ガタリは中二病である。
2008/11/22/Sat
「考えることをやめたら死にそうだ(笑)」とか言われたことがあるが、言葉を発しなくなったら死にそうだ、の間違いじゃないかと自分で思った。パロール、エクリチュール問わず。
『アンチ・オイディプス』のクライン批判は正しい。部分対象という大きな発見をしたにも関わらず、部分が横断して事後的に全体が生じることを言明しなかった、という批判。
部分の横断。うん。
いや、この言葉でも足りない。
部分が部分を横断し、衝突し、なんらかの火花が生じる。その焼跡がポイントとなって、仮想的な全体が構成される。この場合の全体とは網の目のようなもので、網の結び目が火花のポイントだ。火花のポイントと網しか見ていなかったら、部分の総和が全体である、という考えになる。しかしそれはあくまでも焼跡の総体なのだ。そこには部分と全体の本質的な要素である火花が存在しない。
エネルギーだ。移動だけならエネルギーは消費しないが、火花が生じているということはエネルギーが消費されている。『アンチ・オイディプス』はこのエネルギーの消費たる火花に触れられていない。彼が夢想する「部分の横断による事後的な全体」とは、慣性の法則に従っているものである。このモデルには空気抵抗やら摩擦やらが存在していない。ガタリはこのモデルを論拠にしている故、「(現実界としての)無意識とは牧歌的なものである」などと言ってしまうのだ。苦痛を訴える分裂症者の実体と自分のテクストは別次元にある、とエクスキューズしてしまうのだ。
要するに、分裂症を論拠にしているにも関わらずその実体を棄却しているのが『アンチ・オイディプス』というテクストの特色なのだが、それは、「部分の横断による事後的な全体」というモデルが部分同士の衝突である火花を棄却していることと関連しているのではないか、ということだ。
ここが、悲しいほどにドゥルーズ=ガタリがオイディプス(あるいは去勢済み主体)であることを示している。「語る主体」の領土化された精神構造を露見させている。
リビドーを心的エネルギーと読み替えたのはユングだ。
また彼は、フロイト論は近親相姦などといった概念から霊性を削ぎ落としている、と批判した。
わたしの論における「火花」、ユングのフロイト批判における「霊性」、アルトーの残酷演劇論における「裏打ち(あるいは分身)」、これらは等しくエネルギーである。
確かに、パラノイア方向ではあるが、ユングは限りなく狂気(精神病)の世界に近づけていたと思う。フロイトが頑固なまでに神経症者であり続けたのと対照的だ。そう考えれば、ユングとフロイトの対立は、「精神病としての狂気/正常(神経症)という狂気」の対立である。この対立は常に強い衝撃を伴うものである。焼跡を残すものである。この「狂気と正常との激しい対立」を表現しようとしたのが残酷演劇である。
従って、アルトーのテクストをダシにする『アンチ・オイディプス』が、フロイトを批判しユングに同意するのは、とても正しい構図であると言える。
しかし、悲しいほどにオイディプスであったドゥルーズ=ガタリは、フロイト論とユング論のどちらに同意するか、という言語ゲームから抜け出せなかったのである。分裂症をダシにして語りたかった彼らの欲動は、「フロイトとユングどちらに同意するか」ではなく、「フロイトとユングの対立」そのものに向かっていることに気づけていない。
彼らは何故自分たちがアルトーのテクストをダシにしようと思ったのか、自分を掘り下げられていない。自分の欲動がどこに向かっているかを、代用品に向かってしまっていることを気づけていない。
そこにかつてあった、「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」を棄却している。
もちろん、このテクスト構造を隠喩だとして分析することは可能である。精神分析においては、主体が(無意識的に)言明できなかったことこそがその主体にとっての真理である、となる。この理屈を適用すれば、ドゥルーズ=ガタリは「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」を言明できなかったからこそ、『アンチ・オイディプス』が語りたい真理とはまさに「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」なのである、と言える。
しかし、ここで注意したいのは、「主体が言明できなかったことこそがその主体にとっての真理である」という定理は、神経症者に適用されるものである、ということだ。
従って、「『アンチ・オイディプス』が語りたい真理とはまさに「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」なのである」という結論を採用するならば、それはドゥルーズ=ガタリが神経症者である、と言っていることになる。実際ガタリという精神分析家は『アンチ・オイディプス』内でもそう繰り返し述べているではないか。「分裂症者の言葉は隠喩などではない」と。
神経症者とは、オイディプスである。つまり、どうあがこうが、ドゥルーズ=ガタリは神経症者即ち正常人即ちオイディプス即ちビョーキじゃない人、と結論づけられる。
事実、彼らは正常人としての人生を全うできている。
こんな簡単なトリックに気づかず「脱オイディプス」というお題目を連呼しているだけなのが、巷のドゥルージアン、ガタリアンである。
わたしには彼らの症状は、まるで師匠であるドゥルーズ=ガタリそのものがオイディプスであった事実を必死に隠蔽している素振りに見える。その事実を隠蔽することによって、自分自身がオイディプスである事実を隠蔽しようとしている。
これは、巷のドゥルージアン、ガタリアンが、ラカン論に反抗的であることと辻褄が合う。ラカン論とはまさにオイディプスの精神構造を解体するものだからである。
理屈的にはオイディプスを激しく非難する師匠についておきながら、実際にオイディプスを解体するラカン論から逃避しているのである。
そりゃー『アンチ・オイディプス』の方が快いだろうな。分裂症者の苦痛である「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」を隠蔽してくれているんだから。そりゃー牧歌的になるわ。
その論旨に背を向けるかのように、『アンチ・オイディプス』はオイディプスを量産、強化している。オイディプス症状の定理である「隠喩(隠蔽)の隙間に落ちているのが真理である」という構造が仇になって。
『アンチ・オイディプス』の文体は、オイディプスにとって都合のいいものになっており、現代におけるドゥルージアン、ガタリアンの症状の傾向とも合致している、という話である。
とても滑稽な構図である。
いや、まじでお前らコントでもしてんの? って素で思うんだけど。
オイディプスにがっちがちに縛られているクセにオイディプスを批判するってのはまさに否認の構図だよね。
だからわたしはこう断言する。
ガタリは中二病である、と。
追記(11/24)。
後から読んで『アンチ・オイディプス』は「「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」」に全く言及してないわけではないじゃん、と自分で反論したくなった。特にアルトーの「裏打ち(分身)」については、器官なき身体そのものがそうだと言える。加えて、器官なき身体の「強い衝撃」性にも触れてなくもない。彼らはそれを「強度」という言葉で表現している。
しかし、だ。
彼らの想定する器官なき身体による「強度」とわたしの言う「火花」には大きな隔たりがあるように思えてならない。
彼らの言葉には、苦痛が足りない。湿気が足りない。アルトーのテクストが醸し出すキチガイ特有の粘着性が欠けている。中島みゆきや谷山浩子が歌う女々しいどろどろ感が全く欠けている。
キチガイや女性という未去勢者は、粘着質だから、正常人や男性という去勢済みな主体に嫌われる。ファルスによりケガレとして棄却される。正常人や男性の、ファルスの好みに合う、粘着性を排除した女性像がアニマやマリアとして語られる。正常人や男性に、ファルスに屈した未去勢者は、自身内部の棄却できない粘着性に常に苦しんでいる。
(現実界あるいは器官なき身体としての)無意識とは牧歌的なんかではまるでない。分裂症者の実体を棄却して語られたテクストに語れるわけがない。
このことは理屈として一貫しているのだ。一貫しているからこそ、『アンチ・オイディプス』は器官なき身体を殺害するテクストとして語られる。語っている表面ではそれの称揚になっていようが、そいつらの自我と超自我を、器官なき身体を排除する力(生の欲動)を増長させている。思春期のファルスが不安定になっている神経症者たちのディスクールと同じ構造がそこにある。ファルスを不安定にさせることでファルスを強化している。無我などではなく自我を防衛するためのエセ空観即ちニヒリズムが生じる。まさしく中二病の構造である。
「強度」という言葉からは「火花」が発する焼跡が抜け落ちている。よって自我と超自我の「強度」として誤読されてしまう。器官なき身体はファルスそのものとして語られていく。
実際『アンチ・オイディプス』自体が既に改竄している。器官なき身体の表皮はつるつるしているそうだ。それは器官なき身体などではない。器官なき身体を密封したファルスそのものである。鏡像段階により得られる鏡の鎧たるファルスである。
そこにはスティグマが存在しない。ファルスの泣き所が存在しない。粘着性が存在しない。「火花」の浸透性が存在しない。
獣であるのに獣からこぼれ落ちた(自然にとっての)裏切り者としての烙印が、彼らのテクストには存在しない。
正常人はここがわからないから、キチガイは殺意を抱くのだ。
同じ烙印を持っているクソッタレなのに、それを隠して神のような顔をする正常人の、その衣服を剥ぎ取りたくなるのだ。あるいは新たな烙印を押そうとするのだ。
獣と人間の、自然と反自然の、粘ついた糞便と「うんこしないアイドル」のあいのことしての、宿命(笑)である。
……といういかにも中二病まるだしなテクストを補足しておこう。
あーやだやだ中二病とディスクールすると自分の言葉も中二病臭くなるは。
追記2。
あーそうそう「キチガイの粘着的な実体を排除している精神構造」の症状がとってもわかりやすく表れている文章を紹介しておくね。
ここ。引用します。
=====
その思考の跡はどんな領域にも収まりきらないもので、それをトレースしてみると、むしろ多様な境界を次々に侵食していくような、これまでにない根源的な思考の進みかたをあらわしていた。
=====
うん。言葉としては「侵食」なんて使ってる分まだマシな方。でもそれを粘着質だと彼は思っていないだろう。この松岡だかというオイディプスは口ではこんなことを言っておきながら分裂症者を前にするとプレコックス感(要するに「きもい」「うざい」とかって感じだ)に目をそむける人間のように思える。
だあってこいつ自身の思考が「多様な境界を次々に侵食」していくようなものじゃねえもん。全然粘着的でも浸透的でもない。
粘着的あるいは浸透的でもある器官なき身体に侵食されたことのない、潔癖な鏡の鎧即ちファルスで守られている「正常という精神障害」の症状としては典型のテクストだな。侵食の実体を知らないからその状態について目をきらきらさせながら語ってしまう。
あーきめえ。
いやお前らから見たらわたしの方がきもく思えるのもわかって言ってる。「うざい」って奴だな。粘着質に対して生理的嫌悪を覚えることを「うざい」って言うんだろ?
わたしから見たらお前ら自身の鎧の中にもあるこの粘着性を自分にはないような顔をしているのがよっぽどきもい。
そんな奴がアルトーを称揚しているのを見ると、わたしはアルトーが激しく粘着的に非難する「ゴッホを殺した精神科医」と同じことをしているようにしか見えない。
おっさん、お前のことだよ。
この松岡だかというオイディプスはアルトーをさらに殺そうとしている。お前はゴッホを殺した精神科医と同じ主観世界でアルトーを見ている。
アルトーは言っている。その精神科医は器官なき身体の発火に苦しむゴッホを写生に行かせた。彼はそれこそが一つの治療になると思っていたのだろう。しかし全く逆である。写生に行かせたことによってゴッホは死んだのだ。従って、この精神科医がゴッホを殺した、となる。
わたしはこの理屈が理解できる。似たようなことを言っている草間彌生のテクストを引用しておく。
=====
芸術療法やアートセラピーとなんの関係もない、生死をきわめるための一つのプロセスとしての闘い
=====
この松岡だかというオイディプスは、アルトーの器官なき身体の発火たるとめどもない思考の奔流を称揚する。『アンチ・オイディプス』で言うならば、分裂症者に「自己増殖する机」を制作させようとしている。「生死をきわめるための一つのプロセス」を促進させようとしている。
松岡は、ゴッホを殺した精神科医とちょうど同じ構図で、アルトーを殺そうとしている。
器官なき身体について全く盲目な人間だからこそ、現実界からファルスという鏡の鎧で守られている人間だからこそ、こんな無責任でまるでわかってないのにわかったような言い方をできるのである。
だからなのだ。
キチガイはこういう奴にこそ殺意を覚えるのだ。
『アンチ・オイディプス』のクライン批判は正しい。部分対象という大きな発見をしたにも関わらず、部分が横断して事後的に全体が生じることを言明しなかった、という批判。
部分の横断。うん。
いや、この言葉でも足りない。
部分が部分を横断し、衝突し、なんらかの火花が生じる。その焼跡がポイントとなって、仮想的な全体が構成される。この場合の全体とは網の目のようなもので、網の結び目が火花のポイントだ。火花のポイントと網しか見ていなかったら、部分の総和が全体である、という考えになる。しかしそれはあくまでも焼跡の総体なのだ。そこには部分と全体の本質的な要素である火花が存在しない。
エネルギーだ。移動だけならエネルギーは消費しないが、火花が生じているということはエネルギーが消費されている。『アンチ・オイディプス』はこのエネルギーの消費たる火花に触れられていない。彼が夢想する「部分の横断による事後的な全体」とは、慣性の法則に従っているものである。このモデルには空気抵抗やら摩擦やらが存在していない。ガタリはこのモデルを論拠にしている故、「(現実界としての)無意識とは牧歌的なものである」などと言ってしまうのだ。苦痛を訴える分裂症者の実体と自分のテクストは別次元にある、とエクスキューズしてしまうのだ。
要するに、分裂症を論拠にしているにも関わらずその実体を棄却しているのが『アンチ・オイディプス』というテクストの特色なのだが、それは、「部分の横断による事後的な全体」というモデルが部分同士の衝突である火花を棄却していることと関連しているのではないか、ということだ。
ここが、悲しいほどにドゥルーズ=ガタリがオイディプス(あるいは去勢済み主体)であることを示している。「語る主体」の領土化された精神構造を露見させている。
リビドーを心的エネルギーと読み替えたのはユングだ。
また彼は、フロイト論は近親相姦などといった概念から霊性を削ぎ落としている、と批判した。
わたしの論における「火花」、ユングのフロイト批判における「霊性」、アルトーの残酷演劇論における「裏打ち(あるいは分身)」、これらは等しくエネルギーである。
確かに、パラノイア方向ではあるが、ユングは限りなく狂気(精神病)の世界に近づけていたと思う。フロイトが頑固なまでに神経症者であり続けたのと対照的だ。そう考えれば、ユングとフロイトの対立は、「精神病としての狂気/正常(神経症)という狂気」の対立である。この対立は常に強い衝撃を伴うものである。焼跡を残すものである。この「狂気と正常との激しい対立」を表現しようとしたのが残酷演劇である。
従って、アルトーのテクストをダシにする『アンチ・オイディプス』が、フロイトを批判しユングに同意するのは、とても正しい構図であると言える。
しかし、悲しいほどにオイディプスであったドゥルーズ=ガタリは、フロイト論とユング論のどちらに同意するか、という言語ゲームから抜け出せなかったのである。分裂症をダシにして語りたかった彼らの欲動は、「フロイトとユングどちらに同意するか」ではなく、「フロイトとユングの対立」そのものに向かっていることに気づけていない。
彼らは何故自分たちがアルトーのテクストをダシにしようと思ったのか、自分を掘り下げられていない。自分の欲動がどこに向かっているかを、代用品に向かってしまっていることを気づけていない。
そこにかつてあった、「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」を棄却している。
もちろん、このテクスト構造を隠喩だとして分析することは可能である。精神分析においては、主体が(無意識的に)言明できなかったことこそがその主体にとっての真理である、となる。この理屈を適用すれば、ドゥルーズ=ガタリは「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」を言明できなかったからこそ、『アンチ・オイディプス』が語りたい真理とはまさに「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」なのである、と言える。
しかし、ここで注意したいのは、「主体が言明できなかったことこそがその主体にとっての真理である」という定理は、神経症者に適用されるものである、ということだ。
従って、「『アンチ・オイディプス』が語りたい真理とはまさに「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」なのである」という結論を採用するならば、それはドゥルーズ=ガタリが神経症者である、と言っていることになる。実際ガタリという精神分析家は『アンチ・オイディプス』内でもそう繰り返し述べているではないか。「分裂症者の言葉は隠喩などではない」と。
神経症者とは、オイディプスである。つまり、どうあがこうが、ドゥルーズ=ガタリは神経症者即ち正常人即ちオイディプス即ちビョーキじゃない人、と結論づけられる。
事実、彼らは正常人としての人生を全うできている。
こんな簡単なトリックに気づかず「脱オイディプス」というお題目を連呼しているだけなのが、巷のドゥルージアン、ガタリアンである。
わたしには彼らの症状は、まるで師匠であるドゥルーズ=ガタリそのものがオイディプスであった事実を必死に隠蔽している素振りに見える。その事実を隠蔽することによって、自分自身がオイディプスである事実を隠蔽しようとしている。
これは、巷のドゥルージアン、ガタリアンが、ラカン論に反抗的であることと辻褄が合う。ラカン論とはまさにオイディプスの精神構造を解体するものだからである。
理屈的にはオイディプスを激しく非難する師匠についておきながら、実際にオイディプスを解体するラカン論から逃避しているのである。
そりゃー『アンチ・オイディプス』の方が快いだろうな。分裂症者の苦痛である「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」を隠蔽してくれているんだから。そりゃー牧歌的になるわ。
その論旨に背を向けるかのように、『アンチ・オイディプス』はオイディプスを量産、強化している。オイディプス症状の定理である「隠喩(隠蔽)の隙間に落ちているのが真理である」という構造が仇になって。
『アンチ・オイディプス』の文体は、オイディプスにとって都合のいいものになっており、現代におけるドゥルージアン、ガタリアンの症状の傾向とも合致している、という話である。
とても滑稽な構図である。
いや、まじでお前らコントでもしてんの? って素で思うんだけど。
オイディプスにがっちがちに縛られているクセにオイディプスを批判するってのはまさに否認の構図だよね。
だからわたしはこう断言する。
ガタリは中二病である、と。
追記(11/24)。
後から読んで『アンチ・オイディプス』は「「火花」あるいは「霊性」あるいは「裏打ち」」に全く言及してないわけではないじゃん、と自分で反論したくなった。特にアルトーの「裏打ち(分身)」については、器官なき身体そのものがそうだと言える。加えて、器官なき身体の「強い衝撃」性にも触れてなくもない。彼らはそれを「強度」という言葉で表現している。
しかし、だ。
彼らの想定する器官なき身体による「強度」とわたしの言う「火花」には大きな隔たりがあるように思えてならない。
彼らの言葉には、苦痛が足りない。湿気が足りない。アルトーのテクストが醸し出すキチガイ特有の粘着性が欠けている。中島みゆきや谷山浩子が歌う女々しいどろどろ感が全く欠けている。
キチガイや女性という未去勢者は、粘着質だから、正常人や男性という去勢済みな主体に嫌われる。ファルスによりケガレとして棄却される。正常人や男性の、ファルスの好みに合う、粘着性を排除した女性像がアニマやマリアとして語られる。正常人や男性に、ファルスに屈した未去勢者は、自身内部の棄却できない粘着性に常に苦しんでいる。
(現実界あるいは器官なき身体としての)無意識とは牧歌的なんかではまるでない。分裂症者の実体を棄却して語られたテクストに語れるわけがない。
このことは理屈として一貫しているのだ。一貫しているからこそ、『アンチ・オイディプス』は器官なき身体を殺害するテクストとして語られる。語っている表面ではそれの称揚になっていようが、そいつらの自我と超自我を、器官なき身体を排除する力(生の欲動)を増長させている。思春期のファルスが不安定になっている神経症者たちのディスクールと同じ構造がそこにある。ファルスを不安定にさせることでファルスを強化している。無我などではなく自我を防衛するためのエセ空観即ちニヒリズムが生じる。まさしく中二病の構造である。
「強度」という言葉からは「火花」が発する焼跡が抜け落ちている。よって自我と超自我の「強度」として誤読されてしまう。器官なき身体はファルスそのものとして語られていく。
実際『アンチ・オイディプス』自体が既に改竄している。器官なき身体の表皮はつるつるしているそうだ。それは器官なき身体などではない。器官なき身体を密封したファルスそのものである。鏡像段階により得られる鏡の鎧たるファルスである。
そこにはスティグマが存在しない。ファルスの泣き所が存在しない。粘着性が存在しない。「火花」の浸透性が存在しない。
獣であるのに獣からこぼれ落ちた(自然にとっての)裏切り者としての烙印が、彼らのテクストには存在しない。
正常人はここがわからないから、キチガイは殺意を抱くのだ。
同じ烙印を持っているクソッタレなのに、それを隠して神のような顔をする正常人の、その衣服を剥ぎ取りたくなるのだ。あるいは新たな烙印を押そうとするのだ。
獣と人間の、自然と反自然の、粘ついた糞便と「うんこしないアイドル」のあいのことしての、宿命(笑)である。
……といういかにも中二病まるだしなテクストを補足しておこう。
あーやだやだ中二病とディスクールすると自分の言葉も中二病臭くなるは。
追記2。
あーそうそう「キチガイの粘着的な実体を排除している精神構造」の症状がとってもわかりやすく表れている文章を紹介しておくね。
ここ。引用します。
=====
その思考の跡はどんな領域にも収まりきらないもので、それをトレースしてみると、むしろ多様な境界を次々に侵食していくような、これまでにない根源的な思考の進みかたをあらわしていた。
=====
うん。言葉としては「侵食」なんて使ってる分まだマシな方。でもそれを粘着質だと彼は思っていないだろう。この松岡だかというオイディプスは口ではこんなことを言っておきながら分裂症者を前にするとプレコックス感(要するに「きもい」「うざい」とかって感じだ)に目をそむける人間のように思える。
だあってこいつ自身の思考が「多様な境界を次々に侵食」していくようなものじゃねえもん。全然粘着的でも浸透的でもない。
粘着的あるいは浸透的でもある器官なき身体に侵食されたことのない、潔癖な鏡の鎧即ちファルスで守られている「正常という精神障害」の症状としては典型のテクストだな。侵食の実体を知らないからその状態について目をきらきらさせながら語ってしまう。
あーきめえ。
いやお前らから見たらわたしの方がきもく思えるのもわかって言ってる。「うざい」って奴だな。粘着質に対して生理的嫌悪を覚えることを「うざい」って言うんだろ?
わたしから見たらお前ら自身の鎧の中にもあるこの粘着性を自分にはないような顔をしているのがよっぽどきもい。
そんな奴がアルトーを称揚しているのを見ると、わたしはアルトーが激しく粘着的に非難する「ゴッホを殺した精神科医」と同じことをしているようにしか見えない。
おっさん、お前のことだよ。
この松岡だかというオイディプスはアルトーをさらに殺そうとしている。お前はゴッホを殺した精神科医と同じ主観世界でアルトーを見ている。
アルトーは言っている。その精神科医は器官なき身体の発火に苦しむゴッホを写生に行かせた。彼はそれこそが一つの治療になると思っていたのだろう。しかし全く逆である。写生に行かせたことによってゴッホは死んだのだ。従って、この精神科医がゴッホを殺した、となる。
わたしはこの理屈が理解できる。似たようなことを言っている草間彌生のテクストを引用しておく。
=====
芸術療法やアートセラピーとなんの関係もない、生死をきわめるための一つのプロセスとしての闘い
=====
この松岡だかというオイディプスは、アルトーの器官なき身体の発火たるとめどもない思考の奔流を称揚する。『アンチ・オイディプス』で言うならば、分裂症者に「自己増殖する机」を制作させようとしている。「生死をきわめるための一つのプロセス」を促進させようとしている。
松岡は、ゴッホを殺した精神科医とちょうど同じ構図で、アルトーを殺そうとしている。
器官なき身体について全く盲目な人間だからこそ、現実界からファルスという鏡の鎧で守られている人間だからこそ、こんな無責任でまるでわかってないのにわかったような言い方をできるのである。
だからなのだ。
キチガイはこういう奴にこそ殺意を覚えるのだ。