『犯人に告ぐ』――マジメな顔でレイプ
2008/11/17/Mon
『犯人に告ぐ』を見た。
こう、演出とかのやりたいことは評価しなくもないんだが、台本が……。こりゃーないだろう。原作は読んでないけど。
社会派ミステリって人間を描くなんて言っているけど要するにキチガイ(大体サイコパスになるが)に対する正常人の都合のいい解釈にすぎないんだよな。それでおもしろければいいんだよ。ただ、それを自覚していないと。おもしろさを軽んじて、マジメにやればやるほどダメになる。何故なら心に対してマジメに接してきている学問群との乖離が激しくなるから。マジメにやってる顔で実はマジメにやれてないのがもろばれになる。
要するにマジメな顔でキチガイをレイプしているってことだ。
もちろんたかが作家に学問がやってるあるいは前衛系がやってきたレベルのキチガイに対する理解を求めるわけじゃない。所詮エンターテイメントだ。そういう系でもおもしろいのはあるけど、エンタメの一線越えちゃいけないよね、という話。
犯人の狂気を全く掘り下げていないところは社会派ミステリの一つの作法なんだけど、それがエンタメの一線を守るためだと何故気づけないのだろうね。下手に踏み込んでいる顔するから、こんなハリボテのような作品が出来上がる。
そういう意味でこの作品はもうちょっとエンタメに走るべきだった。作り手(特に脚本家の)キチガイに対するマジメな顔でのレイプっぷりが小物感をだだ漏れさせている。
豊川の絡め取るような演技も生かされてないしな。個人的に好きではないんだけど演者としてはそこそこ評価しているのに、こりゃーダメだ。暗い劇画調な演出とかでがんばってるけど。
脚本だな。監督も脚本家の小物さを見抜けなかったっぽいから同罪だが。ラストシーンのボッチャンエリート刑事のニヤって笑うのがそのまんま脚本家に見えた。
脚本家調べてみた。……『陰陽師』の奴かよ。納得。なんでこういうのが起用されてるんだろ。顧客が望む通りのものを無難に書ける人だからだろうか。
まあ評価高くないだろうな。役者とか演出をぶっ潰してる脚本家としてインプットしました。テレビドラマから出てこなきゃいいのに。客ウケするのだけ書いてれば。
あー原作を尊重しすぎたってところはあるのかもね。wikipediaさら読みしただけの憶測だけど。であるならば読解力が不足しているってことか。別に脚本家に読解力は必要不可欠って話じゃないからいいんじゃないでしょうか。
この作品にしろ『陰陽師』にしろ、「目上の原作」に対する依存っていうか奴隷根性っていうか責任逃避先の確保っていうか、そういう小物感がだだ漏れな脚本家だよな、福田靖って。
脚本も意外と大事よね、という話でした。
気になっていろいろネットでの感想を拾い読みしてみた。
こことか、あーこういうまろやかな言い方ができるのが正常人なんだろうなと思った。
いや、言っている大体のことには同意。まあ無茶苦茶わかりやすく言えばこういうことだよって意味でリンクしとく。
いつもはこの程度の作品で感想なんか書かないけど社会派ミステリって好きじゃないんだよなそういえばおもしろいのもあるけどジャンル全体になんかキモチワルイ臭いを感じるのねなんでだろって思ったのでつらつら書いてみたのかな?
不快なのは、当然キチガイが感じる「世界に存在することへの違和感」を「社会に対する違和感」に改竄するもっとも王道的なジャンルであるから、だとは言えるけど、作品によっては、表面的には犯人の症状を「社会に対する違和感」に依拠させている(そりゃーモデルに反社会性人格障害を起用するのが作法なんだからそうなるわな)にも関わらず、悲劇的な「世界に存在することへの違和感」を透けて見せているものもある。そこが一番キメエ。わかってんならやれよ、って。オナニーしている女を視姦するようないやらしさを感じる。
それが社会派ミステリなるもののキモなんじゃないだろうか。
反社会性人格障害や追い詰められた主人公を描くことにより、なんらかの狂気を、それが共振している感じを醸し出す。その毒ガスのような狂気(という伝染病)臭と、警察などといった管理主義的社会との関係性が、あたかも冷戦のごとき緊張感が、社会派ミステリのおもしろいところなのではないか。
社会を危機に陥れるのは常に狂気である。社会が大好きな連中が、正常人の中でももっとも正常人らしい人格者たちが、否認してしまうようなこの事実を、壁の向こうで臭わせるのが、社会派ミステリのキモではないのか。
まあわたしはそれほど好きなわけじゃないから、社会派ミステリファンの精神分析みたいな視点での物言いだけどね。社会派ミステリの「語る主体」(ここではイコール作者と思っとけ)と受取手について、あやしいスナックの前でふと立ち止まるような「狂気への魅了」が感じられる、ということ。それをわたしは「オナニーしている女への視姦」と言っているわけだな。なるへそ。
「そんなとこ突っ立ってないで入ったら?」
少なくとも『犯人に告ぐ』の脚本家は、このキモを理解していないと思われる。技術論的には前掲記事の人が言うように「もうちょっと尺があったら」って解決策が確かに合理的だと思うけれど、尺あってもダメだと思うな。この脚本家だと。そんな感じがする。
狂気とは、日常的現実ではない生々しさという意味で、一つの現実感である。現実感に裏打ちされた状態が、説得力と呼ばれるものである。ここがわかってねえってことかな?
先に「ハリボテみたいな作品」と書いた。確かに役者や演出は現実感に腐心しているけれど、肝心の脚本が箱庭だった、ということ。いくら箱庭に立体感持たせたりヨゴシを入れたりしてもハリボテどまりだ。
従ってわたしは、脚本家の症状として、彼は世界(ここでは社会でもいい)が箱庭にしか見えていないのではないか、と指摘しているわけだ。いや神経症即ち「定型発達という精神障害」として納得できる症状ではあるが。ポスト・フェストゥムやね。
脚本が箱庭なんだから、もっとエンタメよりにするべきだったんじゃないの? ってことか。いや違うな。スナックに入らないことが既にエンタメなんだから。
……まーどーでもいーや。
ひゃひゃひゃひゅひょ。
社会が、権力が、アガペーが、血便にささやいている。
「浄化してあげる。改竄してあげる。劣化してあげる」
ファルスを腐肉に突っ込んでいる。
こう、演出とかのやりたいことは評価しなくもないんだが、台本が……。こりゃーないだろう。原作は読んでないけど。
社会派ミステリって人間を描くなんて言っているけど要するにキチガイ(大体サイコパスになるが)に対する正常人の都合のいい解釈にすぎないんだよな。それでおもしろければいいんだよ。ただ、それを自覚していないと。おもしろさを軽んじて、マジメにやればやるほどダメになる。何故なら心に対してマジメに接してきている学問群との乖離が激しくなるから。マジメにやってる顔で実はマジメにやれてないのがもろばれになる。
要するにマジメな顔でキチガイをレイプしているってことだ。
もちろんたかが作家に学問がやってるあるいは前衛系がやってきたレベルのキチガイに対する理解を求めるわけじゃない。所詮エンターテイメントだ。そういう系でもおもしろいのはあるけど、エンタメの一線越えちゃいけないよね、という話。
犯人の狂気を全く掘り下げていないところは社会派ミステリの一つの作法なんだけど、それがエンタメの一線を守るためだと何故気づけないのだろうね。下手に踏み込んでいる顔するから、こんなハリボテのような作品が出来上がる。
そういう意味でこの作品はもうちょっとエンタメに走るべきだった。作り手(特に脚本家の)キチガイに対するマジメな顔でのレイプっぷりが小物感をだだ漏れさせている。
豊川の絡め取るような演技も生かされてないしな。個人的に好きではないんだけど演者としてはそこそこ評価しているのに、こりゃーダメだ。暗い劇画調な演出とかでがんばってるけど。
脚本だな。監督も脚本家の小物さを見抜けなかったっぽいから同罪だが。ラストシーンのボッチャンエリート刑事のニヤって笑うのがそのまんま脚本家に見えた。
脚本家調べてみた。……『陰陽師』の奴かよ。納得。なんでこういうのが起用されてるんだろ。顧客が望む通りのものを無難に書ける人だからだろうか。
まあ評価高くないだろうな。役者とか演出をぶっ潰してる脚本家としてインプットしました。テレビドラマから出てこなきゃいいのに。客ウケするのだけ書いてれば。
あー原作を尊重しすぎたってところはあるのかもね。wikipediaさら読みしただけの憶測だけど。であるならば読解力が不足しているってことか。別に脚本家に読解力は必要不可欠って話じゃないからいいんじゃないでしょうか。
この作品にしろ『陰陽師』にしろ、「目上の原作」に対する依存っていうか奴隷根性っていうか責任逃避先の確保っていうか、そういう小物感がだだ漏れな脚本家だよな、福田靖って。
脚本も意外と大事よね、という話でした。
気になっていろいろネットでの感想を拾い読みしてみた。
こことか、あーこういうまろやかな言い方ができるのが正常人なんだろうなと思った。
いや、言っている大体のことには同意。まあ無茶苦茶わかりやすく言えばこういうことだよって意味でリンクしとく。
いつもはこの程度の作品で感想なんか書かないけど社会派ミステリって好きじゃないんだよなそういえばおもしろいのもあるけどジャンル全体になんかキモチワルイ臭いを感じるのねなんでだろって思ったのでつらつら書いてみたのかな?
不快なのは、当然キチガイが感じる「世界に存在することへの違和感」を「社会に対する違和感」に改竄するもっとも王道的なジャンルであるから、だとは言えるけど、作品によっては、表面的には犯人の症状を「社会に対する違和感」に依拠させている(そりゃーモデルに反社会性人格障害を起用するのが作法なんだからそうなるわな)にも関わらず、悲劇的な「世界に存在することへの違和感」を透けて見せているものもある。そこが一番キメエ。わかってんならやれよ、って。オナニーしている女を視姦するようないやらしさを感じる。
それが社会派ミステリなるもののキモなんじゃないだろうか。
反社会性人格障害や追い詰められた主人公を描くことにより、なんらかの狂気を、それが共振している感じを醸し出す。その毒ガスのような狂気(という伝染病)臭と、警察などといった管理主義的社会との関係性が、あたかも冷戦のごとき緊張感が、社会派ミステリのおもしろいところなのではないか。
社会を危機に陥れるのは常に狂気である。社会が大好きな連中が、正常人の中でももっとも正常人らしい人格者たちが、否認してしまうようなこの事実を、壁の向こうで臭わせるのが、社会派ミステリのキモではないのか。
まあわたしはそれほど好きなわけじゃないから、社会派ミステリファンの精神分析みたいな視点での物言いだけどね。社会派ミステリの「語る主体」(ここではイコール作者と思っとけ)と受取手について、あやしいスナックの前でふと立ち止まるような「狂気への魅了」が感じられる、ということ。それをわたしは「オナニーしている女への視姦」と言っているわけだな。なるへそ。
「そんなとこ突っ立ってないで入ったら?」
少なくとも『犯人に告ぐ』の脚本家は、このキモを理解していないと思われる。技術論的には前掲記事の人が言うように「もうちょっと尺があったら」って解決策が確かに合理的だと思うけれど、尺あってもダメだと思うな。この脚本家だと。そんな感じがする。
狂気とは、日常的現実ではない生々しさという意味で、一つの現実感である。現実感に裏打ちされた状態が、説得力と呼ばれるものである。ここがわかってねえってことかな?
先に「ハリボテみたいな作品」と書いた。確かに役者や演出は現実感に腐心しているけれど、肝心の脚本が箱庭だった、ということ。いくら箱庭に立体感持たせたりヨゴシを入れたりしてもハリボテどまりだ。
従ってわたしは、脚本家の症状として、彼は世界(ここでは社会でもいい)が箱庭にしか見えていないのではないか、と指摘しているわけだ。いや神経症即ち「定型発達という精神障害」として納得できる症状ではあるが。ポスト・フェストゥムやね。
脚本が箱庭なんだから、もっとエンタメよりにするべきだったんじゃないの? ってことか。いや違うな。スナックに入らないことが既にエンタメなんだから。
……まーどーでもいーや。
ひゃひゃひゃひゅひょ。
社会が、権力が、アガペーが、血便にささやいている。
「浄化してあげる。改竄してあげる。劣化してあげる」
ファルスを腐肉に突っ込んでいる。