夢中に夢中
2008/11/21/Fri
夢中になっている対象ではなく、
夢中になっている本人でもなく、
夢中という身体症状を、わたしは愛している。
愛というより興味である。興味というより自動的・機械的にそっちを向いてしまうのである。
このベルトコンベアは現実界に向かっている。
備給先が(象徴界や想像界には)ない。
従って、普通の人は、誰かが夢中になっている対象に夢中になったり、夢中になっている誰かを愛してしまったりするのだろう。
備給先を代わりのもので済ませている。人は代用品で満足している。
世に満ち溢れている愛は、全て代用品に向かっている。
「恋に恋している」と呼ばれる状態こそが本質的なのであって、それが代用品に劣化されたのが「相手の人格を愛する」状態である。いわゆる対象愛である。
人が人を愛する時には、常に吊橋効果が生じている。
結婚詐欺みたいだ。
世にはびこる愛は、詐欺と同じ構造している。
わたし心、からだ、全部、捨ててあの子になりたい
谷山浩子の『Pyun Pyun』という歌は、この「恋愛とは全てが代用品である」という事実を指摘している。メジャーどころなら中島みゆきの『あの娘』でもよかろう。
未去勢者にとって大人になる(正常人が生きる世界に参入する)こととは、代用品の世界を生きることなのだ。従って、彼女たちは代用品になりたがっているのである。
大人になることとは、物自体的な状態を劣化させることである。
わたしは大人になれなかった。劣化されなかった。去勢されなかった。
わたしは、夢中という物質的反応に夢中になってしまう。
器官なき身体に取り憑かれている。
ここに詐欺のような隠喩構造はない。
これが自体愛というものだろう、と思う。
巷で説明される自己愛とは、全く別物だ。
去勢によってめでたく「恋に恋して」しまう幼稚な状態を脱し、「相手の人格を愛する」という大人の言語ゲームを生きているにも関わらず、「恋に恋して」しまう状態を見つめる視線が、既に凶器である。この凶器こそが自己愛である。
「わたしも昔はそうだったわよ」
この記事から。
=====
男性化した女性が、複製的にあるいは隠蔽劣化的に女性性を考えることが、「わたしも昔はそうだった」的にそれに視線を向けることが、自分が女性性の本質から離れてしまっている事実に無自覚になってしまうことが、アンテ・フェストゥム者たちへの暴力となる。
=====
「男性化」を大人になること、「女性性の本質」を未去勢であること、と変換すれば、全く同じ構造をしているのがわかるだろう。
劣化してしまった男性や大人が、劣化される前の女性や子供をレイプしている。レイプ魔は生物学的な男性女性、大人子供と関係なく存在する。
オイディプスはレイプ魔である。
自己愛あるいは対象愛なるものの本性である。
自体愛は去勢されて自己愛に劣化する。発達する。大人になる。
それがさらに劣化した、発達した、大人になった対象愛とは、快楽的なペドフィリアである。赤ん坊をレイプする際の言い訳が、たとえば大人が子供に対して行使する「愛情溢れた教育」である。
自論の社会的スタンスの補強のためだけに分裂症の実体をダシにしたガタリである。器官なき身体の外延たる自然(あるいは世界)を社会という幻想に劣化させていることに気づけない『アンチ・オイディプス』の筆者である。彼らこそがオイディプスなのである。専制君主なのである。モル的なのである。パラノイアックなBPDなのである。
彼らは、人格というパラノイアックな狂気から脱することができていないのに、人格というただの幻想をうまく理解することができない物体を愛そうとしている。
まるでネコがネズミを狩るように。シャチがイルカを弄ぶように。
ネズミやイルカは、物理の作用に対する反作用のごとく、ただそうであるものとして、自動的・機械的に、最期の反撃を講ずる。窮鼠は猫を噛む。
それが、アルトーのテクストである。
アルトーという窮鼠は、ガタリという猫によって、再度殺されたのである。
精神分析家は、ゴッホという画家だけではなく、アルトーという演劇人さえも殺してしまった。弄んだ末に、殺してしまった。
わたしは、ガタリを怖れている。精神分析家を怖れている。オイディプスというレイプ魔を怖れている。殺されそうなぐらい、怖れている。
次は誰を弄ぶの? 殺すの?
わたしを弄んでよ。わたしを殺して。
ひどく攻撃的なネズミだけど、がんばって。
せめてガタリは、残酷演劇論における「裏打ち」という言葉の意味に気づくべきだった。『アンチ・オイディプス』は、幻想を裏打ちするものを暴いたのではなく、アルトーが滲み出させようとした裏打ちに、さらに蓋をしている。劇場にも工場にもケガレた現実はある。ケガレを排除(浄化)する力も働いている。ケガレた現実とは、たとえば劇場なら危険な裏方作業にあり、工場なら油塗れになる現場作業にある。ケガレを排除(浄化)する力とは、たとえばコメディ・フランセーズの女優であり、コンタミを除くためのクリーンルームである。
そんな、ただそこにあるだけの現実(の一部)を、自論に都合よく無自覚に見落とすことができるのが、オイディプスの症状なのである。オイディプスとは去勢済みな主体の症状を意味している。去勢とはケガレの棄却である。
ガタリはオイディプスである、あってしまう自分自身に刃を向けるべきだった。刃を社会なる幻想に向けてしまうところは、中二病の症状と酷似している。思春期の少年少女に特徴的な症状である。ガタリは、不良に憧れ、不良になる言い訳として、まるで酒鬼薔薇聖斗を崇拝する少年少女のごとく、アルトーという偶像を奉っている。確かにそれは、悟ったような顔をする、屑である聖人になりたがっているジジェクなどと比べれば、はるかに未去勢的な症状だとは言える。しかしガタリもまた去勢されている。立派なオイディプスという国王なのである。老王か若き王かの違いにすぎないのだ。
ガタリもジジェクも、主体という領土を所有できている。ケガレを切断操作する共同体を、彼らはうちに秘めている。
ガタリという「語る主体」など、語る価値もない。彼の言葉を聞くぐらいなら、たとえばネットでデンパ系のサイトを読んだり、たとえば自傷に憧れる「黒い少女」たちの言葉に耳を傾ける方が、よっぽど器官なき身体という裏打ちあるいは浸透に気づく可能性は高いだろう。
従ってこう言える。巷のドゥルージアンやガタリアンは、器官なき身体という概念すら劣化させようとしている、と。劣化の劣化である。分裂症という実体だけでなく、存在を劣化させた概念すら劣化させようとしている。ガタリがアルトーを殺したのにまだ飽き足らず器官なき身体を生きる未去勢者たちを殺そうとしている。オイディプスという症状によって。自らが自覚できないファルスによって。去勢された即ち既に死んでいる自分自身という幻想によって。
お前らは死ぬべきである。何故なら、お前らは死んだまま生きているから。死んでいないわたしを殺そうとしているから。
テクストだとやっぱり伝わりにくいだろうと予測できるので、あえて言明しておく。わたしのこの殺意は、冗談や隠喩などではない。
ただそうであるだけの殺意。
否認でも承認でも否定の否定でもない、純粋な否定という肯定。
どんな情報も見逃さないが
自分捕らえる機能はない
レーダーマン
多分ガタリは、前衛演劇を理解できないだろうな。評論したとしてもすっとぼけたもの書いてくるんだろうな。と素で、直観で、思える。
なんで思春期の子たちってキチガイに憧れるのかね。そんないいもんじゃねえのに。
そんなにキチガイが好きなら、レーダーマンを殺せ。自分他人を問わずファルスを破壊しろ。自己愛を破壊しろ。対象愛を破壊しろ。
それができないと言うならば、赤ん坊をレイプしている自分自身を自覚しろ。自己愛あるいは対象愛しか理解できない自分でオナニーしろ。
このペドどもが。
追記。
実は『あの娘』久しぶりに聞いたんだが、からっとした歌い方の底に妙なだけど鋭い攻撃性を感じることに初めて気づいた。節々の歯切れのよさっていうかエッジが効いているというかそんなところが。こええ。わたしのモロダシの殺意よりこっちのが怖いだろjk。
この表には見えない妙なだけど鋭い攻撃性なるものが、残酷演劇論で言う裏打ちなるもの、霊性(和風に言えば呪的)なるもの、即ち「double」だよ。わかったかい? オイディプスガタリアンたち。
中島はこのからっとした歌い方で残酷的な現実を惹起しようとしているわけだ。パステルカラーじみた愛というただの幻想を破壊しようとしているのだよ。
まー自分のファルスにさえ気づけない鈍感ヤロウどもにゃわからんか。
そんなに自分捕らえる機能がないのなら素直にヘーゲルやっときゃいいのに。
ほんと、死ねよ。ドゥルージアン、ガタリアンたちは。生粋のオイディプスたちは。
「じゃあどうすればいいんだ?」だって? どうやろうが何やろうがだめに決まってんだろ。去勢という死を通過したのがお前らだ。お前らは死者の国(フロイト論ではここを生きることが生の欲動となる。地獄というより天国だな)に足を踏み入れてしまった。そこから出ることは生死の境を越えることと等値である。従って、先ほどの質問に対する答えが一つだけ導き出される。
「死ねばいいと思うよ。リアルで」
夢中になっている本人でもなく、
夢中という身体症状を、わたしは愛している。
愛というより興味である。興味というより自動的・機械的にそっちを向いてしまうのである。
このベルトコンベアは現実界に向かっている。
備給先が(象徴界や想像界には)ない。
従って、普通の人は、誰かが夢中になっている対象に夢中になったり、夢中になっている誰かを愛してしまったりするのだろう。
備給先を代わりのもので済ませている。人は代用品で満足している。
世に満ち溢れている愛は、全て代用品に向かっている。
「恋に恋している」と呼ばれる状態こそが本質的なのであって、それが代用品に劣化されたのが「相手の人格を愛する」状態である。いわゆる対象愛である。
人が人を愛する時には、常に吊橋効果が生じている。
結婚詐欺みたいだ。
世にはびこる愛は、詐欺と同じ構造している。
わたし心、からだ、全部、捨ててあの子になりたい
谷山浩子の『Pyun Pyun』という歌は、この「恋愛とは全てが代用品である」という事実を指摘している。メジャーどころなら中島みゆきの『あの娘』でもよかろう。
未去勢者にとって大人になる(正常人が生きる世界に参入する)こととは、代用品の世界を生きることなのだ。従って、彼女たちは代用品になりたがっているのである。
大人になることとは、物自体的な状態を劣化させることである。
わたしは大人になれなかった。劣化されなかった。去勢されなかった。
わたしは、夢中という物質的反応に夢中になってしまう。
器官なき身体に取り憑かれている。
ここに詐欺のような隠喩構造はない。
これが自体愛というものだろう、と思う。
巷で説明される自己愛とは、全く別物だ。
去勢によってめでたく「恋に恋して」しまう幼稚な状態を脱し、「相手の人格を愛する」という大人の言語ゲームを生きているにも関わらず、「恋に恋して」しまう状態を見つめる視線が、既に凶器である。この凶器こそが自己愛である。
「わたしも昔はそうだったわよ」
この記事から。
=====
男性化した女性が、複製的にあるいは隠蔽劣化的に女性性を考えることが、「わたしも昔はそうだった」的にそれに視線を向けることが、自分が女性性の本質から離れてしまっている事実に無自覚になってしまうことが、アンテ・フェストゥム者たちへの暴力となる。
=====
「男性化」を大人になること、「女性性の本質」を未去勢であること、と変換すれば、全く同じ構造をしているのがわかるだろう。
劣化してしまった男性や大人が、劣化される前の女性や子供をレイプしている。レイプ魔は生物学的な男性女性、大人子供と関係なく存在する。
オイディプスはレイプ魔である。
自己愛あるいは対象愛なるものの本性である。
自体愛は去勢されて自己愛に劣化する。発達する。大人になる。
それがさらに劣化した、発達した、大人になった対象愛とは、快楽的なペドフィリアである。赤ん坊をレイプする際の言い訳が、たとえば大人が子供に対して行使する「愛情溢れた教育」である。
自論の社会的スタンスの補強のためだけに分裂症の実体をダシにしたガタリである。器官なき身体の外延たる自然(あるいは世界)を社会という幻想に劣化させていることに気づけない『アンチ・オイディプス』の筆者である。彼らこそがオイディプスなのである。専制君主なのである。モル的なのである。パラノイアックなBPDなのである。
彼らは、人格というパラノイアックな狂気から脱することができていないのに、人格というただの幻想をうまく理解することができない物体を愛そうとしている。
まるでネコがネズミを狩るように。シャチがイルカを弄ぶように。
ネズミやイルカは、物理の作用に対する反作用のごとく、ただそうであるものとして、自動的・機械的に、最期の反撃を講ずる。窮鼠は猫を噛む。
それが、アルトーのテクストである。
アルトーという窮鼠は、ガタリという猫によって、再度殺されたのである。
精神分析家は、ゴッホという画家だけではなく、アルトーという演劇人さえも殺してしまった。弄んだ末に、殺してしまった。
わたしは、ガタリを怖れている。精神分析家を怖れている。オイディプスというレイプ魔を怖れている。殺されそうなぐらい、怖れている。
次は誰を弄ぶの? 殺すの?
わたしを弄んでよ。わたしを殺して。
ひどく攻撃的なネズミだけど、がんばって。
せめてガタリは、残酷演劇論における「裏打ち」という言葉の意味に気づくべきだった。『アンチ・オイディプス』は、幻想を裏打ちするものを暴いたのではなく、アルトーが滲み出させようとした裏打ちに、さらに蓋をしている。劇場にも工場にもケガレた現実はある。ケガレを排除(浄化)する力も働いている。ケガレた現実とは、たとえば劇場なら危険な裏方作業にあり、工場なら油塗れになる現場作業にある。ケガレを排除(浄化)する力とは、たとえばコメディ・フランセーズの女優であり、コンタミを除くためのクリーンルームである。
そんな、ただそこにあるだけの現実(の一部)を、自論に都合よく無自覚に見落とすことができるのが、オイディプスの症状なのである。オイディプスとは去勢済みな主体の症状を意味している。去勢とはケガレの棄却である。
ガタリはオイディプスである、あってしまう自分自身に刃を向けるべきだった。刃を社会なる幻想に向けてしまうところは、中二病の症状と酷似している。思春期の少年少女に特徴的な症状である。ガタリは、不良に憧れ、不良になる言い訳として、まるで酒鬼薔薇聖斗を崇拝する少年少女のごとく、アルトーという偶像を奉っている。確かにそれは、悟ったような顔をする、屑である聖人になりたがっているジジェクなどと比べれば、はるかに未去勢的な症状だとは言える。しかしガタリもまた去勢されている。立派なオイディプスという国王なのである。老王か若き王かの違いにすぎないのだ。
ガタリもジジェクも、主体という領土を所有できている。ケガレを切断操作する共同体を、彼らはうちに秘めている。
ガタリという「語る主体」など、語る価値もない。彼の言葉を聞くぐらいなら、たとえばネットでデンパ系のサイトを読んだり、たとえば自傷に憧れる「黒い少女」たちの言葉に耳を傾ける方が、よっぽど器官なき身体という裏打ちあるいは浸透に気づく可能性は高いだろう。
従ってこう言える。巷のドゥルージアンやガタリアンは、器官なき身体という概念すら劣化させようとしている、と。劣化の劣化である。分裂症という実体だけでなく、存在を劣化させた概念すら劣化させようとしている。ガタリがアルトーを殺したのにまだ飽き足らず器官なき身体を生きる未去勢者たちを殺そうとしている。オイディプスという症状によって。自らが自覚できないファルスによって。去勢された即ち既に死んでいる自分自身という幻想によって。
お前らは死ぬべきである。何故なら、お前らは死んだまま生きているから。死んでいないわたしを殺そうとしているから。
テクストだとやっぱり伝わりにくいだろうと予測できるので、あえて言明しておく。わたしのこの殺意は、冗談や隠喩などではない。
ただそうであるだけの殺意。
否認でも承認でも否定の否定でもない、純粋な否定という肯定。
どんな情報も見逃さないが
自分捕らえる機能はない
レーダーマン
多分ガタリは、前衛演劇を理解できないだろうな。評論したとしてもすっとぼけたもの書いてくるんだろうな。と素で、直観で、思える。
なんで思春期の子たちってキチガイに憧れるのかね。そんないいもんじゃねえのに。
そんなにキチガイが好きなら、レーダーマンを殺せ。自分他人を問わずファルスを破壊しろ。自己愛を破壊しろ。対象愛を破壊しろ。
それができないと言うならば、赤ん坊をレイプしている自分自身を自覚しろ。自己愛あるいは対象愛しか理解できない自分でオナニーしろ。
このペドどもが。
追記。
実は『あの娘』久しぶりに聞いたんだが、からっとした歌い方の底に妙なだけど鋭い攻撃性を感じることに初めて気づいた。節々の歯切れのよさっていうかエッジが効いているというかそんなところが。こええ。わたしのモロダシの殺意よりこっちのが怖いだろjk。
この表には見えない妙なだけど鋭い攻撃性なるものが、残酷演劇論で言う裏打ちなるもの、霊性(和風に言えば呪的)なるもの、即ち「double」だよ。わかったかい? オイディプスガタリアンたち。
中島はこのからっとした歌い方で残酷的な現実を惹起しようとしているわけだ。パステルカラーじみた愛というただの幻想を破壊しようとしているのだよ。
まー自分のファルスにさえ気づけない鈍感ヤロウどもにゃわからんか。
そんなに自分捕らえる機能がないのなら素直にヘーゲルやっときゃいいのに。
ほんと、死ねよ。ドゥルージアン、ガタリアンたちは。生粋のオイディプスたちは。
「じゃあどうすればいいんだ?」だって? どうやろうが何やろうがだめに決まってんだろ。去勢という死を通過したのがお前らだ。お前らは死者の国(フロイト論ではここを生きることが生の欲動となる。地獄というより天国だな)に足を踏み入れてしまった。そこから出ることは生死の境を越えることと等値である。従って、先ほどの質問に対する答えが一つだけ導き出される。
「死ねばいいと思うよ。リアルで」