこれら個々の概念が全く等しいものを述べているとは言わない。いくら「脳/それ以外の身体部位」を「脳の一部の機能/それ以外の(脳含めた)機能)」へと「/」の位置をずらしたとはいえ、先ほども言ったようにこの二項は相関している。従って「はいこれがそうよ」と手のひらにのっけてにっこり笑うなんてことはできない。つまりこのスペシャルな「脳の一部の機能」とは、大体のまとまりはあるけれど明確に切り取れないものである、ということ。蚊の大群を思い浮かべればよい。蚊の大群がいる位置は大体特定できるけども、どこからが大群の領域でどこからがそうじゃない領域かは明確に区別できない。そんな感じ。
明確に手のひらにのせることはできないけれども、「蚊の大群どこ?」と聞けば大体みんな同じ方向を示すだろう。そういったような意味で、その「脳の一部の機能」なる仮に一つのものと考えられる実体を、様々な側面から述べたのがそれぞれラカン論におけるファルスでありスターン論における間主観的自己感でありバロン=コーエン論におけるSAMである、というわけだ。そしてこの機能に不具合がある疾患がたとえば自閉症であり統合失調症でありスキゾイドである、ということであり、ファルスは去勢によって生じるためわたしはこれらを一括して未去勢者と呼んだりする。疾患としては他にもあるかもしれんがここでは一応そこらに限定しておく。
さて、欲動が欲望にすり替わる根拠がこの「脳の一部の機能」である、と仮定しよう。「脳の一部の機能」たるラカン論におけるファルスでありスターン論における間主観的自己感でありバロン=コーエン論におけるSAM(長ったらしいので一応ラカン派に義理立てして以下ファルスで統一する)とは、「客観による統合」みたいな意味を持つ。SAMが一番わかりやすいよね、中枢性統合なわけだから。
しかしこの「統合」も一応注釈しておかなくてはならないだろう。
わかりやすい喩えをパクる。中沢新一の『カイエ・ソバージュ』シリーズ(何巻か忘れた。自分で探して。ライトノベル感覚で読めるし)にある、ネアンデルタール人とホモサピエンスの脳の働きの差異である。中沢はそれを、スタンドアローンなコンピューター群と、ネットワークで相互に結ばれたコンピューター群、みたいに喩えている。コンピューター間のネットワークがあるのがホモサピエンスである。
これこれ。
要するに、ネアンデルタール人こそ脱オイディプス化された分裂症者なのではないか、ということである。そうだとしたら、ファルスによる統合とは、メインルーチンがあってその下部にサブルーチンがある、みたいな上下のある構造ではなく、それこそインターネットのような、ネットワーク構築による統合であることがわかる。中沢はこれを流動的知性と呼んでいる。
ところが、ネットワーク構築にしろ、実際にはadministratorが必要である。ホモサピエンスの流動的知性にはadministratorなどいない。いるとしたらそれこそ「脳の一部の機能」であり、「神はわれわれのうちに機能している」という神学にありがちな論と符号してあまりおもしろくない。ともかく、いるだろう、という憶測によって仮設されたのがファルスであり、一神教が発明した唯一神である、ということである。
しかし、やっぱりどうにもこうにも、流動的知性にadministratorなど存在しない。従ってファルスや神も、どうにもこうにも存在しない。
ただ、だけど、「いるっぽい」のである。
この「っぽい」が何故生じるのか、ざっと表現するなら、「断片の世界」における部分対象が統合されて去勢後の一般人が考える対象となっていく過程が重要となろう。それはあたかも戦乱の世を一握りの戦国武将がのし上がっていくような過程である。部分対象でありかつある程度統合されているのが、「寸断された身体」による部分対象と統合された(正常人にとっての)対象の通底路が、対象aである。
乱世が秩序を生む過程を延長すれば、偉大なる唯一の指導者が生まれるだろう、という憶測に達する。実際、現世は乱世じゃない。去勢済みの主体の主観世界は、断片の世界と比較すれば(象徴界などといったクッションのお陰で)全く平穏である。こういった感じで「いるっぽい」という憶測が成立するのだろうとは思うが適当に今考えてみただけの論であるのでどうでもいい話だった。
この「いるっぽい」を「いる」に確信させるシステムが宗教であり、システムの作動あるいは工程が信仰と呼ばれていることである。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』上巻p206)
=====
ちなみにこの工程はラカン論において鏡像段階という概念で説明されている。
どうでもいい話を思いつくまま語ってたら何を言おうとしたのか忘れてしまった。なので終了。
あ、今タガが外れそうになった。記事関係ないことで。セーフでした。
きゃっきゃっきゃ。
結局欲望と欲動の違いって、身体反応と関連しているかどうかなんだろうな。心身二元論で言うところの精神的なものと肉体的なもの。でもこれも正しくない。精神的なものと肉体的なものには相関性があるからだ。従って、精神的なものの影響が強いのが欲望であり、肉体的なものの影響が強いのが欲動である、となる。
とは言っても脳の働きも所詮身体反応で、精神的な活動と肉体的な反応ってどう違うのよ、って話になる。そもそも相関性があるわけだから区別できない、なんて返答は学徒失格である。ロゴスの放棄である。従って言い訳を考える。
考えた。
たとえば脳とそれ以外の部位の区別。それなら相関性もあるし一応の区別はつく。しかしこれもおかしい。わたしは心身二元論で言うところの精神的な活動と肉体的な反応は相反する傾向が強い、心身の間には乗り越えがたい断絶がある、と考えている。器官なき身体と身体なき器官のケンカである。となると脳とそれ以外の部位がケンカしている、ってことになるがそんなのはヒステリー(心的苦痛の想像的身体への転換)である。従って、この考えはわたしは採用しない。
そうじゃなくて、脳の一部の機能と、脳含めたそれ以外の機能との区別を考える方が現実的なのだ。それなら肉体的な反応に脳的な活動が含まれるため、そことそこ以外がケンカするのは納得できる。
ではこの一部の機能とはなんなのか。なんかとってもスペシャルな感じじゃない。調子のんなよ。
要するにスペシャルなそれがラカン論におけるファルスでありスターン論における間主観的自己感でありバロン=コーエン論におけるSAMである。
もちろんこれら個々の概念が全く等しいものを述べているとは言わない。いくら「脳/それ以外の身体部位」を「脳の一部の機能/それ以外の(脳含めた)機能)」へと「/」の位置をずらしたとはいえ、先ほども言ったようにこの二項は相関している。従って「はいこれがそうよ」と手のひらにのっけてにっこり笑うなんてことはできない。つまりこのスペシャルな「脳の一部の機能」とは、大体のまとまりはあるけれど明確に切り取れないものである、ということ。蚊の大群を思い浮かべればよい。蚊の大群がいる位置は大体特定できるけども、どこからが大群の領域でどこからがそうじゃない領域かは明確に区別できない。そんな感じ。
明確に手のひらにのせることはできないけれども、「蚊の大群どこ?」と聞けば大体みんな同じ方向を示すだろう。そういったような意味で、その「脳の一部の機能」なる仮に一つのものと考えられる実体を、様々な側面から述べたのがそれぞれラカン論におけるファルスでありスターン論における間主観的自己感でありバロン=コーエン論におけるSAMである、というわけだ。そしてこの機能に不具合がある疾患がたとえば自閉症であり統合失調症でありスキゾイドである、ということであり、ファルスは去勢によって生じるためわたしはこれらを一括して未去勢者と呼んだりする。疾患としては他にもあるかもしれんがここでは一応そこらに限定しておく。
さて、欲動が欲望にすり替わる根拠がこの「脳の一部の機能」である、と仮定しよう。「脳の一部の機能」たるラカン論におけるファルスでありスターン論における間主観的自己感でありバロン=コーエン論におけるSAM(長ったらしいので一応ラカン派に義理立てして以下ファルスで統一する)とは、「客観による統合」みたいな意味を持つ。SAMが一番わかりやすいよね、中枢性統合なわけだから。
しかしこの「統合」も一応注釈しておかなくてはならないだろう。
わかりやすい喩えをパクる。中沢新一の『カイエ・ソバージュ』シリーズ(何巻か忘れた。自分で探して。ライトノベル感覚で読めるし)にある、ネアンデルタール人とホモサピエンスの脳の働きの差異である。中沢はそれを、スタンドアローンなコンピューター群と、ネットワークで相互に結ばれたコンピューター群、みたいに喩えている。コンピューター間のネットワークがあるのがホモサピエンスである。
これこれ。
要するに、ネアンデルタール人こそ脱オイディプス化された分裂症者なのではないか、ということである。そうだとしたら、ファルスによる統合とは、メインルーチンがあってその下部にサブルーチンがある、みたいな上下のある構造ではなく、それこそインターネットのような、ネットワーク構築による統合であることがわかる。中沢はこれを流動的知性と呼んでいる。
ところが、ネットワーク構築にしろ、実際にはadministratorが必要である。ホモサピエンスの流動的知性にはadministratorなどいない。いるとしたらそれこそ「脳の一部の機能」であり、「神はわれわれのうちに機能している」という神学にありがちな論と符号してあまりおもしろくない。ともかく、いるだろう、という憶測によって仮設されたのがファルスであり、一神教が発明した唯一神である、ということである。
しかし、やっぱりどうにもこうにも、流動的知性にadministratorなど存在しない。従ってファルスや神も、どうにもこうにも存在しない。
ただ、だけど、「いるっぽい」のである。
この「っぽい」が何故生じるのか、ざっと表現するなら、「断片の世界」における部分対象が統合されて去勢後の一般人が考える対象となっていく過程が重要となろう。それはあたかも戦乱の世を一握りの戦国武将がのし上がっていくような過程である。部分対象でありかつある程度統合されているのが、「寸断された身体」による部分対象と統合された(正常人にとっての)対象の通底路が、対象aである。
乱世が秩序を生む過程を延長すれば、偉大なる唯一の指導者が生まれるだろう、という憶測に達する。実際、現世は乱世じゃない。去勢済みの主体の主観世界は、断片の世界と比較すれば(象徴界などといったクッションのお陰で)全く平穏である。こういった感じで「いるっぽい」という憶測が成立するのだろうとは思うが適当に今考えてみただけの論であるのでどうでもいい話だった。
この「いるっぽい」を「いる」に確信させるシステムが宗教であり、システムの作動あるいは工程が信仰と呼ばれていることである。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』上巻p206)
=====
ちなみにこの工程はラカン論において鏡像段階という概念で説明されている。
どうでもいい話を思いつくまま語ってたら何を言おうとしたのか忘れてしまった。なので終了。
あ、今タガが外れそうになった。記事関係ないことで。セーフでした。
きゃっきゃっきゃ。